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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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国民の老後の行方
我々の老後はどうなる?

 後期高齢者医療制度に対しては様々な批判が集まっていますが、最も本質的な部分である「医療費抑制策である」という点については、意外に議論されていません。

 保険料の徴収方法などを国はある程度手直ししたが、制度の骨組みはしっかり温存させており、世論の批判か弱まれば、いつでも高齢者への医療制限、保険料引き上げ(最初は安く、後から高くなるサブプライム型が潜在)などに方向転換できる仕組みになっていることはあまり知られていません。さらに、これはさらなる医療費抑制策への第一歩に過ぎないのです。

 確かに、今後の高齢者の医療費は、数の増加だけでなく、高齢者―人当たりの医療・介護費の著しい増加も予想されます。しかし、将来どのような医療が保障されるのかが不透明なまま、金が掛かるから自己負担を増やせ、むやみに病院に行くな、というだけでは、高齢者のみならず、現役世代の若い人達の不安も解消させることはできません。

 人工栄養法の進歩により、重度の要介護状態で生き続ける期間を飛躍的に延長させています。介護用エアマットの普及などで床ずれもできにくくなったり、口腔ケアや嚥下障害への対処法の改善によって肺炎などの合併症も減少していそうです。また、飛躍的な医療技術の進歩によって、かつては高齢者に実施困難だった検査法や治療法も可能になっています。

 認知症や寝たきりに対する理解が深まってきたことと並行して、一昔前なら高齢を理由に思い留まったような積極的治療も、本人の受けたい、家族の受けさせたいという希望が高まって、当たり前のこととして要求する高齢者や家族が増えています。結果として、元気な期間だけでなく、要介護の期間も延長しています。寝たきりで10?20年生存することもまれでなくなっています。

 今後、どんどん進む高齢化により、高齢者医療費は国が予想するよりもはるかに増大すると思われます。このような爆発的な高齢者医療費の増加に対しては、もはや姑息な医療費抑制策では対応困難であるだけでなく、医療制度の崩壊などの弊害を増大させる可能性もあります。
中長期的には抜本的な大改革が避けて通れませんが、それを実現するには、まず原点に立ち返り、高齢者にふさわしい医療をもうー度整理して考え直すことから始めるべきです。

 高齢者の終末期医療や自己決定の問題は、医療費削減の視点から取り上げられることが多く、本来あるべき議論(命を守る)からはほど遠いと思います。さらに、家族介護の困難を解消する社会的入院については、受け皿となるべき施設をきちんと整備することか根本的な解決策であるにもかかわらず、在宅介護に押しつけようとしたり、医療機関に圧力をかけたりしています。

 反面、要介護・要支援の高齢者の急性疾患や施設医療への環境整備は十分とは言えない状態で、今後さらに悪化することが予想されています。今後あるべき高齢者医療の姿を見直した上でその実現にはどれだけの費用が必要か、その財源をどうするのかを考えていくのが正しい順序ではないでしょうか。人間は誰でも老化という宿命を負っているのですから、この課題は高齢者に限らず、国民全ての問題なのです。

 俗に「命は地球より重い」という表現がありますが、それを踏まえて国は、医療制度の将来像についていくつかの青写真を提示し、国民の判断を仰ぐ必要があります。最終的には国が決めるのではなく、国民が選択(主権在民)するのが民主主義の原理・原則なのです。

 後期高齢者医療制度の最大の非情さは、医療水準を下げるのか、あるいは負担を増やすのかという選択を、国民全体に問うのではなく、当事者であり最も弱い75歳以上の高齢者に突きつけていることが大問題なのです。


〈うわさのMBA〉


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テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

カシアス内藤
今朝の朝日新聞 「be on saturday」に、“カシアス内藤”の名前を見つけた。
内藤のファイトはあまり覚えていないが、その名前だけは無意識の記憶の隅にしまわれていた。
ボクシングは、我々の世代には鮮烈な記憶を残してきている。
矢尾板貞雄vsパスカル・ペレスの世界フライ級タイトルマッチは、デパートの外に設置されたテレビに黒山の人だかりで、当時9歳の私がどうしてそこに居合わせたのか記憶が定かでないが、その華麗な試合内容と寒空の中で熱狂する群衆を50年経った今でも鮮明に覚えている。
米倉健志、ファイティング原田、海老原博幸、藤猛、大場政夫、具志堅用高、懐かしい名前が芋づるのように甦ってくる。

アリスが歌った『チャンピオン』は内藤がモデルと云われ、また、沢木耕太郎の『一瞬の夏』は、内藤の再起の記録を綴った名著として今なお語り継がれている。

紙面の写真の内藤は、当時のアフロヘアーがすっかり禿げ上がっているが、その老いを感じさせながらも精悍な顔つきは、同年代の私などを嫉妬させる。

こういう顔つきが出来る年を重ねたいものだと、読みながら身が引き締まった。
<はやて>
何も感じさせない麻生新内閣
麻生新内閣が誕生した。
だだそれだけのことだ。
これほど国民に期待感を感じさせず、野党に脅威を感じさせない内閣も初めてだ。
今では忘れ去られた福田内閣でさえ、発足時には期待感から支持率が高く、野党は身構えたものだった。

この顔ぶれはなんと評価したらよいのだろうか。
みんな泥舟から逃げ出した後の取り残されたのか、落ち目になって崩壊してゆく時はこういうものなのだろうか。

しかし、ハマコウの息子が防衛大臣とはいくら何でもでもひどすぎる。
防衛大臣というのは、有事の時には、日本軍の司令官になるということを麻生は分かっているのだろうか。
総選挙までの短い間とは言っても、国民全体の命がかかっているのだ。
国防に一瞬の油断も許されるはずは無い。

こんな内閣はできるだけ早く交替させなければ国が危ない。
<はやて>

官僚が喜ぶ首相の置き土産
―「美しい国」から「安全・安心な国」の大うそ―

戦中、戦後の動乱期はともかく、二代つづけて「お坊ちゃま首相」が政権を放り出すのは先進国にあって前代未聞でしょう。国会が二世、三世議員のたまり場となり、政治の家業化が進むにつれ、政界の劣化が進んでいます。政治家の専門性が薄れ、選挙で勝てそうな「顔」だけが重視されるのです。政党がお坊ちゃまを公認したがるから、選挙のたびに彼らはシロアリのように増えているのです。次も自民党の総裁はお坊ちゃまになりそうです。劣化は止まりません。では、こらえ性のないお坊ちゃま政治の先に何があるのか? 

 官僚支配と官製不況です。「年金・医療・福祉」や「格差対応」など難問山積するなか、国民生活の「安全・安心」を強調する福田政権の隠しダマは「住宅・建築政策」と見ました。福田首相は、所信表明演説で「住」に二度も言及し、約6900字の演説稿のうち「住」関連に300字以上を費やしていた。近年の首相演説では異例でした。これは、福田氏が自民党政調時代にまとめた「200年住宅ビジョン」が背景にあります。その「やる気」に期待しつつも、国交省の官僚の掌のうえで踊らされないよう注目していました。

 ところが突然の退陣です。踊らされるどころか、これからというときに舞台から飛び降りちゃったのです。

「安全・安心」の錦の御旗を役人に渡した
 国交省の官僚たちも一様に「こまったなぁ」と渋面をつくっていると思いますが、内心、ほくそ笑んでいるに違いありません。「耐震偽装事件」から3年、福田首相が残してくれた「安全・安心」の御旗を掲げれば、なんでもできる状況が続いているのです。

 たとえば昨年の建築基準法の改悪で、建築確認制度が煩雑な手続き主義に陥入りました。本質とは関係ないチェックに時間とお金がかかり、新築着工がストップ。官製不況で建設・不動産会社がバタバタと倒れています。サブプライム問題で投資ファンドが建設業界から逃げ出したこともあり、地方のゼネコンやディベロッパーは崖っぷちに追い込まれています。コストダウン競争で、現場は工期、人員圧縮で欠陥が生じます。確認の手続きを厳しくしても、建築は現場が命。施工過程で手抜きとなる。一方で大ディベロッパーが開発する大型物件は、法の網をくぐって建築確認をフリーパスのケースもあると言います。

 国交省は、明らかに建設業界をフルイにかけています。資本力のないものは去れ、なのです。「安全・安心」は、いわば絶対善だ。誰も文句はいえない。官僚にとってこれほど美味しいものはない。来年は「安全・安心」を錦の御旗にさまざまな建築関連法が施行されます。「特定住宅瑕疵担保責任の履行の確保等に関する法律(住宅瑕疵担保法)」もそのひとつです。

すでに「住宅の品質確保の促進等に関する法律(品確法)」で、新築住宅の構造上の欠陥や雨水の浸入に関して、その住宅の供給者(工務店、住宅メーカー、分譲会社など)は10年間の瑕疵担保責任を負わされています。しかし、供給者が倒産すると損害は補償されません。

 そこで、住宅瑕疵担保法は、予め供給者が保証金を法務局に供託、もしくは保険法人に保険料を払っておいていざというときに保険金で補修対応するしくみを定めました。

 一般の消費者には朗報のようだが、ちょっと待ってほしい。

 保険料負担は、当然、売買価格に反映されます。そもそも10年の瑕疵担保は品確法で義務づけられているのだから、建設業法などで手抜き悪徳業者を予め排除するほうが先決ではないでしょうか。「安全」を御旗にして、国民負担を増やし、己たちの保身を図る意図が見え見えです。

品確法は何のためにあるのか……。議論の余地は多いと思います。弁護士のなかからは、保険料の支払いを免罪符に欠陥住宅を「建て逃げ」する業者も出てくる、との声も上がっています。

 国交省が、住宅瑕疵担保法の施行に執心しているのは、その莫大な保険料収入にあるのです。
年間400億円の新たな市場を造り出した

 新築戸建て住宅の年間着工数を50万戸と見積もると、その2割は大手ハウスメーカーが占めており、おそらく供託金で処理すると思います。残り40万戸が保険利用となれば、一戸10万円の保険料としても、年間400億円が貯まります。国交省は、現在までに、その保険料を預かる「住宅瑕疵担保責任保険法人」として、次の四社を指定しています。

・住宅保証機構
・住宅あんしん保証
・ハウスプラス住宅保証
・日本住宅保証検査機構

 あえていえば、品確法の「屋上屋」ともとられかねない法律をこしらえて、大きな住宅保険市場を立ち上げ、特定の事業者を保険法人に指定して「天下る」。そんなシナリオがくっきりと透けて見えます。

 貯まった保険料は、当然、運用に回されるだろう。しかし市場の現状は厳しく、建築系の技術者集団に金融のノウハウがあるとは思えません。

 混迷する政界を横目で見ながら、官僚たちは「安全・安心」の絶対善を掲げて、次代の利権確保に余念がありません。もちろんそれも、日本経済がパンクしてしまえばすべて画餅に帰します。福田首相の置き土産が、第二、第三の年金、医療保険問題を生まないよう願うばかりです。

 小泉内閣の規制緩和の裏側で、官僚たちはせっせと「安全・安心」をテーマに規制緩和のチェック策を考案してきました。いつになったら、役人ののさばりをコントロールできる政治になるのでしょう。

〈うわさの大工〉


変なカタカナ日本語 その二
「ユーフォリア」に陥るな

最近聞きなれないカタカナ日本語が出てきます。「ユーフォリア」 日本語では陶酔的熱狂ということのようです。

前回の総選挙(郵政選挙=第44回衆議院議員選挙)で、小泉自民党が圧勝した理由は、これ以外にどうしても思い当たりません。前回の記事で書いた「テレポリティクス」と言うメディア手段の大衆的な症状?を表現しているとしか思えません。

ユーフォリアは、非合理的かつ非経済的な行動なのです。国民的なレベルになると戦争にもなりかねません。日清戦争の後の日露戦争がそうでした。国民的な熱狂の元に、南進する大国ロシアと戦争を始めたのです。思わぬ勝利が、太平洋戦争につながったともいえます。決して良いことはありませんが、過去の歴史を見てもしばしば起きているのです。身近な例が、冒頭に述べた郵政選挙だと思います。

ユーフォリアが起きるためには、まずカリスマが出現しなければなりません。郵政選挙では過去の歴代首相に見られない型破りな「構造改革」を旗印にした小泉首相だったのです。

カリスマは自分の地位を盤石にするために、反発者を懲罰にかけます。そして、敗者はほとんど復活することはないのです。太平洋戦争直前の軍国主義が正にそうでした。

さらに、カリスマ支配のシステムを強固にするのが、「情報の遮断」なのです。内部にいる人間に冷静な判断をさせないために、外部から情報が伝わらないようにするわけです。このあたりの事情は、旧共産圏や現在の中国や北朝鮮を見れば、よくわかると思います。

そして、「情報の遮断」をしっかりとしたあとで、内部の人間が熱狂することになります。

このユーフォリアを利用している典型的な例が、カルト教団です。カルト教団では、最後にもっとも強い陶酔が起きるのだが、このときカリスマは、信者に厳しい修行や貢献を要求します。

そう考えると、恋愛もまた一種のユーフォリアであることがわかりますが、これは男対女の狭い世界の話です。

通常の経済行動ならば、資本を投下すればそれだけの見返りがありますが、恋愛では必ずしもそうはなりません。むしろ、その逆で、見返りがなくてもひたすら貢ぐだけ。そして、貢げば貢ぐほど、相手にのめりこんでいくのです。

カルト教団や恋愛においては、こうして経済原理とは正反対の現象が起きるのです。

こうしたユーフォリアが、まさに前回の総選挙のベースにあったのではないかと考えています。

自民党総裁選が始まりました。テレビは早速5人の候補者を並べて、相当の時間を割いて夫々の候補者の政策を喋らしています。どなたの意見を聞いても大同小異で、カリスマ性があるとは思えません。相変わらず「国民目線」とか「国民が幸せになるに…」など耳障りの良い抽象論を振りまいています。

余談ですが、総裁立候補当日にNHKが、5人の立候補の抱負・施策を聞いた中で、霞ヶ関(官僚)改革に触れた候補は一人だけでした。その一人も思い出したように数語語っただけです。わが国の閉塞感の最大の原因が官僚構造にあると真剣に考えている候補者がいないということに気づきました。

構造改革の是非云々とメディアも仕掛けますが、何をどのように改革するのか見えてきません。相変わらず、アメリカ型の経済システムにするのが「構造改革」だと言うのでしょうか。いい加減にしてくれ、という思いです。

世界の中で、アメリカ型の経済システムを追いかけているのは、わが国だけです。その結果がどうなっているか、賢明な読者諸氏はお判りだと思います。最近は日本人の経済感覚は言うに及ばず精神までおかしくなっています。それでも構造改革云々を続けますか。

そういう意味ではEUと言えども欧州各国はわが道(国民視点)を、大事に政治をしています。北欧の小国フィンランドは子育て手当どころか大学院まで学費は無料です。たかだか2.6万円の子育て手当を批判している世界第二の経済大国のリーダー候補者たちに愕然とせざるを得ません。

そういう意味では、自民党総裁選の後に予想されるカリスマ支配のユーフォリアは起きそうもありませんが、総裁選のテレポリティクスによるユーフォリアが懸念されてなりません。


〈うわさのMBA〉


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変なカタカナ日本語 その一
「テレポリティクス」に惑わされるな

カタカナ日本語の氾濫が一時期問題になりましたが、本来の日本語で手短に表現しにくい用語には相変わらずカタカナ使用があります。

先般インターネットを何気なしに見ていましたら、「テレポリティクス」この用語が眼に飛び込みました。
意味を調べましたら、「テレビで政治動向を報道する現象」を指しているようです。「テレビ」と「ポリティクス(政治)」の混合造語でした。

小泉内閣の郵政解散で、「刺客」表現に代表された総選挙の実況報道による投票動向への影響を意味しているのかも知れません。

福田首相の辞任表明を受けて、自民党は総裁選挙を10日告示、22日投票の日程を決めました。辞任表明の直後から、選挙前の後継予想の過激報道が始まっています。12日間の総裁候補追っかけ報道の加熱が目に浮かびます。テレビを軸にしたメディアの報道は連日・連夜続くと思います。自民党総裁候補者主役の画面が、お茶の間を賑わすのです。

個人的に選挙は嫌いです。何故なら選挙運動中と当選後の乖離が甚だしいからです。政治家は「嘘つき」かという印象が拭えないからです。国政から地方選挙にいたるまで「国民のために…」「石にかじりついても…」「命を賭けて…」などなど、白々しい台詞が飛び交います。あたかも、候補者が当選すると、世の中が選挙民の期待する方向になるような錯覚を与えます。投票日直前になると候補者の名前を連呼、政策もへったくれもありません。なんだこれは、就職運動か、と思う場面もしばしばあります。当選後は言うまでもありません。「俺は選ばれた議員だ」というプライドが先行します。

自民党総裁選に続くであろう総選挙(衆議院議員選挙)が予想されます。自民党の戦略は総裁選を盛り上げて、メディアが狂奔報道をするという期待の元に、余波狙いの衆院解散をすると観測されています。前回の郵政選挙の亜流的な選挙戦略なのです。

民主主義は「主権在民」なのです。

田中真紀子氏が語っていました。テレビで言うのもおかしいですがと前置きして「テレビを見ないで(自分の考えで)投票して欲しい」と。

政治を国民視点の原点に戻すために、くれぐれも「テレポリティクス」に惑わされないようにしたいと思います。


〈うわさのMBA〉


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ドタキャンの連鎖
福田首相辞任の意味

2008.09.01.PM9.30防災の日。

わが国のトップリーダーである福田首相が突然の辞任会見をしました。辞任理由を色々述べていました。テレビはどこのチャンネルも緊急番組に切り替えられていました。見たい番組を擦りかえられた腹いせにテレビを消そうと思いましたが、ズルズルと深夜まで繰り返し画面に現れる無責任人物の顔を見ながら、注釈報道を見ていました。

 政権を投げ出すという現象は過去にもありましたが、短期間に二代連続はあまり記憶がありません。主な辞任理由が「自分でないほうが上手くいく」という非論理的な責任のすり替えに唖然としました。それもそもそもわが国の首相は「やってみて、駄目なら辞めればいい」という程度の軽さなのでしょうか。それも二代続いてです。

政権運営が上手くいかない理由。
1. ねじれ国会の野党第一党である民主党への恨み節。
  これは自民党の参院選惨敗の反省ゼロという意識の欠如が原因しています。

2. 国民視点という空念仏。
  官僚のあやつり政治の影響を認識していないし、公務員制度の改革意欲が中途半端だということに気づいていません。

3. 記者質問に対する逆切れのみっともなさ。
  記者質問がそもそも何に起因しているか判断する冷静さが欠如しています。幼児並みの大人げ のなさ(器の小ささ)をテレビで露呈しました。
 
中国もびっくりするような、一党独裁とも言える自民党政治が60年続いた綻びが噴出しているとしか思えません。自民党を否定する気はさらさらありませんが、野党という立場に転じて、国政のあり方を冷静に考える時間が必要なのです。いみじくも、マスコミがこぞって煽り立てた劇場型選挙の3年前の郵政選挙の結果にしがみつく政権運営は限界に来ていることに気づくべきです。国民が自民党にノーと言った参院選挙で野党が多数になったため、国民視点の政治ができないという問題のすり替えは、いつまでも通用しません。総選挙恐怖症からの脱皮が必要なのです。政治は政治家のためではなく、国民のために必要なのです。

さらに、自民党政治の欠陥は相当数の世襲議員の政治構造(家族で政治をする国)です。政治は特権階級のものではありません。国民各層から選出された人材が政治に携ってこそ国民視点の政治が可能になるのです。選挙民である国民の意識も問題ですが、二世議員の跋扈に対して、メディアの選ぶ奴が悪いという批判は時宜を得ていません。

今、メディアで喧伝されている次期首相の最有力候補の麻生氏ですが、もし実現すれば、
阿部(岸信介)→福田(福田赳夫)→麻生(吉田茂)と過去の首相血族が三代連続して国のトップを努めることになります。異様としか言いようがありません。わが国はそれだけ人材不足なのでしょうか。言い換えれば、どこぞの独裁国家の血族世襲を彷彿とさせます。

積年の官僚による傀儡構造の自民党政治の末期症状なのでしょうか。

与党→野党の繰り返しの可能な二大政党時代を実現しなければ、わが国は民主政治の発展途上国と言われても反論できません。本物の国民視点の政治を定着させるためにも、真近かに迫った総選挙で現実の選択が迫られているのです。そことを、福田首相は身を張って訴えたのかなと、善意に解釈しています。



〈うわさのMBA〉


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