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チョイ÷和尚のtimelag・blues?葬式と和尚の責任?
葬式で生業を得てる以上は、和尚としての責任は、確かにある。
ただその責任の、果たし方の問題でもある。

霊、死後(死んだらどうなる、死んだ人はどうしてる、等々の問題も含む)については、わからないから、わからない、と答える、責任の果たし方もある。
さもわかった風に、答えることが、かえって無責任になることもある。坊さんは、立場上そのように振る舞っているのが現状である。わからないことを、わかった風にすることで、お金が儲かるシステムになっている、これが教団フランチャイズ?である。
坊さんも、知らず知らずのうちに、それに巻き込まれているのが現状でもある。

和尚の責任とは何か?ここからの自問自答であり、その視点からの葬式ってなぜやるの?という問いかけでもある。

責任という観点からいえば、葬式をするとは、死者に対する責任があるということでもある。少なくとも和尚は、そのような責任を担っている、と思われる。では、死者に対する責任の果たし方とは、死者の願いを語り継ぐことでもある。
とりあえず、今回は責任という観点から、葬儀を考えてみた。

確かに、葬式をするとは、区切りであり、けじめである。
ただ、残された者にとって、という条件付きである。

私の死は、抽象的であるし、漠然としか、考えが及ばない。が、
他者の死は、えらい具体的である。身近かな者の死は、日常生活の中で、立ち止まざるを得ない。立ち止まって、その死を受け入れざるを得ない。その受け入れの始まりが、葬儀であり、それに続く49日?100カ日、一周忌、三回忌でもある。
確かに、それが葬儀をする理由である。

私とは、一人で在りつつ、他と共にある、という私の存在構造と同一しているから、葬儀をするのである。それは、喜びや悲しみの理由であるのかもしれない。それは私にとっては、矛盾なのかもしれない?が、やはりこれは私という存在構造からは、外せない条件でもある。むろんこれは、生者の存在構造でもある。また、人間的生者は死という観念を持ってしまった。
これが、葬儀をする理由でもある。

確かに、他者の死、身近かな者の死は、立ち止まらざるを得ないし、それをあえて受け入れざるを得ない。

が、まだその先もある。和尚の責任ということの問題であるのかもしれないのだが?

生者は、一人で在りつつ、他と共にある。
これは身土不二である。
身土不二とは、一人で在りつつ、他と共に在る、そのことの具体的範囲でもある。そのことを普遍化して云えば、一人で在りつつ、他と共に在る、になる。それが、家庭でもあり地域でもある。さらに、他と共に在る、ということは自然、及びそこで生息する動植物も含まれる。
生者とは、生とし生けるもの、である。一人とは人間的生者である。
で、言い換えれば、
一人の人間的生者は、人間的他者及び自然と他の生とし生けるものと共に在る、ということになる。
これが身土不二でもある。
むろん、それはそれぞれの地域の、自然やそれにともなった暮らしによって、それぞれの文化なり習慣なりが、形成されてくる。それがそれぞれの地域の、身土不二的具体性である。つまりローカル性でもある。日本的ではなく、それぞれの地域の身土性がローカル的であり、地域性でもある。
以上が、私と関わりを、考える上での基本になる。
これが私の存在構造でもある、からである。
とはいえ、人様はいつのまにか、生者といい、他者といっても、それを人間的に限るようになってきた。また、自然も人間的加工の対象としてしか、考えが及ばなくなってきた。
いずれ、一人で在りつつ、他と共に在る、という考えは、色々な意味で分水嶺的な、基本概念?でもある。

生き方としては、そのバランスが問題になる。

と、話はとんでもない方向に、行ってしまった。
ま?いいか、所詮は独り言と、読み手の迷惑は考えず、先に進む。

確か葬式の話であった。
なぜ葬式をするのか?である。
かなりしつこい・・・・・・?

後に残された者は、立ち止まり、他者の死を受け入れ、気持ちの整理、区切りを付ける。それが葬式をする理由でもある。
ただそこに、戒名料とか、読経料(お布施と称されている)が、料金として設定されてくるのか?は、中々微妙なところでもある。しかも、坊さん側の言値である。
そこで、立ち止まり、他者の死を受け入れることと、その料金設定のズレ、しかも坊さん側の言値である。
それこそ違った意味で、立ち止まらなければならない、のだが?。
葬式のドサクサで、それもままならず、結果として何をしたのだろう?、というおちになるのが現状である。そしてハッキリ残るのが、お金が出て行った(金がかかる)ことだけである。

確かに通過儀礼としての葬儀は、坊さんは楽である。
坊さんのみではなく、葬式をする方も、何となくただの通過儀礼にしてしまっている、のが現状でもある。
残された者が、立ち止まり、他者の死を受け入れ、その残された者が、どう生きて行くのか、を考える契機にするのが葬式の勝負どころにもなる。

いずれ、和尚はあまり前向きにものを考える、癖がついていない。立ち止まり、振り向かなければ、見ることができない、後ろの他者が気になるのである。
<チョイ÷和尚>
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テーマ:日記 - ジャンル:日記

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【2006/06/27 13:11】 | # [ 編集]


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