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「閉塞的階層内競争社会」?僕の考える
20061027213507.jpg

「ぼくはこんなに小さいけど、もう60年は生きてきただろう。随分古ぼけたけど、まだまだ磨けば光る。ぼくは2次大戦前にアメリカという国からやってきたそうだ。その時既に誰かがはいていたようだが、日本にやってきてある兄弟が3人履いた。その末っ子とて今はもう55歳になった。最近やっと、なくなっていた靴紐がつけられた。なんだかまた歩き出せそうな気がして来る。一つ一つ大事にしてやれば、光り輝いてくるものだよ。」

 末っ子とは僕のことであるが、靴の独り言、しかも革靴の独り言から始めたのにはわけがある。僕は赤ん坊の時に革靴を履いていたせいでもないだろうが、中学の時「革靴はかせろ!」運動を1人で決行した。きっかけが何だったかは、はっきりと覚えていないのだが、中学のみんな上から下まで同じ格好、すなわち白い運動靴(あの頃はカラフルなスニーカーなどではなく真っ白なズックであった)に黒の学生服、黒の学生帽がたまらなく嫌になっていた。学校に行けば朝から晩まで、晩というより夕方だが、同じかっこうしたヤツがぞろぞろいる。どうもそれが嫌だったらしい。それと、少々しゃれっ気もついてきて、ひとと違う格好がしたかったのかも知れないが。
また、我が家は、子供の革靴が買えるほど豊かではなかったが、オヤジが靴には結構うるさかった。「靴はこんなかっこうで、皮はこのようなのが履きやすくて丈夫だ」そんな話を聞くうちに革靴に憧れたのかもしれない。

時は1960年代、革命を叫ぶ学生運動の真っ只中である。中学生の僕とて、時代に刺激され、世の中を変えねばと考えていたのかもしれない。
僕は単身校長室に出かけていき(僕は本来上がり症で臆病者なのだが、どうもひらきなおり一端覚悟がつけば、けっこうやってしまうようだ)、「制服を廃止してください。ダメなら靴だけでも自由にしてください」というようなことをのたまった。
校長は「生徒には家庭の事情がある。色んな服を買えない子、贅沢な服を着てくる子、生徒に差がでてくる。だから制服がみんな平等でいいのだ」、そんな返答だった。
僕は反論した「社会人はみんな自由な服を着ている。中学を卒業したら社会に出て行く生徒もいます。もし社会にはそういう違いがあるのなら、中学から慣れておいた方がいい」    すると校長は「朝礼の時、朝礼台(そんな呼び名だったかどうだか)の上に立ってみんなを見たとき、征服で並んでいる姿が軍隊のように整然としていて気持ちいいい」ときた。
そんな、やりとりがあったが結局制服廃止は一笑に付された。ま、生徒みんなの総意でもなく僕の単独行動だったのであたりまえだが。

それでも、僕はその時大人の考えること、学校という組織の考えるあることに気づき、大げさにいうと社会、いわゆる集団、組織の象徴をそこにみた。それは、大人、管理するものは、軍隊のように整然と従い、同じように動くものたちを好む、ということであった。

僕も55歳になり、それなりの社会、組織を経験してきた。学校、会社、地域活動、同好会、諸団体を経験し、そして日本社会で起こっていることの多くを情報として得てきた。そこで、何か問題(不正、犯罪、反公共的行為など)が起きるたびに思い浮かぶのが、先に上げた「中学時代の制服廃止運動」での校長の言葉である。要約的に言えば「ミンナ オナジデ カンリ シヤスイノガイイ」。

そういう視点でみれば、日本社会は色んな問題を含みながらも、少なくとも組織人としての国民教育は大成功だったのではないだろうか。日本人は、かなり自分勝手だが、組織や権威に対してはめっぽう弱く、横並びを好み、組織に従順な社会人が多い。少々の悪でも、命令とあらば、保身のため、組織のために目を瞑る。こういう体質の大人たち、特に組織の権威者たちが、今の日本のあらゆる組織の中枢に居座っているのではないか。もちろん日本人とて、全ての日本人がそうであるとは括れないが、多くの組織的日本人、特に社会的権力構造にある、公務員や教育者(この権力とは、組織の個人に権力があるというのではなく、そういう組織が一般市民に対して権威的位置にあるという意味である)たちはそういう傾向が強い。

いまここにきて、受験を控えた高校生たちが、学校教育を行う者たち(校長も教師も、教育委員会も承知のうえだろう)によって、不正のどん底に陥れられた、「単位不取得問題」が明るみに出た。ここでの一番の問題は、高校生の単位取得も問題であるが、校長を筆頭に教育者がよってたかって最も多感な時期の高校生たちに「不正をすることで、自分が優位に立てる」ことを率先して教育してしまっていたことである。
この問題は、あまたある組織的不正、不正義の中でも、「事ここに至れり」という極限的状況である。分からなければ、分かっていても皆で隠せば、少々の不正は積極的にやってもいいと、学校自体が生徒に植え付けてきたのだ。日本の大人社会とは、そのような社会なのである。学校のいじめ隠しに至っては極悪犯罪である。
いまの世の中は、閉塞的なそれぞれの階層のなかで、自らの利益(組織や地位をまもること)にすがろうとする「閉塞的階層内競争社会」と呼んでおく。そのような社会では人々の心は正常な人ほど、否が応でも病んでくる。このことは後日論じたい。
丸山 暁〈55歳・人間〉
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