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「混在する現実とバーチャル」?僕の考える
kawaya.blog.jpg

白壁の小さな建物は、近所の農家の厠です。集落で僕が気に入っている小さな構造物の一つです。この厠を、こうして農の風景として見ると、風情のある建物だけど、昔この厠しかなかった時代(最近は多くの家でトイレは母屋の中に作っている)、吹雪の日などどうしたのだろうと考えると、なんと不合理なつくりかと考えてしまう。でも何故、こんなに離す必要があったのだろうか。匂いか、それとも肥え桶への汲み取りの都合か。
以前は、全ての建物が汲み取りの時代、都市部の便所は家の中に作ったのだし、農村部では当たり前のこの構造が僕にはいまいち理解できていない。実際にそういう生活をしてみてはじめて分かるものかもしれないが。少なくとも、想像の世界では現実的には使いたくないトイレである。

この世のことは、自分の実体験だけで理解できるものではない。
生まれてこの方、高々56年で体験できることなど、世界の森羅万象を考えれば、無限小に近い。しかし、僕達人間は、他者が体験したこと(過去の歴史でも、現代の最先端の研究でも、他者が創造したことでも)を言葉や画像として受け取り(それが言語として聞こうが、文章として読もうが、映像や画面で見ようが)、ある種の経験(何かを感じて記憶に残すこと)として体験することが出来る。

安倍政権の改造内閣でまたまた遠藤農水大臣の金の問題が出てきたとき、与謝野官房長官だったかが「大臣候補の森羅万象を調べるわけにはいかない」などといっていたが、なにも大臣候補のほんの一部である政治資金の問題を調べろと言っているのであって、森羅万象などたかが大臣に使う言葉ではない。それだけでも政治家の思い上がりが良く分かる。今度の内閣は、お金の問題もさることながら、そのような古い体質の政治家の言動が問題になるような気がする。

ところで最近、これまでの社会通念では考えにくい事件、少年少女の暴力事件、性犯罪、大人のハレンチ、猟奇的犯罪が増えてきた。
確かに、昔から異常な犯罪はあったが、それらの犯罪はいわゆる日常の行動も異常と思える(日ごろの言動とか、立ち振る舞い)人たちによって引き起こされることが多かった。それが近年は、いわゆる普通の子供、普通、もしくはそれなりの立場(大学教授でも警察官でも教師でも)の大人が突然異常な行動に出ることが多くなった。その原因はなんなのだろうか。今の社会には、それを単なる個人的な道徳の欠如や人間性の欠如では済まされないものがあるのではないだろうか。

僕は、その現代的要因はバーチャルが単なるバーチャルではなく、人間の現実社会にもバーチャルが現実として混在し始めたのではないだろうか。人間がバーチャルと現実の境界を認知できなくなってきたことにあると確信している。

バーチャルと言えば「仮想」のことで現実とは異なるものと考えられていた。勿論語彙的にバーチャル社会と言えば現実にはない社会であったり、バーチャル映像といえば、創造的な映像を言って、現実とは分けて考えていた。
だから、例えそういうバーチャル世界が少々過激であったり、残虐あったり、エロであっても、現実とは分離して考える理性も働いていた。しかし、最近の人は(人と言うのは子供だけでなく大人もという意味で人と総称しておく)は、現実とバーチャルの境界を認識できなくなってきたのではないだろうか。

昔、ヤクザ映画が流行った時は、映画館から出てきた男どもは「みんな建さんや鶴田浩二のように方をいからせていた」と言うが、それもある種バーチャルナな社会への自己の投影であり、軽い現実とバーチャルの混同だろう。しかし、しばらくすれば皆また普通の男に戻っていった。サラリーマンはサラリーマンに八百屋さんは八百屋さんに。
多分映画と言うバーチャルナ社会を経験するのは年に何回か、映画ファンでも週に一回とか、日常においては特異な時間だったので、それが人間の感性を刺激して経験として脳に刷り込まれるまでは体験していなかったのではないか。

それが今は、個人的な場で、ビデオやDVDを通して、非人間的な暴力、殺人であろうとエロであろうと過激な映像であろうと、気のむくまま好きなだけ体験できるようになってきた。自分では見ない、汚らわしいと考えている紳士淑女も一度レンタルビデオ・DVD屋さんを除いてご覧なさい。法的に認知されている範囲でも、とんでもないものがあるし、インターネット社会ではとんでもないものも流出しているようだ。そんなものを、人(大人も子供も)によると毎日数時間見ているのだろう。
そおいう状況下の彼等の意識は、意識せずとも、脳の中では、バーチャルなけ経験を繰り返すことで、実体験と同等の重み、ある場合は現実以上の衝撃となって、記憶されていくのではないか。

そういう人にとっては、既に、現実とバーチャルの境界は無くなり、自分自身がどちら側にいるのかさえ分からなくなる、すなわち現実の世界よりバーチャルな世界を生きようとする人が出てきてもおかしくはないのではないか。

バーチャルはけっしてバーチャルではない、現実より薄い経験(マンガや映像や夢)でも、何度も経験するうちに、それは現実の体験と同じように脳に刷り込まれてくるのではないか。果たして脳は、それを現実と空想・仮想特別できなくなるのではないか。特に経験浅い子供がDVDやインターネットを通して凶悪映像に慣れてしまうことは、実体験以上に脳に刷り込まれるのではないか。

僕は、本来性善説をとり表現の自由を重んじる人間ではあるが、表現の自由は人間性というものに裏打ちされての表現だろうと考えている。では人間性に含まれる悪魔性はどうするのか、という議論まではここでは立ち入らないが、少なくとも、社会全体に悪影響を与えるような表現の自由は規制すべきだと考えている。

現在の残虐エロ映像を作り、販売し、垂れ流すものたち(特に今最先端企業、ベンチャー企業ともてはやされているインターネット関連企業)とは、「表現の自由」を標榜しているが、彼等のやっていることは「表現の自由」ではなく、「金儲けのためなら何をやってもいい自由」である。勿論、個人的空間で他者に関係なければ、何を考え何をやっても自由だが。
またまた久々に長くなりそうなので、続きは後ほど。多分、僕の考えるブログでもこのテーマは継続しますので、そちらもよろしく。丸山暁〈56歳・人間〉
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【2009/06/27 11:17】 | # [ 編集]

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【2009/06/27 11:33】 | # [ 編集]

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