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「民主主義というファシズム」?僕の考える
20061202104716.jpg

 「暗雲にわかにたちこめて、さてこの世は・・・・」、不気味な未来を予告するかのような1シーンであるが、本当は朝食を食べていた時、窓から見えた、山々に霧が立ち込めたさわやかな風景なのである(これは白黒ではなくカラーです)。しかし、このカットだけを取り出してみると、不穏な未来を予見するようにも感じられる。この世のものというものは、多くの場合、この風景のように、見方、それを捉える人の意識、考え方によって、良い面と悪い面の両面を持つものである。

 郵政民営化に揺れた自民党の茶番劇だが、どうも自民党造反組み(僕は造反ではなく、郵政反対派であって、造反組みと言う表現には違和感を持っていたのだが、自民党という徒党集団にとっては造反なのだろう)12人の内11人は、「郵政民営化に賛成します」とねがえって、「おおせのとおりにいたします」と誓約書まで書いて、自民党に復党するようだ。自民党からすれば、票欲しさ、造反議員からすれば選挙公認、政党助成金欲しさ、寄らばやっぱり大樹の陰と、見事に利害が一致したのだろう。
 その言い訳に野田聖子が「郵政民営化に反対したが、選挙では自民党が勝利して、郵政民営化を多くの国民が指示したのだから、それに従うのが国会議員の務めである」旨の発言をしていた。彼女は、それが民主主義の姿、すなわち投票による最大多数が正義であると言いたかったのであろうが、そういう態度こそ民主主義を崩壊し、もしくは民主主義の闇の部分をよみがえらせ、ファシズム化する愚かな民主主義者の考え方である。
1人でも、正義を貫く姿勢、正義を主張できる体制が整っていることが、民主主義のあるべき姿であるのに。
 
現代政治体制においては、とりあえず民主主義が理想的で、公正な政治体制であろうと考えられている。確かに、王政や帝政、独裁体制などより、市民に公正な政治体制であろう。しかし、そういう民主主義体制であっても、民主主義を安易に横行させれば、ファシズムと同じような、強権的な政治体制にないうることも、忘れてはならない。
 その証拠に、第2次大戦を引き起こした、全体主義といわれる大日本帝国、ナチ、ムソリーニのファシズムも、民主主義体制から生まれ、現代世界最高位の独裁国家、北朝鮮とて北朝鮮人民民主主義共和国なのである。

 そもそも、民主主義とはいかなるものなのか。民主主義と言う言葉は、デモクラシーの訳語で、ギリシャ語のデモス(民衆)とクラティア(支配)から成り立っている。そして、民主主義(デモクラシー)が政治の舞台に登場したのは、18世紀末に起こったフランス革命で、ジャコバン党のロベスピエールが1794年に国民公会で行った演説によるとされている。実は、その頃のデモクラシーとは、ルイ16世やマリー・アントワネットや反体制派を次々に断頭台で公開処刑するという恐怖政治によって成り立っていた。皮肉にも、断頭台を発明したギロチンとて断頭台の露と消えた。チョッとでも逆らえば殺してしまう、というのが民主主義の萌芽期、根底にあった。

 確かに、封建的な王政から市民が権力を得るためには、まさに血を流しての戦いの歴史が必要だったろう。実際にフランス革命では、60万人が殺し合い、バンデ地方では革命政府反対派への女子供を含めたジェノサイド(皆殺し)もあった。民主主義の始まりは、「みんなで決めたのだから、何がなんでもそれに従わなくてはならない。そうでなければ命で贖え。」という、非常に強権的な制度であった。

 その後世界的に民主主義が正義、公正な制度として定着するのが、第一次大戦における対ドイツの戦いにおいて、帝国主義にたいする民主主義の戦いと位置付け、2次大戦でも日独伊枢軸国(ファシズム)に対する民主主義の勝利となり、民主主義は正義で公正な平和を築く制度として世界的に認知されるにいたった。しかし、その後、アメリカは民主主義を錦の御旗にして、朝鮮戦争を、ベトナム戦争を、そして懲りずに今また、「民主主義を世界に広めるのだと」イラクを内戦状態に陥れた。これも民主主義の闇の部分である。また、いわゆる民主主義にも人民民主主義や社会民主主義やイラク、イランのようなイスラム民主主義(選挙による政治体制)だってある。アメリカの、ただ自分が商売しやすい自由、市場主義を押し進めることだけが民主主義ではない。

 さてさて、自民党の内紛から話が広がりすぎたが、民主主義という体制、公正・正義らしく見える言葉の中にも、よくよく注意して使わなければ、監視しなければ、強権的、ファッショ的状況が生まれ得ることを喚起したかったのである。こういうことは、何も政治の世界だけでなく、僕たちの日常の世界でも起こっている。「赤信号、皆で渡れば怖くない。」もそういう範疇の社会状況だが、今は「赤信号、僕だけ渡らなければ殺される。」。子供たちの世界にまで、こういう大人社会の負の民主主義の影が立ち込めてきたのではないか。
 たった1人でも、大勢に反論を主張できる人間性、またそれを受け入れ対話する体制、それが出来て初めて民主主義は真に機能するものなのである。そうでなければ、民主主義はいつでもファシズムに姿を変えうるものである。〈やさしくしてくれるからと、通い続けたキャバレーの女の子に、いつしかケツの毛まで抜かれてしまう〉、民主主義とは気楽に付き合うと、そんな性格を持っているものなのです。みんなが気楽に?選んだ政治家たちに、日本国民はそういう目に合わされているのではないですか。うん、我ながらいい喩えである。
丸山 暁〈28日にやっと56歳になった人間〉http://www.geocities.jp/sunchanfly
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