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僕という人間?その9
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僕が生まれたのは戦後5年たった1950年であり、生まれた地は宇都宮であるが、2歳で広島の山奥に移り、小学校5年生から広島市内で暮らした。その頃の広島は、ピカドン、原爆投下から10年経っていたが原爆の惨禍が色濃く残っていた。原爆により草一本生えないという言葉も広島市民の心には記憶されていた。僕がこのような青年になるまでには、僕の心の中には原爆というものが深く深く刷り込まれていった。そういう僕の〈歴史〉が反核・反原発の思想に今もつながっている。
 
人にとっての〈歴史〉は、いわゆる教科書が教える過去の出来事を記録した大局的な世界や日本の〈歴史〉もあるが、もうひとつ個々の人間が生きてきた〈歴史〉もある。人間にとって、どうゆう国の歴史的歴史を生きてきたということももちろんその人の形成に係わるが、その個人がいかなる個人的歴史を生きてきたがその個人にとってもっとも大きく影響してくる〈歴史〉である。もちろんそういう〈歴史〉は世界史や日本史のように文字に書かれたものではないが、文字に書かれなくとも〈歴史〉は〈歴史〉として存在しているのである。

僕たちはうっかりしていると〈歴史〉とは文字に書かれた〈歴史〉だけが〈歴史〉だと勘違いしてしまう。そのうえ、文字に書かれた〈歴史〉は文字に書かれることによってあたかも過去にあった真実だと思い込んでしまう。また〈歴史〉とはそのような意図をもって編纂されるものでもある。しかし、ここでもう一度〈歴史〉とは何なのか考えておく必要がある。

書かれた〈歴史〉だけが〈歴史〉なのだろうか。〈歴史〉とはそんなものではないということは一寸考えれば誰にでも分かることである。なぜなら人類が始まって以来100万年以上人類の〈歴史(種族の争いや統合、権力や領土の変遷など)〉はあったのに、書かれた歴史などせいぜい3?4千年前のことだろう。しかも、書かれた歴史とて3千年間365日24時間60分60秒の間の全世界で起こったことが記録されているはずもない。記録された〈歴史〉など宇宙に輝く(肉眼で見えなくても)星たちのほんの一握りにも匹敵しないだろう。書かれている〈歴史〉はせいぜい人間が名前をつけた星座ぐらいだろうか。本来〈歴史〉とはそのようなものなのである。

それなのに国家の為政者、権力者はその国の書かれた〈歴史〉を金科玉条の如く奉り、あたかもそこには真実だけが記録されているかのように装って国民に押し付ける。これは決して日本だけのことではなく世界中のことである。そしてそのつくられた〈歴史〉(中には当たっている物もあろうが、為政者が都合のいいように編纂してきたのが歴史である)を正当化することで国家や民族のアイデンティティーをたもとうとする。

もちろん僕は〈歴史〉全てをチャカシたり否定しているのではない。個人にも国にも〈歴史〉があってあたりまえであり、それは自らの存在意義でもある。しかし〈歴史〉があまりにも教条主義におちいり、国と国、民族と民族の争いを増幅する道具となり、また国民を国家の臣民として教育していく手段となることに疑問を感じるのである。
〈歴史〉とは過去に起こった出来事の正しいかどうかも分からないほんの一部であることを忘れてはならない。だからといって、過去の歴史的過ちを忘れてもいいということではないことはいうに及ばない。〈歴史〉とは未来を、平和な世界を切り開くためのテキストとして世界で共有できる〈歴史〉でありたい。

僕のこれまでの〈歴史〉にも負の〈歴史〉がある。小学校3年生の時、農場のイチゴ畑で数人で熟れたイチゴをつまみ食いしてつかまった時「最初にやろうといったのはヒデちゃんだ」とみんなで一番小さな仲間に罪を押し付けてしまった。そのことがいまだに忘れられない。自分が何かごまかしたり、正義を考える時いつもヒデちゃんのことを思い出し、彼に会うことがあったら謝りたいと思っている。幸い僕がいいつけたのは農場長だった僕のオヤジで、オヤジはちゃんと見抜いていたようで、彼だけが怒られることはなかった。それがせめてもの救いであったが、きっと彼の心には小さな(ひょっとしたら大きな)傷を残したことだろう。

〈歴史〉とはそのように隠された〈歴史〉もある。否、都合の悪いものは隠す傾向にあるのが〈歴史〉である。だからこそ学校教育でも〈歴史〉は〈歴史記述〉をどれだけ記憶するかではなく、なぜそのような〈歴史〉があったのかを考える場であればいいのだが

丸山暁(55歳・人間)
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