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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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「憲法改正は天皇の開放から」?僕の考える
20070519071921.jpg

この花は花弁が何処となく菊に似ているが、この春我が家に咲いたアネモネである。何故、この花を選んだかというと、花弁こそ1、2輪少ないが、菊の紋章に似ていたからである。
市民ジャーナルの原稿を書くのも毎週となると、たまにはテーマに困ることがある。事件や社会問題を扱えば、いくらでも言いたいことは転がっているのだが、どうも、政治不信や不祥事や凄惨な事件ばかりで、またか、ということが多く、僕には、それ程実証的に深く分析検証するデーターも能力も無いので、同じことの繰り返しになってしまう。

そんな時、今回のテーマはこれだと、瞬時にひらめいた。数日前、天皇皇后の記者会見を見たときである。その場で天皇は、「自分が海外に行くのは公務で、個人の意思や静養で行くことは無い」と、暗に、皇太子妃雅子さんの静養目的といわれるオランダ訪問を批判し、今後そのようなことが無いようにと釘をさした、という。また、皇后は、「もし透明人間になれたら、学生時代のように、神田の古本屋街で自由に本の立ち読みをしたい」と言っていた。二人の発言を聞いて、僕は、彼等に締め付けられるような哀れさを感じると共に、日本という国の、どんな場にも、漂っている、言うに言われぬ真綿で首をしめるような閉塞感を感じたのである。こういう日本である限り、この国に本当の人間としての自由(自由というのは、自分勝手ではなく、相手の自由をも尊重した上での自由である)な社会体制は生れないと強く感じた次第である。

本題に入る前に、私事だが、今の天皇が皇太子の時、正田美智子譲と結婚したのが、僕が小学校の2、3年の時だった。その時、僕は広島の山奥の小学校で学級委員に選ばれ、副委員長にクラス1の可愛い子(今、当時のクラス写真を見ても、本当に色白で日本人形のように可愛い女の子であった。名前は小野もとこチャン。)がなって、「やーい、やーい、皇太子の結婚だ」とかわれて、テレながらも嬉しかったのを覚えている。

そんなことがあったせいか、子供心に、天皇や天皇制に対する関心と言うのではなく「奇麗なおねーさんが皇太子のお嫁さんになった」という感覚で当事の美智子妃にある種憧れを持っていた。そのころは今のようにアイドルやグラビアモデルなども無く、大人の雑誌「朝日グラフ」や「婦人口論」で見る美智子妃は、僕にとってはちょっと雲の上のアイドルだった。断っておくが、僕は中学生辺りから今にいたるまで、天皇制反対でるが。

だからといって、女性誌の皇室記事を読んだり、皇室番組(皇室アルバムという番組もあった、今もあるのか)を見るというのではないが、美智子妃個人には皇室の中では関心を持ってみてきていた。特に、彼女が、皇室のしきたりに悩んだり、いじめがあるというような報道があると、子供心に、スーパーマンになって何とか助け出してやろうと、夢想することもあった。
現実に、公式報道でもいじめはあったようだし、皇后になってからでも、精神的ストレスで失語症になったり個人的自由を抑圧、奪われ続けていたのは事実だろう。

それと、近年は、「市民ジャーナル」でも何回かは取り上げたが、現皇太子と結婚した小和田雅子さんの苦悩が加わる。
20数歳で世界を羽ばたき豊かな才能を発揮していたであろう彼女が、皇太子に嫁ぎ、自由を奪われ、夢を立たれ、行動を抑制され、きっと皇室という僕たちに見えない世界でのしきたりやいじめのようなもので苦しみ、その結果、彼女の顔から覇気が無くなり、無気力な表情になっていったのは、ついこの間のことである。彼女の抑圧による精神的病は、公式な報道でも明らかなことで、決して僕の邪推ではない。僕は今、彼女より数段年上であり、社会での人間の生き方もそれなりに学んだ今だからこそ、彼女がまだ若い女性であることもあり、哀れでならない。今からでも、彼女を救い出だせる手段があれば、個人的にも、日本国民として、そうすべきだと考えている。

さて、そろそろ本題に入ろう。そうしないと、僕のミーハー的皇室アイドル論で終わってしまう。

結論は「今の日本社会の隅々にまで漂う閉塞感は、皇室を日本国民の象徴と位置付けて奉りながら、自由を奪い、彼らを日本国民のスケープゴートとすることで、畏敬を持ちながらも哀れさをさそい、常に抑圧され閉塞的な日本人の心情を、皇室の不自由さと対比することで、諦めに導いているのではないか」ということである。
これは、昔から日本社会にあった、日本社会だけでなく、より惨めなもの、より下層のものを社会的に配置して(江戸時代のエタ、非人、今も続く部落問題など)、日常の苦しさを迂回させる、それと同じような役割を憲法の元、天皇家が担っているのではないか。特に近年外部から嫁ぐ普通の女性を、一見シンデレラ物語に見せかけて、実体は、自由を奪われ苦しいものなのだと、国民に提示してみせ、国民の溜飲を下げてる役割を果たしてはいないだろうか。このことを、多くの敏感な日本人は、口にはださないが、暗に感じとっているのではないだろうか。もしこんなことを考えるのが僕だけだったら、僕がおかしいのか、この国がおかしいのか、どちらかだが・・・。


先の天皇皇后発言や昨年皇太子が「雅子妃の病気が皇室の抑圧や彼女の夢を奪っていることから来ている」と言及しても、政治や日本国民は皇室のあり方を変えようとはしない。ただ黙って、悲劇のスケープゴートを畏敬の念?をもちながらも冷ややかに、触らぬ神に祟りなしと、遠巻きに見つめるだけである。

僕は、自民党の画策する方向での改憲論では護憲派であるが、天皇制を見直し、基本的に、天皇制を解体し、解放する(これは、天皇に国家を支配する自由を与えるというのではなく、天皇家を一国民として再構築する)という意味のおいては、改憲派である。
その時初めて、日本国憲法のもと、真に全ての国民が自由で平等になり、皇后、雅子妃の苦悩も消え去るのではないだろうか。この国の天皇は憲法で縛られた最も制度的に束縛され、不自由な人間なのである。これがこの国の象徴である限り、この国の国民にも真の自由は無いと考えている。
「おまえさん、あたしも皇室とやらに入ってあんな奇麗なおべべ着て馬車に乗ってみたいものだね」「おおそうかい、そんなとこへ行ってみろ、おめえ1人じゃ湯屋にも寄席にも行けやしねーぞ」「それじゃ生きてても仕様が無いね、じゃ、まえさんの荷車の上でせんべいでもかじっているか」
丸山 暁(56歳・人間)
「僕の考えるブログ」もよろしく。
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