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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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グラン・トリノ
 今年(アメリカでの封切りは昨年暮れ)登場したのがクリント・イーストウッド監督・主演の「グラン・トリノ」です。
今のアメリカが抱える諸問題、戦争の傷、民族間の偏見と対立、父と子・世代間の断絶、宗教のあり方、自動車産業の凋落まで、様々な諸相がこの映画では「イーストウッドの映画人生」という大鍋で煮込まれてシチューになったような味わいがあります。

少し粗筋を紹介しますが、これから映画を見る人のために、キモネタは明かさないでおきます。


 主人公のウォルトはポーランド系の白人アメリカ人だ。1950年代初頭の朝鮮戦争に出兵し、部隊のほとんどが戦死するような激戦を戦い抜き、勲章をもらった。戦後は自動車メーカー、フォードの工場で組立工として定年まで働いた。フォードの1972年製グラン・トリノを愛し、今でもピカピカに磨き上げ、愛車にしている。引退し、デトロイトの郊外の住宅地ハイランドパークに住んでいるが、長年連れ添った妻が亡くなった。

 ウォルトは、日本でも絶滅危惧種になっているような超頑固じじいだ。祖母の葬儀で教会にへそ出しルックでやってきた(しかもへそにピアスまでしている!)孫娘にブチ切れそうになり、2人の息子とその家族との関係もうまくいかない。長男がトヨタのカーディーラーをやっていることも我慢ならない。

 このじいさん、人にはうるさいくせに、自分は“ファッキング・イングリッシュ”で民族差別用語をスプリンクラーのように撒き散らす。癇癪を起こすと口をへの字に曲げてまず「ウ?」と犬のように唸り出す。むかつくと人前でもペッと唾を吐く。映画好きならご存じだろうが、マカロニ・ウエスタンの主演時代から、唾吐きはイーストウッドのトレードマークだった。

 妻に先立たれ、独りになったウォルトの家の隣にはインドシナの山岳民族モン族の兄弟、姉のスーと弟のタオ、母、祖母が住んでいる。モン族はベトナム戦争時代に米国の工作で共産主義勢力を敵に回して戦うことになり、米国の撤収後、祖国を追われ、難民化して米国に移住した。ウォルトは自分の街から白人が減り、アジア人やらラティーノ(中南米からの移民とその子孫)などばかり増えるのが気に入らない。

 これはまさに米国の人口動態を象徴している。米国勢調査局(Census Bureau)の人口データのトレンドを未来に延長すると、米国は2050年前後までには白人が総人口の50%を割り、マイノリティー(黒人、ラティーノ、アジア人など)が50%を超えるという逆転が起こる。

 このままでは米国は文化的アイデンティティーの危機に直面すると訴えたのが、例えば保守派の学者サミュエル・P・ハンチントンである(『分断されるアメリカ(Who are we?)』、集英社2004年)。ちなみに、イーストウッドの政治的な立場はアメリカで左派を代表するリベラルではない。彼は1951年以来、共和党員として登録し、共和党の大統領候補の応援をしたこともあり、リバタリアン(徹底的に個人主義、自由主義的を標榜する保守)を自認してきた。

 頑固じじいウォルトはタオとスーに関わり始めることで、次第に心を開き、変わり始める。味わい深い物語というのは、多義的な含意を放つもので、この映画についても見る者の立場次第で様々に異なった受け止め方があり得るだろう。私がこの映画から受けたハイライト的なメッセージについて語らせていただこう。

死から生へ

 映画の中でウォルトが心の奥に抱える重い罪の意識が次第に明らかになる。彼は朝鮮戦争で多くの敵兵を殺した。その1人はまだ少年でほとんど降伏しかけていた状態だったが、彼は撃ち殺してしまった。その罪の意識が彼を生涯苦しめる。

 この映画の1つのキーワードは、神父とウォルトの会話で登場する「生と死(life and deaths)」という言葉だろう。若い神父が口にした「生と死」という言葉に、ウォルトは応えて言う。

ウォルト 「若造のおまえに生と死の何が分かるんだ」

神父 「あなたは分かるんですか?」

ウォルト 「俺は戦場でそんなものは嫌になるほど見てきたんだ」

神父 「それは『死』ですね。『生』については?」

ウォルト 「・・・結婚して、子供を育て、家族を持った…」

神父 「そうですか、『死』の方が多いようですね」

 タオは従兄弟とその仲間のギャングどもから執拗に絡まれ、彼らを拒んだことから虐待される。既にタオの父親気分になっていたウォルトはギャングの1人をぶちのめして銃を突きつけて脅す。「今度タオに手を出したら、ただじゃ済まないぞ」。

 ところがギャングどもは逆恨みして、タオの家に銃弾を撃ち込み、外出していたスーを暴行、レイプしてしまう。

 暴行され、ボロボロになって家に戻ったスーの姿を見て、ウォルトは自分の暴力的な脅しがとんでもない報復を招いたことに衝撃を受ける。警察は調査するが、住民は報復を恐れてか口を閉ざし、犯人を特定することもできない。

 「ギャング」を「テロリスト」に置き換えれば、イーストウッドのメーセージは明白だ。相手がいかに非道であっても暴力による脅しは報復の連鎖を生むだけだ。ウォルトは痛恨とともにそう悟った。ではどうしたらいいのか──。

 この後、ウォルトの選択は意外な結末へと展開する。まだ見ていない読者のために結末の全部は明かさないでおく。


 映画の結びのメッセージは「死から生」である。捨ててこそ救って残せるものがある。福音書に描かれたイエスの受難物語はイエスの死でクライマックスに達するが、そのメッセージは救済と再生だった。ウォルトとギャングとの対決シーンは、マカロニ・ウエスタン映画の対決シーンを想起させる。しかし、それは意外な展開を経て福音書のイメージで終わる。

過去の何を捨て、未来に何を託すか

 結末を言えないのがもどかしいが、ウォルトが自分の心の深い傷、罪の意識を償い、誇りを回復したことは確かだ。同時に彼は過去の何かを捨て命をはって、未来に向けて何かを救い、何かを託したのだ。

 何を?

 ウォルトが投げ捨てたものは「力による恫喝」と「民族的な偏見」だと言えるだろう。振り返ってみれば自分の父母、あるいは祖父母も移民としてこの国に渡って来たのだ。街の床屋の「イタ公」も、建設現場監督の「アイリッシュ野郎」もそうだ。

 彼は自分の人生を歩き始めたばかりのスーとタオにこの国アメリカで生きる勇気と希望を与えた。
 「この国(アメリカ)は世界中からやって来た移民とその子孫に、ハードワークと独立心を代償に、自由と繁栄を与える土地だ。これまでもそうだった。そしてこれからも」

 そういうセリフは映画の中では一切出てこないが、これは多くの現代アメリカ人の琴線に触れる信条だ。

 それを言わずに感じさせるところが、この映画の出来栄えの素晴らしさだろう。ウォルトは自分とその祖先が継承してきたこのスピリッツをタオとスーの世代に託したのだ。タオもスーも決して人生に挫けることのないタフなアメリカ人に育つだろう。


 ひるがえって、私たち日本人は未来に向けて、何を捨て、何を救うべきなのだろうか。

 戦後の日本は旧い国であると同時に若い国でした。
戦争で多くを失い、都市は焼け野原になったので、すべてを一から建設するしかなかった若い国でした。
そこに戦後日本の成長のダイナミズムもありました。

人口も経済も成熟、老熟した今、成長するためには私たちもこれまでこだわってきた何かを投げ捨て、不確実な未来を信じて何かを託す必要があるのです。


 そういう気がしてなりません。



〈うわさのMBA〉



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鳩山由紀夫に期待する
民主党代表選挙が今日行なわれ、鳩山由紀夫幹事長が選ばれた。
今この時期の民主党の代表に求められるものは何なのだろうか。
私は市民の一人として、民主党の代表にはこれまでの政治家とは違う、新しい時代を切り開く理念哲学を期待している。
日本の社会は、政治も行政も経済界も教育も医療も、あらゆる社会制度が耐用年数を過ぎて金属疲労を起こしている。そういう時代にあって、もうすぐ歴史的な選挙が行なわれるこの時期にどういう人物がリーダーにふさわしいか。民主党の代表選びにそういう視点があったのだろうか。いささか疑問を感じてしまった。
戦略あって理念なし。覇道あって王道なし。
そう感じるのは私だけだろうか。
今の自民党相手であれば、それでも選挙には勝てるかもしれないが、国民の本当に期待する時代を切り開くことができるのか、鳩山氏の今後の言動に注目したい。

さて、民主党代表選びに対していささか苦言を述べたが、しかし決まったからには鳩山代表に期待するところ大である。
今政治に必要なことは、霞ヶ関改革でも財政再建でもない。そんなことは枝葉末節なことなのだ。
今必要なことは政権交代を成し遂げること、この一点のみである。
全ての改革の基本は「政権交代」、ここにあるのだ。
民主党政権が頼りなかろうと、寄せ集めであろうと、鳩山が優柔不断であろうと、小沢一郎が失脚しようと、政権交代という大目標の前には、そんなことはどうでもいいことなのだ。
まず政権交代を成し遂げ、後は野となり山となってもいいのだ。そこから新しい物事が始まる下地ができればそれでいいのだ。
鳩山由紀夫はこれから国民の前でいろいろと語らねばならないが、政策などは不要である。
「私役割は政権交代をなし遂げることである!」「政権交代のために頑張る!」この一言だけでいいのだ。他の言葉はじゃまなのだ。
この事をしっかりと念頭において頑張ってもらいたい。
もはや幕は切って落とされたのである。
<はやて>

小沢退陣の行方
わが国の延々と続いた政治・行政システムのパラダイムシフトを実現する最大のキーパーソンだった小沢一郎氏が表舞台から退きました。良識ある人たちの無念さが伝わります。

日経ビジネスオンラインの「ニュースを斬る」からの転載です。


辞任に至った経緯を重く受け止めよ 郷原 信郎(名城大学教授・元東京地検特捜部検事) 

 代表辞任の記者会見で小沢氏自身が述べたように、辞任すべしという意見が世論調査でも民主党内でも増えている状況で、政権交代の可能性を最大限に高めるために、今辞任するのがベストだと考えたという言葉を、それなりに納得できる話だと思う。


辞任の発端は代表秘書の逮捕・起訴

 小沢代表の辞任は、公設第一秘書が政治資金規正法違反で逮捕・起訴されたことが契機となっている。その影響を相当強く受けたと思える世論調査の結果から、小沢氏の周辺も辞任一色に染まった。

 今回の辞任によって、小沢氏の秘書の政治資金規正法違反の逮捕・起訴を行った検察の捜査のあり方、説明責任の問題から目を逸らすようなことはあってはならない。

 小沢氏の辞任で、検察の政治資金規正法違反の捜査のあり方という問題から世の中の関心が離れてしまったとすると、こういったことがいつ何時繰り返されるか分からないことになる。それは民主主義にとって重大な脅威だ。

 3月初めの段階で次期総理の有力候補とされていた野党第一党党首が検察の捜査の影響で辞任するに至ったという事実を重く受け止めるべきだ。改めて、検察の捜査とは何だったのか、どんな問題があったのか、それに対して検察が十分に説明責任を果たしたのか――。これを機会に十分に議論し、問題として受け止めなければいけない。

 そういう意味では、小沢氏にも今の段階で可能な説明責任を果たしてもらい、それによって検察の説明責任を問うという態度をとってもらいたかった。それは決して困難なことではなかったはずだ。

 13日に行われる予定であった党首討論から逃げたという見方もあるようだが、党首討論にしっかりと臨み、麻生首相と対決すれば十分、小沢氏には勝ち目があったと思う。それが辞任の理由とは思えない。1日も早く公判で“潔白”を明らかにすべきだった。.

 民主党は先月、第三者委員会(「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に 関する第三者委員会」)を設置した。私はメンバーとして加わったが、政治資金問題に関する検察とメディアの説明責任、そして小沢代表および民主党の対応と説明責任についてバランスのとれた議論をしてきたと思うし、十分な成果が上がっていると思う。

 しかし、報道では小沢氏の説明責任、辞任論ばかりが議論されているように報じられ、議論の内容が正しく伝えられてこなかった。こういう状況も、今回の辞任の背景にあるだろう。

 検察の捜査について議論すべきポイントについては、これまで「代表秘書逮捕、検察強制捜査への疑問」で述べた。

 残念なのは、起訴から50日ほどにもなるのに、起訴の段階からほとんど何も進まないうちに辞任という事態になったことだ。すでに「小沢代表が今、行うべきこと」で指摘したが、自信を持って政治資金規正法上問題がないというのなら、それを1日も早く刑事公判で明らかにするための努力をすべきだった。

 民主党はもちろん、自民党も含めた政治全体が検察の捜査が不当な政治介入ではないか、という問題意識を持って闘う必要があったのではないかと思うが、そのような状況にはならず、マスコミの報道も一方的に小沢辞任論に傾く中では、小沢氏の辞任は致し方なかったのかも知れない。

 そういう意味で、同じ辞めるのだったら、現時点がベストのタイミングだったのではないかとは思う。

 いずれにしても、起訴直後ではなくここまで辞任問題を引っ張ってきたことは、検察にとっては相当のプレッシャーになったはずだ。(郷原氏談)



 底のないバケツ法(政治資金管理法)を盾にキーパーソンを葬った検察をはじめ、それに加担した世論・政治家たち・メディア、その影でほそく笑む官僚たち、国のかたちを変える千載一遇のチャンスを逃したと切歯扼腕している(うわさのMBA)でした。




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