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モノとコト4 東北原子力懇談会広告批判
再処理工場など操業しない方がよい!
 こんなヤバイコトに手を出さない方がよい!
 これが前提である。
 が、すでにアクティブ試験が始まり、実質的には操業が始まっている。
 また事故があったみたいである。
 この工場の安全性について、つまりそれぞれの放射性物質の、管理及び監視についての具体的問題点を、語ることは他の人に任せることにする。何せ!専門知識に乏しいもので。
 で、最後にこの広告の意味を問うてみたい。つまり、なぜ再処理工場は安全です、という広告をしなければならないのか?である。しかも高いお金を払って、挙げ句の果てに久保寺昭子なる学者?まで担ぎだしてである。
 それは、事業主体の見栄と当然にも利潤追求のためである。国策であれ,かね食い虫であれ始めた以上は最後までやる,という特攻精神的見栄と、核燃料サイクルという、何か新しい産業の誕生を夢見、それは将来利益を産み出すという幻想を、植え付けるための広告でもある。ある意味世界的にも最先端の科学技術と、それに伴った産業経済の発展、という甘き夢の実現に向かって邁進努力している、事業であることの宣伝でもある。
 今、私はどのような社会を生きているのであろうか?変えたくても変えられない、抜け出そうとしても抜けられない、社会である。そのような社会の象徴としての、核燃料サイクル構想である。平たくいえば、やはり生産拡大、貨幣経済の合理性、それに伴っての経済発展が、意識するしないは別として、それを是とする考え方が主流である、と思う。そのような社会を私は生きているのである。そして、その経済発展や生産拡大の恩恵も、僅かながら受けているのも事実である。しかしながら、その恩恵の背後で、漠然とした不安や不満が充満しているのも感じ取れる社会でもある。それは社会システムとそこで暮らす人々との乖離が原因であるとも思われる。システムは盤石であるのだが、その中で暮らしている人様が疲弊してゆく(JR西日本の脱線事故がそれを物語っている)。そんな社会でもある。
 特に、近代科学技術と産業経済の発展に伴う恩恵と、そのような恩恵の背後にある恐れとの、相反するコトを抱えてしまった社会でもある。そのような自己矛盾を生きている私でもある。それこそ今、私にはどのような選択肢が残されているのであろうか?難しいところでもある。少なくとも私は、二十世紀半ば頃から始まった、近代的悲劇の前で立ち止まり、考えざるを得ない。つまり、ヒロシマ・ナガサキに始まる核(放射性物質)による悲劇や、チェルノブイリ原発の巨大事故による悲劇である。特にチェルノブイリ原発の巨大事故の悲劇は、どんなに最前の知識と技術を集めても、備えきれず、あがなうことはできない悲劇は、起こりうるコトを物語っている。そのような意味で、私は危うい社会を生きているのである。その危うさに気がつき、その危うさの前に立ち止まり、私の身体で考えるコトが、私の選択肢でもある。
 現代社会で起る悲劇(非常事態)は、運命の一言で決着がつけられるものではなく。社会システムと近代合理主義や効率主義が原因の悲劇もある。巨大事故とはそのようなものである。
 今は亡き高木仁三郎は、チェルノブイリ原発事故の2年後に「巨大事故の時代」(1998年弘文堂)という著作を著わしている。その中で「現代の巨大事故が、技術の後進性や未熟性の結果ではなく、まして偶然に生じるものでもなく、むしろ現代技術システムの本質からきている。たとえば十万回に一回の事故率といわれていたスペースシャトルが二五回目の打ち上げで爆発したように、巨大技術にとって事故はもはや「ノーマル・アクシデント」(正常な事故)である。これは、現代の巨大技術が複雑な相互作用性をもち、非常に緊密に作られているために、たったひとつの要因であっても共倒れや将棋倒しを起こして巨大事故にいたる可能性が高い。巨大事故を不幸な運命と捉えて、産業側や行政当局の責任だけをとりあげるのは適切でない。そうではなくて、私たちはこれらの事故を自分たちの社会の生み出したもの、自分たちに責任あるものとしてとらえ、この『不幸』を克服するために、正面から直視していかねばならない」と述べている。
 これは、いささかきつい話であるのかもしれない。が、私にとっては心に残る文言でもある。
 
 いずれ、安全神話の背後には、非安全という悲劇が隠されている。安全であるといえばいうほど、安全であるというコトの裏が透けて見えてく。確かに絶対安全はない。それは基準や監視や管理によってコントロールできるものではない。もし安全をいうのであれば、現代社会システムからの離脱しかない。さもなくば、巨大事故は私たちの社会が生み出すものである、というハッキリした認識をするしかない。
 今回のこの広告は、悲劇(非常事態)という観点から参照すれば、あまりにも無責任なものであり、最初から事業主体の責任逃れを喧伝している、ようなものでもある。 (おわり)
<チョイ÷和尚>

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テーマ:環境・資源・エネルギー - ジャンル:政治・経済

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