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「過度な文明は人間性を破壊する」?僕の考える
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今日は、年金問題もNOVAもコムスンも政治も書くのはやめよう。このあたりにこだわっていたら、先に進まない。
黄色い屋根の小さな小屋は、我が家のかわいい温室です。スティールの棚をベースにして間伐した杉材で作った一坪弱の温室だが、ここから年に数千本の花や野菜の苗が育っていく。もちろん、苗が勝手に育つのではなく、上サンが2?3ヶ月かけて、種を蒔き、丹精こめて育てるのである。4月のまだ寒い頃は、縁側やストーブのそばで発芽を促し、温かくなると徐々に温室に移し、今度は温室が暑くなりすぎれば、風通しのよい外にだしと。僕はほんのたまに水遣りを手伝う程度で、ほとんど上サンが育てている。その苗たちが、我が家の畑や花壇を賑わしてくれる。
その苗たちは、我が家の畑や花壇を十分に満たしてくれる。少なからずあまるものもあるが、それらは苗の補植をしたり、少し育てて食べるので、ほとんど無駄にならない。
ここでは労働と我が家の庭園空間のバランスが取れている。これ以上苗を無理して作れば、売りに出すか、廃棄することになる。

最近は、野菜も工場で作る世の中、東京のビルの地下には随分野菜を作る野菜畑も増えてきたとか。そのうち「丸の内レタス」「六本木トマト」「新宿キュウリ」などが出回るのかもしれないが、完全に機械に制御(光も温度も水も)された空間で作られたお行儀のいい野菜など食いたくも無い。しかも、省エネの時代、その野菜を作るためにどれだけのエネルギーを投入していることか。核戦争の後に、放射脳で汚染された外気を浄化して、シェルターの中で野菜を作るつもりなら、そのような施設も必要だろうが、これだけ農地が余っているこの国で、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
農作物は、本来我が家のように、手間隙かけて大事に育てて、おいしくいただくものなのである。最近、地産地消(地元で取れた食物を地元で消費する)という言葉も流行ってきたが、これは望ましい傾向だろう。以前は上手い野菜や魚はまず首都圏に送られ、それから地方へ流れるという馬鹿馬鹿しい現実があった。僕たちが岩手の山間部に越してきた14年前は、意外と上手い野菜が近所で手に入らなかったが、ここ数年とてもよくなった。

さて、今回は農業問題ではないが、文明の利器(機械や化学肥料)によって、農作物を機械化し効率化すればするほど、農作物が危険な食物になってきたことは、皆さん周知の事実だろう。今でこそ、有機栽培、無農薬栽培なども出始めたが、まだまだ多くの野菜たちは、何を振り掛けられどうやって育てられているか分かったものではない。
地方の何処でも流行っている新鮮、安全の産直とて「産直に出すものは家じゃ食わねえ」という農家もけっこう多いのです。この意味わかりますよね。自分たちが食べるものには農薬を少なくするということです。

元々人間の知恵と労働(馬や道具を使おうと)と自然の営み(寒暖の差や風雨など気候の変化)によって育てられた食物たちは、おいしくて栄養価も高く安全なのです。それが文明の利器(機械や化学)を利用すればするほど、食物たちは、まずくて栄養価が低く(霜降り肉の脂肪過多など偏る)危険になるのです。
今の食物生産事情は、人間的にも環境的にも良い状況とはいえないが、どこかに人間にとって野菜のちょうどいい作り方、食べ方があるはずなのです。

ここで、文明と人間の関係における、一つの仮説「丸山暁の文明と人間性の理論(仮称)」を立てて起きます。
文明*人間性=一定(丸山暁の文明と人間性の相関理論2007/06/16)、気どって横文字で書けば、Culture*Humanity=Constant“ Maruyama’s theory of culture & humanity . 2007/06/16”.。ここでの文明とは、ある機械・機能やある分野での化学的、技術的発展レベルをいい、人間性とは人間が身体的に満足できる状況をいう。ここでの満足とは、けっして、腹いっぱいウナギやマグロやステーキを食べて一時の快楽を得て、デブや成人病になって、お金をかけてダイエットしたり医者通いしている状態ではない。心身共に、ほぼ、満たされている状態をいう。ほぼというのは、満足が欲望と摩り替わるといつでも満足は暴走して際限が無いので、ほぼ満足という、人間性を考慮しておく。

さて、これだけでは、丸山の理論は分かりにくいので、TVを事例に説明しよう。
まずTVがこの世に出現した時は宇宙からの贈り物の如く不思議なショックがあった。ただ、ブラウン管に何か(試験放送の丸や縞々)が映っているだけで、興奮して見入ったものだ。それは僕が4?5歳の頃か。
それからしばらく、日本国民はTVに餓え、街頭TVや食堂のTVに釘付けになった時期がある。このころは、TVという機械はまだ、人間を満たしてはいなかった。
それから、どんどん技術が発達し低価格になり、各家庭に1台行きわたった頃、人間はTVに近づいて、チャンネルを合わせたり、ボリュームを上げ下げしたり、人間がTVと触れ合わなければ関係をとりえなかった。その頃は、TV番組の限られていて、大人の見るもの、家族でみるもの、子ども番組と、まだTV番組に棲み分けが出来ていて、夫々の世代が成長したり、娯楽を得るのに、ほぼ充足していた。エロ映画を見たいものは映画館に行けばよかったし、漫才、落語を見たければ寄席やホールに行けば良かった。

それが今、TVは全てリモコン操作となり、TVに触れなくてもTVが操作でき、家にいなくても勝手に録画や選局が出来る装置になった。tV番組も通常の番組でも7?8チャンネル、衛星放送、ケーブルTVなどといえば数十、数百チャンネルでほぼ、あらゆる分野、階層、エロもグロも教養も娯楽も垂れ流すようになった。

さて、今のTVの発達は、人間を幸せにしているのだろうか。もちろん個々人の暇つぶしの道具としてのTVではなく、社会で起こっているTVによる影響を考えた場合、TVが人間、社会に与えていた、いわゆる人間性にとっての文明として、ちょうどいい時期があったのではないだろうか。その時期を越した今、およびこれ以上発達したTVはかえって人間性を否定するのではないか。すなわち、(TVの今の発展)*(今の人間性)=(負)になっている、ということです。今日思いついて書いているので、形はこれから検証していきます。

そのようなこと「丸山暁の文明と人間性の理論」を、これから何回かで(連続はしないかもしれないが)考えて行きたいと思っています。
この理論は、ロラン・バルトの「モードの探求」の「消費以上の生産が生まれた時にモードが発生する」に匹敵する理論になるかもしれません。
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。
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【2009/10/02 09:29】 | # [ 編集]


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