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「松岡大臣と子供たちの自殺」?僕の考える
20070529112248.jpg

僕の家の隣のトエさんは元々兼業農家だが、彼女は専門の作物の他、あいた土地(あいた土地といっても我が家の数倍の広さだが)に、朝早くから日が暮れるまで、寒い日も暑い日も作物を育て続けている。きっと彼女の人生のほとんど、数十年そうして来たのだろう。
そんな彼女に聞いてみた「毎日毎日良く働くね。嫌にならない?」と聞くと、「嫌ではないが、仕方なくやっている」と、朗らかに答えてきた。たぶん、人性もそんなもの、生きるために仕方の無いことはあるだろうが、嫌々やるのではストレスがたまる。仕方なくても、嫌々やるのはよそう。

やはり今日は松岡農水相の自殺は避けて通れない。何故彼が死に至ったか、自殺の動機は何か。最近の報道、事務所費、還元水、そして緑資源機構の官製談合問題などなどが、彼の自殺にどのように影響していたかは、ここでは言及すまい。まず、如何なる人間の如何なる死であっても、人間一人の死に対して、お悔やみを申し上げる。
日本の自殺が3万人を超え(少し減少傾向にあるようだが)、病気や経済的事情と共に、組織でのいじめ、心労や過労によるストレスによる自殺が急増している。また、経済問題や病気とは程遠い、本来大事にされているであろう子供たちの自殺もここ数年社会問題化してきた。
今回の松岡大臣の自殺を、彼が引き起こした、もしくは係わったであろう政治問題としてではなく、ある組織における一個の人間の問題として考えた場合、そこに現代社会がもつ病理が現れてくる。その病理は、いわゆる一見普通に見えていた子供たちの突然の自殺と同じなのではないだろうか。

方や国の最高機関である組織(内閣)と、最も社会的に庇護されるべき弱い立場の小学生など子供たちの組織(学校)と両極で起こっていで別物のように見えるが、そこで起こっていることは、「場や目的を共有しながら、普段何事も無く仲良く生きている」のだが、実は個人個人が全くその共通に見える場で孤立してきていることの証ではないだろうか。
松岡農水大臣の自殺後の政治家(特に同僚である自民党の政治家諸氏)のコメントは「彼は同士であり、共に頑張ってきた、これからも一緒に頑張りたかった・・など」彼を仲間と捉え、共に歩いてきた旨、これからもそうであったろう心情を述べている。
そういう、政治家として皆に期待され、信頼されていたように見えた、もしくはそのように対応している組織の中で、松岡農水相が、心の吐露、本音で相談できる同僚仲間は1人もいなかったのだろう。もちろん、政治の世界、同じ党であっても疑心暗鬼、足の引っ張り合いが常なのであろうが、そういう状況下であっても、何がしかの人間的接触、心情を吐露する仲間、たとえ敵であっても、本音で議論する相手がいてもいいだろう。社会とは、そうあるべきだ。

実は、こう言う状況は子供たちの世界にもいえる事である。学校で家庭で本当は、少なくとも形の上では大事にされているように見える子供たちが、何の兆候も無く突然自死していく。彼(女)等には大人と異質な特異点として思春期の心の揺れ動きはあろうが、これはいつの時代でもあるはずだ。
しかし、近年の少年(女)期の自殺はそこにいたる道筋があまりにも冷ややかに見える(もちろん個々の葛藤、苦しみは子供とて想像を絶するものもあろうが)。冷ややかというより、他に選択の余地が無い、逃げ場が無い冷ややかさ(上手くいえないのだが)。
彼(女)等とて、本当は死にたいはずが無く、誰かに一瞬心を開けたら、誰かがちょっと手を差し伸べていたら、きっと死への道を選択しなかったであろう。

ここで言いたいことは、政治的な問題は別にして、松岡農水省は孤独だった、ということである。それは、死に行く子供たちと、人間としては同じ孤独ではなかったか。どんなに社会的地位があろうと、注目されフラッシュを浴びようと、一見大事にされ、気にかけてもらっているようと見えようと、苦しい時、死にたい時、彼(女)等は、心が触れる関係を何処にも見出せなかったのではないだろうか。

普通の時は、どこかに自分を守ってくれる何かを確信、おぼろげでも、のあるときには、少々の苦しさにも耐えられるものである。しかし、たった一人になってしまったと思い込んだ時(本当は、どんな人間でもどこかで誰かが見てくれているのだが、普段それにはなかなか気づかないものである。特に、心が弱っている時は)、一直線に死神がやってくる。ひょっとしたら死神こそが、唯一自分をわかってくれるように思えるのではないだろうか。

やっぱり、今の社会はあまりにも人間としての他者に無関心になってきた。社会自体は賑やかに華やかに情報は飛び交い、情報端末的には、個々が交信しているようだが、その情報に心がのっかっていない。
今政治に求められるのは、政策論議も大事だが、政治家自身の人間性回復である(人間性とは、正義感であったり人間愛であったり他者への思いやりであったり)。残念ながら政治家にあまり期待はしていないが、やっぱり国家の政府はその国の社会の一面を反映しているだろう。子供たちを政治家を死に追いやらない政治であって欲しい。
丸山 暁〈56歳・人間〉
僕の考えるブログもよろしく。
ついでに〈田舎人(いなかびと)〉通信も。
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【2007/06/11 13:59】 URL | #- [ 編集]


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