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僕という人間―その12〈哲学2〉
20060715074747.jpg

この写真のコップの中に僕の哲学の原点がある。僕にとっての哲学の始まりはたぶん小学生の頃「僕は目の前のコップを見てコップと思っている、しかしこのコップは他の誰かが見たコップと同じ色と形をしたコップなのだろうか。ひょっとしたら他の誰かには別の物に見えているのかもしれない。僕がそこにあるコップをコップと思っていなければ、コップはそこにあってもコップはないのではないか。また、コップを見てそれをコップと思っている僕とは何なのか。」僕の哲学はその頃、哲学とは知らずにそんなことから始まっていたのだと思う。一般的には哲学というと哲学屋さんにしかわからない難解な世界だが、実はこんな多くの子供がどこかで感じていた、子供らしい探求が哲学の本質なのではないだろうか。

自我が目覚めた頃、多くの子供が感じるであろう「僕(わたし)とは何だ」という単純だが、どんなに考えても解からない問いかけ、そして謎解き、これが哲学そのものである。僕の場合、「僕は何故僕のことを僕と呼んでいるのだろうか。僕が生まれてきて僕が僕を僕として認識するまでは僕は存在しなかった。今僕と認識する僕が僕の生れる前には存在しなかったのに今僕が存在するということは、今の僕が死んでもきっとまたどこかに僕という僕が生まれるのではないか。だから僕は永遠に僕なのだ。」こんなことを考えていた。

また中学生の頃、無限という概念を習った時だった。「この世に無限大、無限小というものがあるなら、今目に見えている世界とて、それらを全て包み込む何かがあるはずだ。例えば地球だって宇宙の一部なら、無限大を考えれば、その宇宙とて何かに包まれているはずだ(その頃はまだビッグバン宇宙論、これとて仮設だが、を知らなかった)。その逆を考えれば、目の前にあるコップとてコップの分子は最小ではなく原子電子があり、それとて無限小でない何かを取り込み、その何かもまた何かを取り込んでいて、そして無限小までそれが繰り返されれば、その何処かに宇宙があってもおかしくはない。そうすれば当然地球もコップの中にあり、そしてコップの中に僕がいても不思議ではない。」そんなことをそれこそ堂堂巡りしながら飽きることなく何度の何度も、それこそ何年も、ひょっとして今も考え続けている、全く脳天気な僕である。
また、母にピアノを習っている時、音のない音まで空想して意識が拡散(さてどうゆう状況かは想像してください)し、気が狂いそうになる時があった。ピアノの鍵盤の音はどんな高い音でもキーたたけば耳に聞こえ認識できる。しかし鍵盤にないそれ以上に高い音を心で「ドレミファソラシドドレミファソラシドドレミファソラシド・・・ドレミファソラシド・・・」と想像すると音のない音で頭の中がキンキンして来る。それも無限大に対する不思議、そして恐怖でもあった。実はこの恐怖は今もラッパの音として感じることがある(今の僕は山に向かってラッパを吹く)。

哲学というと、どうも哲学屋さんにしかわからない言葉の羅列のようだが、子供の頃からの単純な不思議からはじまる思索こそが、本当の哲学なのではないだろうか。哲学屋さんにしか解からない哲学は本物の哲学ではない。僕はそう考える。

 哲学というものは元々古代ギリシャで始まったとされている。哲学の歴史を紐解いてみると、タレスの「水がそれである」が哲学のはじまりだとアリストテレスは言う。タレスは世界の全ての原理は水だと考えたようだ。「自然にあるもの、植物も動物も人間も水分を得て成長し死ぬと水分を放出して枯れていく。この世のものは水の循環の中で生まれ死んでいく。だから世界の原理は水である。」とタレスは考えた。またそこには、命の繰り返し、すなわち輪廻の概念があり、その中に無限をみていたようである。哲学の始まりは子供の頃の僕の問いと同じように始まったようだ。要は「人間は何処から来て何処へ行くのか。」これが哲学の始まりであり、今だそのことが解からず、そして永遠に問い続ける。

それなのに哲学の世界は、いまだに形而上学だの唯物論だの認識論だの・・・現象学だの構造主義だのポストモダンだの分けの解からない哲学用語を並べて、普通の人には難解なものにしているようだ。大体哲学なんて、哲学の本をかいつまんで読んでも「誰々の何処何処の何々の解釈はあれと比較してどう違っている。」ということが哲学屋さんの仕事のようで、どうも哲学は人間の本質を解明しようとする学問ではなく、哲学の解釈ごっこ、権威付けのようでもある。哲学という学問は過去の思索を批判し比較することを仕事としていて、どうも世界に平和とか、人間の幸せとか、今の混沌とした人類の不幸を乗り越えようとするエネルギー、意気込みが感じられない。哲学も市場経済の消費物の一つ成り下がっている(頭脳明晰な哲学屋さんごめんなさい)。

哲学はきっと人間が意識、意思をもった途端に生まれたのではないだろうか、まるで哲学という言葉も知らない少年が「僕とは何だ」と思ったように。哲学よもう一度哲学し、科学や文明を乗り越えろ、またげ(この〈またげ〉が僕のこれからのキーワードである)。

丸山暁〈人間・55歳〉
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この記事に対するコメント

私のような凡人から見ると、あなたの文章も十分に「哲学屋さん」のような気がしますが?
【2006/07/15 18:26】 URL | hayate #- [ 編集]


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