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「文明と人間性の一定の法則」?僕の考える
20070619111112.jpg

紫色のボンボリのような花はギガンチュウムという。この10数年、秋に球根を植えて花を咲かせ、初夏掘り起こし、また秋に植えて咲かせ続けてきた。既に、最初の球根からすれば、数代目に入るのだろう。人間が一つ手を加え、それに自然のエネルギーが作用し(太陽や雨や風や)、成果が一つ出て(花を咲かせ)、また、それを繰り返す。これが、正に「循環的持続社会」の典型的なモデルです。
ここでは、そのどれかが欠けても、このモデルは成り立ちません。人間の一手が欠けても、自然のエネルギーが欠けても、当然成果が無ければ最初の一手のモチベーションがあろうはずがない。その3っつの連なりが安定的な「循環的持続社会」、もっと言うなら「自然型循環社会」なのです。
自然型ではない「循環社会」があるかと問えば、仮に人類が「核融合エネルギー」を完全に手に入れたら、かなり、自然から遊離した「循環社会」を手に入れるかもしれないが、安全性や実現性などで、今はそこまでは言及しない。


過度に進んだ文明は、そのモデルを壊してしまっているのです。また、そのモデルを壊すことが、文明の発達そのものだったと言えるかも知れません。
すなわち、まず、文明は、人間の一手で、自然を利用して、多くの成果をあげようとした。元々は、人間の手足の行為、例えば人間が手で種を蒔き、自然のエネルギーが作物を育て、人間が刈り取って、種を守り、次も、同じことを繰り返す。
それが、文明が発展し、機械で大量の種を蒔き、化学肥料や農薬を使い大量に作物を育て、収穫するようになりました。
そして、今は、遺伝子組み替えの種を使って、工場的農園で、機械が種を蒔き、過剰なエネルギーを投入し作物を育てるとこまで来た。

今回は、前回「過度な文明は人間性を破壊する」の続きを書こうとしていたのだが、ギガンチュウムの花の事を書いているうちに、農業問題になってしまったが、書いているうちに、このことも、避けては通れないようだ。だが今日は、「文明*人間性=一定(丸山暁の法則・式)」に戻ることにする。

その前に、ちょっと、今、世の中で気になることがある。昨日の「僕の考えるブログ」にも書いたが、イラク戦争はどうなってしまったのか。新聞やTVは、年金問題や次から次と繰り出す不正「NOVAやコムスン、官製談合・・・」、参院選を睨んだ政治の馬鹿馬鹿しい駆け引きが賑わしているが、僕が今ニュースとして知りたいことは「イラク戦争の今」である。なぜなら、米軍イラク2万人増派、死者3,500人を最後に、先のG8を堺にして、イラク戦争報道がピタリと止まった。これは、アメリカが報道管制を引いて、各国がそれに素直に応じたせいだろう。
自由民主主義の世界で最も危険なことが、情報隠ぺい、情報操作であり、報道管制である。自由主義を標榜するアメリカこそ最も強大なテロ国家であり、G8mo日本も、それを容認していることを、確認しておきたい(こんなことを書くと僕も自衛隊のブラックリストに載りそうですね)。

話を「文明と人間の一定の法則」に戻そう。まず、このことを言葉で説明すれば「文明の発展段階のある状況と、人間の身体的便利さの積が1(一定)の状態が、文明と人間の理想的な穏やかな関係」ということである。ここでいう、文明とは、トータルの人類の文明というより、個々の文明の利器と解釈していただきたい。総合的な文明論としても、成り立ちそうだが、まだ、そこまでは拡大しないことにしよう。
もう少し、具体的にいえば、ある文明の機器(機械)を考えて、その機器が一つ発展(進歩・改善・改良)することで、人間の身体的労働(欲求)が一つ満たされる状態を、理想的な穏やかな関係としよう。

超単純にした例として、人間が一本の棒で、クルミの実を叩いて、一個のクルミを割って食べる(満たされる)。これを数式で表すと、1(文明)*1(人間性)=1(充足度)なのである。
次ぎの段階として、人間が一本の棒の先を二股に分けて、もしくは二股の棒を使って、クルミを2個割って食べる(満たされる)。この状態を数式にすると、2(文明)*1/2(人間性)=1、なである。ここで、あれ、と思われるだろうが、人間性が1/2になるのは、一個のクルミを割るために、人間が必要とする身体的労働が半分になる、という意味である。
この「文明*人間性=一定(充足・満足度)の法則」の充足度・満足度は、僕の考える人間性であって、ベッドに入ったまま、好きなだけハンバーガーとコーラをむさぼって、3百kのデブになる人間の充足度・満足度ではありません。

さて、もう一回数式を展開すると、人間が三又の棒を持てば、3*1/3=1となるのです。大体1人の人間を考えれが、7*1/7=1辺りがクルミを食べる時の理想ではないか。
もっと進んで、力持ちが、大きな先の広がった棒を持って、50個のクルミを割ったとして、彼(女)が、それを一度に食べたとしよう。きっと彼(女)は胸焼けを起こすか、それこそ望まないのにデブになってしまうでしょう。たとえ50個のクルミを割ったとしても、一度に食べるクルミは10個ぐらいが良いとこではないか(勿論個人差がはあろうが)。
これを数式にすると、50(文明)*1/10=5となり、これは、文明過剰なのです。勿論経済学では、この余剰があってこそ、ものの交換が生まれ、お金持ちが生まれ、資本が生まれ、市場経済に発展していくのですが、ここでは、経済論ではなく、「人間性の文明論」なので、経済論はこれ以上展開しません。

さて、ここまでは、何とか、ご理解いただけたでしょうか。僕も、今、このブログを書きながら、展開しているので、間違いや、矛盾がしょっちゅう出てくるでしょうが、最後には、何回か進めるうちに「丸山暁の文明と人間性の一定の法則”Maruyama’s Theory of Culture & Humanity」を完成させたいと思っています。さてさて、何ヶ月かかることやら。「市民ジャーナル」の始めに展開した、「ものもんたの朝の番組、朝ズバの7時マタギ、8時マタギ」から来た「平和を構築するマタギの理論」も途中だというのに。

久々に小噺を一つ「おっかあ、手が一本、お猪口が一個、口が一つじゃ、どんなに飲んでもたがが知れてるな、手が10本、お猪口も10個、口も10個ならどんなだろ」「馬鹿お言いで無いよ、一個でも、酔っ払っちゃって、何がなんだかわかんなくなっちゃうんだから、10個もあってごらんな、あんた頭の中身も十個になって、どれがあんたか解かんなくなっちゃうよ。あたしゃ、今のあんたが好きなのに」「えへへ、そうかい、過ぎたるは及ばずが如しだな、おい一杯注いでくれ」文明も、こんなものかもしれません。
丸山 暁〈人間・56歳〉

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