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「生の最後に思うこと」?僕の考える
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美しいものの早すぎる死は、その美しさをよけいに際立たせるものである。ZARDの坂井泉水さんの死もそのような死だったと思える。この白い花はスピノシマという原種の薔薇で、この時期にだけ花開いて、さっと散っていく清楚な花である。坂井さんの魂にこの花を捧げよう。坂井泉水さんがなくなった日は、今年初めて咲いた1輪のスピノシマだったが、今は数輪花開いて彼女の魂を慰めているようだ。

意識しては、ほとんどJazzしか聞かない僕だが、その時代時代に街に流れているポップスや歌謡曲で心に響いてくるものがある。特にだれそれのファンというのではないが、そういう曲の一つがZARDの「負けないで」である。元気の無い時、意識せずとも「負けないで」というフレーズが心に浮かんでくることがある。「生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、いいさ、生きてりゃいいのさ・・・」という井上陽水のフレーズが浮かんでくることも。時代時代の名曲とは何処からか聞こえてきて、心に深く住みついているものだ。

松岡農水大臣、緑資源機構関連の山崎進一氏の自殺、ZARDの坂井泉水さんの死、ここのところ否が応でも死、どのような条件下の死であっても、について考えてしまう。昨日も母親が自分の女の子を殺したと報じていたし、銃による殺人も増えてきた。イラクでは毎日のように内紛(イラク人の宗派テロとアメリカの国家テロ)で人々が死んでいく。死が日常生活から遠のいたから(核家族で肉親の死の体験が希薄)、命の尊厳が分からないという有識者も多いが、情報化社会の今は、世界中のあらゆる死が情報としては身近になった。

僕が人間の死を最初に意識したのは、多分幼稚園のとき見た映画「日本誕生」である。木の上にいた兵士に火矢があたって、兵士が炎に包まれて落ちていったシーンが今も心に残っている。その死は苦痛に満ちた死だった。現実的な死体を見たのは、小学校5年性の時、川から引き揚げられた腐乱死体であった。遠めに、気持ち悪いと思いつつ「これが人間の最後の姿か」という冷めた印象が今も残っている。

また僕には臨死体験がある(臨死体験だと思っている)。このことは「市民ジャーナル」の最初の頃も書いたがここでも紹介しておく(ブログというものは本と違って、原則的に一回性の読者を対照にしているので、重要なテーマは何度でも繰り返します)。僕は幼稚園の時、激流の滝壷に落ちて十数分浮いてこず、仮死状態で引き揚げられた。足を滑らせ、あっという間も無く激流に引き込まれ、水中を回転しながら流されるうちに、明るいが深いプロッシャンブルーの世界に包まれて(視覚的にではなく感覚的に)、その最後の瞬間に頭にあったのは「これで死んでしまう。もう家族に会えなくなる。生きていたい。」というものだった。
その最後の意識の記憶「生きていたい」が、僕が今も思う、死に行く瞬間の最後の人間の意識だと思っている。

ZARDの坂井泉水さんは、病院の手すりから落ちて死んだと言う。落ち行くたった3mのコンマ数秒の時間で、彼女に浮かんだ意識は、きっと「死にたくない、歌いたい」ではなかったか。彼女の死と死に至る状況は全く違うが、松岡農水大臣とて、覚悟の死のようだが、最後に頭をよぎったことは「生きていたい」ではなかったろうか。
脳天気にここまで生きてきた僕とて、「死にたい、死ぬしかない」と死に方を考えたこともある。しかし、どんな死に方を考えても、最後の一瞬、一瞬とは数分の1秒でもいい、に頭に浮かぶのは「生きていたい」ということだろうと考えてきた。

松岡農水省の死を、石原慎太郎都知事は「彼も侍だった」と評していた。多くの政治家たちが、彼の死に疑問を持ちながらも、どこかで「潔さ」を国民に訴えようとしているが、あえて、ここで死者に鞭打つわけではないが、政治家としての彼の自死は決して潔いとはいえない(ここではあえて個人的な死ではなく政治家としても死を考える)。
彼が、自分を殺すことで守ったものは、国でも国民でもなく、彼が係わってきた政治の闇であり、政治体制(特に現政権の腐敗構造)だけである。彼の自死は潔いどころか、ヤクザが拳銃で長崎市長を射殺して、民主主義を脅かしたように、対話による民主主義を封殺する行為以外の何ものでもない。これまでも、このようにして、この国の多くの政治の悪、闇が葬り去られてきた。彼は自殺によってこの国の民主主義も殺したのである。

安倍総理が松岡農水相の自殺の原因であったであろう緑資源機構の解散を示唆したという。
これは政界官僚の腐敗を個人の問題に摩り替えて、事件を無かったものにする政治の常套手段である。問題を起こした国家機構や組織は名前を変えたり、組織形態を変え(公益法人や独立行政法人など)実体はアメーバーの如く形体を変えて生きながらえさせる。
昨日の国会での政府の大慌てでの国民年金関連の法改正も、社会保険庁がやって来た悪(金だけ集めて知らん顔、数千億円の無駄使い、国家的サギ)をうやむやにして、選挙目当てに形だけの法改正を急いだだけである。騙されてはなりません。もちろん、保険金の正当な給付は急ぐべきだが。

なんだか、最初は死生観から入ったのだが、松岡農水相の自殺、政治、国会中継が頭に浮かんできて、書いているうちの政治批判になってしまったが、本当は、人間は自死しようと事故であろうと死の瞬間は、「生きていたい」ではないか、ということが言いたかったのである。だから、きっとどんな死でも、最後に思うことは「死」では無く「生」ではないだろうか。それが生きていると言うことである。もちろん大往生というのもどこかで理解できるが。
だから、人間、もし死にたくなったとしても、「生」がそっと寄り添ってくれたら、死神も去っていくのではないだろうか。

小噺また一つ「ちゃん、安倍首相も自民党も年金を全面的に救済するって、国民に寄り添ってきたね」「とんでもねえ、ヤツラは国民に寄り添ってきたんじゃなて、選挙目当てに擦り寄ってきたんだ」。寄り添うと擦り寄るは偉い違いです、擦り寄ってくるものには気を付けましょう。後で偉い目をみます。
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。
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【2008/01/08 23:59】 | # [ 編集]


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