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市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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「ミートホープも大使館も50歩100歩」?僕の考える
granada.blog.jpg

この小さなスケッチにいくらの値がつくか。葉書大の鉛筆やペン画だが、個展をやると額つきで1万円の値をつける。そんな僕のスケッチでも一回の個展で、数点は売れる。
30数年前、初めて銀座の画廊で展覧会をやった時、全く自分でも「何てど素人の下手な絵だ」と思いながらも展示していたら、画廊の檀那が「この絵はいくらで売るの」と聞いてきた。「いや、こんな絵を買う人はいないだろうから値段はつけない」というと、「もし、どれかの絵が気に入って、欲しいとおもっているひとがいたら、値段が無ければ買えないじゃないか。展示するからには、売る意思があるなら、10円でもいいから値をつけろ。そして、一度、誰かに絵を売ったら、絵を描きつづけろ、そうでないと買い手に失礼だ」。
僕は今でも、その言葉を肝に銘じて、それ以来、どんな年でも、なにがあっても、毎年少なくても数点絵を描きつづけている。そして、個展では、必ず値をつけることにしている。それが、僕が絵に対する仁義だと思っている。

それにしても情けない「大使館、在外公館、美術品を廃棄45点」、大使館や在外公館が買ったり寄贈された絵が古くなったからと廃棄したという。
この国の公的な施設には、けっこう絵が飾ってある。それも、建物、施設のランクにあわせて、絵のランク(画家のランク)も決まってくる。国会や首相官邸には入ったことが無いが、多分、平山郁夫や東山魁など、お決まりの日本画がかかっていることだろう。そこに奥村土牛や熊谷守一などちょっと渋い粋な絵が無いのが、これまた日本の文化レベルなのだが。見るからに、日本画、日本の風景でござい、というのが、日本の政治家や権威者はお好きのようである。

絵の世界も見事にヒエラルキーが出来ていて、次に県庁や県の公会堂にはその県出身者の画家の絵が掛かっている。彼等は、大体日展の入賞者や県展の大賞者である。そして、それが市長村となると、在住の芸術協会の会員が寄贈した絵となる。
例えば、北の町の役場か公民館にノルデやムンクの絵でも掛かっていれば面白いのだが、そんな場にでくわしたことが無い。

それと同じように、病院にも、同じようなヒエラルキーに準じて絵がかかっている。聖路加病院や慶応大学病院辺りには、きっと東郷青磁(青磁の字が違う?)や黒田清輝あたりが架かっているのだろう。日大病院や厚生年金あたりになると、麻生蓉子や田村能理子辺りではないか。そして、公民館や庁舎と同じように、県立病院にはその県出身者の絵となる。そして、小さな個人病院では、岩崎ちひろや相田みつおのコピーか、その病院の先生の手になる絵がかかっている。先生の直筆画ならかなりいい方である。
祖母が入院した東大病院にも、絵が飾ってあったようだが、なんだかそれなりの絵描きの絵が、薄暗い廊下に、見るものもなく、ただかけるべくしてかけてあったように思う。

結局、この国の公的な権威あるであろう族や医者という地位ある方々の絵に対する感覚は、この程度のものなのである。勿論、個人的には、芸術をよく解している方も多少はあるだろうが、概ね、多くの公的場での絵の扱われ方は、惨めなものである。埃かぶってあたりまえ、曲っていても知らん振り、中にはライトがそっぽを向いているものもある。
そんなこの国の、大使館だから「あれ、古くなったなこりゃゴミだ」と平気で絵画を捨ててしまったのだろう。結局絵をお金やブームで見ているのである。

要するに、自分がかかわっている(仕事であっての、その仕事の空間にかかわっている他者の存在)者、物に対する、必然性、意味をほとんど考えずに、ただあたりまえの業務をこなしているだけなのだろう。たとえ、彼等が日本のエリート東大や京大やせいぜい外語大での官僚とて。自らの係わる空間にある、文化や芸術に対して、心から関心を払えないものたちが、この国の文化を語り海外の文化と接しているとしたら、情けない限りである。

少々、話は飛躍するが、本来牛肉を加工、販売すべきミートホープの田中稔社長が、豚肉を混ぜ血を入れ水増しして利益を得ていたことと、彼等大使館で絵を捨てことは50歩100歩同じことである。大使館の連中は絵を文化として芸術として愛して飾っていたのではなく、ただ場を飾るため、文化的な見せ掛けのため飾っていただけなのである。だから、古くなったと簡単に廃棄してしまうのである。牛肉のすり替えと大使館の虚飾は同じこと。
そこには、何のために自分がそこにいるのか、その責任を見失っているのである。利益を生まないもの、仕事に関係ないものは、ごまかしたり簡単に排除してしまうのである。そこにかけているのは、人間性である。

選挙むけてあたふたとやたら動き出したかに見える安倍首相も、僕の目には似たような存在に見える。
丸山 暁〈56歳・人間〉

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「雨にも負けず凛と咲くカンパネラ」?僕の考える
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灼熱の中、ついこの間まで待ち望んでいた雨だが、少々強い雨が降ると、せっかく花開いた花たちが、くたって来る。その中で、カンパネラが美しくりりしく花開いていた。春、芽吹いた小さな芽が育ち、雨風を受けて、大きく育ち、しばらくは、僕たちを楽しましてくれるだろう。

「美しい」この言葉は、簡単な言葉だがいろいろな意味を持っている。見た目の美しさも、世代や文化により、美しさの基準が異なり、「美しさ」とは見えるものだけではなく、心の問題にまで、係わってくる。

さて、世界の美の祭典ミスユニバースで日本代表の森理世譲が世界一に輝いたことに「僕の美の視点ではどうも解せぬ」旨の記事を以前書いたが、06年2位の地花くらら、04年日本代表の町本絵里、03年世界5位の宮崎京、あたりを振り返っても、どうも、日本代表のミスユニバースでの美の基準が、僕の考える美の基準とかなりずれている。彼等に共通しているのは、扁平なアッカンベータヌキなのである。ミスユニバースの評価基準は、「健康的な美しさ」[知性]「強さ」「コミュニケーション」能力だそうだが、彼女たちが果たしてそうなのだろうか。
まあ、ただのボーットした白痴的美人や色気美人ではないことは確かだが、どこか「これが日本人の美人です」と誰かに作られた美人のようで解せなかった。

その答えが朝日新聞に出ていた。ミスユニバース日本代表は、80年代不況でスポンサーがつかなかったり、女性解放運動の矢面に立って、日本からの参加者が激減した時に、ミスユニバースの本部からスーパーモデルの代理人をやっていたフランス女性のイネス・リグロンを指導者に送り込んできて、徹底的に候補者を指導するようになったそうだ。結局、最近のミスユニバース日本代表の美の基準は、欧米から見た見本人の美であったのだ。これが、扁平顔アッカンベ?狸に繋がっていたのです。ミスユニバースも欧米か。

以前から、不思議に思っていたことだが、アメリカのトップスター的Jazzマンにはけっこう日本人を奥さんをする連中がいて、御存知Art BlakeyやElvin Jones の奥サンたちが、あまり美人とは思えない扁平アッカンベー狸顔なのである。ここでは、あくまでも人間の品性や人間性を語っているのではなく、ミスユニバースから始まった顔の造作についての議論なので、不快に思われる方は御容赦ください。
そこに共通する、すなわち欧米人が見た日本女性の美の基準というのには、最近のミスユニバースに見られるような一つのパターンがあるということではないだろうか。そういえばTVに良く出てくるアメリカ人のコメンテーターの上さんもそれに通じる顔だったように記憶している。

その上、ミスユニバース日本代表に選ばれたら、歩き方、姿勢、話し方、メーク、体型、健康調整は当然、知識、教養まで詰め込まれるそうである。これじゃ、狸も美人に返信するはずだ。そうそう、TVの和田アキコが司会をしている「美のコロシアム」だったか、3点のブスをよってたかって8点ぐらいの美人に仕上げる番組もあった。まあ、単なる美人を作るのは、けっこう簡単なものなのでしょう。
このことは、皆が「美しい」と言っているものの本質が何なのかを見抜くのは、けっこう難しいということです。作られた美が如何に多いことか。ただし、ここでは、ミスユニバースに優勝した森理世譲を、僕の美の基準によって揶揄するものでは在りません。彼女個人の夢、努力に対しては、敬意を表します。

ただ、僕が世界の美人コンテストをやるなら、冒頭の写真にあるような、風雨に曝されても、凛と咲く一輪の花から選びたいものである。それなら、お金の無い国や、あらゆる階層から代表をおくることが出来、その国の生の姿が見えてくるのではないだろうか。ただし、僕は基本的に、ミスコンには反対ですが。ミスコンなんて学園祭あたりでキャッキャッやってればいいでしょう。オリンピックだって、今のような、経済力のある国が金をかけて鍛え上げた人間たちに国の威信をかけて競わせるようなものは、止めるべきだと思っている。

少々、かなり、飛躍するが「冷凍食品に偽ミンチ」、北海道の加ト吉系のミートホープのまたまた牛肉偽装も、表袋には「牛ひき肉100%」とかいてあっても、中身はとんでもないものだったようである。まあ、うわべだけでは解からない、というところ。

女性も商品も、その本質に、色をつけ形を変えて品を作り、元々なんなのか解からなくなったものを「はい、奇麗でしょう」と並べられても、どうもそこには胡散臭いものがある。
人間もお肉も、虚飾をすてて「あたしゃ、こんなものですよ」とあけすけなのがいいのだが。
このあたり、人間の虚飾にも「丸山の文明*人間性=一定の法則」が当てはまるかもしれない。本来の姿以上に虚飾を重ねると、人間性が付いていけず、虚飾過剰人間になってしまう。うん、なんだかいけそうである。今度やってみよう。

「ただいま、おまえさん」「あれ、どなたさんで、こんな奇麗な方は存じませんが」「なにいってんだよ、髪結い行って、ちょっと紅をさしただけだよ」「惚れ直したぜ、おっかあ」「そうかい、一本つけようね」まあ、人間は、この程度のおしゃれがちょうどいいのでは。
丸山 暁〈人間・56歳〉
「僕の考えるブログ〈田舎人通信〉」もよろしく。
「文明と人間性の一定の法則」?僕の考える
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紫色のボンボリのような花はギガンチュウムという。この10数年、秋に球根を植えて花を咲かせ、初夏掘り起こし、また秋に植えて咲かせ続けてきた。既に、最初の球根からすれば、数代目に入るのだろう。人間が一つ手を加え、それに自然のエネルギーが作用し(太陽や雨や風や)、成果が一つ出て(花を咲かせ)、また、それを繰り返す。これが、正に「循環的持続社会」の典型的なモデルです。
ここでは、そのどれかが欠けても、このモデルは成り立ちません。人間の一手が欠けても、自然のエネルギーが欠けても、当然成果が無ければ最初の一手のモチベーションがあろうはずがない。その3っつの連なりが安定的な「循環的持続社会」、もっと言うなら「自然型循環社会」なのです。
自然型ではない「循環社会」があるかと問えば、仮に人類が「核融合エネルギー」を完全に手に入れたら、かなり、自然から遊離した「循環社会」を手に入れるかもしれないが、安全性や実現性などで、今はそこまでは言及しない。


過度に進んだ文明は、そのモデルを壊してしまっているのです。また、そのモデルを壊すことが、文明の発達そのものだったと言えるかも知れません。
すなわち、まず、文明は、人間の一手で、自然を利用して、多くの成果をあげようとした。元々は、人間の手足の行為、例えば人間が手で種を蒔き、自然のエネルギーが作物を育て、人間が刈り取って、種を守り、次も、同じことを繰り返す。
それが、文明が発展し、機械で大量の種を蒔き、化学肥料や農薬を使い大量に作物を育て、収穫するようになりました。
そして、今は、遺伝子組み替えの種を使って、工場的農園で、機械が種を蒔き、過剰なエネルギーを投入し作物を育てるとこまで来た。

今回は、前回「過度な文明は人間性を破壊する」の続きを書こうとしていたのだが、ギガンチュウムの花の事を書いているうちに、農業問題になってしまったが、書いているうちに、このことも、避けては通れないようだ。だが今日は、「文明*人間性=一定(丸山暁の法則・式)」に戻ることにする。

その前に、ちょっと、今、世の中で気になることがある。昨日の「僕の考えるブログ」にも書いたが、イラク戦争はどうなってしまったのか。新聞やTVは、年金問題や次から次と繰り出す不正「NOVAやコムスン、官製談合・・・」、参院選を睨んだ政治の馬鹿馬鹿しい駆け引きが賑わしているが、僕が今ニュースとして知りたいことは「イラク戦争の今」である。なぜなら、米軍イラク2万人増派、死者3,500人を最後に、先のG8を堺にして、イラク戦争報道がピタリと止まった。これは、アメリカが報道管制を引いて、各国がそれに素直に応じたせいだろう。
自由民主主義の世界で最も危険なことが、情報隠ぺい、情報操作であり、報道管制である。自由主義を標榜するアメリカこそ最も強大なテロ国家であり、G8mo日本も、それを容認していることを、確認しておきたい(こんなことを書くと僕も自衛隊のブラックリストに載りそうですね)。

話を「文明と人間の一定の法則」に戻そう。まず、このことを言葉で説明すれば「文明の発展段階のある状況と、人間の身体的便利さの積が1(一定)の状態が、文明と人間の理想的な穏やかな関係」ということである。ここでいう、文明とは、トータルの人類の文明というより、個々の文明の利器と解釈していただきたい。総合的な文明論としても、成り立ちそうだが、まだ、そこまでは拡大しないことにしよう。
もう少し、具体的にいえば、ある文明の機器(機械)を考えて、その機器が一つ発展(進歩・改善・改良)することで、人間の身体的労働(欲求)が一つ満たされる状態を、理想的な穏やかな関係としよう。

超単純にした例として、人間が一本の棒で、クルミの実を叩いて、一個のクルミを割って食べる(満たされる)。これを数式で表すと、1(文明)*1(人間性)=1(充足度)なのである。
次ぎの段階として、人間が一本の棒の先を二股に分けて、もしくは二股の棒を使って、クルミを2個割って食べる(満たされる)。この状態を数式にすると、2(文明)*1/2(人間性)=1、なである。ここで、あれ、と思われるだろうが、人間性が1/2になるのは、一個のクルミを割るために、人間が必要とする身体的労働が半分になる、という意味である。
この「文明*人間性=一定(充足・満足度)の法則」の充足度・満足度は、僕の考える人間性であって、ベッドに入ったまま、好きなだけハンバーガーとコーラをむさぼって、3百kのデブになる人間の充足度・満足度ではありません。

さて、もう一回数式を展開すると、人間が三又の棒を持てば、3*1/3=1となるのです。大体1人の人間を考えれが、7*1/7=1辺りがクルミを食べる時の理想ではないか。
もっと進んで、力持ちが、大きな先の広がった棒を持って、50個のクルミを割ったとして、彼(女)が、それを一度に食べたとしよう。きっと彼(女)は胸焼けを起こすか、それこそ望まないのにデブになってしまうでしょう。たとえ50個のクルミを割ったとしても、一度に食べるクルミは10個ぐらいが良いとこではないか(勿論個人差がはあろうが)。
これを数式にすると、50(文明)*1/10=5となり、これは、文明過剰なのです。勿論経済学では、この余剰があってこそ、ものの交換が生まれ、お金持ちが生まれ、資本が生まれ、市場経済に発展していくのですが、ここでは、経済論ではなく、「人間性の文明論」なので、経済論はこれ以上展開しません。

さて、ここまでは、何とか、ご理解いただけたでしょうか。僕も、今、このブログを書きながら、展開しているので、間違いや、矛盾がしょっちゅう出てくるでしょうが、最後には、何回か進めるうちに「丸山暁の文明と人間性の一定の法則”Maruyama’s Theory of Culture & Humanity」を完成させたいと思っています。さてさて、何ヶ月かかることやら。「市民ジャーナル」の始めに展開した、「ものもんたの朝の番組、朝ズバの7時マタギ、8時マタギ」から来た「平和を構築するマタギの理論」も途中だというのに。

久々に小噺を一つ「おっかあ、手が一本、お猪口が一個、口が一つじゃ、どんなに飲んでもたがが知れてるな、手が10本、お猪口も10個、口も10個ならどんなだろ」「馬鹿お言いで無いよ、一個でも、酔っ払っちゃって、何がなんだかわかんなくなっちゃうんだから、10個もあってごらんな、あんた頭の中身も十個になって、どれがあんたか解かんなくなっちゃうよ。あたしゃ、今のあんたが好きなのに」「えへへ、そうかい、過ぎたるは及ばずが如しだな、おい一杯注いでくれ」文明も、こんなものかもしれません。
丸山 暁〈人間・56歳〉


「過度な文明は人間性を破壊する」?僕の考える
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今日は、年金問題もNOVAもコムスンも政治も書くのはやめよう。このあたりにこだわっていたら、先に進まない。
黄色い屋根の小さな小屋は、我が家のかわいい温室です。スティールの棚をベースにして間伐した杉材で作った一坪弱の温室だが、ここから年に数千本の花や野菜の苗が育っていく。もちろん、苗が勝手に育つのではなく、上サンが2?3ヶ月かけて、種を蒔き、丹精こめて育てるのである。4月のまだ寒い頃は、縁側やストーブのそばで発芽を促し、温かくなると徐々に温室に移し、今度は温室が暑くなりすぎれば、風通しのよい外にだしと。僕はほんのたまに水遣りを手伝う程度で、ほとんど上サンが育てている。その苗たちが、我が家の畑や花壇を賑わしてくれる。
その苗たちは、我が家の畑や花壇を十分に満たしてくれる。少なからずあまるものもあるが、それらは苗の補植をしたり、少し育てて食べるので、ほとんど無駄にならない。
ここでは労働と我が家の庭園空間のバランスが取れている。これ以上苗を無理して作れば、売りに出すか、廃棄することになる。

最近は、野菜も工場で作る世の中、東京のビルの地下には随分野菜を作る野菜畑も増えてきたとか。そのうち「丸の内レタス」「六本木トマト」「新宿キュウリ」などが出回るのかもしれないが、完全に機械に制御(光も温度も水も)された空間で作られたお行儀のいい野菜など食いたくも無い。しかも、省エネの時代、その野菜を作るためにどれだけのエネルギーを投入していることか。核戦争の後に、放射脳で汚染された外気を浄化して、シェルターの中で野菜を作るつもりなら、そのような施設も必要だろうが、これだけ農地が余っているこの国で、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
農作物は、本来我が家のように、手間隙かけて大事に育てて、おいしくいただくものなのである。最近、地産地消(地元で取れた食物を地元で消費する)という言葉も流行ってきたが、これは望ましい傾向だろう。以前は上手い野菜や魚はまず首都圏に送られ、それから地方へ流れるという馬鹿馬鹿しい現実があった。僕たちが岩手の山間部に越してきた14年前は、意外と上手い野菜が近所で手に入らなかったが、ここ数年とてもよくなった。

さて、今回は農業問題ではないが、文明の利器(機械や化学肥料)によって、農作物を機械化し効率化すればするほど、農作物が危険な食物になってきたことは、皆さん周知の事実だろう。今でこそ、有機栽培、無農薬栽培なども出始めたが、まだまだ多くの野菜たちは、何を振り掛けられどうやって育てられているか分かったものではない。
地方の何処でも流行っている新鮮、安全の産直とて「産直に出すものは家じゃ食わねえ」という農家もけっこう多いのです。この意味わかりますよね。自分たちが食べるものには農薬を少なくするということです。

元々人間の知恵と労働(馬や道具を使おうと)と自然の営み(寒暖の差や風雨など気候の変化)によって育てられた食物たちは、おいしくて栄養価も高く安全なのです。それが文明の利器(機械や化学)を利用すればするほど、食物たちは、まずくて栄養価が低く(霜降り肉の脂肪過多など偏る)危険になるのです。
今の食物生産事情は、人間的にも環境的にも良い状況とはいえないが、どこかに人間にとって野菜のちょうどいい作り方、食べ方があるはずなのです。

ここで、文明と人間の関係における、一つの仮説「丸山暁の文明と人間性の理論(仮称)」を立てて起きます。
文明*人間性=一定(丸山暁の文明と人間性の相関理論2007/06/16)、気どって横文字で書けば、Culture*Humanity=Constant“ Maruyama’s theory of culture & humanity . 2007/06/16”.。ここでの文明とは、ある機械・機能やある分野での化学的、技術的発展レベルをいい、人間性とは人間が身体的に満足できる状況をいう。ここでの満足とは、けっして、腹いっぱいウナギやマグロやステーキを食べて一時の快楽を得て、デブや成人病になって、お金をかけてダイエットしたり医者通いしている状態ではない。心身共に、ほぼ、満たされている状態をいう。ほぼというのは、満足が欲望と摩り替わるといつでも満足は暴走して際限が無いので、ほぼ満足という、人間性を考慮しておく。

さて、これだけでは、丸山の理論は分かりにくいので、TVを事例に説明しよう。
まずTVがこの世に出現した時は宇宙からの贈り物の如く不思議なショックがあった。ただ、ブラウン管に何か(試験放送の丸や縞々)が映っているだけで、興奮して見入ったものだ。それは僕が4?5歳の頃か。
それからしばらく、日本国民はTVに餓え、街頭TVや食堂のTVに釘付けになった時期がある。このころは、TVという機械はまだ、人間を満たしてはいなかった。
それから、どんどん技術が発達し低価格になり、各家庭に1台行きわたった頃、人間はTVに近づいて、チャンネルを合わせたり、ボリュームを上げ下げしたり、人間がTVと触れ合わなければ関係をとりえなかった。その頃は、TV番組の限られていて、大人の見るもの、家族でみるもの、子ども番組と、まだTV番組に棲み分けが出来ていて、夫々の世代が成長したり、娯楽を得るのに、ほぼ充足していた。エロ映画を見たいものは映画館に行けばよかったし、漫才、落語を見たければ寄席やホールに行けば良かった。

それが今、TVは全てリモコン操作となり、TVに触れなくてもTVが操作でき、家にいなくても勝手に録画や選局が出来る装置になった。tV番組も通常の番組でも7?8チャンネル、衛星放送、ケーブルTVなどといえば数十、数百チャンネルでほぼ、あらゆる分野、階層、エロもグロも教養も娯楽も垂れ流すようになった。

さて、今のTVの発達は、人間を幸せにしているのだろうか。もちろん個々人の暇つぶしの道具としてのTVではなく、社会で起こっているTVによる影響を考えた場合、TVが人間、社会に与えていた、いわゆる人間性にとっての文明として、ちょうどいい時期があったのではないだろうか。その時期を越した今、およびこれ以上発達したTVはかえって人間性を否定するのではないか。すなわち、(TVの今の発展)*(今の人間性)=(負)になっている、ということです。今日思いついて書いているので、形はこれから検証していきます。

そのようなこと「丸山暁の文明と人間性の理論」を、これから何回かで(連続はしないかもしれないが)考えて行きたいと思っています。
この理論は、ロラン・バルトの「モードの探求」の「消費以上の生産が生まれた時にモードが発生する」に匹敵する理論になるかもしれません。
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。
「ウナギなんて食わなくていいじゃん」ー僕の考える番外編
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僕の暮らす村は、ちょうど雲の下、小さくてよく分からないだろうが、雲の下の山並みの真ん中にある北上高地の霊峰早池峰山の麓にある。北上高地は、僕が小学校の頃の日本地図では、まだ調査されておらず、白地のままで「日本のチベット」と呼ばれていた。勿論今ではチベットにも失礼だが、これは本当の話です。
僕の村に電気が来たのも、昭和30年代だとか。大変な山奥である。よくもまあ、何で、銀座・新宿・神田を飲み歩いていた男が、こんな山奥で暮らしているのやら、我ながらあきれることがある。まあ、これも人性「人性とは旅のようなもの」(『西欧「偶景」今昔話』丸山暁著より、けっこう売れてきたようですよ、先日も知らない人から電話を貰いました)。

さて、そんな山奥の中規模スーパーマーケット(2軒)にも、毎日何十本(ひょっとしたら百本単位)のウナギの蒲焼が並んでいる。僕の暮らす大迫町(花巻市と合併をしてしまったが)は人口6,500人、約2,000軒程度、国道沿いのスーパーだから通過客もあろうがわざわざここからウナギを買っていくことも無いだろうから、大雑把に大迫町でも20軒に一軒はウナギを食べていることになる。実際には、僕たちは、花巻、盛岡の大スーパーに半数以上が車で買い物に出かけるから、ひょっとしたらもっと高い確率、十数軒に一軒が毎日ウナギを食べているのかもしれない。
この数字をどのように解釈すべきなのだろうか。あたりまえと見るか過剰な贅沢と見るか。

今朝のTVのニュースで「ワシントン条約により、ヨーロッパからのウナギの輸入が減り、ウナギの価格が上がる」旨の放送をしていた。それを報じた朝ズバの「みのもんた」が「しばらくウナギを食べてないな、値上げは困る」旨のコメントをしていた。同席したコメンテーターと言われる木原ミチコはみのもんたと一緒に、ウナギ談義ではしゃいでいたが、都知事選に落ちた浅野元知事は、その馬鹿騒ぎを憮然とした表情で聞いていた。
環境問題や世界の食糧問題、子供の飢餓死を報じる時には涙するオバサンコメンテーターが、ウナギが食えなくなることを嘆いているようだから、この国もこの世もなかなか良くならないのです。そのあたりのことが分かっていない有識者ずらしたコメンテーターが多すぎる。「浅野さん、やっぱりあんたは都知事になるべきだったが、今となれば、本当に社会変革を起こすコメンテーターになってよ、憮然としているだけではだめですよ。みのもんたに渇を入れなければ」。

ここのとこハンバーガー業界も「ビッグバーガー、ビッグマック、ビッグテリヤキ」とオジサンもオバサンもオネ?チャンも大口開けてはしゃいでいるが、やっぱり、この世界は精神分裂欲望社会に陥ってしまった。
メタボリックだダイエットだと語ったり、気にしているオジサン、オバサンやオネ?チャンが平気で1,000kcalのハンバーガーを満足そうにほおばっている。その姿を、彼等は客観的にみることがあるのだろうか。多分彼等の頭は、ダイエットと子供たちの餓死と環境問題と食糧危機と食い意地と・・それぞれ別の脳で考えているのだろう。少なくとも、それらか回路で繋がっていない。それらの事象、現象を自分の一個の脳に取り込んで総合的に判断する機能、システムが消失してしまったのであるか、元々無いか。

確かに、最近の脳研究(養老孟司や茂木健一郎などスターも出てきた)で、色んな刺激、感情、喜怒哀楽を感じ反応する部分は脳の中にその役割があるようだが、そういう機能の脳を総合して使ってこそ、ひょっとしたら人間なんて脳に使われているのかもしれないが、人間でしょう。そうでないと、人間なんて、単なる情報分析欲望充足機械になってしまう。

今の世界で起こっている多くの混乱、環境問題も食糧問題も宗教問題も子供の飢餓もデブや痩せの問題も・・・・、やっぱり、個々の情報がバラバラに収集分析され、その個々の欲求・効率を最大限に拡大する方向にあるから、社会・世界の根本的問題が何ひとつ解決できないのではないだろうか。
ブッシュがG8の後、東欧諸国を回り「自由な世界を拡大するんだ」などとほざいて回っているが、「お前の頭こそ、お前から自由になって、物欲の権化になってしまった」といってやろう。

さて、『僕の考えるー番外編』は気楽に書きます。ま、いつも気楽だけど。
今日言いたかったことは、日本何処でも、こんなにウナギを食わなくってモいいじゃない。格差社会、貧困の拡大といったって、ウナギがこんなに食える社会はまだまだ豊かなのではないだろうか。ウナギなんて中国産でも700円、国産なら1,000円以上でしょう。しかも、あんな、てかてかに何が塗りつけてあるかわからないようなウナギ、あんまりしょっちゅう食べない方がいいのでは。
やっぱり、昔の暮らし、「年に一回土用には、どうにかしてウナギを食いてえ、女房を質に入れてもカツオを食いてい」それが粋だし、粋な暮らし(少々のやせ我慢)が世界を救う。

もう一つ、人間は自分は社会的な動物である、他者との関係性で生きているということをもっともっと考えるべきでしょう。他者というのは、家族、近隣、世界、宇宙。
自分が生きているというだけで、他者に何らかの影響を与えているということを。
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。
「あっぱれサルコジ大統領夫人」?僕の考える
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写真は我が家のセンターストーンロードまたはこの時期はカモミールロードとも呼んでいるフットパス(小道)である。この道を通るとカモミールのリンゴのような甘い匂いが漂ってくる。いまでいう癒しの道である。

G8なんて、先進国の首脳たちの仲良しごっこ(最近はロシアがプーチンになってちょっとはもめるようになったが)、下手をすれば、先進国の既得権維持と資源配分(現代版コロニアルリズム)密約会議のようなもの。今回のドイツハイリゲンダムサミットも大して期待はしてはいないが、久々に喝采すべきことが起こった。それはフランス新大統領サルコジ夫人の行動である。
彼女は、G8サミットにとりあえずやってきたが、その後のご婦人同士のお付き合いは「娘の誕生日だから」とさっさと引き揚げていったと言う。サルコジの大統領就任式にも「私とは関係ない」と出席しなかったとか。いやー、なかなかあっぱれなご婦人ですね。さすがフランスと感心しました。個人主義もここまで筋が通っていると気持ちいいですね。
そんな奥さんを持つサルコジは、アメリカ的資本主義社会を目指すのと、アメリカの尻馬に乗るのは違うことをちゃんと分かっていればいいのだが。

さて、今回のサミットの重要課題は環境だとか、安倍総理提案の「2050年までに温室効果ガス50%削減」が合意したと言う。それはおめでたいことだが、日本とて京都議定書の6%削減すら達成できないのに、「日本が環境先進技術で世界をリードして」というが、経済成長を続けながらの温室効果ガス50%削減など不可能である。先日の朝日新聞に「薄型TVの省エネは進んだが、大型化によりブラウン管時代のTVより4倍程度消費電力が増えている」と報告していた。また車もトヨタのレクサスの新型(6千CCクラス)ハイブリッドで12km/Lの燃費で、同クラスベンツ などはせいぜい6km/Lである。結局ここに省エネのトリックがあるわけで、省エネ技術を駆使したと大型化して大量に物を売って・・・、本当に半減できるのでしょうか。その背景には風力や太陽光発電が取りざたされているが、原子力への転換が隠されているし、貧富の差、貧しさの拡大もあるはずです(限られた資源ではその差、コロニアルリズムが資本主義の要です)。

我が家など今だに23インチのブラウン管TV(消費電力45W、ちなみに薄型大型TVは200W程度でしょう)と僕の車は15万キロ走った1,500ccの国産車(12km/L)、両方とも当分使い省エネに貢献するつもり。お金の無いものは、否が応でも既に省エネなのです。大きなものも買わず、もったいないの精神で、ま、必要以上に大きなものは必要ないし買えないわけですが。

要するにG8でいう環境対策とは、世界の貧困層を維持拡大して、かつ自国の中では多くの低所得層のエネルギー消費を必然的に抑え(大型化した贅沢品は貧しきものには買えません)、富裕層はエネルギーを好きなだけ使える社会を目指しているのです。典型的な例が、環境保護の伝道師のように祭り上げられている米元副大統領ゴアの自宅の年間電力料金は3百万円だとか。それは庶民の1年間の生活費でしょう。

もう一つ安倍総理のいう、G8で決めた2050年半減計画が胡散臭いのは、今のままほっといたら2050年には地球は壊滅的打撃をうけるとIPCCが報告したわけで(これは今世界で起こっている自然現象を見れば明らかだろう)、それはあと43年後である。その時期とは、今のG8に参加している首脳などほとんど生きていず責任が取れない未来なのでです。
一番年配はイタリアプロディ首相67歳、安倍首相が52歳、一番若いカナダハーバー首相が48歳、どっちに転んでもこの世にいないか、ご隠居さんだろう。
やっぱり、今やるべきことはまず京都議定書を厳守することであり、彼等の政権の範囲でドラスティックな社会変革を行わない限り、2050半減など絵空事である。日本もそうだが、世界も、まあまあ今がごまかせればそれで言いというのが政治のようである。

その上、安倍内閣の温暖化施策とは、上さんと新聞の全面広告で電気を消したり(新聞全面広告とはいったいいくらかかるのか、千万円単位でなかったか)、クールビズとやらで、閣僚皆して沖縄のかりゆし織りのおそろいを着て、しかも一日だけ?その後の、自民党諸氏のネクタイをしないスーツ姿は間抜けたはオッサンである。皆で一緒でなければ、何も出来ない大人たち、周りの様子をうかがいながら、横並びでしか生きられない連中が政治をやっている限り、抜本的な温暖化対策など出来ないでしょう。

今世界を席巻してしまった自由主義市場経済こそ最終的に平和な社会に到達するという論理は、崩壊した社会主義国家の実験以上に危ういものでしょう。それでも、世界の主要国、もちろん主要国だけではなく世界中の国が、経済発展を第一義としている。なぜなら、あたりまえのことだが、資本主義社会というものは、経済成長しなければ崩壊する運命にある社会制度であるから。
数年前はけっこう真剣にあらゆるメディアや論評で取り上げられていたサスティナブル・ソサエティー「持続可能な社会」もいつの間にか「持続的〈発展〉社会」という言葉にすり替えられ、今では「省エネこそ経済発展のエネルギー」なんてキャッチフレーズが出てきそうである。
過去に崩壊した社会主義国家ではないが、別の形の経済社会、経済成長無き社会を構築できなければ、温暖化は止められないだろう。それを選ぶのは最終的には国民であり、世界の市民だが。ただ、国家はなかなか市民の目をその方向には向けさせないものである。

結局今の日本の自由主義的資本主義はまたまた起こった急成長企業の不正、コムスンの樋口公一に代表される、儲かればいいが、この国の先端企業である。勿論真面目な企業の方が多いだろうが、コムスンのような企業と戦わなければならない。しかも、現場の介護士はぎりぎりの生活を強いられ、社長は東京ビッグサイトで、これがこの国の資本主義である。

そうそう今回は「あっぱれサルコジ夫人」だが、ドイツメルケル首相の檀那もあっぱれである。首相の伴侶として、サミット参加首脳のご夫人たちのエスコート役をこなしているようだ。
こういう個人の自立、独自性という面では、やっぱり今だ「欧米か」。
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ〈自衛隊イラク反対情報収集問題〉」もよろしく。
「この国をだめにする女性政治家たち」?僕の考える
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この野外展示場?のインスタレーションは昨日完成したキヌサヤエンドウの支柱です。毎年毎年組み立てては壊し組み組立てて壊し、これを14回繰り返してきた。この支柱が出来ると、我が家の畑がぐっとアートになってくる。
ここに来て最初のころ、この支柱を作っていると、隣のトエさんが「いい手が出来たね」と声をかけてきた。最初、「いい手」とはなんなのか分からなかったけど、手とは豆の蔓の支えのことだった。ここでは、共に暮らすいろんなものたちを人間のように扱っている。豆の支柱は、豆をそっと支えるやさしい手なのである。

世の中には、男と女がいる。それは素晴らしいことだ。男しかいない社会、女だけの社会、ありえないが、あったとしたらぞっとする。細かい議論は別にして、男の男性性、女の女性性、これが共にあってこその世の中である。冒頭の豆をそっと支える支柱のやさしさは女性性(母性)かもしれない。
最近は男女共同参画、以前は男女同権、社会的ジェンダー(性差)などと、男と女の違いに対する差別を解消する運動が延々と続いている。ある意味、現代社会の社会改革は男女平等、女性解放の歴史だったと言っても過言ではないが、男女のいろんな意味での性差が解消されることはないだろう。また、その違いこそに価値もある。ただ、社会活動の平等は保証されなければならないが。

しかし、女性が女性であることで、愛されたり、やさしくされたり、いたわれたり、輝くこともけっこう多い。先のニスユニバースで日本代表が世界一になったが、これも女性の特権の最たるものである。ただし、今回の日本代表(名前を覚えていない)といい、前回2位の地花くらら?といい、世界1、2位の美女とはどうも考えにくいのだが、世界の美の基準が変わってきたのか、世界が見る日本、アジアの美があのようなものなのか、少々疑問が残る。ただ、ミスユニバースは以前からアメリカの世界戦略の一つであり、当分、ブッシュが日本のポチを手放したくなかったから、御褒美をくれたのかもしれない。

アメリカが中米を重視した時は確かコスタリカ代表が、イスラエルに肩入れする時はイスラエル代表が、イスラムに擦り寄った時は何処だったか、イスラム圏の代表が選ばれて、イスラム社会では水着審査のあるミスユニバースなどはしたないと大問題になったと記憶している。

さて、話が横路にそれたが、今日のテーマは「日本をだめにする女性政治家」だった。まずそのトップに思いついたのが、自民党の片山さつきである。というより、片山さつきをTVで見たからこそ、このテーマになったのだ。
先日の日曜日の朝だったか、TVの政治討論番組で、片山さつきが自民党の作った「国民年金は安心です」旨のチラシを振りかざして「ここに書いてあるように国民年金の5,000万件の浮遊データーも全部洗い出し、年金は保証する、と総理がいっているから、国民の皆様安心してください」と繰り返していた。何の根拠も示さず。

要するに、彼女は小泉チルドレンとして議員になり、安倍政権でも重要ポストについたが、彼女が政治家として力量を発揮しているのは、正に彼女が女である、ということである。
彼女の役割は自民党の広報活動のようだが、正に聖子ちゃんカットのオバサン番で、あの年の国会議員としては、多少の美貌を振りまき(美貌というより可愛らしさ)、ただひたすら「安部総理を信じてください」では、サラ金の「プロミス」「武富士」「レイク」・・・などの、「安心なサラ金です、ご利用は計画的に」とにっこり媚びて客を引くサラ金おねーさんたちと大して変わらない。自民党もサラ金も、信じたあげくに騙されて首を括ることになりかねない。

次ぎに政治をだめにしつつある女性政治家は社民党の福島瑞穂である。これがまたいけない。社民党なら、本来社会変革の女闘士でなくてはならない。社民党などと社会主義と民主主義のあいの子のような、「皆で仲良く楽しい社会を」なんて中途半端な党名だが、本来社会変革を求めて、体を張ってでも権力に抵抗すべきでしょうに、ピンクの服をきて、ものわかりのいいPTAのオバサンのようで、「自民党は弱者切捨ての政治です」と明るくさえずるだけで、彼等が目指す社会モデルが見えてこない。あたしたちは善良なおばさんでーすでは政治にならない。

きりりと引き締まった美人闘士ローザ・ルクセンブルグは造作的に無理でも、アウンサンスーチーのような知的な美しさが欲しいものである。日本人の政治意識なんて簡単なもの、美人党首(清楚で知的で深く秘めた闘志があって、もちろん美人で)が出れば一気に票が集まるでしょう。土井たかこから福島瑞穂では役不足、次ぎの辻本清美は、うーん、女性性を捨て市川房江を目指せば道は開けるかもしれない。でも以前のような単なる組織人になってしまったら、つまらないオバサン政治家になってしまうでしょう。

僕が言いたいことは、女性政治家はダメだということではない。女性性を売り物にした、中途半端なやさしさ、善良そうな政治家は、政治の論点を女性性によってぼかしてしまうと言うことを言いたいのである。
そういう意味では、男の中に女性的政治家というのが実に多い。その筆頭が民主党の鳩山由紀夫や小沢一郎である。表面的には方や女っぽく、方や強面だが、言ってる中身がねちねちした体制批判で、何をやりたいのがビジョンが見えてこない。また、TV露出の多い自民党の平沢勝栄(字はこれでよかったか?)、こう言うのが一番の曲者。善良そうな体制批判の振りだけする保守党政治家。
これら政治家に共通するのが、カント言うところの「善らしく見える悪」である。結局何も根本的に改革できないのである。

最後に断っておくが、僕は男尊女卑派ではない。けっこうフェミニストだし、男を蹴散らしてでも筋を通す、頑張っている女性は大好きです。そこにちょっと人間的な可愛らしさ(これは男も女もないでしょう)が隠されていたらもっといい。
丸山 暁(56歳・人間)
「田舎人(いなかびと)通信」もよろしく。
同じようだがついでに「僕の考えるブログ」も。

「生の最後に思うこと」?僕の考える
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美しいものの早すぎる死は、その美しさをよけいに際立たせるものである。ZARDの坂井泉水さんの死もそのような死だったと思える。この白い花はスピノシマという原種の薔薇で、この時期にだけ花開いて、さっと散っていく清楚な花である。坂井さんの魂にこの花を捧げよう。坂井泉水さんがなくなった日は、今年初めて咲いた1輪のスピノシマだったが、今は数輪花開いて彼女の魂を慰めているようだ。

意識しては、ほとんどJazzしか聞かない僕だが、その時代時代に街に流れているポップスや歌謡曲で心に響いてくるものがある。特にだれそれのファンというのではないが、そういう曲の一つがZARDの「負けないで」である。元気の無い時、意識せずとも「負けないで」というフレーズが心に浮かんでくることがある。「生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、いいさ、生きてりゃいいのさ・・・」という井上陽水のフレーズが浮かんでくることも。時代時代の名曲とは何処からか聞こえてきて、心に深く住みついているものだ。

松岡農水大臣、緑資源機構関連の山崎進一氏の自殺、ZARDの坂井泉水さんの死、ここのところ否が応でも死、どのような条件下の死であっても、について考えてしまう。昨日も母親が自分の女の子を殺したと報じていたし、銃による殺人も増えてきた。イラクでは毎日のように内紛(イラク人の宗派テロとアメリカの国家テロ)で人々が死んでいく。死が日常生活から遠のいたから(核家族で肉親の死の体験が希薄)、命の尊厳が分からないという有識者も多いが、情報化社会の今は、世界中のあらゆる死が情報としては身近になった。

僕が人間の死を最初に意識したのは、多分幼稚園のとき見た映画「日本誕生」である。木の上にいた兵士に火矢があたって、兵士が炎に包まれて落ちていったシーンが今も心に残っている。その死は苦痛に満ちた死だった。現実的な死体を見たのは、小学校5年性の時、川から引き揚げられた腐乱死体であった。遠めに、気持ち悪いと思いつつ「これが人間の最後の姿か」という冷めた印象が今も残っている。

また僕には臨死体験がある(臨死体験だと思っている)。このことは「市民ジャーナル」の最初の頃も書いたがここでも紹介しておく(ブログというものは本と違って、原則的に一回性の読者を対照にしているので、重要なテーマは何度でも繰り返します)。僕は幼稚園の時、激流の滝壷に落ちて十数分浮いてこず、仮死状態で引き揚げられた。足を滑らせ、あっという間も無く激流に引き込まれ、水中を回転しながら流されるうちに、明るいが深いプロッシャンブルーの世界に包まれて(視覚的にではなく感覚的に)、その最後の瞬間に頭にあったのは「これで死んでしまう。もう家族に会えなくなる。生きていたい。」というものだった。
その最後の意識の記憶「生きていたい」が、僕が今も思う、死に行く瞬間の最後の人間の意識だと思っている。

ZARDの坂井泉水さんは、病院の手すりから落ちて死んだと言う。落ち行くたった3mのコンマ数秒の時間で、彼女に浮かんだ意識は、きっと「死にたくない、歌いたい」ではなかったか。彼女の死と死に至る状況は全く違うが、松岡農水大臣とて、覚悟の死のようだが、最後に頭をよぎったことは「生きていたい」ではなかったろうか。
脳天気にここまで生きてきた僕とて、「死にたい、死ぬしかない」と死に方を考えたこともある。しかし、どんな死に方を考えても、最後の一瞬、一瞬とは数分の1秒でもいい、に頭に浮かぶのは「生きていたい」ということだろうと考えてきた。

松岡農水省の死を、石原慎太郎都知事は「彼も侍だった」と評していた。多くの政治家たちが、彼の死に疑問を持ちながらも、どこかで「潔さ」を国民に訴えようとしているが、あえて、ここで死者に鞭打つわけではないが、政治家としての彼の自死は決して潔いとはいえない(ここではあえて個人的な死ではなく政治家としても死を考える)。
彼が、自分を殺すことで守ったものは、国でも国民でもなく、彼が係わってきた政治の闇であり、政治体制(特に現政権の腐敗構造)だけである。彼の自死は潔いどころか、ヤクザが拳銃で長崎市長を射殺して、民主主義を脅かしたように、対話による民主主義を封殺する行為以外の何ものでもない。これまでも、このようにして、この国の多くの政治の悪、闇が葬り去られてきた。彼は自殺によってこの国の民主主義も殺したのである。

安倍総理が松岡農水相の自殺の原因であったであろう緑資源機構の解散を示唆したという。
これは政界官僚の腐敗を個人の問題に摩り替えて、事件を無かったものにする政治の常套手段である。問題を起こした国家機構や組織は名前を変えたり、組織形態を変え(公益法人や独立行政法人など)実体はアメーバーの如く形体を変えて生きながらえさせる。
昨日の国会での政府の大慌てでの国民年金関連の法改正も、社会保険庁がやって来た悪(金だけ集めて知らん顔、数千億円の無駄使い、国家的サギ)をうやむやにして、選挙目当てに形だけの法改正を急いだだけである。騙されてはなりません。もちろん、保険金の正当な給付は急ぐべきだが。

なんだか、最初は死生観から入ったのだが、松岡農水相の自殺、政治、国会中継が頭に浮かんできて、書いているうちの政治批判になってしまったが、本当は、人間は自死しようと事故であろうと死の瞬間は、「生きていたい」ではないか、ということが言いたかったのである。だから、きっとどんな死でも、最後に思うことは「死」では無く「生」ではないだろうか。それが生きていると言うことである。もちろん大往生というのもどこかで理解できるが。
だから、人間、もし死にたくなったとしても、「生」がそっと寄り添ってくれたら、死神も去っていくのではないだろうか。

小噺また一つ「ちゃん、安倍首相も自民党も年金を全面的に救済するって、国民に寄り添ってきたね」「とんでもねえ、ヤツラは国民に寄り添ってきたんじゃなて、選挙目当てに擦り寄ってきたんだ」。寄り添うと擦り寄るは偉い違いです、擦り寄ってくるものには気を付けましょう。後で偉い目をみます。
丸山 暁〈56歳・人間〉
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