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チョイ÷和尚のタイムラグ・ブルース?たかが骨!されど骨!?
和尚から見ればただの骨である。

が、残された者から見れば、ただの骨ではない。
それぞれのその骨は、その残された者に、何かを物語っている、ようにもおもえる。
むろんそれは、残された者の骨に対する、未練や無念さであるのかもしれない。

なぜ、そのような感情が沸いてくる、のであろうか?

人様の日々の暮らしは、他及び他者との相互行為によっている。内山節は、それを広義の労働と称している、がここでは相互行為と言い換えてみた。むろん協同でも恊働でもよいのであるが、
やはり、人様はそれぞれのそれぞれの場で、それぞれの相互行為によって、日々の暮らしを営んでいる。

そのような相互行為の密度によって、残された者の骨に対する感情が沸いてくるのである、と思われる。

例えば、人様は生まれる時、一人では生まれることはできない。いずれ、他者の力を借りなければ、生まれることもできない。また、一人で棺桶に入ることもできない。いずれ、日々の暮らしは相互行為によって成立している、といっても過言ではあるまい。

骨に対する感情が、色々沸いてきても致し方のない、ことなのかも知れない。

以前、納骨堂(墓ができるまで一時的に遺骨を置いている部屋)で、髪の長い美しい喪服の女性が、ある遺骨の前で淋しげに泣いているのを、なにげに見たことがある。その骨は、奥さんと子どもを残し、事故で亡くなった人であった。むろん奥さんが喪主で、葬儀をした後であった、その女性は奥さんではなかった。
これも相互行為の結果である。

いい意味でも、悪い意味でも、人様は決して一人では生きていない。日々の暮らしは、相互行為の賜物でもある。
そしてまた、それぞれの骨も、そのような相互行為の密度によって、それぞれにドラマがある。
<チョイ÷和尚>
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