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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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「松岡大臣と子供たちの自殺」?僕の考える
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僕の家の隣のトエさんは元々兼業農家だが、彼女は専門の作物の他、あいた土地(あいた土地といっても我が家の数倍の広さだが)に、朝早くから日が暮れるまで、寒い日も暑い日も作物を育て続けている。きっと彼女の人生のほとんど、数十年そうして来たのだろう。
そんな彼女に聞いてみた「毎日毎日良く働くね。嫌にならない?」と聞くと、「嫌ではないが、仕方なくやっている」と、朗らかに答えてきた。たぶん、人性もそんなもの、生きるために仕方の無いことはあるだろうが、嫌々やるのではストレスがたまる。仕方なくても、嫌々やるのはよそう。

やはり今日は松岡農水相の自殺は避けて通れない。何故彼が死に至ったか、自殺の動機は何か。最近の報道、事務所費、還元水、そして緑資源機構の官製談合問題などなどが、彼の自殺にどのように影響していたかは、ここでは言及すまい。まず、如何なる人間の如何なる死であっても、人間一人の死に対して、お悔やみを申し上げる。
日本の自殺が3万人を超え(少し減少傾向にあるようだが)、病気や経済的事情と共に、組織でのいじめ、心労や過労によるストレスによる自殺が急増している。また、経済問題や病気とは程遠い、本来大事にされているであろう子供たちの自殺もここ数年社会問題化してきた。
今回の松岡大臣の自殺を、彼が引き起こした、もしくは係わったであろう政治問題としてではなく、ある組織における一個の人間の問題として考えた場合、そこに現代社会がもつ病理が現れてくる。その病理は、いわゆる一見普通に見えていた子供たちの突然の自殺と同じなのではないだろうか。

方や国の最高機関である組織(内閣)と、最も社会的に庇護されるべき弱い立場の小学生など子供たちの組織(学校)と両極で起こっていで別物のように見えるが、そこで起こっていることは、「場や目的を共有しながら、普段何事も無く仲良く生きている」のだが、実は個人個人が全くその共通に見える場で孤立してきていることの証ではないだろうか。
松岡農水大臣の自殺後の政治家(特に同僚である自民党の政治家諸氏)のコメントは「彼は同士であり、共に頑張ってきた、これからも一緒に頑張りたかった・・など」彼を仲間と捉え、共に歩いてきた旨、これからもそうであったろう心情を述べている。
そういう、政治家として皆に期待され、信頼されていたように見えた、もしくはそのように対応している組織の中で、松岡農水相が、心の吐露、本音で相談できる同僚仲間は1人もいなかったのだろう。もちろん、政治の世界、同じ党であっても疑心暗鬼、足の引っ張り合いが常なのであろうが、そういう状況下であっても、何がしかの人間的接触、心情を吐露する仲間、たとえ敵であっても、本音で議論する相手がいてもいいだろう。社会とは、そうあるべきだ。

実は、こう言う状況は子供たちの世界にもいえる事である。学校で家庭で本当は、少なくとも形の上では大事にされているように見える子供たちが、何の兆候も無く突然自死していく。彼(女)等には大人と異質な特異点として思春期の心の揺れ動きはあろうが、これはいつの時代でもあるはずだ。
しかし、近年の少年(女)期の自殺はそこにいたる道筋があまりにも冷ややかに見える(もちろん個々の葛藤、苦しみは子供とて想像を絶するものもあろうが)。冷ややかというより、他に選択の余地が無い、逃げ場が無い冷ややかさ(上手くいえないのだが)。
彼(女)等とて、本当は死にたいはずが無く、誰かに一瞬心を開けたら、誰かがちょっと手を差し伸べていたら、きっと死への道を選択しなかったであろう。

ここで言いたいことは、政治的な問題は別にして、松岡農水省は孤独だった、ということである。それは、死に行く子供たちと、人間としては同じ孤独ではなかったか。どんなに社会的地位があろうと、注目されフラッシュを浴びようと、一見大事にされ、気にかけてもらっているようと見えようと、苦しい時、死にたい時、彼(女)等は、心が触れる関係を何処にも見出せなかったのではないだろうか。

普通の時は、どこかに自分を守ってくれる何かを確信、おぼろげでも、のあるときには、少々の苦しさにも耐えられるものである。しかし、たった一人になってしまったと思い込んだ時(本当は、どんな人間でもどこかで誰かが見てくれているのだが、普段それにはなかなか気づかないものである。特に、心が弱っている時は)、一直線に死神がやってくる。ひょっとしたら死神こそが、唯一自分をわかってくれるように思えるのではないだろうか。

やっぱり、今の社会はあまりにも人間としての他者に無関心になってきた。社会自体は賑やかに華やかに情報は飛び交い、情報端末的には、個々が交信しているようだが、その情報に心がのっかっていない。
今政治に求められるのは、政策論議も大事だが、政治家自身の人間性回復である(人間性とは、正義感であったり人間愛であったり他者への思いやりであったり)。残念ながら政治家にあまり期待はしていないが、やっぱり国家の政府はその国の社会の一面を反映しているだろう。子供たちを政治家を死に追いやらない政治であって欲しい。
丸山 暁〈56歳・人間〉
僕の考えるブログもよろしく。
ついでに〈田舎人(いなかびと)〉通信も。
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「国家安全保障と国民の命」?僕の考える
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青空に浮かぶ地面から生えた2本の棒杭。これは怪しいレーダーではありません。よーく注意して見られた方は、棒の上の方にワイアーが張られ、一寸蔓が絡まっているのが見てとれるでしょう。これは、ブドウの支柱です。毎年簡単な既成の支柱で作っていたのだが、ぐらついてすぐ壊れてしまうので、今年は杉丸太の杭を支柱にした次第。杭は、腐食防止のため、根元を焼いて、ペンキを塗ってある。こうすると、ブドウの支柱とて、ちょっとした野外アートとなる。

さて、数日前、夕食時にTVを見ていたら、最近流行の政治討論番組で、軍事、武器評論家が得意そうに「日本はいざという時には、中央線沿線(東京のJR)のTという辺りの地下に、国家を守るための施設(首相官邸や防災センター、指令施設など)を作っているから、安全保障はけっこうしっかりしている」旨の発言をして、参加者は驚くと共に感心していたようだった。最後まで見ていたわけではないので、どのような顛末になったのかは解からないが。最近のサル山のサルたちのようにキーキーキャーキャー騒がしい、ミーハーねーちゃんや芸人たちを相手にした討論番組は見るに耐えない。

このような地下防衛施設的なものが東京立川の昭和記念公園辺りにあることは、数十年前からささやかれていることで、どの程度のものがあるのか、真実かどうなのかは僕には解からないが、一国を治める国家体制としては、あってしかるべきだろう。
第2次大戦時にも、1億玉砕を覚悟?した大日本帝国は焦土と化し焼け出された臣民を尻目に、松本の大本営地下施設に天皇を移し「国体(国の姿)」を守ろうとしたのも事実のようだ。

さて、その地下施設はいつ使うのか。多分、何らかの理由によって首都圏、特に東京が壊滅状態になるか、機能不全に陥った時のためだろう。では、そのような状況とは、如何なる状況か。多分大きくは3つ考えられる。
一つは、ほぼ半世紀中に(たしか30年確立50%)起こるであろう東京直下型地震、もしくは東海沖地震(これは30年確立90%)による首都機能麻痺。
二つ目は、地球温暖化により水面上昇(これも今のままなら今後半世紀で起こるだろう)と台風の高波、低気圧による海面上昇、それに地震が加われば、東京の主要部の70%程度が水没してしまう。首都圏のライフライン、特に電力供給施設、通信ケーブル、各種共同溝は水没し東京は全く機能しないだろう。そのときは復旧などという言葉さえ成り立たず、首都放棄しかないのではないか。
三つ目は、全く無いと思っているが、何処かの国が東京に核弾頭を打ち込んだ時。戦略的には小規模な広島型核弾頭数倍のものを国会辺りに落とせば首都機能は麻痺するだろうが、本気で日本に核攻撃をくわえるなら、まあ、広島型の数十倍のものを5?6発打ち込むだろうから、そのときは、立川の地下基地など何の役にもたたない。ただ、日本に核弾頭を打ち込み占領しても、何の役にも立たないから、そんな国は何処にも無いはずである。それなのに最近日本には核武装論が頭をもたげてきた。北朝鮮は一寸気になるが、早晩体制崩壊するだろう。

確かに、上記のどれかで首都機能が麻痺した時、立川辺りの地下基地は役に立つだろうが、その時、首都圏の市民、生活者、大衆はどうなうのか。
公的な予測では、関東大震災級の地震では600万人の避難民が出て、その内60数万人は避難所に入れないで、都市浮遊民になるという。その時死者は数万人(3万人程度だったか)というが、僕が係わったの昔の調査(バイトとでやった旧都立大の調査)では死者20万人。
また、地球温暖化による海面上昇と台風や高波、そして堤防決壊(当然江戸川、隅田川、荒川のどこか海抜0m地帯の数箇所でおこるだろう)で水没した東京の市民は何処に避難するのだろうか。2、3年前国が地方自治体に「水害時のハザードマップと避難計画を出せ」と指示した時、板橋区は「全域が水没するので避難場所がありません」という計画?をだした。多分東京23区の多くがこのような状況ではないか。

僕がここで言いたいことは、関東大震災や地球温暖化、最悪のシナリオの核攻撃に対し、日本国家の政府機能や天皇が生き残る計画、算段はけっこう進んでいるのではないだろうか。そして、多くの国民も「それは当然である、政府や国家司令部が崩壊したら国家の形態が崩壊し日本もなくなる」と考えているのではないだろうか。現代版臣民教育が行き届いてきた。
しかし、果たして、国が国を守るということは、それでいいのだろうか。国は国家体制を守ると同時に、それ以上に国民を守らなければならないのではないか。今の政府には国家体制を守れても、国民を守る計画がない。その顕著な実例が、東京の歯止めの無い拡大膨張である。東京はいまだ地下地上とも開発を拡大し続けている。そこには、都民を災害から守るシナリオが無い。
第2次大戦では国民は天皇のために死ねと教えられて、そのようにしてきた、今国民は日本国家の経済繁栄のために死ねといわれ、それを受け入れている。

日本が今すぐすべきことは、オリンピック誘致や美しい日本を愛する国民教育などではなく、首都機能移転と国土再配置(もちろん強制ではなく)ではないだろうか。僕のように、個人の意思で脱出することも出来ますが。
安倍総理は、今度の洞爺湖サミットで地球温暖化防止のリーダーとして、2050年までに温室効果ガスを半分に削減する「美しい星50」を提唱するという。まったく、実効性の無いキャッチフレーズ内閣にも困ったものだ。まず、京都議定書の6%削減は何処行った。

そうそう、環境大好き派の教祖様レスター・ブラウンがNHKの番組で「地球環境は危機的状況にあるが、環境技術を駆使すれば経済発展を続けられる」と言っていた。彼の主張は果たして先進的で真摯なものであろうか。僕にはそうは思えない。彼は一見環境重視派に見えるが、しょせんアメリカグローバル帝国のデマゴーギーでしかないのである。
人類を守るには「地球の壊滅的環境破壊は既に始まっている。今すぐ経済発展のパラダイムを転換し、エネルギー消費(たとえクリーンエネルギーであっても)を抑制し、富の再配分を行わなければ、数十年で地球の文明は破壊するか、資源争奪第3次世界大戦が勃発する」というべきなのではないか。

小学校3年のとき女の先生が「丸山君、また宿題忘れたの、ダメじゃない」と言うと「まあ、ええがの、明日もってくるけー(広島弁)」と僕は言っていたそうだ。地球の問題と僕の宿題では随分違うが、でも、個人の生き方からすれば本質は同じかもしれない、レスター・ブラウンもモラトリアムにおいては僕と大して変わらない。
丸山 暁〈人間・56歳〉
〈僕の考えるブログ〉もよろしく。
専修大学北上高校 高野連再加入?このままでは清水、木村の両選手は生贄か?
特待生問題で先月野球部を解散した専大北上高校が、僅か一ヵ月余後に高校野球連盟に再加入が承認された。

西部ライオンズに端を発した裏金問題、特待生問題は、専大北上出身の早稲田大学の清水選手が退部処分、東京ガスの木村投手が1年間の対外試合禁止の処分、プロ野球では横浜の那須野投手がマスコミの前で謝罪させられ、後は臭いものに蓋をしてオシマイという形になったようだ。

専大北上の問題が発覚した時に、高野連のラスプーチンと言われる田名部和裕参事は「これは除名に値する!」と息巻いて、これに驚いた専大北上高校は除名前に野球部を解散。
その後、特待生問題の全国調査をして見たところ、実に全国殆んどの私立高校400校近くが特待生制度を実施していたことが判明した。
それを全部処分したなら、夏の高校野球大会が成り立たなくなると思ったか、甲子園大会の“興行”を優先した結果、結局特待生問題は学校の自主判断に任せるとことになった。
特待生のいない私立大学は無いといわれる大学野球連盟は最初から調査をしないことを決め、プロ野球側も西部だけの問題で事を収めた。

一段落してみれば、一大興行である夏の全国高校野球大会はこれまで通り開催されることになり、大学野球はハンカチ王子の活躍で収入は倍増、プロ野球界も何も変わらず。
野球を取り巻く組織は皆安泰となった。

しかし、おいおいちょっと待ってくれ!!と言いたい。
それじゃ、退部処分を受けた早稲田大学の清水選手と対外試合禁止となった東京ガスの木村投手、そして、マスコミの前にさらし者されて謝罪させられた那須野投手はどうするんだ。
生贄にされて、後はみんな “知らんふり”はないだろう。
このままでは、あまりに不公平理不尽ではないだろうか。

きれいごとを並べて、弱い立場の若者だけに厳格な処分をして体裁を取り繕って、自分達は “なあなあ”で済ませ、うまい汁を吸う構造は蓋を被せて暗闇にそっと隠してしまう。
純粋無垢なアマチュアスポーツ精神はこれでいいのかい?
関係者は、心は痛まないのかい?
選手は許されても、組織関係者はきっちり落とし前をつけるのが “スジ”と言うものではないだろうか。
<佐々 疾風>

「大日本経済帝国の時代」?僕の考える番外編
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「龍の谷」で考える、この国の行く末は決まった、国民を食っても突き進む経済帝国である。この谷は、僕の山菜採りのフィールドである。ここは山菜の宝庫なのに、なぜか、地元の人は入らない。「龍の谷」には、何かが隠されている。それを知らないで、嬉々として山菜取りに励む僕には、いつか龍のたたりでもあるのだろうか。自然の中、村には、そのような不思議な空間がある。
さて、財務省が競争原理を導入した場合の国立大学交付金の試算をしたところ、東大、京大など旧帝大系で補助金が増え、85%の多くの地方大学では、補助金が減額するという。50の大学では半分以下になるとか。
数年前の突出した30大学を支援強化するとかの遠山プラン、大学の採算重視の独立行政法人化、づっと以前だが大学の序列を固定化した共通一次の導入など、大学改革、大学のレベルアップ、世界での競争力をつける(確かに日本の大学は経済大国としては貧弱である)といいながら、ここでも大学地域格差が拡大し続けている。学びの場でも何がなんでも競争社会である。

日本政府は大学に世界的な競争力をつけるのだと、すぐに役立ち、金になる研究には多額の金をつけ、成果の遅いものにはケチり、特に国家政策に批判的な研究にはびた一文金を出さないという方向が露骨に見えてきた。その結果が、先の旧帝大偏重地方大学切り捨てである。僕の母校も2流国立大だから、きっと切り捨てられる側だろう。まあ、そんな個人的ひがみではなく、こんなことをやっていたら、この国は益々中央重視地方切捨てが拡大し、地方の時代、格差是正といいながら、全く政策は逆行することになる。
特に、今の安部内閣は「教育改革、国民に平等で高度な教育」をと言いながら、国家政策の実体は従順な優秀な中枢機械と多くの交換可能な歯車やネジを育てようとしているのである。並の東大出は器用で創造力が弱いから、ちょっと競争機械に乗っけてやると良く先へ先へと働くのである。

もちろん従順な優秀な中枢機械とは東大、京大あたり(最近私大の早稲田慶応も昔は個性があったが最近ただのおりこうさんで面白くないね)などで、交換可能な歯車、ネジとは2、3流大学出であるが。付け加えれば、有名私大はマスメディアの享楽生産機械その他は都市労働(今の多くの労働者はホワイトカラーですが)消費機械と化していく。

こういう国家政策が出るのは、やっぱり東大、京大、せいぜい彼らに追従しようとする阪大、東北、早稲田、慶応・・・などのエリートと自他共に錯覚している連中が、霞ヶ関で保身に走りつつ、世界情勢に遅れまい、アメリカに嫌われまいと必死で考えた結果なのである。あたりまえに競争社会を生き抜いてきたあたりまえの頭ではあたりまえの市場経済競争原理とやら、だれでも考え付くお決まりの答えしか出てこない。
皆さんも、たまにTVを真剣に見てください。国家政策、現在の国際情勢(アメリカ主導の社会)に批判的なのは、地方大学の先生たちが多いことに気づくでしょう。東大の先生が国策に真剣に批判する姿など見たことない。特に、経済発展を批判する技術、自然科学系の先生は皆無である。体制批判の羹尚中さんは、既に個人的スターだからけっこう自由にやっているようだが、彼も国家体制批判までは踏み込まない。

もし、この国に、東大助手時代冷遇されて東大を出て行った宇井淳さんがいなかったら、この国の環境問題は半世紀遅れていたのではないか。宇井淳さんが日本の公害を告発していた時には苛め抜くか無視していたこの国の知(大学のお偉いさんや知識人たち)とやらはなんなのか。宇井淳さんの研究で明らかになって、少し環境先進国になったからといって、彼を一度も公式に評価もせづ、日本の環境技術は世界で売れるなどというこの国の政治経済屋サン、著名大学の先生たち、銭にならなければ、何もしないさせない、これがこの国の先端教育である。

僕は、今進みゆくこの国の高等教育、東大出による東大出のための教育(東大というのはあくまで象徴的意味で、財務官僚や文化官僚になられる京大や早稲田さんも同様ですが、やっぱり引っ張っているのは東大でしょう)とやらに弱者を利用する「大日本経済帝国」の姿を見るのです。

ここで言いたいのは、このままではこの国は、役に立つ(国家や経済的に)人間だけが育てられ、役に立たない、国家に従わない者たちは、虫けらのように扱われる時代が、もうそこまできています、という警鐘です。2流3流の僕たちが声を大にして叫ばなければ。
最後に断っておくが、東大出でも国家の中枢から外れた、エリート街道をさっさと降りた方々、これはなかなか面白い人間が多いことも付け加えておきます。
丸山 暁〈56歳・人間〉
〈僕の考えるブログ〉
〈田舎人通信〉
「憲法改正は天皇の開放から」?僕の考える
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この花は花弁が何処となく菊に似ているが、この春我が家に咲いたアネモネである。何故、この花を選んだかというと、花弁こそ1、2輪少ないが、菊の紋章に似ていたからである。
市民ジャーナルの原稿を書くのも毎週となると、たまにはテーマに困ることがある。事件や社会問題を扱えば、いくらでも言いたいことは転がっているのだが、どうも、政治不信や不祥事や凄惨な事件ばかりで、またか、ということが多く、僕には、それ程実証的に深く分析検証するデーターも能力も無いので、同じことの繰り返しになってしまう。

そんな時、今回のテーマはこれだと、瞬時にひらめいた。数日前、天皇皇后の記者会見を見たときである。その場で天皇は、「自分が海外に行くのは公務で、個人の意思や静養で行くことは無い」と、暗に、皇太子妃雅子さんの静養目的といわれるオランダ訪問を批判し、今後そのようなことが無いようにと釘をさした、という。また、皇后は、「もし透明人間になれたら、学生時代のように、神田の古本屋街で自由に本の立ち読みをしたい」と言っていた。二人の発言を聞いて、僕は、彼等に締め付けられるような哀れさを感じると共に、日本という国の、どんな場にも、漂っている、言うに言われぬ真綿で首をしめるような閉塞感を感じたのである。こういう日本である限り、この国に本当の人間としての自由(自由というのは、自分勝手ではなく、相手の自由をも尊重した上での自由である)な社会体制は生れないと強く感じた次第である。

本題に入る前に、私事だが、今の天皇が皇太子の時、正田美智子譲と結婚したのが、僕が小学校の2、3年の時だった。その時、僕は広島の山奥の小学校で学級委員に選ばれ、副委員長にクラス1の可愛い子(今、当時のクラス写真を見ても、本当に色白で日本人形のように可愛い女の子であった。名前は小野もとこチャン。)がなって、「やーい、やーい、皇太子の結婚だ」とかわれて、テレながらも嬉しかったのを覚えている。

そんなことがあったせいか、子供心に、天皇や天皇制に対する関心と言うのではなく「奇麗なおねーさんが皇太子のお嫁さんになった」という感覚で当事の美智子妃にある種憧れを持っていた。そのころは今のようにアイドルやグラビアモデルなども無く、大人の雑誌「朝日グラフ」や「婦人口論」で見る美智子妃は、僕にとってはちょっと雲の上のアイドルだった。断っておくが、僕は中学生辺りから今にいたるまで、天皇制反対でるが。

だからといって、女性誌の皇室記事を読んだり、皇室番組(皇室アルバムという番組もあった、今もあるのか)を見るというのではないが、美智子妃個人には皇室の中では関心を持ってみてきていた。特に、彼女が、皇室のしきたりに悩んだり、いじめがあるというような報道があると、子供心に、スーパーマンになって何とか助け出してやろうと、夢想することもあった。
現実に、公式報道でもいじめはあったようだし、皇后になってからでも、精神的ストレスで失語症になったり個人的自由を抑圧、奪われ続けていたのは事実だろう。

それと、近年は、「市民ジャーナル」でも何回かは取り上げたが、現皇太子と結婚した小和田雅子さんの苦悩が加わる。
20数歳で世界を羽ばたき豊かな才能を発揮していたであろう彼女が、皇太子に嫁ぎ、自由を奪われ、夢を立たれ、行動を抑制され、きっと皇室という僕たちに見えない世界でのしきたりやいじめのようなもので苦しみ、その結果、彼女の顔から覇気が無くなり、無気力な表情になっていったのは、ついこの間のことである。彼女の抑圧による精神的病は、公式な報道でも明らかなことで、決して僕の邪推ではない。僕は今、彼女より数段年上であり、社会での人間の生き方もそれなりに学んだ今だからこそ、彼女がまだ若い女性であることもあり、哀れでならない。今からでも、彼女を救い出だせる手段があれば、個人的にも、日本国民として、そうすべきだと考えている。

さて、そろそろ本題に入ろう。そうしないと、僕のミーハー的皇室アイドル論で終わってしまう。

結論は「今の日本社会の隅々にまで漂う閉塞感は、皇室を日本国民の象徴と位置付けて奉りながら、自由を奪い、彼らを日本国民のスケープゴートとすることで、畏敬を持ちながらも哀れさをさそい、常に抑圧され閉塞的な日本人の心情を、皇室の不自由さと対比することで、諦めに導いているのではないか」ということである。
これは、昔から日本社会にあった、日本社会だけでなく、より惨めなもの、より下層のものを社会的に配置して(江戸時代のエタ、非人、今も続く部落問題など)、日常の苦しさを迂回させる、それと同じような役割を憲法の元、天皇家が担っているのではないか。特に近年外部から嫁ぐ普通の女性を、一見シンデレラ物語に見せかけて、実体は、自由を奪われ苦しいものなのだと、国民に提示してみせ、国民の溜飲を下げてる役割を果たしてはいないだろうか。このことを、多くの敏感な日本人は、口にはださないが、暗に感じとっているのではないだろうか。もしこんなことを考えるのが僕だけだったら、僕がおかしいのか、この国がおかしいのか、どちらかだが・・・。


先の天皇皇后発言や昨年皇太子が「雅子妃の病気が皇室の抑圧や彼女の夢を奪っていることから来ている」と言及しても、政治や日本国民は皇室のあり方を変えようとはしない。ただ黙って、悲劇のスケープゴートを畏敬の念?をもちながらも冷ややかに、触らぬ神に祟りなしと、遠巻きに見つめるだけである。

僕は、自民党の画策する方向での改憲論では護憲派であるが、天皇制を見直し、基本的に、天皇制を解体し、解放する(これは、天皇に国家を支配する自由を与えるというのではなく、天皇家を一国民として再構築する)という意味のおいては、改憲派である。
その時初めて、日本国憲法のもと、真に全ての国民が自由で平等になり、皇后、雅子妃の苦悩も消え去るのではないだろうか。この国の天皇は憲法で縛られた最も制度的に束縛され、不自由な人間なのである。これがこの国の象徴である限り、この国の国民にも真の自由は無いと考えている。
「おまえさん、あたしも皇室とやらに入ってあんな奇麗なおべべ着て馬車に乗ってみたいものだね」「おおそうかい、そんなとこへ行ってみろ、おめえ1人じゃ湯屋にも寄席にも行けやしねーぞ」「それじゃ生きてても仕様が無いね、じゃ、まえさんの荷車の上でせんべいでもかじっているか」
丸山 暁(56歳・人間)
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岡田克也民主党元代表を見直す
先日のテレビでの討論番組の中で政治資金問題を議論していたところ、評論家の竹村健一が「そんな細かいことを議論している間に世界は大きく変化している。政治家はもっと世界全体を見て国際情勢の中の日本の進路を論じるべきだ」と述べた。
それを受けて、石原信晃行革規制改革担当大臣は「そうですね」と頷いて同調姿勢を見せた。松岡農水相の “何とか還元水の事務所費問題”にけりをつけて幕引きを図りたいところに格好の助け舟が差し伸べられた。
しかしそこに、岡田克也元民主党代表が反論し、「私は竹村さんの意見に反対だ。大所高所の議論をいくらしても、それを議論する政治家が信用できないのでは、国民はついていかない」と。
至極もっともである!

最近の政治討論番組で、評論家が結論めいたことを言うと、「先生のおっしゃるとおりですね」などと、 “よいしょ!”する司会や政治家が多い。あのハマコウでさえも、評論家面して先生などと呼ばれて悦に入っている。しかし、評論家などは所詮 “評論”家で、実務の矢面に立って実行することの無い人種である。もちろん良い意見も時々述べることもあるので、その存在意義は十分認めるところではあるが、結論めいたことを威張って言うような立場ではないだろう。
岡田克也は良くぞ “びしっ”と釘をさした。ただのムッツリ人間ではないと見直した。



「三日坊主でも継続は力なり」?僕の考える
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この写真はゴッホも描いた南仏アルルの跳ね橋である。僕もゴッホ気分で5枚スケッチした。ゴッホは正に死んでからの天才であり、彼の生前中に売れた絵は弟テオの画廊でたった1枚、23フランだった。彼の「ひまわり」など60億円で日本にやって来たが、ひまわりだけでなく彼の油なら全て数十億という値がついている。ああそれなのにそれなのに、ゴッホは貧しく狂気のうちに死んだ。

ゴッホを天才というが、本当のところ、ゴッホがゴッホでなかったら(要は、今ほど画商が値をつけなければ)、ゴッホの絵にどれだけの人が感動しただろうか。僕は、子供の頃から今でもゴッホの絵は下手な絵だと思っている。でも好きな絵でだが。
僕が本当にゴッホのすさまじさを感じたのは、ゴッホのアルルでの膨大なスケッチを見てからである。彼のスケッチは、いわゆるレオナルド・ダビンチのような繊細で緻密なスケッチでも対象に忠実ないわゆる写生のようなスケッチでもなく、荒々しい筆致での強い短い線を繰り返したスケッチだが、まるで、その絵の中から光やざわめきが聞こえてくるような力強さを持っている。あえてタブローとしてあそこまで強烈な色使いの油絵にしなくても、十分ゴッホの衝動、描きたいものが伝わってくるスケッチ群だった。関心のある方は、岩波文庫の『ゴッホの手紙』をお勧めする。けっこうスケッチを楽しめます。

ゴッホがゴッホになるためには、3年ばかしの狂気の中のアルルでの有名な油絵以前に、オランダでの葛藤(宣教師として大衆の苦悩を見つめる目、パリ画壇への嫉妬、反発、対象の本質を描き取ろうとした膨大なスケッチ群)があればこそである。その継続的な努力、苦悩なくして、ゴッホはゴッホたる天才にはなれなかった。
今回は本来の僕の担当日からすれば番外編なので、社会批評なんて言わないで気楽に行きます。

以前、イギリスを旅した時に『Bluff your way in Modern Art(「現代芸術における安易な道」とでも題しておこう)』という小さな本を見つけた。そこには、現代作家への道は「自分を信じて、同じ手法で数十年描き続けろ、そうすれば運や人がついてくる」とある。まあ、これは最低条件であって、そうして頑張った人が全て認められるということではないだろうが。
僕もまがりなりにも、標記のようなスケッチをブログに載せられるようになったが、これでも、数十年絵を描き続けている。もちろんプロの絵描きではないが、ここ30数年来小さなスケッチも含めれば10枚以下の年はなかったのではなかろうか。多い年は、百枚単位で描くこともある。小さなものだが2千枚近く描いた年もあった。

以前、銀座で展覧会をやっていた時、「上手ですね、私なんかこんなに美味く描けません」と評する観客が随分いたが、僕はその度彼(女)に言っていた「あたりまえでしょう、何もしないで誰にでも美味く描けたら絵描きなんてどうしたらいいのです。僕だって10年20年描き続けてやっとここまできたのです」。
そうなのです、僕が大人になって、24、5で絵を書き始めた頃は、とんでもなく下手くそだったのです。それでも、多少個性的ではあったようだが。そして、描くことが好きだったのでしょう。10年20年30年書き続けていると、美味いというより、段々味が出てくるものなのです。

僕が、銀座で最初に展覧会をしたのは、多分25、6歳の頃、仲間(会社や大学の友人と母)11人とのグループ展「一展」だった。それが、一人減り二人減りで10回目には4人(母と友人2人と僕)が残った。今は亡き母は、芸大に行きたかったけど戦争中で行けず、それでも20代から60半ば死ぬまで絵を描きピアノを弾いていた。また友人の女性は、今ドイツで暮らし、けっこうヨーロッパを巡る現代美術作家になっている。僕は今、北上高地の早池峰山の麓の小さな集落で、このように暮らしている。

さてそろそろ、最終章に入ろう。今回言いたかったことは、やっぱり人間やり続ければ何かが身に付く、やり続けなければ、身に付かないということである。スピード時代、一瞬にして情報が世界を駆け巡り、巨万の富を手に入れる人間も現れる世の中だが、人間という身体に宿るsomething(何か)、能力や資質や才能や技量や知恵やetc.は、やり続けることで、やっと、身に付き、他者にも理解されるものである。

少々話し変わって、現実の社会問題だが、僕は彼を信用していないのだが「押し付け憲法を改正し戦後レジームからの脱却を図り、新しい日本を作るのだ」といい続ける安倍総理の主張を国民は受け入れ始めているのではないだろうか。これも、持続力である。
護憲派の共産党、社民党、護憲を叫ぶ知識人(大江健三郎さん、もっと頑張って)もただ「護憲」を叫ぶのではなく、国際平和へのシナリオ、日本を守る戦略をちゃんとシミレーションして国民の前に提示できなければ(僕の「世界親善美女軍団や世界少年少女合唱団や平和基金や・・」などのように)、「憲法改正新しい日本」と言い続ける安部さんに参院選も押し切られてしまいますよ。
今回のブログは、実は、「市民ジャーナル」を始めて1年が経過し、現在の「市民ジャーナル」の姿を見つめ、「市民ジャーナル」関係者と僕自身に対する「戟」をこめてのものである。「ブログ」というものは匿名性で流動的なもの(いい加減とは言うまい)、まあ、適当にやりましょう、という世界かもしれないが、やっぱり「人間」という実態が係わっているものでありたい。こんなこと書くと、嫌われるかな?まあいいや、わが道をとぼとぼ歩いていこう。

今日は最後にちょっと真面目な話「子供の頃から、僕は飽きっぽく、三日坊主と言われていた。今でもその傾向がある。でもまたしばらく経つと、三日坊主だがまた始める。そんなこんなで三日坊主も数十年繰り返せば、けっこう身につくものである」お粗末さま。
丸山 暁〈人間・56歳〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。
「フランスよ、おまえもアメリカ化(か)?」?僕の考える
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エッフェル塔あたりのセーヌ川沿いから、モンマルトルの丘越しにサクレ・クール寺院を望んだ、最もパリらしい風景の1つである。パリも一時近代的開発の嵐にさらされようとした時期もあったが、賢明なパリ市民は、経済開発よりパリの歴史文化を選択し、眺望規制によって、パリの何処からでもサクレ・クール寺院が望めるように建築規制を行った。そのことが古のパリを残し今のパリを築き上げてきた。パリは、女の子だけでなく、僕たちにとっても何度でも訪れてみたくなる街である。 

さて、先のフランス大統領選挙で右派(アメリカ型資本主義社会をめざす)のサルコジ氏が大統領になった。ヨーロッパ型の福祉国家をめざす左派ロワイヤル候補との一騎打ちとなったが、僅差だが明らかな差をもって、サルコジ氏が勝利した。10数年前、1か月程フランスを旅し、パリにも一週間ばかり滞在したが、そのころも地下鉄にはホームレスが随分いた。また、フランスといえばアランドロンやカトリームドヌーブのような一寸おつにすました白人ばかりと思いきや、アフリカ黒人やアルジェ系の浅黒い人種が意外と多く、花の都パリの裏側は、薄汚い路地や、貧しいものたち(特にモンパルナス辺りはベトナム。アジア系移民地区)の地区も多く、フランスという国の華やかさの裏の真実を見た思いがした。

地方に行けば、薔薇窓のノートルダムで有名なシャルトルやゴッホで有名なアルルとて、寂れた商店街、朽ち行く過疎の村がいたるところに見受けられた。日本の過疎の村や寂れた商店街は、どこか近代的な人間臭いみすぼらしさ、ちょっと気の抜けた空間という感じであるが、ローマ時代、中世からの廃虚は文明の消滅という殺伐とした荒涼感があった。
さて、そんな衰退を見せるフランスだから、サルコジ氏の「アメリカ型社会をめざす」という公約に国民は反応したのだろう。

戦後日本も欧米といいながらめざしたのは、アメリカ映画やTVのホームドラマにある近代的なアメリカ型の生活だった。今は、アメリカの政治、国家政策に批判的な僕も、やっぱりアメリカ映画に憧れ、中高生がおおらかに恋愛し、ポップコーンを食べながら街をステップを踏みながら歩いている姿に「僕にはムリだ、顔も体系も髪の色も違う」と思いながらも、ジーパンにTシャツを着て、イエローアメリカンを気どっていたのかもしれない。
日本はアメリカを追いかけ、正にアメリカに追いついた。多分は、健全な物の豊かさ、社会保障、安全性など一般市民の暮らしの快適さではアメリカを追い越したのではないだろうか。

その間、フランスへの憧れといえば、やっぱりパリに代表される芸術、歴史的都市遺産であろう。実は歴史的都市遺産といってもパリの街はナポレオン3世の時代(19世紀後半)バリケードによるゲリラ活動を防止し、治安部隊を速やかに派遣するため道路を広げ凱旋門を中心に放射状の導線を確保し国内治安のために再開発された街であり、パリは決して芸術歴史文化のために作られた街ではないが、結果として、現代においては世界有数の芸術歴史文化の街となった。それはもちろん都市景観だけでなく、ピカソやミロやサルトルやあボーボアールなど芸術思想の渦巻いた街だったからであろう。
では、そんなフランスが、何故、今になってアメリカ型の社会を目指さなければならないのだろうか。

人間やっぱり、絵や音楽や思想だけでは腹は膨れないということか。確かに、欧米という括りの中では中心的国の1つだが、さて、フランスの産業ってなんだっけ、と思い出してみると、せいぜい工業ではルノー(これも弱小化して、日産だかどこかと合併しているが)、ミラージュ戦闘機(これはアフリカにけっこう売っている)か、あとはよくトラクターでデモ行進をする農業ぐらいである。
そんなフランスが目指すアメリカ型社会とはどんな社会なのだろうか。社会福祉を後退させ、労働時間を増加し競争社会を築くのだだろうか。要は、前小泉首相や安倍総理の言う「頑張った者が報われる社会」ということか、その行き着く先は、やっぱりアメリカのような社会なのだろうか。そうだとしたら、やっぱり「フランスよおまえもアメリカか(化)?」である。

サルコジ新大統領のもう一点気になることがある。それは、彼がハンガリー移民(母親はユダヤ系)であるということである。昔から、ある社会のマイノリティーや虐げられた民が権力側に組すると、同胞を誰よりも残酷に扱うという歴史がある。ナチドイツのユダヤ人虐殺に最も加担(もちろん進んでではなく、自分の身を守るためであろうから、彼らを責めるつもりはない)して、同胞をアウシュビッツに送り込む手助けをしたり、アウシュビッツでカポーとして同胞を暴力的に統制したのはユダヤ人だった。繰り返すが、彼らの置かれた状況を考えると僕でもそうなりうる。虐げられる者が権力側につくと、虐げられる同胞に肝要になるのではなく、その地位を守るため、権威に認知されるために同胞にはより厳しくなる。
日本の戦後の負の歴史でもある50万人とも言われるシベリア抑留とて、時の権力者は連合軍に破れ、彼らは日本人を守るどころか、国のため、保身のため、同胞を売り渡したのである。いけませんね、また話が広がってきた。

これからのフランスサルコジ大統領が、どうフランスを采配するか注視して行くということである。単なる市場経済に飲まれていくのか、それとも新たな哲学的世界像を生み出すのか。どうもそんな臭いがしないのがきになる。

最後に、「とうちゃん、日本はアジアでフランスは欧米か?」「そうさな、元々はな、でも今じゃ、日本もフランスもアメリカ化(か)」・・・昔なら「フランスよお前もか」
コメントいただいてる方々この場をお貸りして、御礼申し上げます。

丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。久々に宣伝です。フランスの旅のスケッチ、エッセイも入っている
『西欧「偶景」今昔話』丸山暁・絵/文(新風舎)1,200円もよろしく。アマゾンででも。

「日米同盟新犬猿の仲」ー僕の考える
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(写真は4月29日岩手日報)
前小泉首相とブッシュ大統領の蜜月ぶりを、僕は、真っ赤な顔のニホンザル(興奮した真っ赤な顔のブッシュ大統領はアメリカ人だがニホンザルに見える)の回りをはしゃぐポチに例えていたのだが、安倍首相とブッシュ大統領の関係は、ちょっと不機嫌なニホンザルとサルのご機嫌をとろうとしておどおどしたブルドックに見えてしまう。

第2次大戦後最大の戦争犯罪国家の首謀者ブッシュ大統領は、9.11以降米国民を扇動したテロとの戦いのほころびが広がり、いまやなすすべも無く、イラクを内乱状態に陥れた責任もとれぬまま人気も陰りを見せている。「従軍慰安婦問題は解決済み、日本国家の責任は無い(公式な証拠書類が残されていない)」と国内では胸をはって、キョロキョロうつろな目をして(安倍総理が話す時の、全体に気配りしたように、左右に体を動かし、目配りをするのは、弁論術におけるセオリーだろうが、キョロキョロ揺れ動く彼の眼は、自信の無いうつろな眼に見える)断言していた安倍総理は、アメリカに行った途端「勘違いされたようで、ごめんなさい、元慰安婦の方々には同情する」と、今度は低姿勢で弁解している。

彼のコロコロ変わる態度、また、いつまでたってもごまかそうとするいい訳は人間として実にみっともない。特に、「同情」というのは第3者的立場にある人間の評論であり、安倍首相は、日本という国の遺産を全て背負い、従軍慰安婦を苦しめた当事者につながっているはずだ。安倍首相に本当の愛国心があるなら、戦後の高度成長だけでなく、戦時中の負の遺産をも責任を持ってしかるべきなのだが、「豊かになった日本の遺産は相続しました、しかし戦時中の負の遺産は知りません」では、税務署なら許してはくれまい。

イラク戦争は、戦争終結宣言から4年経っても混乱は増すばかり。その上、CIAのテネット元長官が「イラク戦争は9.11以前から計画され、アルカイダとイラク、大量破壊兵器に関係なく、ブッシュもチェイニ?副大統領もイラクを攻撃する計画だった」と暴露した。結局アメリカという国は、軍備を消費しないと軍需産業が回転しないから、ある時期が来ればどこかに屁理屈をつけてでも戦争を仕掛けるのである。そうしないと、元チェイニー副大統領や元ラムズフェルド国防長官の軍需産業がなりたたないのである。

日本はそんな戦争を産業基盤に持つ国と日米同盟という軍事同盟を結び、集団的自衛権を行使できる国になるため、憲法を改正しようとしている。最近自民党だけでなく、民主党も、国民の過半数も憲法改正に動き、4割近くが集団的自衛権行使に傾いてきた。自民党タカ派や右翼的プロパガンダが効を奏してきたようである。庶民、大衆とはムードの弱いものである。

では、「そういうお前は(お前とは僕のことです)集団的自衛権もなく、どうやってアメリカに守ってもらうのだと」という質問されるだろう。日本はこれだけ、特に沖縄だが、軍事基地を貸して、基地や施設整備に数千億(ちょっと具体的数字が出て来ない)出してやっているのだから、もしもし北朝鮮のテポドンが日本に一発打ち込まれたとしても、3発ぐらい核弾頭を打ち打ち返したって、これまでのアメリカ軍への投資を考えたらたいした手間でもないだろう(核弾頭一発2百億円もしないだろう)。これは核攻撃を肯定するものではない。よくある核論議の一環として読んでください。僕は強固な反核論者です。

では、中国が何かの理由で(日本政府の仮想敵国はいまだロシア、中国や北朝鮮なのだろうから)、今僕にはその理由は見つからないが、日本に核弾頭を打ち込むとしたら、あえて一発ということは無いだろう。そのときは、何がきっかけかはわからないが、やるなら日本の首都圏や原発が狙われるだろう。そんな時、今更アメリカに反撃してもらってもしようが無い。もしも、アメリカが反撃して中国に核弾頭を打ち込んだら、それこそ、世界の破滅である。日本なんて、黄砂があれだけ降ってくるなだから、日本全土全く核の冬となり、アメリカが反撃すればするほど人の住めない大地になってしまう。

ここでは少々怖い過程だが、アメリカ以外のどこかの国が日本に核弾頭を数発打ち込んだら、アメリカはその国に報復核を数発打ち込むであろうか。僕は、きっとアメリカは日本を見捨てると考えている。なぜなら、それは核の応酬となり、アメリカだけでなく地球生命の壊滅を意味するからである。アメリカは世界を捨てても自国を守る国である。日本の報復のためにアメリカを世界を壊滅させることはありえない。国際社会とて、世界を壊滅させるより、日本一国の破壊に同調するだろう。

要するに、アメリカの核の傘で守られてきたというが、核とは使えない兵器であり、日本政府は核幻想に身をゆだねているのである。またアメリカが北朝鮮にテロ国家撲滅のためと核を打ち込んだら、北朝鮮は、もしもあるなら、やけのやんぱちで日本にやっとこさ核弾頭をうちこむだろう。その時泣きを見るのは日本だけである。

では、どうやって日本を守るのか。それは日本が世界平和の先兵となり、素敵な役に立つ国になることである。国連がしっかりすれば、国際警察部隊のようなものもありうるだろうが、当分考えられない。
僕の日本を守る作戦は、次のようなことを考えている。
一機2百数十億円のF22戦闘機を買うなら、まず一機分で北朝鮮の美女軍団ような国際美女親善軍団(今女優の木村佳野ただ1人が親善大使だが)やウイーン少年合唱団のような世界少年少女合唱団を組織し、世界中を親善、演奏してまわるのである。これは世界に友好の輪を広げると共に、ある意味世界の美女や可愛い少年少女を人質に取ることなのである(ちょっと汚い手だが世界平和のためである)。
また、世界の若者に奨学金を出し(1万人に2百万円ずつ出してもたがだか2百億円、F22一機分にもならない)、日本と世界の掛け橋になってもらうのである。戦争というものも、結構個人的な感情に左右されるものである。あと、あと戦争をしなかった国の元首に一億円プレゼントする。これは賄賂ではなく、平和をありがとうである。

皆さんには美女軍団や合唱団などとふざけるなとおしかりを受けるかもしれないが、戦争をするという前提で、世界戦略を練るのと戦争をしない方法を探るのでは、出てくる答えが大きく分かれるのである。この例は多少おちゃらかしであろうが、僕は結構真面目にこんなことを考えている。

最後に1つ「とうちゃんニホンザルとブルドッグが一緒に喧嘩したがってるんだって、今もどこかに鬼が島があるのかい」「サルが勝手に鬼が島をつくっちゃあ喧嘩吹っかけてるのよ。そして、ブル公は考えもなしにサルについて行く、困ったもんだ。」今日はお粗末でした。
丸山 暁〈56歳・人間〉
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高校野球の特待制度違反を考える?建前論は健康に悪いぜ!?
高校野球の特待制度違反が、376校で行なわれていたことが明らかになったと、関係者の間で大きな問題となっている。

さて、これは何が問題なのだろう?

特待制度違反とは、本学生野球憲章の第13条1項に「選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない」と言う規定に違反しているものだそうだ。
その規定の源は、1932年(昭和7年)の発令された「野球統制令」と呼ばれる文部省訓令に遡るという。
それは、当時娯楽の少なかった時代に、花形であった学生野球が商業コマーシャリズムに飲み込まれることを防ぎ、アマチュアイズムを何とか守ろうと言う意図でつくられたものである。
しかしその一方では、その当時は学生のスポーツも、健全な青少年の体育振興、あるいは思想統制の道具として、文部省という国家管理の元に置かれていたということも言われている。

その後、第2次大戦中に文部省により中断させられた学生野球は、戦後、「甲子園の高校野球」、「東京六大学野球」、」「プロ野球」を中心に復活発展してきた。
これらの中でも高校野球、特にも「甲子園大会」はわが国のスポーツの中でも特筆される一大イベントとして華やかに毎年開催されてきている。

その甲子園大会は、国営放送局のNHKがラジオ・テレビで一試合も漏らさず全国完全実況生中継放送を行う特別待遇を受けており、さらには勝利チームの監督や主将のインタビューまでも中継される。
そこでの活躍は、選手にとってはプロ野球の高額契約への踏み台であり、学校にとっては学生集めの最も効果的な宣伝手段となっている。
すなわち、もっと端的に言えば、甲子園に出場し活躍するということは、選手にも、学校にも、あるいはその他の関係者にとっても、数千万から億単位のお金を手に入れることができる大仕事なのだ。

そういう大仕事の舞台を作り上げたのは高野連であり、その大舞台を運営することにより、高野連という得体の知れない組織が、公立私立を問わず、全国の野球部を持つ高校の箸の上げ下ろしまで指図できる権限をもつようになってしまったという、奇妙な現象が生じていることも現実である。

野球を人質にとって、坊主頭、不祥事の連帯責任、軍隊式入場行進など、強制はしていないと言いながら、“好ましい”などという言葉で強要する高野連のやり方や、それに異を唱えない大新聞を始めとするマスコミに対し、私はどうも違和感を覚える。

今回の特待制度違反事件は、「高校野球も学校体育教育の一環である」などと建前論を振りかざしながら、実態は経済原理の中に自らどっぷりと浸かっていながら現実に目を逸らせてきた、高野連の自己矛盾が露呈してきた問題であると言えるのではないだろうか。

建前論は当事者に後ろめたさがつきまとい、社会の不満、イライラを助長するだけである。

さて、物理が得意なものが科学者を目指し勉強に精を出すことは良い事である。
勉学が飛び抜けて優秀な者に対して、特待生として奨学金を与えてその才能を伸ばしてやろうという制度は世界中どこにでもあり、社会はそれを当然のことと受け止めている。
それでは、野球が得意な者がプロ野球を目指し、その才能を認めた者が奨学金等で支援するということも、社会にさほど違和感は無いのではないだろうか。

そして、スポーツイベントが社会の娯楽となり人々に感動を与えるのなら、それが経済システムに乗ることによって継続発展できるのであるなら、経済と共生することも大いに結構なことではないのだろうか。

経済を循環させることは悪いことではない。
建前論を振りかざすところには何か胡散臭さが漂ってくる。
もっと本音で物事を考えようではないか。

<はやて>



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