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僕という人間―その8
20060617090245.jpg


なかなか利発そうで、そのうえ天使のように無垢な子供である。なにを隠そう、この写真は今から54年前の僕である。戦後間もない宇都宮の農場にあった林の中でのワンショットである。古びた椅子にペタンコになった座布団をひいて、手にもっているのは、きっとやっとひとつあてがわれたオモチャなのだろう。僕の「歴史」は、このような状況から始まった。

 「歴史」というものは小学校から高校まであたりまえのように授業の教科として習い、
最近も歴史認識、歴史観などと国家にとってもとても重要であるが如く議論されている。しかしあたりまえに語られる「歴史」だが「歴史」とはいったい何なのかというと、はっきり説明できるものがどのくらいいるだろうか。
 
「歴史」を広辞苑でひくと「人類社会の過去における変遷・興亡の記録」とある。「歴史の父」と言われているヘロドトスの『歴史書』の序文には「ギリシャ人や異民族の・・とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情・・・」とある。また歴史の教科書にしても歴史年表にしてもその記述のほとんどは戦争による地域、領土、国の変遷を年代的に記述したものである。よく言われることだが「人類の歴史とはまさに戦争の歴史である」というのは一つ当たっているようだ。
このことをアンブロース・ビアスのブラックユーモアの書『悪魔の辞典』では「『歴史』大抵は悪者である支配者と、大抵は愚か者である兵士とによって巻き起こされる、大抵は重要でない出来事に関する、大抵は間違っている記述。」と表現している。「歴史」を冷笑的にみてもやっぱり「歴史」とは戦争の変遷のようである。
こんにちの日本に置ける最も重大な「歴史」に関する議論は、靖国参拝問題や尖閣列島などのいわゆる日中、日韓の歴史認識であり、結局これも戦争によって引き起こされた、歴史認識の問題である。

A・トインビーの『歴史の教訓』は「いったい歴史から学び取るべき教訓”lessons”というものが少しはあるのだろうか」と始まっている。またマルク・ブロックの歴史学の名著『歴史のための弁明』の序文は「パパ、歴史は何の役にたつの、さあ、僕に説明してちょうだい」とはじまり「たとえ歴史がほかの役に立つことができないと断定されねばならぬとしても、歴史は慰安になるものである」と書いている。

こうやって「歴史」とは何かをひも解いてくると、どうも人々の暮らしにはたいして役に立たないが「歴史」とは「時の権力者が己の愚考を都合のいいように書き連ねたあまり役に立たない国家的慰み物語」ということになる。

確かに世界の権力者・為政者が過去の「歴史」から何かを学び将来の危機を回避するように「歴史」を学んだなら、ここまで戦争を繰り返し、地球環境を破壊し、核兵器開発を熱狂的に行うはずがない。世界の為政者はそれぞれの「勝手な歴史」を「恣意的に解釈して己の愚考を自己弁護するための錦の御旗」に祭り上げようとしている。そうゆう意味で「歴史」を学ぶことなど愚の骨頂であり、「歴史」など真面目に学べば学ぶほど、世界は戦乱から抜け出すことなどあり得ない。なぜなら「歴史」を学ぶということは、個々の国、民族のルサンチマン(怨念、憎悪)を積み重ねることである。
このことは、洋の東西、先進国発展途上国に係わらず(発展途上国の内乱などはこの傾向が強い)全く世界共通に起こっている「歴史」解釈の悲劇である。

では「歴史」は人類にとって害こそあれ無用の長物なのだろうか。そうとも言い切れないだろう。それは「歴史」の学び方による。確かに「歴史」は恣意的に書かれた国家の「歴史」であったとしても、ただ過去の「歴史」を記憶するだけでなく、今を生きる僕たちがそれを未来の「歴史」のために読み解き「歴史」を再構築し、過去の「歴史」を乗り越えることである。いつの日か未来の「歴史の教科書」に「この世から核兵器が排除され、戦争も起こらなくなった」という「歴史」を刻むために。
残念ながら「愛国心」を「教育基本法に国を愛する心」をと言っている国の「歴史教育」では、そんな日は来ないような気がするが。
 
ま、世界の「歴史」とは身勝手なものと批判しつつも、個人の「歴史」とてけっこう身勝手なものである。僕自身の「歴史」を思い起こしても、都合の悪いことは隠し、忘れ去り、誇れることは浮き彫りにしてきたのではないか。僕の心の奥底に「嘘つき」というささやきがあったとしても「歴史」とはそういうものかもしれない。 
しかし、そういう僕とて過去を反省しよき未来を生きようと、遅まきながら多少の努力をすることもある。世界もきっとそのようにできるのではないだろうか。そのような「歴史」を刻めるかどうかは今を生きるぼくたちの「歴史」である。
―丸山暁〈55歳・人間〉―
 
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