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僕という人間―その14〈哲学3〉
20060722072258.jpg

 なんだこれはという写真であるが、これは僕が石を敷いた小道をまたいでいる姿である。何故〈哲学〉を語るのにこんな写真が出てくるかというと、僕がこれから展開する「またぎの理論」のためである。「またぎの理論」の「またぐ」がまさにこのように、ある場とある場に足をかけること、すなわち「またぐ」ことだからである。

 哲学というものを歴史的に概観すると、哲学は前者の哲学理論を疑うことから始まり、それを乗り越え新たな哲学理論を構築することであった。哲学は古代ギリシャの原理の探求「人は、この世界は何から出来たのか。水からだ土からだ火からだ」などと始まり、その後ソクラテスやプラトンが「自然がどうのこうのではなく人間の精神「真・善・美」の探究こそだいじなのだ」といいだした。その後それまでの哲学をアリストテレスが総括し、「人間がなんだかんだと言ったって、人間の知り得ない根源的な何かがある(形而上学)」となった。哲学には印哲や東洋、イスラム哲学もあるが、哲学の主流としてここでは西欧哲学を相手にしている。

 その後、人間やこの世を定義するのに認識論だ唯物論だ、いや人間には何も根本的なことはわからないのだと、いったい何を信じていいのかわからないというのが哲学の歩みだったのではないか。その内スコラ哲学がキリスト教こそ全てと、何がなんでもこの世、否あの世や地獄まで神に結びつけ、地球や人類の生成すら神(キリスト教でいうところの神)のなせる業にしてしまった。いつの日か権力と手を握ったキリスト教はヨーロッパを暗黒の中世に引きづり込み、魔女や悪魔をしたてせっせと異端裁判で、地域内では恐怖で人身を縛り、外部では異教徒という許されざる民を作りあげ侵略して金銀財宝をかき集めた。今、私たちが憧れたヨーロッパ文明とはそのようなものだった。またブッシュのイラク戦争も神の名においてなされた。

 その後哲学は現象学において「文字や言葉、いわゆる人間が表現している記号は、何の意味もなしていない。それをどう解釈するかによるのだ」などとそれまでの哲学を全否定してみたり、どんどん先に進んで近年のジャック・デリダの脱構築に至っては「これまでの形而上学や西欧文明が論理構築の中で排除してきたものをもう一度考え直すことこそ哲学だ」と、これまた西欧文明の再構築を促したり、というのが大まかな哲学の現在ではないだろうか。

 そんな哲学の歴史の中で僕がまあ哲学とはこんなものだろうと考えるのは、プラトンの「哲学は死に対する準備だ」と、カントの「人は哲学を学ぶことはできず、ただ哲学することを学びうるだけである」あたりである。

 さてそんな僕がこれから構築しようとしている哲学理論は「またぎの理論」である。なぜ「またぎ」すなわち「またぐ」なのか。「またぐ」とは岩波広辞苑によると「またがるようにする。両足を広げてたつ。」とある。僕が「またぎ(これからは「またぐ」を「またぎ」と表現する)」という言葉を意識したのは、何を隠そうかの有名な国民的司会者「みのもんた氏」が早朝のTV番組みで「8時またぎ」というコーナーを担当してからである。

 それまで「みのもんた(彼は有名人なのでみのもんたと呼ばせていただく)」は僕の感覚では失礼ながら、おばさん相手のあまり品の良くない、芸人的司会者程度にしか思っていなかった。しかし昨年の紅白歌合戦でNHKが司会者に抜擢した時に考えた「何故みのもんたなのか」と。そして彼が出る番組に少し注目をするようになり気がついた。とにかく彼の司会は人をひきつける。しかもおばさんだけかと思いきや、若者にもけっこう人気があるようだ。そして彼の朝番組での「8時またぎ」でその答えが見つかった。

 彼の人気の秘密は「またぐ」ことにあった。この「またぐ」にはいろんな意味がある。まずTVという媒体を通して、出演者の心をうまくつかんでいる、そしてその状況を上手くお茶の間に流している、すなわち「みのもんた」はTVを媒介として番組と視聴者をうまくまたいでいるのである。また彼の人気の秘密は、彼の何がしかを押し付けるのではなく、彼の思いを聴衆の心に響くように上手く噛み砕いている。

 細かい分析はまた後日として、昨日の朝のTV番組「8時またぎ」で、コメディアン山本何がしの少女への猥褻問題でキンちゃん(萩本金一)が野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を解散する決意した時、みのもんたはキンちゃんの思いを深く理解したうえで共感し、そのうえでキンチャンの野球チームの意味を再構築して、そのことをキンチャンの心に語りかけ、キンチャンの決心を再考するよう促していた。結論はまだ分からないが、キンチャンの心に変化があったように思えた。
僕はこうゆう「みのもんた」の心をまたぐ論理展開こそ今社会に必要な論理展開だと考え、「またぎの理論」を市民の哲学として構築したいと考えている。
丸山 暁〈55歳・人間〉
 
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