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「表現の自由という凶器」?僕の考える
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この写真は以前スペインのトレドを旅した時、トレド大聖堂の近くの河っぷちに捨てられていた無惨な人形である。トレドはゴヤのキリスト画で有名なルネッサンスの都であり、一時寂れたものの今また華やかながら、荘厳な聖地、観光地として賑わいを見せている。その聖地に打ち捨てられていた人形がやけに気になって写真に収めた。そして、この原稿を書いているうちに、この人形のことを思い出した。 

 ここのところの凶悪犯罪、殺人を見ていると、まるで日本という国が犯罪博物館になってしまったように思える。凶悪犯罪はアメリカが本家本元と思っているうちに、小泉首相を先頭に、政治家たちがアメリカに尻尾を振ってついて行くうちに、日本国家は数では負けるものの犯罪の種類ではアメリカに追いついたのではないか(小泉さんおめでとう。アメリカと仲良く肩を並べましたね)。拉致監禁暴行殺人、絞殺、刺殺、撲殺、射殺、バラバラ殺人、生き埋め、薬物殺人、焼き殺し、様々な手段を使ったリンチ殺人、数年前まではこっそり本屋で立ち読みするか、図書館で、犯罪史や刑罰史などを見なければ現実のものとしては、ぼく達の感性に引っかかってこなかったような犯罪が、今の日本では日常的に起こるようになった。
日本は犯罪マニア(そんなマニアがいるのなら)にとっては新聞、TVを見ているだけであらゆる種類の犯罪を実感できる国になった。最近エコミュージアムや街中博物館など、地域まるごと博物館が大流行であるが「日本まるごと犯罪博物館」はどうもいただけない。

 しかも、それら凶悪犯罪(最近凶悪犯罪が多くていわゆる凶悪犯罪の定義も難しい)の多くが、いわゆる普通の人々、特に最近は青少年(少女)によっても行われるようになった。
 元々、マニアックな凶悪犯罪、監禁暴行や生き埋めなどは、まれに起こる異常な犯罪として猟奇犯罪などと呼ばれていた(猟奇犯罪との凶悪犯罪の分類も難しいのだが)。そしてそういう犯罪を犯すのは、いわゆる普通の人々ではなく、その筋の人、例えばヤクザや異常者(チンポを切り落とした阿部定事件など歴史に残るチン事件である)の専売特許であったが、今の日本では一見普通の人々、おとなしく真面目と言われる少年少女が日常の中で猟奇的凶悪犯罪を犯してしまう。
 ここでは、痛ましい個々の事件に言及するものではないが、なぜこれほどまでに凶悪犯罪が日常化、しかも普通の人々、特に青少年の世界までもはびこってきたのだろうか。
 僕には科学的、統計的分析を試みるだけの能力も情報も無いが、その原因をお茶の間まで入ってきた「表現の自由という凶器」にあると考えている。

 人間は脳である。すなわち人間が意志によって行動を起こすのは、脳が指令を出すからである。では脳にそのような情報(様々な犯罪行為)を与えているのは何なのだろうか。もちろん、人間は本能としても、教育されなくても、あえて殺人の方法を知識経験として知らなくても、殺人を犯す危険性は芽生え実行することも可能だろう。聖書の上で、人類最初の殺人としているカインの弟殺しは、単なるひがみ、嫉妬からだった(僕の聖書にはその殺人の手段は書いてないが、多分そこらあたりの石で殴ったか棒でひっぱたいたのだろう。きっと聖書研究の中では明らかなのだろうが)。

 では、現代社会において日常を暮らしている市民の脳に、犯罪の形態、手法、効果、そこにいたる精神構造を刷り込み、植え付けているのは何なのか。それは「表現の自由」という名の元、擬似犯罪を巷に垂れ流しているTV、雑誌、ビデオ、ゲームなどでは無いのか。2時間ドラマという名の「殺人見本市」、そこには脳が創造可能な殺人方法、殺されるものの苦悩の姿(もちろん演技であるが)が様々な形で描き出される。猟奇殺人、凶悪犯罪は、アニメと言う名の子供向けマンガでも、手足バラバラ、血がドバドバは何のためらいも無く巷に溢れている。犯罪、殺人ゲームの過激さはここでは表現できないが(僕はゲームをやったことがありませんが、本屋やレンタル屋さんを覗いてみても分かります)。米軍は兵士を戦場に送り出す前に殺人ゲームをやらせると言う(NHK報道)。殺人ゲームで殺人に慣れたものは敵らしき影に90%の兵士が発砲し、体験していない兵士は30%だという。疑似体験(バーチャルリアリティー)は人間の脳には実体験と同等に作用する。僕にとっての陰惨な死の体験は、幼児期見た映画『日本誕生』で火矢に焼き殺される木の上の兵士の映像と、小学校4年の時見た川から引き揚げられた腐乱死体である。たとえバーチャルでも現実でもこの二つは僕の脳に同等の死の恐怖を記憶として残している。
  
日本には表現の自由がある。思想心情、芸術創作、国家権力への抵抗・・などの表現の自由は当然守られなければならない。しかし、猟奇犯罪、残虐性を商品(TVやゲームなど)として誰の目にも触れる形で垂れ流すのには、僕は反対である。マニアが個人的に情報を集めたり楽しんでいるのはほっとけばいい。表現の自由とは、どのような表現が人間の、特に子供たちの脳、社会に悪影響を与えるか、そういうこともちゃんと議論した上での表現の自由でありたい。「表現の自由という凶器」がはびこっている、気をつけなければならない。
丸山暁〈55歳・人間〉
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