Google
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近の記事

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

カテゴリー

ブログ内検索

プロフィール

疾風

Author:疾風
岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
人気blogランキングへ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

RSSフィード

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「脱建築」?僕の考える
20070120080329.jpg

なかなかいいい感じの椅子と机ではないでしょうか。大量生産大量消費のモダニズムに落ちいった商品が多い昨今、作り手の感性が伝わってくる、無骨だが温かみのあるポストモダンの代表格ともいえる椅子と机ではないでしょうか。前回、僕が「さよなら安藤忠雄」の最後で言った「脱建築」宣言後の第一号作品である。この作品は僕が去年の暮れから今年にかけて作ったものである。材料費は建材塗料でほぼ5,000円というところ。後は僕のセンスと労働である。労働期間は、ほぼ一ヶ月に渡るが、実質一日1?2時間一週間ぐらいだろうか。まあ、一日2時間として、実働14時間、ほぼ2日*人というところか。中級の職人が作ったとして、20,000円/2人*日=40,000円で、この椅子と机セットで材工共45,000円というところ。これを高いと見るか、安いと見るかは、皆さんの判断に任せます。

 僕が「脱建築宣言」をしたのは、いわゆる建築とオサラバすると言うことではない。この「脱建築」の「脱」は「脱する」「逃れる、逃げ出す」という意味ではなく、ジャック・デリダの「脱構築”de construction”」で言うところの「脱」なのです。ではこの「脱」とはなんなのかというと、かなり説明は難しいのだが「それまであたりまえと考えていたこと、またその考えを収斂、制度化、定義するために消し去ってきたもの、などをもう一度表に引きずり出してきて、今を再構築して、今を乗り越え、よりよいものを見出していく作業」と、僕は解釈している。このあたりに関心のある方は、ぜひ、「脱構築」関連、ジャック・デリダを呼んでみてください。ぼくも、まだ「脱構築」の入り口をうろうろしている段階なので。

 それでも、僕の言う「脱建築」は、はっきり説明しておく必要があるだろう。大まかには僕の前回の市民ジャーナル「さよなら安藤忠雄〈脱建築〉」?僕の考える、を読んでいただきましょう。それと、僕も一応建築屋、建築界における「脱構築(デコンスツラクション)を語っておかなければ、僕の「脱建築」と混同されてしまうので、説明が必要でしょう。
 建築の世界での「脱構築(デコンストラクション)」は1980年ごろポストモダン(モダンはコンクリートと鉄ガラスの規格化された近代・現代建築と考えてください)の一形態として起こった建築のムーブメントである。簡単な事例では、本来垂直であるべき外壁を斜めにしたり、一見破壊されたかに見える建物だったり、全く非機能的な何かがデザインされていたりする建築である。ご存知の方はご存知の、その世界では有名な、東京浅草の隅田川沿いにある麒麟麦酒屋上のキンキラウンコなどはポストモダンで脱構築でしょう。岩手の人は、びっくりリドンキーの建物を思い浮かべてください、その外観がポストモダンの脱構築と考えていいでしょう。建築界の「脱構築」はそんなお遊びだったため、一過性のものとして消え去った。これはびっくりドンキーのことではないですよ、びっくりドンキーは建物の外観の事例で紹介しただけで、ハンバーグ屋サンは大いにはやっているようです。

 さて、これからやっと僕の「脱建築」に戻りましょう。僕の「脱建築」も「脱構築」の思想的流れから派生した考えで、それをもう一段階、いわゆる現代の建築を乗り越える思想として、言語化したものが「脱建築」です。それといわゆる一般的な建築、建築基準法や建築設計でいうところの建築の領域をもう少し広げて、私たちが暮らす空間、施設、建物、住宅、身の回りの家具たち、何らかの意図をもってデザインされ暮らしの中にあるものたち、その全体をも建築と捉えることが「脱建築」の概念にある。

 まず、注目される多くの現代建築は、成金主義の建築(金満家による金満家のための消費空間)と化し、公共建築も、相変わらず自治体の権威付け的建築がはばを聞かせている。、世界に名だたる豪華なコンサートホールが乱立する中で、日本の多くのオーケストラは資金難で風前のともし火であり、日本の大建築は相変わらずバブリーである。また、方や市民のための住宅は、高規格で人に環境にやさしいを売り物に、非人間的もしくは非身体的住宅を量産し続けている。人と環境にやさしいのだからいいではないかと考えがちだが、実は快適すぎる建築は、身体的に人間の機能を低下する不健康住宅なのである。
 もう一点、現代の建築は制度により出来上がってしまう建築となってしまった。それが顕著に最悪な方向で動いてしまったのが「姉歯建築士による強度偽装問題」である。建築業界全体(設計するものも施工するものもそれを管理する行政も)、マンションを買ってしまった人々も含め、社会全体が、建築は〈ある決められた制度にのっとっていれば〉それが良い建築だと考えるようになってしまった。もちろん偽装マンション購入者にはなんの責任もなく悲劇的な被害者であるが。そこには、全ての段階で、人間の経験や感覚、建築に携わるものの身体的感覚(触ってみたり数えてみたり経験と照らし合わせてみたり)が抜け落ちていた。

 少し前といっても、大正期だが、「異形の建築」というものがあった。それは建築空間の中に、登れない階段や、ドアを開けたら壁があって入れなかったり・・・そんな無駄な遊びが建築にはたくさんあった。つい最近までは結構、縄梯子で子供部屋に上がったり、キャットウォークのような手すりの無い危険な回廊を作ったこともあった。それが今は、建築も計測でき、食べ物や工業製品と同じように安心安全な機能的生産物になってしまった。

要は、建築が制度化され高度に規格化され、作り手にとってもそれを利用するものにとっても、人間の身体性から乖離してきたのである。それが建築の進歩なのだろうか。

そういうことを考え直しながら、建築に係わるものたちを私たちの身体的なものに取り戻していこうというのが、僕の「脱建築」なのです。今日のところはまだ舌足らずだが、これから機会あるごとにこのことを考えていこうと思っている。いつも「脱建築」では煮詰まってしまうので、いろんな話題のなかで。
丸山 暁〈56歳・人間〉

スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。