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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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ミャンマーから考える
garden.blog.jpg

ミャンマーの軍事政権がとうとう市民弾圧のための武力行使に出た。軍事政権側の発表で4人死亡、十数人負傷とあったが、死傷者は実際数倍あるのだろう。その情景の中で、1人の日本人カメラマンの死が映像で伝えられた。それは、若い兵士に至近距離から撃たれ倒れ、死にゆく姿だった。彼は最後までカメラを逃げ惑う群集に向けようとしていた。まずは長井健司さんの御冥福をお祈りする。                
従軍兵士や戦場カメラマン(そう呼んで良いのかどうかは分からないが)の死は、いつの時代もどの戦争・紛争でも起こりうることだが、彼等の死は、兵士や民衆の死とは別の感慨を持つ。彼等は敢えて戦場に赴くのである。それは多分いつも死を覚悟してのことだろう。
戦場ジャーナリストの死はピューリツァー賞を取ったベトナム戦争で沢田恭一、ベトナム戦争のカンボジア戦線で死んだ中島照男、そして今度はミャンマーで長井健司が死んだ。
彼等は、僕たちが安全な日本でぬくぬくしている間も戦場を駆け巡り、僕たちに戦場の理不尽さを伝えてくれた。
ベトナム戦争はアメリカが反共のためと、わざわざインドシナに軍隊をおくり400万人近いインドシナの人々を殺しアメリカの兵士の5万人程度死んだ。今アメリカは対テロ戦争とイラクやアフガニスタンに兵士を送り殺戮を続けている。そして日本政府はそれを積極的に支援してきた。さて、テロ特措法はどうなるや。自民も民主もただ正統的な対立ではなく「テロとの戦い」とは何なのかを見据えて議論して欲しいものだ。
ミャンマーの軍事政権の最高責任者タン・シュエは「国家平和発展評議会議長」の立場にある。ここで書かれた「国家平和発展」とは如何なる意味なのか。この国の平和と発展は単に権力を握っている軍人の安泰と贅沢のためらしい。このことは、金正日の朝鮮民主主義人民共和国に通じる。誰のための人民共和国なのか。
日本はただの日本でよかった。変な修飾語がついて国民や世界を欺く国ではなくて。ただ、日本の平和と安定とは、日本国の経済発展の影で増え続ける低所得者(年収200万円以下が1,000万人に増えた)は、国家の安定ためには仕方がないとするなら、この国も国家と国民の関係を疑ってみなければならない。
もし、人間は、個人の意志と戦いによる寂肉強食の社会なら国家すらいらないはずだ。
〈田舎人〉

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人類絶滅と懲りない日本人
moon2.blog.jpg

昨夜遅くなって、やっと中秋の名月が顔をだしてくれた。月に人が降り立とうが、日本のつき観測衛星の「かぐや」が月の表面を覗こうが、月は月、いつまでも輝いていて欲しいものだ。目を凝らして見ていただくと、右下に山の端が見えるはずです。

スペースシャトルだったか宇宙ステーションでの実験だったか、記憶していないが、宇宙空間では猛毒のサルモネラ菌の毒性を増すという報告があった。地球上で生まれた生物の遺伝子は宇宙空間では突然変異することが証明されたようだ。
そうであれば、いわゆるSF映画に出てくるようなミュータント(宇宙人)は、ひょっとしたら、宇宙に放出された人類が、何千年も変異して変異したなれの果てかもしれない。

人類がいつ生まれたのかということは、おおよそアフリカの大地溝帯で200万年前に生まれたとされているが、実はもっと前の400?500万年前という説も出てきた。いわゆる、我々現世人類に通じるホモサピエンスが生まれたのはアフリカの小集団での突然変異から生まれたイブただ1人からだという。
それら人類の歴史を、科学的な真実だと思いたいが、実は、それとて、現代と言う時代に発見された化石によって証明されてきているのであり、本当のところは人類はいつ生まれたのかは今だ誰にも分からない、というのが真実である。

45億年の地球の歴史の中で、人類の話が出てくるのはせいぜい数百万年であり、今、我々が生きている文明が人類史的に最も新しいと思われているが、実はこの人類進化とて、現在地上(せいぜい地下数m、多くて数十m?百m)でかろうじて発見される遺物によって解き明かされているものだけである。
しかも、人類の歴史は、アウストラロピテクス猿人からエレジュトス原人ネアンデルタール人、そして我々のホモサピエンスとリニアーに遺伝子がつながっていないと言う。要は生物的には、夫々が絶滅しながら進化しているという。

例えば、日本人は縄文人がいてその後弥生人が縄文人を駆逐しながら混血して現代の日本人が出来たようだが、人類は、それぞれの猿、類人猿、猿人、原人、現世人、現代人とそれぞれの種は隔絶しながら(以前の種は絶滅しながら)進化してきたと言う。
さてさて、話が飛んでしまったが、ここで言いたいのは人類進化の話ではないし、僕の人類進化の解釈は間違っているかもしれないので、本題に戻ろう。

僕が言いたいのは、今の人類の、今、科学が解明した高々数百万年の人類史では解き明かされない別の人類の歴史があるかもしれないと言うことです。これまで、我々が掘り起こした地層からは見つけ出せない、ひょっとしたら、今と異なる人類の別の数千年の歴史が、地球の何処かに埋まっているかもしれない。要は、人類はこれまでに何度の何度も、進化と絶滅を繰り返してきたのかもしれない。

そう考えれば、インカ帝国の物語にある光を発し空飛ぶ舟や、インドのマハーバーラタにある空飛ぶ馬車も日本の異形の遮光土器の説明のつく。人類は幾度も繁栄と絶滅を繰り返してきたのかもしれない。
宇宙人は、数億年前に彼等高度な先史文明が亡ぶ時、地球から脱出した人類の末裔かもしれない。

早晩、あと数十年、長くても百年程度で人類は一回(先の論で言えば何回か)絶滅に近い状況を経験するだろう。それが温暖化ならジワジワと、核戦争なら一気に。確率的には温暖化99%、核戦争50%というとこか。国連でも、市場経済の拡大による温暖化も世界各国の核保有も止められない。

今、最もこの日本で絶滅して欲しかったのが、自民党政治だったのだが、なんだか、福田内閣の支持率は56%だとか。この国は、この国の政治に問題があったのではなく、やっぱりこの国の国民に問題があったようだ。
この国の政治にどんな不正があろうが、情けない政治体制であろうが、政治と金が渦巻こうが(何らかの資金管理改革派あるだろうが、歴史的に政治が奇麗になるはずがない)、どんなに管理化強化の不安社会になろうと、この国の国民は、なあなあで、何とかちょっとでも景気が回復して、ちょっとでも贅沢をして暮らしていければ良いようだ。
丸山暁〈56歳・人間・田舎人〉
僕の考えるブログも同じです。
福田内閣誕生?メッセージ性もカリスマ性も無い新内閣?
福田新政権が発足した
新首相自身が総裁選を前にして「つい一ヶ月前までこういう事態になるとは夢にも思っていなかった」と述べているが、ほとんどの国民も同じ思いであろう。
何となく巷に漂う醒めた空気は、福田政権が自民党の党内事情で誕生した派閥政権であり、国民が待ち望んだ政権ではないと、多くの人が思っているところから来ているのではないだろうか。

ところで、福田康夫とはどういう人物なのだろうか。
多くの国民は、森内閣の官房長官となった時初めてこの人物を知った。
彼が自民党内で評価されるところは、そのバランス感覚である。大きな欠点が目に付かず、失点続きの自民党にとっては今必要なリーダー像なのかもしれない。
癖が無く目立たない。ビジョン、主張が無いから批判されにくく対立が少ない。自民党内のバランスをとるには都合のいい人物像である。
しかし、そのバランス感覚の評価は、森内閣や小泉内閣の官房長官時代に評価を得たものだ。
森内閣は支持率が10%を切る歴史的不人気内閣で、福田氏の前任の中川秀直官房長官などは女性問題のスキャンダルで失脚したりしていた。周りがあまりにひど過ぎたり、小泉首相のような目立ち過ぎの反作用として、政治家らしくなく普通の人物然とした福田氏がまともに見えただけのことだ。
そして、あの記者会見での慇懃な物言いに、少なからず嫌悪感を覚えていたのは私だけではないと思う。

ところで、福田と言う人物はこれまで国政を担うに当たって、何か明確なビジョンを語ったことがあっただろうか。
私には殆んど記憶に無い。
今回福田氏に投票した自民党の国会議員も、彼のビジョンや指導力に期待して一票を投じたわけではないだろう。失点の可能性が少ないという消去法によって選ばれたと見るのが妥当なのだから。

しかし、そういう自民党にとって都合の良いリーダーが、国にとって良いリーダーでであるとは限らない。
早速、党4役と閣僚人事では、新鮮味のかけらも無く、シミとひび割れが隠し様も無い顔ぶれを揃えるという、バランス感覚を発揮し、調整型の面目躍如たる布陣を示してくれた。

癖が無く、メッセージも無く、カリスマ性も持たず、国民の信を問うていない福田内閣は、どういう国政の舵取りをしてゆくのだろうか。
いろんな意味で、期待を込めてお見ていこうではないか。
<ハヤテ>

中秋の名月と核
rampu.blog.jpg

今日は中秋の名月、本来ならぽっかり浮かんだ満月をお見せしたかったのだが、あいにく雲が出てしまった。その代わり、我が家の外灯で我慢してください。
月に人が行き、また日本でも「かぐや」を打ち上げて月の探査をするという。先端科学者は、本気で地球脱出を考えているのかもしれない。核戦争で廃虚になった地球を後にして。
そんな未来が、核兵器がある限り、人類の未来として実現性が高い。そのことに多くの市民は気づきながら、知らないふりをして生きるしかない。そこに現代の人類的パラノイアがある。今日は、疲れたのでこの辺で。
〈田舎人〉

醜悪コマーシャル・商品3態
maron.blog.jpg

暑い暑いと言っていても、季節は巡ってくるもの。今年も栗が落ちてきた。これから数日栗拾いが朝の日課となる。この栗の木は、15年前この土地を買ったときに植えてあったものである。その時は、まだ背丈ほどの栗の木だったが、今は根元が30cm程の大木(我が家の土地にしては大木)になり、毎年食べきれないほどの栗を実らせてくれる。自然とは偉大である。元々ほっといても(勿論少々人為はあるのだろうが)毎年豊かな実りを生んでくれる。
栗は、縄文時代(約6千年前)から栽培がはじまり、日本人にとってはなくてはならない木だったのだろうが、今は栗は焼き栗か、マロングラッセやモンブランの材料で、特になくてもいい木かもしれないが、自然にとっては大切のもの、リスも我が家の栗を食べに来る。

このように以前は人間にとって、かけがえのないものが消えていく、もしくは大して必要とされなくなるものがある反面、何でこんなものがと疑いたくなるものが開発され、もてはやされ、生活の中に入ってくる。それを文明の進歩と人はいう。

最近のTVのコマーシャルからそれをあげると、第一に「匂いも消せるレノア」である。これは、人間の体臭やタバコの匂いがつかない洗剤だとか、この宣伝はまず下品である。動物の形を借りたおばさんが、亭主やオバサン同士の匂いをかいで臭いとか匂うとかけなしあって、「レノアだとにおわない」と、相手を脅すし、レノアを使うことを強要するような宣伝である。このコマーシャルの手法は正にいじめの原点である。
「相手を臭いといい、これを使えば臭くない、仲間になれる」この構造がいじめであることを、レノアのメーカーも、何処が作ったか知らないが最先端企業と言われる宣伝会社も気がつかないのだろうか。多分知って効果を狙っているのだろうから、この国は救われないのである。物を売るためなら、儲けるためには、人間を、子どもを陥れ、犠牲にしていいのである。

だいたい、相手の臭いをくんくん嗅ぐような行為は、臭いを発してる人以上に、嗅いでいる方が下品である。だから動物のキャラクターにやらせているのかもしれないが、動物は臭いをもっと大切にしている。食べ物や毒を見分けるのも、恋人を探すのも匂いである。あの、キャラクターの態度は、動物の品性(最近動物の方が品性があると思えてならない)や神聖な行為に対して失礼である。

次に、「シュシュットとしとけば奇麗なまんま」がうたい文句の、臭い消しのスプレーである。これも、家庭で発生する臭い(台所や暮らしのなかから生まれる生活臭)や外から帰ってきた亭主の臭いを玄関で消すなど、とんでもないことである。
まず、そのスプレーの効果は、空中に飛散しているチリ(ゴミやダニが死んで乾燥してバラバラになって飛散したものもあるだろう)や臭い物質を噴射した霧状の水分で床に落とすだけで、要はゴミや臭い物質を床にびっしりと付着させて溜め込んでいるようなものである。勿論噴射剤の中には除菌や消臭物質が入っているのだろうが、そんなことを続けるということは、糞の臭いを防ぐためにシャネル5番でも毎日バケツで肥溜めに放り込んでいるようなものである。そして、肥溜めの中清潔に暮らしましょうといっているようなもの、そんなことできるか。

もう一つ、中国人であろう数人が出てきて、飽食を尽くし、これを飲めば大丈夫という、「黒烏龍茶」のコマーシャル。
結局この国が、この世界がどんなに環境問題、世界の平和(南北問題、拡大し続ける飢餓問題)を口では叫ぼうが、「どんなに食っても黒烏龍茶を飲めばもっと食える」と、はやし立てているようでは、この世は終わりである。しかも、そんなものが国が認定した健康食品と言うのだから笑ってしまう。この国も文明の行くつくところがここである。TVで大食いのギャル曽根だとかを囃したてているのと同じで、こんなコマーシャルやTVは現代的には極悪人である。

あげたらきりがないのでこの辺にしておくが、ついでに美女たちの「プラズマにいらっしゃい(小雪)」や「自然の色がなんとか・・・(吉永小百合)」の大型液晶TVやプラズマTVは省エネの名の元に、どれだけ電力消費を拡大しているか何も行っていない。これなど、詐欺に近い。
まあ、これは、山奥で、わざわざ現代的には食べる必要もないで栗を拾っている、大型ハイビジョンTVなど買えない貧乏人のひがみに聞こえるのでしょうか。

なりふり構わず消費を拡大し続けなければ成り立たない社会、これが本当に人間が目指している社会なのだろうか。
丸山暁〈人間・56歳・田舎人〉

お粗末な国の立派で真面目な国民
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誰もUPしていないので、「僕の考えるブログ」と同じですが入れておきます。僕は、「僕の考えるブログ」に徐々にシフトしていきます。
嵐が去って、清らかな流れが帰ってきた。
今回の豪雨では北東北が被害を受けた。昔なら嵐はじっとしていればいつかは治まると諦めもついたが、温暖化により、巨大化し回数も増えるという嵐にどう対処したら良いのだろうか。
もう、温暖化を止めることは不可能だし、地球の寒冷期の時期が一気に早まればいいのだが、ここ数年で1万年分の気候変動が起こることなど、天地がひっくり返らなければ起こらないだろうし、もし、天地がひっくり返っても地動説の現代では、天と地がひっくり返ると言うことは、単に昼と夜が逆転するぐらいで、もうお手上げである。
安倍総理の「美しい星50」だったかは、安倍総理亡き後(政治生命という意味で)、もう永遠に忘れ去られるだろうし、もともと単なる思い付きだったのだから、忘れ去られても同じだが、地球規模でも、現経済体制(市場主義のグローバルな経済体制こそ最終的に世界が安定すると言う思想)が続く限り温暖化を食い止めることは不可能だろう。
話変わって、今日の朝日新聞に「教育予算比率低い日本OECD下から2番目」と出ていた。要は経済協力開発機構の調査で調査可能な26ヶ国の中で、公的教育費は25番目(GDP比率)だったという。1位アイルランド2位米国3位韓国4位フィンランド5位フランス・・
25位日本26位ギリシャ
どんなにお上に虐げられ、薄給、過剰労働の家族でも、教育費をケチられても子どもたちはよく学び、日本という国の政治はひどいものだが、日本人はたいしたものである。
日本人は、ちょっといい人間すぎるのかもしれない。もっと、権力に抵抗して、もっと自己主張する人間性が必要なのではないか。
最近、市民自治とか市民と行政の協働などという裏には、どうも政治や行政の責任放棄がちらほら見えてくる。政治家や官僚・行政はだらしないが、市民は自分のことをちゃんとやって、そのうえ行政サービスに積極的に参加してくださいとは、どうも解せない。
〈田舎人〉

安部首相辞任表明?危機管理の空白を放置するな?
安部首相が突然責任を放棄して辞任を表明した。
自民党やマスコミは『自民党の後継総裁』を誰にするか、ということで侃侃諤諤の大騒ぎだ。

しかし、現在の事態の本質は、そういう所ではない。
国のトップの責任者が機能しない空白が生じているということなのだ。
そんな危機管理喪失状態を放置しておいて良いのか!

安部首相は、昨日の記者会見での様子を見る限り、日本国政治を統治する能力を失っているように見える。
うつ病ではないかと疑わせ、あのタイミングでの辞意表明など、完全に正常な判断力を喪失している。

しかし、安部首相は辞任に意向を表明したが、現時点ではまだ辞任していない。
もしも今、有事の事態が発生したらどうなるのだろうか。
精神的不安定な判断能力に疑問のある安部首相が総指揮官として指揮することになるのだ。

自民党は後継総裁選びなどを悠長にやるより前に、精神不安定な安部総理をすぐさま辞職させるか、もしくは休養させて臨時首相代理を置き国家統治に空白を生じさせないようにしなければならない。
それも出来ないなら、すぐさま国会を開会して、野党第1党の党首を総理大臣に指名すべきである。

今日大地震が起らない保証は無いし、明日どこかの国からミサイルが飛んでこない保証は無い。
次の総理大臣が誰になるか、政局はどうなるかより先に、まずは、壊れた国政の体制を立て直すことが急務である。
危機管理に一瞬たりとも空白を生じさせてはならない。
<ハヤテ>

「混在する現実とバーチャル」?僕の考える
kawaya.blog.jpg

白壁の小さな建物は、近所の農家の厠です。集落で僕が気に入っている小さな構造物の一つです。この厠を、こうして農の風景として見ると、風情のある建物だけど、昔この厠しかなかった時代(最近は多くの家でトイレは母屋の中に作っている)、吹雪の日などどうしたのだろうと考えると、なんと不合理なつくりかと考えてしまう。でも何故、こんなに離す必要があったのだろうか。匂いか、それとも肥え桶への汲み取りの都合か。
以前は、全ての建物が汲み取りの時代、都市部の便所は家の中に作ったのだし、農村部では当たり前のこの構造が僕にはいまいち理解できていない。実際にそういう生活をしてみてはじめて分かるものかもしれないが。少なくとも、想像の世界では現実的には使いたくないトイレである。

この世のことは、自分の実体験だけで理解できるものではない。
生まれてこの方、高々56年で体験できることなど、世界の森羅万象を考えれば、無限小に近い。しかし、僕達人間は、他者が体験したこと(過去の歴史でも、現代の最先端の研究でも、他者が創造したことでも)を言葉や画像として受け取り(それが言語として聞こうが、文章として読もうが、映像や画面で見ようが)、ある種の経験(何かを感じて記憶に残すこと)として体験することが出来る。

安倍政権の改造内閣でまたまた遠藤農水大臣の金の問題が出てきたとき、与謝野官房長官だったかが「大臣候補の森羅万象を調べるわけにはいかない」などといっていたが、なにも大臣候補のほんの一部である政治資金の問題を調べろと言っているのであって、森羅万象などたかが大臣に使う言葉ではない。それだけでも政治家の思い上がりが良く分かる。今度の内閣は、お金の問題もさることながら、そのような古い体質の政治家の言動が問題になるような気がする。

ところで最近、これまでの社会通念では考えにくい事件、少年少女の暴力事件、性犯罪、大人のハレンチ、猟奇的犯罪が増えてきた。
確かに、昔から異常な犯罪はあったが、それらの犯罪はいわゆる日常の行動も異常と思える(日ごろの言動とか、立ち振る舞い)人たちによって引き起こされることが多かった。それが近年は、いわゆる普通の子供、普通、もしくはそれなりの立場(大学教授でも警察官でも教師でも)の大人が突然異常な行動に出ることが多くなった。その原因はなんなのだろうか。今の社会には、それを単なる個人的な道徳の欠如や人間性の欠如では済まされないものがあるのではないだろうか。

僕は、その現代的要因はバーチャルが単なるバーチャルではなく、人間の現実社会にもバーチャルが現実として混在し始めたのではないだろうか。人間がバーチャルと現実の境界を認知できなくなってきたことにあると確信している。

バーチャルと言えば「仮想」のことで現実とは異なるものと考えられていた。勿論語彙的にバーチャル社会と言えば現実にはない社会であったり、バーチャル映像といえば、創造的な映像を言って、現実とは分けて考えていた。
だから、例えそういうバーチャル世界が少々過激であったり、残虐あったり、エロであっても、現実とは分離して考える理性も働いていた。しかし、最近の人は(人と言うのは子供だけでなく大人もという意味で人と総称しておく)は、現実とバーチャルの境界を認識できなくなってきたのではないだろうか。

昔、ヤクザ映画が流行った時は、映画館から出てきた男どもは「みんな建さんや鶴田浩二のように方をいからせていた」と言うが、それもある種バーチャルナな社会への自己の投影であり、軽い現実とバーチャルの混同だろう。しかし、しばらくすれば皆また普通の男に戻っていった。サラリーマンはサラリーマンに八百屋さんは八百屋さんに。
多分映画と言うバーチャルナ社会を経験するのは年に何回か、映画ファンでも週に一回とか、日常においては特異な時間だったので、それが人間の感性を刺激して経験として脳に刷り込まれるまでは体験していなかったのではないか。

それが今は、個人的な場で、ビデオやDVDを通して、非人間的な暴力、殺人であろうとエロであろうと過激な映像であろうと、気のむくまま好きなだけ体験できるようになってきた。自分では見ない、汚らわしいと考えている紳士淑女も一度レンタルビデオ・DVD屋さんを除いてご覧なさい。法的に認知されている範囲でも、とんでもないものがあるし、インターネット社会ではとんでもないものも流出しているようだ。そんなものを、人(大人も子供も)によると毎日数時間見ているのだろう。
そおいう状況下の彼等の意識は、意識せずとも、脳の中では、バーチャルなけ経験を繰り返すことで、実体験と同等の重み、ある場合は現実以上の衝撃となって、記憶されていくのではないか。

そういう人にとっては、既に、現実とバーチャルの境界は無くなり、自分自身がどちら側にいるのかさえ分からなくなる、すなわち現実の世界よりバーチャルな世界を生きようとする人が出てきてもおかしくはないのではないか。

バーチャルはけっしてバーチャルではない、現実より薄い経験(マンガや映像や夢)でも、何度も経験するうちに、それは現実の体験と同じように脳に刷り込まれてくるのではないか。果たして脳は、それを現実と空想・仮想特別できなくなるのではないか。特に経験浅い子供がDVDやインターネットを通して凶悪映像に慣れてしまうことは、実体験以上に脳に刷り込まれるのではないか。

僕は、本来性善説をとり表現の自由を重んじる人間ではあるが、表現の自由は人間性というものに裏打ちされての表現だろうと考えている。では人間性に含まれる悪魔性はどうするのか、という議論まではここでは立ち入らないが、少なくとも、社会全体に悪影響を与えるような表現の自由は規制すべきだと考えている。

現在の残虐エロ映像を作り、販売し、垂れ流すものたち(特に今最先端企業、ベンチャー企業ともてはやされているインターネット関連企業)とは、「表現の自由」を標榜しているが、彼等のやっていることは「表現の自由」ではなく、「金儲けのためなら何をやってもいい自由」である。勿論、個人的空間で他者に関係なければ、何を考え何をやっても自由だが。
またまた久々に長くなりそうなので、続きは後ほど。多分、僕の考えるブログでもこのテーマは継続しますので、そちらもよろしく。丸山暁〈56歳・人間〉

「炭焼きと原発」?僕の考える
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木立の中に佇む炭焼き小屋。今年の冬は、炭を焼くものがもういないかもしれない。この炭焼き小屋は、3年前に町の補助金を受け、集落の事業として作ったもので、去年までは隣の富吉さんが焼いていたのだが、今年はどうなることか。炭焼きは一日がかりの大変な重労働であり他にやるものもいない。「あんたがやれ」と言われても、そうそうできるものではない。

近年農山村の重要性は以前よりは認識され、自然環境、農山村の風土を守ろうと、様々な動きが出てきたようにも思える。僕も、ここに来て14年、それなりに町や僕の暮らす集落で、考え、提案もし、具体的な活動も繰り返してきたが、そう簡単に大きな改善につながるものではない。
都市との交流で、地域を活性化というものの、それは特異な個人、地区のことであり、農村部そのものが、交流空間になれるはずも無く、なるべきでもない。
ただ、農村地帯、過疎地でどんな生き方をしようと現金を得なければ暮らしていけないことは確かである。あるところから持ってくるとしたら、やっぱり、都市に何かを売るか、お金を落としてもらうしかない。

最近、全国の大学で、特に国立大学は独立行政法人化で社会に出て行ってお金を稼がなくてはならなくなり(もしくは社会的評価をうけなくてはならなくなり)、大学の研究室あたりが、農村や地域に出て行って、学生の目で地域を見て、地域の人たちと一緒になって地域のあり方を考えることが多くなってきた。これは大変けっこうなことである。
地域のことは案外地域の人には分析できないことも多い。それは、僕自身ここに移り住んでみて良く分かる。

そういう活動で出てくる結果は「地域の資源を見直し、伝統を大事にして、風土にあった新しいものを生み出し、それを都会との交流(商売であれ観光であれ)に繋げる」あたりである。
そんなことは、別に大学の学生さんたちが考えなくても重々分かっているのだが、現実にその地で寝て起きて暮らすものが急激に減ってきているのである。出来れば、そういう学生さんたちの数人は、そこに骨をうずめる覚悟でやってくれれば、大学の社会活動も本物なのだが。大学が、コンサルタントの肩代わりをするようになり(大学は学生をただで使えるから効率がいい)、それを仕事にしてきたものには、ちょっとね、というところだが。

後で、これらの話題とも繋がりますが、話は大きく変わって、今、僕が最も気がかりなことは、原発問題である。柏崎刈羽原発の地震事故のことはもう述べまい。しかし、震度6強の揺れでアレだけの被害が起きたことと、日本という国は、全国何処でも地震が起こりうると言うことだけは確認しておこう。

今、原発の総点検(地下の断層や地盤強度、耐震性など)に入ったというが、現実に耐震補強や補強計画を始めたのは40%程度だと言う。以前にも書いたが、耐震補強といっても、外部構造や周辺施設の耐震補強はどうにかできるだろうが、原子炉建屋本体の耐震補強はどうやってやるのだろうか。数十メートルの杭の上に数mのコンクリートのスラブを打ち、数mの壁で覆った原子炉本体を、撤去して、杭を補強して基礎を厚くしてスラブを補強して、その上で原子炉容器を据えなおすなど、誰が考えても不可能なのです。今ある原発を完全に補強するには、新しい原発を作った方が安上がりのはずです。

だから、先に書いた原発の補強は本来なら計画すら立てられないのです。それを「数百億円、一千億円かけて補強しました。もう安全です」という原発があったとしたら、それこそ心配をまたまた先送りした原発なのです。

これから、多くの原発で地下の断層の再調査を行うという。今は20キロだったか30キロだったか活断層が離れていれば良いことになっているが、だいたい、活断層なんてもの自体が信用置けないことは、ちょっと地質や地震学をかじったものなら分かりきったことなのです。
活断層は、ただ、過去に地震が起こって出来た断層で、有史以来動いた形跡が残り、その後も動く気配、動いた記録(地質的に)があるものをいうのです。
地殻の歪(プレートの歪)は活断層に沿って放出されやすい(これが地震のエネルギー)だけで、地殻の歪は活断層以外、特に数千年前の断層でも、また、まだ動いたことのない地殻でも起こりうるのです。また、既にあるグズグズの断層よりまだ動いていないフレッシュな地殻破壊の方が破壊力、すなわち地震エネルギーは大きいのです。今の、地震探査では、そのような地震の発生の場所は見つからないのです。
皮肉なことに、見つけやすい断層だけが見つかり、本当に怖い断層(阪神淡路地震のような)は見つからないのです。

しつこいけど、日本の原発の問題は、そこにあるのです。地震とは、いつ何処で、どのくらいの規模のものが起こるか分からないのが本当の答えなのです。勿論、地震予知を否定したり、地価探査をむなしいと言うものではない。

要は、こころ静かに素直に言えば、今この国に突きつけられている難問は、いつか、日本のどこかで原爆投下と同じような結果を招く原発を容認し、未来の悲劇を隠しながら、怯えながら、ちゃらんぽらんにして、発展繁栄を享受するか、それとも、生活のあり方「例えば農村の炭焼きを国策にして」エネルギー政策を大転換するか、どちらかの選択を迫られているのです。
原発を辞めたら、インド、中国にも追い越される。確かに経済発展の面ではそうでしょう。しかし、資本家は、資本は既に日本から海外にどんどん出て行っているのであり、そのことは又別の視点で考えるべきことでしょう。

とにかく、この国の原発は、いつか落ちてくるか分からない核弾頭、多分北朝鮮のテポドンやノドンよりも現実味があると、僕は考えてます。
MD計画のパトリオットミサイルを代々木公園で発射する訓練をするという。馬鹿な話である。「北朝鮮がミサイルを発射しました。今からパトリオットミサイルを代々木公園まで移動します」と、都内の道路を、あの表参道の渋滞道路をごろごろ引っ張っていて、東京防衛が成り立つのか。全く茶番である。
それより、エネルギー政策、日本の国土資源保全にもっと、お金をかけなさい。それしかこの国の未来は無いのです。
丸山暁〈56歳・人間〉

バーチャルな社会の見えない都市の貧困
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百日草の先に見える小さな青い芽は、一週間前に蒔いた大根です。一箇所に数個出た新芽だけど、もうしばらくすると元気な奴一本だけを残して摘んでしまう。つまれた連中が出来損ないと言うわけでも、彼等に何か落ち度があったわけではないが、これも大根の宿命です。多分蒔いた種から一本の立派な大根に育つのは5分の1ぐらいだろうか。

さて、人間は種(精子や卵子)から考えると大変なことになるから、生まれてから考えると、どのくらいの比率の人間が元気に生まれて大きな病気も無く育ち、元気に老衰で死んでいくのだろうか。元気で老衰というのも変な表現だが、特別の病気も無く天寿を全うしたとすれば、元気にあの世に旅立ったといってもいいだろう。
社会や身の回りを見れば皆元気に見えて、病気がちであったり、どこか障害があるのは自分だけ、もしくは少数者と考えがちだろうが、果たして、本当に健康で生まれて死んでいける者はどの程度か考えてみると、そんなに多くないのではないだろうか。

例えば糖尿病は1,000万人、HIV感染者は数万人エイズ発症者は1万数千人、具体的な数字は把握していないが癌による死亡者は数十万人?百万単位でいるだろうから、癌で闘病中の方々はその数倍はあり数百万人単位ではないだろうか。心臓病や呼吸器障害などは数百万人あるのではないか。水俣病患者数万人(認定、非認定を考えると)、原爆症数万人(認定、非認定を考えると)、リュウマチ患者数数百万人、キンジストロィフーなど難病患者でさえ数万人単位の患者がある。
統合失調症の方も多分数十万人、最近増えてきたうつ病などは予備軍も考えれば千万人単位かもしれない。知識不足で把握できていないが、目の見えない方、耳の聞こえない方、手足の不自由な方々は、それぞれ数万人、数十万人といらっしゃるのではないだろうか。
僕の無知により、ここに挙げきれていない病気や障害の方ももっと在るだろうから、まだまだ数千人、数万人、数十万人、数百万人、千人単位の病症者があるだろう。
中には生まれてから名も無き難病もあり老いて、最近は若年でも痴呆症が起こり、その数も数十万か百万人単位に登るのではないだろうか。

このような人々を集計すれば、日本国民の相当数、数千万人、半数以上の国民が、何らかの病気や障害をもって今この国で暮らしているのではないだろうか。

それでも、この国は世界最高の繁栄を享受して、華やかに物溢れる豊かさにみちた国に見える。TVのドラマやドタバタ芸能や新聞の広告や雑誌やインターネットでの華やいだ世界は、決して、この国に多くの病気や障害者があることが表に現れては来ない。
勿論最近の健康ブームとやらで、病気発見番組や健康番組も多くあるが、それらは、病気や障害の悲惨さ負の要素を社会的問題として提示するのではなく、病気というテーマと芸人の演技を見世物として恐怖心をくすぐる娯楽番組が多い。
要するに、この国を概観した時に表層に現れてくるのは、多くの国民が抱えている個々の苦悩ではなく、総体的に華やいだ豊か世界なのである。それは、社会としては当たり前かもしれない、いつも負の部分をしょっては人間は生きてはいけない。

少し視点を変えて見てみよう。数日前にネットカフェ難民が厚労省の調査で5,400人あると報じていた。内20代が26%、50代が23%だという。僕も50代だが、毎夜帰る家が無く、ネットカフェで暮らすのであったらとぞっとするが、今の世の中、いつ誰がそのような境遇になっても可笑しくないようだ。今、年収200万円以下が30%、毎日働いても100万円ちょっとの人が仕事を失ったら、誰かに頼るか、ネットカフェ難民のようなものになるしかないだろう。

昔は、生活困窮者は身なり態度なり、それなりの風采であった。数十年前、日本中がまだ貧しかったけど何処と無く違いがあった。最近使わないが言葉だが、物乞い、乞食(乞食というのは差別用語だというが、さて、なんて呼べば良いのだろうか、路上生活者?)なども見るからにそれらしい格好をしていたのだが、今は、彼等とて、身なりが良く銀座などでは下手したら僕なんかよりいい服着てる連中もある。

しばらく前だが、アメリカの経済学者が「アメリカの貧困の問題は貧困が表に見えてこないことである。貧しい人がスーパーでレジを打ち、飲食店で働いていても彼等が生活に困っているようには見えない(これはスーパーのレジ打ちや飲食店の店員が貧困だというのではない)」と言っていたが、日本でも同じことが言えるのではないだろうか。それでもアメリカは最低賃金が1,000円を越して日本は今年10数円上がってやっと700?800円程度だろう。そい言う意味では日本はアメリカより条件が悪い。

日本という国は間違いなく世界一豊かな国(貿易黒字は最高、大手企業利益も上がりっぱなし)である。東京を中心とした巨大な建築群、商業享楽施設を見れば、これ以上の豊かさは邪悪とも思えるが、その影にはこの国の国民の多くの病苦、障害が隠されている。多くの国民が病苦、障害を抱えながらこの国の豊かさを支えている。
奈良県で、妊婦が10数箇所の病院を拒否され、救急車が事故を起こし胎児が死亡した。以前も同じ様なことで、妊婦が死んだ。この傾向は、全国に広がっている。

日本という国が豊かに見えるのは、数10%、ひょっとしたら数%の享楽的贅沢が映し出されるバーチャルな世界をみて、自分たちもそこに生きているという共同幻想によるのではないか。都会の暮らしを断片的に描けば、例えそれがインターネットカフェ難民と呼ばれようと、田舎の、僕の暮らす谷間の暮らしより、豊かに華やかに見えるものである。

現代文明、特に都会の暮らしというものは、そのようなバーチャルな病理を有しているものである。ひょっとしたら、そうゆうバーチャルな虚像を描きながら、この国は動いているのかもしれない。
30年確立で、関東大震災や東海、南海、宮城沖地震は30?90%おこるという今も、巨大都市は拡大し続けている。最近被害予測が頻繁に映像化されているが、バーチャルに慣れた思考回路はそれをも単なるバーチャルと受け止めて、娯楽映像としか見ていないのではないだろうか。
丸山 暁〈56歳・人間・田舎人〉



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