Google
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近の記事

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

カテゴリー

ブログ内検索

プロフィール

疾風

Author:疾風
岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
人気blogランキングへ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

RSSフィード

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

僕という人間-6(環境4)
20060603220848.jpg

写真は今僕が暮らしている家の窓から見える風景である。先日まちに暮らす友人が我が家に来てとても感動していた。多分山間部の何処にでもある風景なのだろうが、四季折々朝夕改めて見つめると、見慣れた風景でもけっこう感動するものだ。それが自然というものか、自然の移り変わりが自ずと心に響いてくる。僕は今そうゆう環境に暮らしている。

 これまでつたない環境論であったが「環境」について3回書いてきた。
多くの場合環境は地球環境にしろ、地域の環境、住宅環境にしろ、自分をとりまく空間として捉えられてきた。僕もそのように書いてきた。そこには、環境とは人間が評価したり、改変したり(破壊も改変の一形態である)コントロールできる存在、すなわち自分の身体と切り離して考える姿勢があったのではないだろうか。ここまで「環境」を考えてきて、実は環境問題の根本的な間違いはそこにあったのではないかと思っている。

僕たちは多くの場合「環境」を自分自身の身体(特に心は)と切り離して考えてきたが、実は人間の身体(身も心も)は「環境」によって育まれ、作られてきているのである。確かに誕生から少年、青年と育つのは多くは通常親が子供を育てるという家族の行為であるが、その家族は多くの環境に囲まれている。それは身近には住宅環境、地域の環境(都市化や自然など形態的な環境)からひいてはその時代の地球環境まで。実は僕たち人間は、環境によって育まれ、環境の特性が僕たちの身体を形成してきたと言えるのではないか。
 
僕は14年前、青春時代と会社員として20年間暮らした東京から北上高地早池峰山の麓の小さな集落に越してきた。何故僕はそのような行動をとったかというと、やはり僕が育ってきた環境がそうさせたのではないだろうか。
 僕は広島の山と海で少年時代を過ごし、野山を駆け巡り、海に潜り魚をついた記憶が今も鮮明にある。たぶん僕の身体的な原風景がそれなのである。田舎の少年はもちろん都会に憧れた、学生青年期は都会で青春し、社会人になっても都会性格を謳歌した。しかし華やかな銀座を歩いていた時、ふと頭に(頭と言うより心だろう)浮かんだのが、池の水底で湧き水に揺れる藻の間に見え隠れするコブナの姿だった。
 そういう時「そう遠くない将来、いつか水や山がある田舎で暮らそう」と心の声が聞こえてきた。きっと、それが僕を作ってくれた「環境」のささやきだったのだろう。

 環境が自分自身にどう影響してきたのか、またこれからどういう環境で暮らしたいのか、それがもう一つの環境問題ではないだろうか。地球環境を考えることはもちろん急務であるが、その前提として身近な環境を見つめ考えることが欠如すると、単なるセンチメンタルな環境論に陥り、高度物質文明を享受しながら「劣悪化した日常環境」のなかで身体的に萎えていく、そうゆう人間像が浮かんでくる。環境問題は実は個々の生き方の問題なのではないだろうか、このことはまた時を改めて書いてみたい。
スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。