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Author:疾風
岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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この国の知とは?
20070428075016.jpg

この写真は、数年前に撮った東京駅付近である。丸の内辺りをうろついている方はわかるだろうが、クレーンの先にあるのは「丸ビル」で、その右に小さく見えるレンガ色の建物は、皇居が覗けるからと高さ制限を受けた東京海上ビルである。思想というのは時代と共に変わるもの、今は天皇への配慮より経済が優先する。天皇に対してこれだから、一般国人となると言わずもがなである。
昨日丸ビルの右側に「新丸ビル」がオープンした。TVの幾番組も、六本木ヒルズ、東京ビッグサイトについで、東京の新名所と囃し立てていた。

さて、「新丸ビル」が出来て、女性をターゲットにしたおしゃれでセレブな新たなショッピング、憩いのスポット「行ってみたーい」とはしゃぎながら報道するおね?さんやオジサンが、今度は、眉間にしわを寄せて、困ったものだと眉をひそめ「超高層ビルは地震の長周期振動には弱い」と報じている。
このことは、超高層ラッシュが佳境を呈し始めた10数年前から、心ある建築技術者や研究者は警鐘を鳴らしていたのだが、このような金を産まない研究には誰も(政治家や経済界や建設会社さえ)目を向けてこなかった。目を向けないというよりは、大学の建築系の偉い先生や建設会社の研究者(大手建設会社の研究所というのはたいしたものなのです、下手な国や大学の研究所より立派な研究も出来るのです)は目を背けてきたのです。きっとこれからも、危険性を知って知らないふりをし続けるだろうが。

30数年前、ちょうど僕がゼネコンに入った頃、建築の耐震設計法の大改正があった。それは、簡単にいうと、剛構造から柔構造への転換である。剛構造というのは、構造物をしっかり固めて(柱を太くしたり壁を厚くしたりして)地震に耐える方法で、柔構造は地震に対しゆらゆら揺れてやり過ごす方法である。
なぜその頃耐震基準が改正されたかというと、その少し前に新潟地震とロサンゼルス地震があり、その地震波動のデータ?がしっかり取れたからである。そういう揺れを、コンピューターで解析して設計できるようになったからである。もし、剛構造で計算すれば、一階に床が使えなくなるぐらい、壁で覆われてしまうから、柔構造というのは画期的であった。

ところが、その時のデータ?の地震動の周期は数分の1秒(短周期)であった。要するに「ガタガタガタ」という揺れであり、超高層ビルも、そういうデータ?で解析してきたのである。ところが近年、近年といっての10数年来、超高層への地震の揺れは、「ユラユラユラ」と揺れる、長周期(周期数秒)の揺れが危険である、ということが分かってきた。なぜなら、長周期の波は、建物の固有振動(長さが長いほど、ゆっくり揺れる、すなわち周期が長い)と一致して、超高層は「ユッサユッサユッサ」と揺れて、きっと超高層の上層階は数m(少なくとも2?3m)は左右に揺れるだろう。
このとき建物はどうなるか。きっと長周期が10数分以上続き、建物の低層部や基礎に負荷が掛かり続けたら、超高層は壊滅的な破壊を起こすかもしれない(たとえ、計算上、模型でのシミレーションは安全という結果でも、阪神淡路地震の高速道路を思い出して欲しい)。

運良く、建物が破壊されなくても、地上100m200mの片面ガラス小さなの箱の中で数mも何分も「ユッサユッサ」と揺られたら、想像するだけで身震いする。超高層でも、数億円のマンションなら広い空間だろうが、数千万のマンションでは、ちょっと歩いたら目の下はまさに崖っぷちという感じである。
このブログの読者は億ションに暮らす人はきっといないだろうから(そういう方はすぐ引っ越した方がいいですよ)説明しておくが、床面積60?70?のマンションなど、テラスで夜景を何て気にならないはずです。毎日崖っぷちで暮らしているようなもの。「ユラユラユラ」ときたら家財道具と一緒に窓から吹っ飛んでしまいますよ。

さて、本題はこれから。最近になって、忘れた頃に、チョコチョコと「超高層は長周期の揺れに弱い」と危険性を報じるメディアもあるが、このことを何故「日本の知」はもっと緊急課題として発言しないのか。とりあえず、「日本の知」とは東大や京大、東工大の教授や国交省の建築研究所や大物建築家たちを言うのだが。都知事選に出た黒川紀章さん?

彼らが今、口を塞ぐということは、もし、東海地震の地震波、関東大震災、30年確立70%の直下型地震がきて、数本の超高層が倒壊か壊滅的打撃を受け、最上階から振り落とされる人人人の映像が流れた時、彼らはどのようにおのれの仕事を、おのれの知、責任を顧みるのだろうか。今、その危険性(超高層ビルの長周期の地振動にたいする危険性)を放置して、超高層ビルを建て続けることは、姉歯の「耐震偽装」に通じるものではないだろうか。もちろん、故意に危険な建物を作るというのではなく、危険性を知りながら放置したという「未必の故意」において。

無名の僕は、ことあるごとに、ここ10数年言い続けてきた。ここではこれ以上言うまい。僕のような小人にはなすすべもない。

そうそう、東洋町の核廃棄物処分場撤回で甘利通産大臣が「廃棄物処分場は120%安全だ」といっていた。あんた、その根拠は何なの、それこそ口からでまかせの詐欺師ですよ。東洋町に賛成派でも「勉強したけどそんなこと無い」と言っているのに。そんないい加減なこと言うから、原発は益々信用を落とすのですよ。
最後に気楽に小噺を記して、今日も終わりとする。最近この小噺に力が入っている。
「おまえさん、あたしもあんな見晴らしのいい高いとこ(超高層)に住みたいもんだね」「ばかいえ、まともに生きてるおいらには、どんなに財布や袖を揺すったてそんな金びた一文でてきやしねえ」「そうだね、あんな高いとこ、ナマズが地面を揺すったら、もっと高いとこに行かなきゃなんないかもしれないね、くわばらくわばら」
〈56歳・人間〉
僕の考えるブログ〉もよろしく。

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募金でCM放映??「緑の募金」とマスコミの不見識
 「緑の募金」というとピンとこないが、「緑の羽根」はだれでも知っている。春と秋の年2回、街頭などで募金を呼びかけている。
 森林の保護や緑化が重要であることに異論はないが、それを募金で賄うということには以前から疑問を持っている。
 緑の募金だけでなく、赤い羽根もそうだが、緑化や福祉は税金で手当てして当然だと思うが、なぜ募金に頼らなければならないのだろうか。
 それと、善意の募金がどう使われているのか、いま一つ不透明な気がしている。
 そんな中、?マークが3つも4つも湧く事態に遭遇した。

 最近、テレビを見ていたら、緑の募金を呼びかけるCMが流れていた。いわゆるテレビスポットだから、「えっ」と思っているうちに終わった。
 問い合わせてみると、地元の某テレビ局だけで流れているという。
 心配になったのはCM料。自局主催の事業以外で無料でCMを流すことは通常考えられないので、有料で放映したと推測される。
 仮に、金を払って(貰って)CMを流していたとすれば、以下の疑問や問題が生じる。

 CMを頼んだ側(県緑化推進委員会?)はその金をどこから捻出したのだろう。(募金の一部を充てていたとしたら、本末転倒な話で、無駄な経費を掛けるのは募金者に対する背信行為ではないか)
 百歩譲って、募金の存在や趣旨が一般に知られていないなら分からないでもないが、緑の羽根を知らないとは思えないし、CMの放映で飛躍的に募金額が増えるとも思えない。

 でも、より問題なのはテレビ局側で、不見識のそしりは免れない。
 頼まれてCMの放映した場合でも、募金活動をしていることを知っているわけだから、料金が募金から支払われるのかどうかを確認すべきで、募金の一部が使われているのなら断るのが筋ではないのか。
 もし、テレビ局側からのアプローチだったとしたら問題外。どんな金でも稼げばいいという、いわば悪質なたかりみたいなものではないか。
 まあ、これまでも、一方で多重債務問題を取り上げながら、サラ金のCMや広告を放映、掲載したりと、マスコミの二枚舌はあからさまだ。
 ちょっと性質は違うが、競馬組合の件でも、テレビCM放映料や新聞広告料が融資案否決から一転可決されるまでの報道に与えた影響を否定できるだろうか。
 県緑化推進委員会の会長は確か県議会議長だったはず。県や市町村も募金に関与していたように思うが、だれも問題にしないのだろうか。
 そして、某局以外のマスコミが沈黙しているのもどうしたことか。(来年は別の局、再来年はまた別の局ということになっている?)

 私の心配が杞憂であってくれればいいが…。
 正面切って聞いてもなかなか答えてくれそうもないが、関係者の釈明を聞いてみたい気はする。(ゼロテン)
42/58 こんな選挙でいいのか!
統一地方選挙の後半戦が昨日で終わった。
やっと静かな日常が取り戻せる。

ここ盛岡でも、市会議員選挙に42人の定員に58人が立候補した激戦??が戦わされた。
58人から42人を選ぶ選挙。
42人を選ぶのに、私の投票権は一票だけである。
候補者58人は殆んど名前も知らない。
まして、どういう政策を掲げているのか、それは他の候補と比較して良いのか悪いのか。
たった1週間の間にそれを見極めることは、朝から晩まで、仕事もせずに選挙公報を読みつづけなければ殆んど不可能である。
いいなぁと思う候補が複数見つかっても、投票権は一票だけ、こういう候補は落としたいと思っても、それを意思表示する手段はない。
42番目までに入ればいいということは、おおよそ8割までに入ればいいということだ。
10人中8番目程度でも当選してしまう。
58人中40番でも41番でも42番でも当選するのである。
こんなのって普通の社会ではあり得ない。
半分にも入れず、4分の3にも入れないのに当選。
こんなことだから、候補者も政策など訴えている閑はない。
もうどうでもいいから名前を覚えてもらうだけで精一杯となり、選挙カーから名前の連呼また連呼となる。

これは選挙と言う体を成していないと私には思える。

それではどうするべきか。

1. 改選を3分の1に分ける
14人を選ぶのなら少しは目が行き届く可能性がある

2. 選挙区を分ける
更に選挙区を3つくらいに分けると4?5人を選ぶことになる。

これなら投票権が一人一票でも、行使する意義が見出せる
また、駄目な候補者がどさくさ紛れに当選してくる危険性をいくらかでも排除できそうな気がする。

一般市民は、市町村議会など殆んど興味を持っていないと言うのが正直なところではあるが、こんな選挙制度ではますますそれを助長するような気がする。

社会の常識的な目で地方議会選挙を見直すべきであると思うがいかがだろうか。
<はやて>

「社会の闇・心の闇 」?僕の考える
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春がやってきた。百姓にとっては畑がはじまり、冬場なまった体を絞るにはいい季節である。ここではわざわざお金をかけてジムに行かなくても、食糧生産と運動が一体であり、実に効率的である。また、汗糞たらして百姓に精を出しましょう。

こんな、のんきなことを書いているどころではない凄惨な事件が日本とアメリカでほぼ同時期に起こった。長崎市長銃殺事件とバージニア工科大学での32人射殺事件である。亡くなられた伊藤長崎市長と工科大の学生たちにまず哀悼の意を捧げます。
この二つの事件の共通点は銃であるが、犯人は方や暴力団(右翼団体)で方や学生である。これらの事件は共に痛ましく、許されるべきでなく、僕などに軽々しく論評できるとは思わないが、今週の出来事としては避けて通れない。特に長崎市長は、広島育ちの反核思想の僕の僕には、無念である。

この二つの事件は、それぞれに日米の社会的特質を表した事件ではないだろうか。これらの事件が逆で、日本の大学で2丁の銃を持った学生が銃を乱射して32人射殺した、アメリカでマフィアが州知事を射殺したというのであれば、今度の事件以上に驚愕するだろう。ただし、日本では報道されないだけで、アメリカでもマフィアが政治家を射殺するという事件が起こっているのかもしれないが、ケネディー大統領もR・ケネディー大統領暗殺もマフィア、いわゆる暴力団ではなかったはずだ。僕の知る範囲ではイタリアではかなりマフィアによる政治家暗殺もあるようだが。

アメリカでは、銃の乱射事件はしょっちゅう起こっており、コロンバイン高校での2生徒による銃乱射事件も記憶にあたらしく、今回も死者の数が多いだけで、またかという気持ちも否めない。こういう事件が起きる度にアメリカでも銃規制が論議されるようだが、結局500万人いるという、かのキリスト礼賛のアメリカンヒーロー『ベンハー(映画)』のチャールストン・ヘストン率いるライフル協会の票欲しさに、政治家は動かないようである。
アメリカ社会は、戦場にいまでも借り出される数十万の兵士の体験、日常に起こる(アメリカの銃による殺人は年15,000件ある、ブロンクス辺りの黒人の若者の死亡は銃殺が1位だそうだ)殺人事件で、銃には銃で対抗するしかないという極限状態(アメリカ社会はそれを憲法が保障した当然の権利としている)におちいってしまった。

さて、戦後だけでも日本の政治家の殺傷事件をみると、古くは‘60年の浅沼稲次郎社会党委員長の19歳右翼少年による刺殺に始まり、木島等長崎市長銃撃、金丸信自民党副総裁、細川前首相銃撃、石井紘其衆議院議員刺殺、加藤紘一衆議院宅放火、これら全て右翼団体(右翼団体ということは指定暴力団であり、昔で言うところのヤクザ)による事件である。幾つものこのような事件が起こるたびに、犯人が逮捕され、犯罪の理由が明らかにされるのだが、どうもそれぞれにしっくりこない。そんな理由で、殺すのだろうか、と思うことが多い。中にははっきり狂信的な右翼思想の確信犯的事件もあるが、どうも、右翼と政治家の何らかの、僕たちには見えてこない関係に根があるように思えてならない。その証拠に、社会党の浅沼委員長は天皇制に絡んだ事件であるが、それ以外は、ほとんど大勢派・右翼政治家(自民党、民主党とてもともと同じ穴のムジナが多い)が暴力団構成員によって狙われている。そこには、日本の闇の世界が顔を覗かせているのではないか。

その大きく深い闇の部分は、日本の政治経済の権力が右翼、いわゆるヤクザを利用してきたという歴史が長かったからではないだろうか。特についこの間まで、経済界の総会屋などは(最近は総会屋も締め出されているようだが)まさに持ちつ持たれつの関係にあった。金融界や銀行、ゼネコンなどが画策した都市部の地上げなどはホワイトカラーの社員たちはオフィスに座っているだけで、庶民を脅し暴力まがいで移住を強要したのは右翼団体構成員すなわちヤクザだった。政界に大金が流れるサラ金とて、ヤクザまがいが絡んでいることは周知の事実である。
まさに、日本の国家権力、政治経済は右翼団体、指定暴力団(指定暴力団と右翼団体は違うというが、僕にはどうもその違いが分からない)を利用してきたのである。今度の長崎市長の事件がこれにあたるというのではないが、日本の政治の闇の部分が、ひょっとした瞬間に、白日の元にさらされるのではないだろうか。闇が闇としてあった社会を突然切り捨てても、闇はやっぱりどこかに巣くっていくのではないだろうか。

むかし、ゼネコンの現場にいた時に、背中に刺青を背負ったマッチャンという鳶職の親分がいた。彼は鳶の頭であると共に、東京下町の闇の世界ではちょっとした顔の親分であった。バブル最盛期、ヤクザ、右翼団体がらみのトラブルがあると、彼が呼び出され問題解決にあたっていた。杓子定規に考えれば、決してほめられたものではないかもしれないが、そういう闇との関係が曖昧にあって、成り立つ社会もあった。

僕が、いまここで、社会の中の闇に対する、回答を出せるものではないが、やはりどこかに、闇は闇として生きられる社会が必要なのではないだろうか、現代は社会を奇麗に見せているようで、闇を単に隠してしまっている場合も多いのではないだろうか。また、闇に光をあてたために、化け物どもが、日常の社会に拡散してしまうということもあるだろう。ここでは、けっして、右翼団体やヤクザを弁護するものでも、保護しようとするものでもない。

世の中一見、奇麗に清潔に豊かに見えても、闇、心の闇、社会に闇があることを忘れてはならない。では、その心の闇と、社会の闇と、どう付き合っていけばいいのか、今の僕には答えはないが、これから益々闇は深く静かに潜行しながら、ひょっこり頭をもたげてくるのではないだろうか。ただ管理、監視だけでなく、社会の闇、心の闇と生きる新たな思想、人間観、社会感、人生観・・・が必要なのではないだろうか。

ここで小噺を。「おっかあ、あたりまえに生きててもらちがあかねえ、おいらも闇の世界にでも足をつっこんで、一花咲かせるか」「ばかだね、あんたのようなお人よしは、すぐに裏のどぶ川に浮いちまうよ。そんなに闇がいいなら、鍋底の真っ黒な焦げ付きでもとっとくれ、その方があたしゃどんなに嬉しいか」「そうだな、おっかあの笑顔が値千金だな」「ばかだね、おまえさん、一本つけてやるか、でも飲みすぎてお風呂に浮かぶんじゃないよ」
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。

楽天田中見事な1勝!
楽天の田中将大投手が完投で初勝利を挙げた。
いよいよ大器が花開きそうな気配が漂ってきた。
相手のソフトバンクは、多村・松中・小久保と続く、12球団一の強力クリーンアップを擁して、前回の対戦では2回ともたずにめった打ちにされていた。
昨日も初回に3連打とフォアボールで1点を失い、なおノーアウト満塁の大ピンチ。
しかしここからのピッチングはやはり並の新人投手ではなかった。
対するは日本球界を代表する強打者小久保。
ノーアウト満塁ツースリーのしびれる場面で投じた渾身のストレートは、小久保のバットを空を切らせてキャッチャー嶋のミットにバシッと吸い込まれた。
続いて曲者大村も、ストレートで空振り三振。
その次の現在パリーグ打点トップのブキャナンをスライダーで見逃し三振。
絵に描いたような、初回のワンマンショーを演じた。

田中の登板は昨日で4試合目だが、一試合毎にプロの打者と自分の能力との力関係を確認し、驚くべき速さで、着実に対応力を身につけてきている。

田中の良いところは、なんと言ってもスライダーである。
ブレーキ鋭く曲がり落ちるところは、デビュー当時の桑田より上かもしれないと私は見る。
また勝負どころで、打者の胸元にきっちり投げきれるストレートのキレは、ここ暫くお目にかかれない凄みを見せる。
絶体絶命のピンチで、西武和田を見逃しで斬ってとり、昨日は小久保、松中を斬って取ったクソ度胸とコントロールとキレはお金を払って見る価値十分である。

弱体楽天に在っては、勝ち星はそう多くは望めないが、ピンチで見せる渾身の1球を今年は楽しみにして野球を見ようと思う。
<はやて>


あきれた安倍首相のコメント
 長崎市長が選挙期間中に銃撃され死亡した。
 政治活動、言論の自由がテロによって踏みにじられるという前代未聞の事件だ。
 民主主義を標ぼうする日本が二流、三流の国におとしめられた瞬間でもあった。
 それは、銃撃した犯人によっておとしめられただけでなく、安倍首相が最初に出したコメントを聞いて、そう思った。

 安倍首相は事件発生直後「捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」とのコメントを出したと報道されている。
 「なぜ、まずは伊藤市長の容態に配慮した言葉が最初に出てこないのだろう」とまず思った。
 既に被疑者の身柄が確保されているという情報も入っているのだから、他に危険が及ぶという状況ではないのだから、真相解明は後の話。
 人間の感情として、「大丈夫だろうか、何とか回復して欲しい」と普通は思うのではないか。
 しかし、安倍首相の頭は違うらしい。
 緊急時の対応で人間性が分かるというが、安倍首相にとっては伊藤市長の安否よりも、事件の真相解決が優先のようだ。
 安倍首相のいう「美しい国」の姿を理解できないでいたが、たぶんこの延長線なのだとはっきり分かったような気がする。
 国民の生命や生活は二の次で彼の思う秩序の維持が優先なのだろう。だから、参院選の最大の争点も憲法改正なのだ。
 議院内閣制だから仕方ないのだが、こんな首相を選んでしまう国民、日本の「民主主義」(本当の民主主義国家だと私は思わないが)も二流、三流なのかもしれない。(ゼロテン)

山里便り47「今年の桜は、どっち向き!?」2007年4月16日
そろそろ春の土用。
この春の土用を目安に春まき野菜のタネを蒔くらしい。
桜の花が咲いたら○○を、ツツジが咲いたら○○、田植え花が咲いたら田植えと、自然の法則があるそうだ。
数日前にはホケキョが鳴き、窓からはホオジロをしばしば見かけるようになった。
田んぼの上空をシラサギが飛んでいる。
先日、シラサギを見かけた時、「ツルだよ!すごい!ツルが飛んでいる!」とつれあいに報告した。彼は困ったような笑い顔で、「あれはシラサギだよ。」と教えてくれた。
14年前に台所の窓からカモシカを初めて見たときは、大型犬かと真面目に思った。呆れられるだろうが、東京では四足で歩く生き物はイヌかネコしか見かけない。私の経験則から判断すると「あれ何?イヌ?」ということになったのだった。「ああ、生き物の名前も少しずつ覚えたなあ。」と思う。

鳥のさえずり、雨音(雪は音がしないもの)、トラクターの機械音など、音が聴こえるようになり、生き物をよく見かけるようになってきた。ヒトの姿もちらちらと見かける。
気楽な趣味の家庭菜園と言いつつも、「ああ、今年もとうとう始まってしまう。」という、ちょっと面倒くさいような気分が頭をよぎる。鍬をサクッと土に入れれば、覚悟もつくというもの。
来週あたりから、我が家でもタネ蒔きを始めよう。
覚悟のひと鍬をサクッと入れて・・。

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原種のアネモネ。朝開き、夕方とじるを繰り返し、タネをつけて散っていく。
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福寿草のタネ。
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ヒアシンスの花芽。
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ワサビの花芽。ワサビは花が咲くと辛味が薄れると言うから、今が食べごろ。
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裏庭の桜もそろそろ咲くかなあと思いつつ、桜もち&桜まんじゅう。
『桜の花が上を向いていたら雨が少なく、横を向いていたら平年並み。下を向いて咲いたら雨や台風が多い年』になるそうだ。
県内でも、そろそろ桜の開花便りが聞こえてきた。今年の桜は、どっちを向いて咲くのやら。

『市民ジャーナル』は、一応、社会・経済ブログということになっていて、なんか分不相応だなあと思いつつ、頭をメチメチさせながら、なかば強引に食べものに持っていく。1年続けたらとりあえず1回〆ようと思いつつ、そろそろ1年。このところ毎回、文末に『おわり』の一文字を入れようと思いつつ、入れられない・・。
ああ、習慣って恐ろしい。ご飯の後に歯磨きすることが習慣みたいに、日曜の朝にはパソコンに向かっている。(丸山淑子)



テーマ:田舎暮らし日記 - ジャンル:ライフ

「頭変えたら?桜井よしこさん」?僕の考える
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この写真は、クリの木に杉の丸太を渡し、それに屋根をかけた簡易薪小屋である。雨ざらしの杉丸太には、一応防腐剤を塗布してあるが、3?4年もてば十分と考えている。この地に来た時作った別の杉丸太の農具小屋は、屋根も杉板で葺いたため(防水処理もせず)12年目に大雪で屋根が落ち、昨年立て替えた。今度小屋は鉄板で屋根を葺き、防腐剤も塗り、ちゃんと建築的に雨仕舞いもしてあるので、僕がここで暮らす間は十分もつだろう。以前このブログでも紹介した赤いドアのある小屋ですが。

写真の小屋のように、雨ざらしになる木造の構造物は、基本的に腐食して老朽化して、強度が落ちて、崩壊するものなのです。もちろん、木造であっても、法隆寺を待つまでもなく、しっかりした屋根を架け、軒を十分とって、建築的に雨仕舞いを備えた構造物は百年でも千年でも持つが、風雨にさらされた木造構造物は、よほど丁寧なメンテナンス(基本的には塗装でしょうが)をしなければ、数年で強度低下を起こすでしょう(材質にもよるが杉などは特に)。外見上形を保っていても、強い力が掛かればあっけなく倒壊するでしょう。

今月の11日に岐阜の小学校で、木製の支柱にロープを渡した遊具の支柱が折れて、13人軽症を負った。子供たちはビックリもし痛かっただろうが、骨折したり、死者が出なかったことが不幸中の幸いだった。打ち所が悪ければ、重症、死者とてあったかもしれないが、本当に不幸中の幸いと感じているのは、学校と、教育委員会だろう。教育委員会は年に3回遊具の定期検査をしており、3月にも検査して異常なしと報告していたそうだ。当然学校関係者はしょっちゅう、毎日のようにその遊具を見ていたことだろう(教師も校長も子供の遊具には関心なかったのかな?)。

その遊具は、ほぼ20年前の1989年に廃棄になった電信柱で作ったものだという。TVのニュースで折れた部分を見る限り、丸太の外側からほぼ3分の1は腐食し中心部もかなり痛んできていたようだ。補強用の金属のバンドが3箇所あったが、このバンドは腐った部分においてはなんの補強にもならない。ちょっと意識して見れば、「危ないな」と感じることの出来る状態ではなかったのか。さて、学校や教育委員会は廃材を使った雨ざらしの遊具の耐用年数を何年と踏んでいたのだろうか。年3回の定期検査とは何を検査していたのだろうか。

こういう事故(数年前埼玉県上尾市プールで、給水口に吸い込まれて女児が死亡した事故。これもそれなりに定期検査をしていたという)がある度に考える。多分、本事故の教育委員会の検査(最近は公的機関であっても検査したと嘘をつくことがあるから、疑って掛からなければならないが、情けない。)も、外見的に一寸見て「いつもどおりで変わらない」、というだけの検査だったのではないだろうか。要するに、一回一回の検査で、何を検査するのか、例えば、大人何人かで揺すってみる、木鎚でたたいてみる、金属の棒を柱に差してみる、実際に大人何人かでぶら下がってみる、そんな検査をちゃんとやっていれば、簡単に腐敗が進行し老朽化していることが見抜け、危険であり、使用禁止、という処置が取れたのではないか。教育委員会の検査は、きっとチェック項目があったとしても全部○で検査しましたという書類だけが残されたのではないだろうか(書類があったとして、ひょっとしたら書類すらなかったのかもしれないが)。

僕は最近、こういう状況を「半透明」な状況と呼んである。検査をしていないなら、責任をとらせることも、検査しろといえるが、いい加減な検査でも正常という記録がある限り、危険なまま正常を装い、事故が起こるまで実体が見えてこないのである。要するに、検査したということが、見えそうで見えない「半透明」を状態をつくってしまうのである。

要するに、彼らは、自分が何か、欠陥なり問題点に気づいて、今ある状況(たとえそれが職務であっても私的であっても)に変化を与えることを避けるのである。それは単純に言えば事なかれ主義というヤツです。教育委員会も学校関係者も、たとえ、遊具に欠陥がありそうでも、自分で真剣に欠陥を見つけようとしてこなかったのである。このことは今回の事故だけでなく、ここのところの多くの子供たちを取り巻く事件、事故、特に子供のいじめや自殺で、「知りませんでした、気づきませんでした」と顔を伏せて、もしくは平気で言ってのける教育委員会、教育者を見ていればよく分かる。

今、教育問題は国を挙げての大問題だと、政府もメディアも有識者も評論家諸氏もあたふたしているが、子供を教育する前に、自分たちを教育しなさい。自分の力で、意思で善に向かい事を起こす(例えば、先の遊具の腐食には誰かは気づいていたはずである。もしも、ただ1人も気づいていなかったとしたら、この国の教育委員会も教師もただのでくの坊である)勇気を持つことである。とにかく、大人たち、政治化、教育委員会、教師が保身、既得権にしがみついている限り、教育問題なんて解決できるはずがない。子供はどんどん変化するのに、変われない大人が子供を型にはめようとしても、子供は潰れるか弾きだされるしかない。

変わらない偉い大人として思い浮かぶのが桜井よしこさん。何年経っても、いつも、大きな壊れたヘルメットのような髪形で、一見おおらかそうな、他者を見下したような、妖艶な?笑顔。彼女の変わらないのは、髪型だけでなく、頭の固さである。彼女の自論は「自虐史観はいけません、首相の靖国参拝何が悪い、従軍慰安婦は日本軍が命令したものではないから責任はない」である。国会図書館の資料で戦犯合資は国が靖国に働きかけたことが明らかになり、実際に軍隊で慰安婦として強姦まがいの仕打ちを受けた方々が何人いても、彼女はいつまでもああいう言説と髪型で食べていくのでしょう。彼女が髪形を変え、ワンレンかショートカットのなった時、きっと彼女の評論も面白くなるのかもしれないが。
最近のTVなどでのコメンテータ?や有識者の発言、また最近やたら増えてきた、爆笑問題やタケシが司会をやっている政治家や評論家のやりとりを聞いていると「お前らが出てきて何言っても、それぞれの立場に固執するだけで、なにをいうのか予想が出来て、全く対話になってなくて話にならない」、出来の悪い掛け合い漫才より出来が悪い。せっかく毒舌司会ができるのだから、爆笑問題もタケシもただ笑わせるだけじゃなく、しっかりしろよ。

最後にお決まりとなりつつある小噺をひとつ「おまえさん、どうだい、髪結いに行って来たんだよ」「お、いい女がいるから誰かと思ったら、おめえだったのかい。見違えたぜ」「そうかい、一本つけようかね」「なんでえ、気味が悪いや、頭結ってきたら、中身まで変わっちまったみたいだぜ」「そうそう、おまえさん、憲法改正のための国民投票法案が衆議院特別委員会で強行採決され、衆議院でも自民党多数で通過したってね」「そうよ、これじゃこの国はヒットラーや北朝鮮の独裁体制と変わりねえな。自民党一党独裁だもの。そのうち核も欲しいよ、戦争したいと駄々こねる首相が出てくるかもしれねえぜ、くわばらくわばら」「そうだねあんた、やっぱりこの国の頭(首相)も変えたほうがいいかね、そうしたら、この国の政治にも心が入るかもしれないね」。少々長くなっちまったが、あなたも頭変えてみたら、土台は悪くないのだから、もっといい女になるよ、だべ、桜井よしこさん、どんど晴れ。
丸山 暁〈56歳・人間〉
僕の考えるブログ」もよろしく。『西欧「偶景」今昔話』(新風舎)も読んでみて下さい。

「無党派層」という言葉とマスコミの世論誘導の危険性
 統一地方選挙の前半戦が終了したが、選挙報道で気になるのは、「無党派」という言葉だ。
 いつごろから使われ始めたのかと調べてみると、『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「1995年に東京都知事選と大阪府知事選で無所属の候補が当選し、既成政党の候補が敗れた時、無党派が注目されるようになった。同年、無党派は新語・流行語大賞に選ばれた」とある。
 候補者が党派に属していないという意味で「無党派」というのは分からないでもないが、有権者の側を指して「無党派層」と言い始めると、あいまいでよく分からない。
 かつては「政党支持なし層」という言葉も使われていたが、そもそも「層」という言葉で一括りにしようとすることに無理があるのではないか。

 「無党派層」といわれる人たちが、同じような考えを持っているとは思えないし、層をなして行動するかというと、単純にそうはならないと思う。
 「組織に属す」、「一括りにされる」ことを嫌って、自らの判断で投票しようとしている人にとっては、「層」呼ばわりされるのは迷惑な話でもある。
 業界や農業団体、労働組合といった組織が繰り広げた、いわゆる「組織選挙」は、今でも一定の力を持ってはいるが、それに疑問を感じて、自ら選択しようとする傾向が広がってきたことは評価すべきことだと思う。
 こうした、自ら政党と距離を置こうとする「積極的な」無党派層はいいのだが、マスコミが、いわゆる既成政党を否定的に扱い、何か政党を支持することが悪いようなイメージを与え、無党派ブームを創り出し、煽り、それに乗ってしまっているのではないかと思われるような「消極的な」無党派層が増えているような気がしてならない。
 世論誘導の危険性についてマスコミはもっと考えるべきではないか。

 それと、地方選挙と国政選挙との違い、議員選挙と首長選挙との違いも考慮すべきだ。
 地方の首長選挙ではほとんどの候補が「無所属」で出馬する。地方議員でも都道府県議は政党色が強いが、市町村議になると「無所属」が多い。
 小さい単位になればなるほど、「政党」や「政策」よりは、「人柄」で選ぶ傾向が強い。それは候補者が身近だということが大きな要素だが、一方で地域代表的な選び方、しがらみということもありそうだ。
 しかし、国政、特に衆議院議員選挙になると、議院内閣制を採っている日本では、政党同士が議席を争い、多数を得た政党が組閣する仕組みだから、どうしても政策を重視し政党を選ぶ形になる。
 それら、選挙の違いを無視して、「無党派層」の投票行動と一括りに論じようとするのもおかしな話だ。

 仮に、「無党派層」と呼ばれる人たちが、自らの考えを国政に反映させようとするなら、もっと多様な政党が生まれてしかるべきだと思う。
 一つ一つの政党は小さくとも、それらがいわゆる既成政党と連立を組んだりする中で、自らが掲げる政策を実現していくことはあり得る。
 ここでも、何か二大政党制が大命題のようなマスコミの論調が、このような動きを疎外してはいないかと懸念する。
 マスコミの一部は、二大政党制を前提にした政権交代のためにと、小選挙区制を推奨してきたが、これも民意の反映を疎外する結果を招いていると思う。ヘタをすると半分以上は死票になる制度が民意を反映するとは言い難い。

 今の政治報道は、政党や派閥の領袖などいわゆる番記者が拾った(もらった?)情報を中心に構成されている。結局は、政権党や政治家(政治屋)の目での報道を競い合っているにすぎない。
 とすれば、自ら判断する目を養うしかない。マスコミの報道は眉につばをつけながら、参考程度に留める。そう肝に銘じよう。(ゼロテン)

山里便り46 「統一地方選挙と大豆のはなし。」 2007年4月8日
今日は、統一地方選挙の投票日。
母が二十歳の時には、女性に選挙権がなかった(女性だけではなく、階層や所得によっても選挙権がなかったわけだけど)。女性が選挙権を得たのが敗戦の翌年、1946年のことだったと思う。ゆえに、投票したくても出来なかった人たちがいた時代が長かったことを思い、「どうせ誰がなっても同じかも・・。」と思いつつも、投票場に足を運んでいた。
が、実は、ここ数年、投票には行っていない。特に支持したい候補者がいるわけでもなく、マニフェストなるものをチラッと見ても、どの候補者も何だか具体性に欠けていてピンとかなかったこともある。

昔の話と言えば、選挙もなかったであろう弥生時代。
すでに大豆は、西日本を中心に栽培されていた。野生のノマメ(ツルマメ)が分化し、長い年月をかけて今のダイズになったわけだけれど、最初は1種類のノマメが、今では豆腐・納豆・味噌・しょうゆ・食用油に食品添加用粉末などなど、加工用途により、マメの粒の大小・脂肪分の多少・硬さなど目的に合わせて品種改良が進んできた。そうそう、枝豆やモヤシもありました!
昔からタンパク質供給源、肥料のいらない作物、土地を肥やす作物、換金作物として重要な位置を占めていた。そして、日本の食文化において大きな役割を果たしてきた。
もともと中国から日本・アジアにかけては、品質の良い大豆が採れる大豆の文化圏で、ヨーロッパや新大陸はインゲン豆の文化圏。
そんな大豆を「ミラクル・クロップ(驚異の作物)」とか「土から生まれた黄金」などと呼び、アメリカが日本や中国で集めたダイズの種子を改良してトウモロコシと輪作栽培するようになり、大豆が世界に広がっていった。

本家本元の日本でダイズの生産が減ってしまい、輸入大豆で作られた加工食品があたりまえみたいに感じられ、気にもしないで過ごしていたが、ここ5?6年、豆腐や納豆のパッケージに、県内産○○大豆とか北海道産××大豆使用という文字を見かけるようになってきた。大豆の自給率は低いはずなのに、増えたなあと思いながら喜んで、農家を応援する気持ちもあり買っていた。
当時、遺伝子組み換え大豆が問題になっていた時期と重なったこともあり、国産大豆が再び見直された経緯もあると思うが、微増したのは、コメを減反した農家に補助金を出し、転作作物として大豆を作付けさせていたからで、農家は、その補助金を切られると作り続けることは難しいと言っている。大規模経営で集落営農の団体にしか補助金が出ないとなると、小規模農家の経営は厳しい。それに、集落営農の進んだ県には作付面積でも敵わない。
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岩手で品種改良された秘伝枝豆。山形に行って作付け面積を増やし、山形の豆として人気者になってしまった・・。でも、岩手生まれ!

まあ、今回は久しぶりに行ってみるかなあ。せっかく持っている権利だし。ちらっとでも農業のことを言っている候補者に投票しようと思っているが、「農業問題に取り組みます。」だけでは、どんな風に取り組んでくれるのか分からないし、さて、誰に投票したらいいものか・・。花でも見ながら考えようっと・・。

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  シラーの観察日記6。満開      
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 原種のアネモネは、蕾が土の中から出てくる。満開の花よりも蕾に心惹かれる。
(丸山淑子)
          



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「半透明な妖怪の住む社会」?僕の考える
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この写真は数日前の、春の雪降る集落の風景である。この眺めは、僕が気に入っている風景である。防風用の杉木立の陰にひっそり佇む集落の暮らし。このような半透明な風景は異次元へいざなってくれる。まるでNHKの朝ドラ「どんと晴れ」の座敷童しが出てくるような。ちょっと、乗りすぎました。
ここまで書いて、はたと指が止まった。ここまでこの文を僕は「集落」という言葉を使っているが、これは本来「部落」だったのである。ただ「部落」は部落問題から来る差別用語ということになり「部落」は「集落」となったが、やっぱり「部落」と言ったほうが、こういう場合趣がある。「集落」という言葉は、地域の構造、すなわち農村部の家々の集まりを表し、「部落」はそういう構造の中にある暮らしまでを表象する言葉ではなのだろうか。
こうゆう言葉の中にも半透明な現代社会が現れているように思える。すなわち、言葉を変えることで、本来あった歴史、現象などを混在もしくは抽象化して曖昧にしてしまうという意味において。

今回は、せっかく風情のある写真から入ったので、気楽にやろうと思ったのだが、またまた半透明な妖怪に捕まってしまった。ここには少々イントロとしての伏線があって、半透明というのは、なさそうでありそうで、どっちつかずの状況を言うのである。

さて、高度成長やオイルショック、バブル期、「不確実性の時代」という言葉が流行った。また、最近は、世界の不安定な状況、経済状況などの変化に鑑み、先に何があるか分からないという意味で、「不透明な社会」「不透明な未来」などということがある。確かに、未来の不確かさ、予想できない未来を表すには「不透明」という言葉は的を得た用法であろう。
だが、僕が今問題としたいのは、「不透明」でも「透明」でもない。今、日本という国を覆っている、考え方によれば世界をも覆っている「半透明」という社会状況である。この世は今、ひょっとしたらかなり以前から「半透明」を装った妖怪に覆い尽くされている。
その妖怪とは、制度や慣習や雰囲気や法や制度的なものから、社会一般の風習、風俗などの姿をして、半透明に全世界を覆いつくしているのではないだろうか。

まず、今の日本の政治状況だが、これが「透明」でも「不透明」でもなく、全く「半透明」なのである。政治が「透明」ならまず問題ない。何がこうなって、どうなったからこうである、とちゃんと起きていることが全て公開されておれば、いい面も問題点も明らかになり改善点も戦う相手も見えてくる。また、完全に「不透明」なら、透明にしろと戦う相手がはっきりしている。
しかし、困ったことに今の日本の政治は全てに「半透明」なのである。まず、小泉さん肝いりの「道路公団民営化」や先の「国鉄民営化」にしても、民営化したように見えても、赤字路線はばったばったと切り捨てて新幹線や高速道路建設は相変わらず政治の道具(票集め)であり、政官民の高度癒着産業に高度化したようなものである。このことは、現在安倍政権の重要課題という「公務員天下り規制」にしても「年金制度改革、社会保険庁」改革にしても、「改革しましたよ」と制度を作ったり体制をいじったりするものの、結局、実体は、民間的形をとった天下り機関となったり、天下りの斡旋機関であったりする。
そこには「改革しましたよ」という形式的な形が残るだけで、実体は制度という闇の中に沈みこんでしまう。要するに「不透明」だったものを「透明」にしたというが、実は実体はよけい見えにくくなっている。これが、ぼくのいう「半透明」な妖怪なのである。

原発の事故隠しも、政府や官僚が「原発はこの国に必要であり安全です」と言葉をくり返すだけで、実体を調査しようともせず、見てみないふり、すなわちちゃんと管理しているふりをして、書類、制度上は安全という「半透明」な状況を放置してきた証拠である。今になって「許されないことである」、と言ったって、政治や官僚が放置してきたのでしょう。賢明な市民や技術者、学者は危険性をずっと指摘してきたのに。
なぜなら、原発労働者の被爆は原発建設当所から相当数あるのに、その実態は隠され続けている(この辺りは『原発ジプシ?』『火の墓標』(現代書林)参照)。このことにはメディアも目を瞑ってきている。

いわゆる、お上の立ち入り検査など、事前に「明後日行きます」と連絡が入り、整理整頓、書類の整理(改ざん、隠ぺいを含む)が終わった現場に「いらっしゃいませ」とお招きするようなものである。こないだなくなった植木等のスイスイスーダラタッタスラスラスイスイスイと検査に通ってしまうのである。「こんな検査でいいわけないジャン、分かっちゃいるけど止められない」とくらー。このことは、あらゆる分野、不二家や雪印の食品衛生でも、ゼネコンの労働安全検査でも、何処でもお上の検査とはこのようなものである。
すなわち、ちゃんと検査してますよ、「透明」ですよ、といいながら実態が隠されている、すなわち「半透明」で、実体が見えていそうで見えないのである。問題は、このことを検査する行政側が社会的慣習として知っていて、やっているということである。
これは、天下の水戸黄門によくあるパターンで「お殿様が見回りのとき、悪代官が手をまわし、民百姓が引きつった笑みを浮かべて働く姿を、黄門様が見破って、悪代官を退治する」という構図とまったく同じなのである。ただ、現代日本は黄門様がいないのである。ああ、スーパーマンになりたかった僕、印籠欲しいな・・・・・。
民主党の何とかという爺さんが、現代の水戸黄門などとの賜っているが、世直しどころか民主党を叩き直せ。投票したくても、こんな民主党じゃ投票できないではないか。

安倍首相の靖国神社参拝問題、どうするのと聞かれても「参拝自体が外交問題化する現実がある以上、参拝するかしないか申し上げられない」これほど国民や侵略された国々をはぐらかし、馬鹿にした表現はない。安倍首相という人間の政治手法がここに端的に現れている。戦う対象、判断材料をごまかして、ヌメヌメと思いどうりに悪事を進めていく。うん、どうも安倍総理の顔がウナギ犬に見えてきた。かれの政治手法はまさに「半透明な政治」である。まるで、見えそうで見えない昔の女学生のシュミーズである。今の女学生からはそうぞうできないだろう。僕はそういう年代です。

最後に小噺を1つ。与太郎「おとつぁん、透明人間になれたら何処に行きたい。」オヤジ「そりゃおめー、決まってんじゃねーか、えへへ、女湯よ。おっかーにはないしょだぞ。」与太郎「あれ、おとつぁん、想像しただけで興奮して汗びっしょりじゃねーか。それじゃ透明人間が半透明になっちまってばれちゃうよ」オヤジ「馬鹿やろー、それが水も滴るいい男ってんだい」。お粗末。
丸山 暁〈56歳・人間〉
「僕の考えるブログ」もよろしく。
『西欧「偶景」今昔話』(丸山暁、絵/文・新風舎)も読んでみてください。

「格安議員宿舎」は使わぬより使うが善?マスコミに負けるな!?
 赤坂の衆議院議員宿舎の家賃?(9万2000円)が安すぎるということが話題になっている。確かに都内の一等地だから、格安には違いない。
 国家公務員宿舎を基準に家賃を決めたといった報道もある。とすれば、議員だけが特別に恩恵を受けているとも言えないのかも知れない。
 この手の話は、マスコミにしてみると、「豪華だ」、「安すぎる」、「それでも入る議員は誰だ」と興味本位で伝えるには格好のネタだろう。
ただ、年金などの資金で計画性もなく、華美な宿泊施設を造ったりした事例とは少し性質が違うのではないかと思う。

 地方選出の議員は、都内に自宅を構えているというなら別だが、宿舎は当然必要になる。確かに、宿舎なら、もっと簡素でもいい。
 しかし、造ってしまって、使わずに放置するというのもおかしな話。きちんと仕事をする国会議員なら、使うことにとやかくは言うまい。
 ただ、「何とか還元水」に年間何百万円も支出しても、法律を盾に詳細は明らかにしないとか、そんな国会議員では、宿舎さえ、政治団体の事務所にしかねない(それが法律上可能なのか分からないが)。そんな不信が、宿舎の家賃にまで批判が集まる結果となっているのかもしれない。

 「豪華すぎる」とか、「家賃が安い」というのは、マスコミが“正義面”をして、国民の批判を煽っているように見えてならない。
 そんなことを言うと、不謹慎だと集中砲火を受けそうだ。
 そうだと言うなら、なぜ、計画段階、あるいは建設予算が審議された時点で、それなりの批判的な(今と同じくらい大々的に)報道をしなかったのか。
 見過ごして、あるいは気付かずにいたことには口を拭って、視聴者、読者受けを狙ってキャンペーンしていると見えるから、胡散臭さを感じる。
 「それでも、分かった時点で報道するほうがいい」という声も聞こえてきそうだ。それも確かに正論か。

 でも、憲法や教育、雇用、福祉…、もっと突っ込んで報道しなければならない問題はたくさんある。
 何か、こんな時は、知らぬ間に国民にとって重要な法案が通ってしまったするものだ。(国民投票法案もその一つ)
 こんなことに多くの時間を割いて、目くらましにマスコミが手を貸してしまう結果にだけはならないようにと願うばかりだ。(ゼロテン)  
山里便り45「特別な日。」 2007年4月1日
今日は、私にとって特別な日だ。
結婚記念日も○○記念日も覚えていないが、4月1日に、ここへ引っ越してきたことは覚えている。
今日みたいに春の雨が降っている日で、家に荷物を運びこむのが結構大変だった。
何故、4月1日を選んだかと言えば、当時の日本の借家事情がある。1日過ぎれば1ヶ月分の家賃を払わねばならない。退職後は自由業の身、年度の変わり目を感じることもなく、昨日の続きは今日。今日の続きは明日みたいにメリハリなく過ごしていた。ここで、ひとつメリハリをつけたい。そんな訳で、3月31日の夜の新幹線に乗ってやってきた。
夕飯は新幹線の中で、見送りに来てくれた友人が、餞別がわりに持ってきてくれた五目おこわを食べたような気がする。
深夜の盛岡駅に着き、人がいない駅前通りを歩き、ホテルに泊まった。ホテルの名前は覚えていないが、コンビニで見た福田パンの大きさとボリュームには圧倒された。ケチケチしていなくてドカンと大きくて、小ぶりで、こじゃれたものを見慣れ目には新鮮で感動し、「こうゆうパンを売っている所でなら、楽しくやっていけそう。」と、思ったものだった。 

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シラーの観察日記5
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チベタヌス(上)          20070401084337.jpg
クリスマスローズと同じ属だけれど、中国生まれのチベタヌスとヨーロッパ生まれのクリスマスローズ。チベタヌスは深澤紅子さんがユキオコシの名で絵に描いている。岩手に古くからあったらしい。
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早生のチューリップ。雪が融けたと思ったら、また、たっぷりとした雪が降り、再び残雪。
家庭菜園の気楽さで、今年は、ゆっくりとやりなさいと自然が言っているのだと思うことにした。


あれから14年。中学2年生と同じだけ、この地で過ごしたことになる。「どこから来たの?」とも「どうして来たの?」とも「馴染みました?」とも「帰りたくならない?」とも、もう誰も聞かなくなった。この手の質問には、何十回となく答えてきた。聞く方は1度でも、答える方は会う人ごとに答えなければならず、「なんか、もっと違うこと聞いてよ・・。」と思っていた。それが無くなって、実に嬉しい。
後で聞いた話では、集落の人たちは、「どうせきっと東京に帰るに違いない。何ヶ月もつんだか・・。」と話していたそうだ。このまちにも移住者は多い。多いけれど、諸般の事情で出入りも、結構、頻繁だ。
最初は、生活のリズムや会話のテンポの違いに戸惑ったものの、慣れてみると『ゆっくり』は、なかなか良いものだった。『ゆっくり』じゃないと、租借できずに飲み込む感じで、消化不良を起こしそうだ。それに、効率だけを考えていると視野が狭くなるような気がする。

まあ、とりあえず、住み続けることが出来てよかったと思いつつ、
新年度、また新しい出会いがあることを楽しみに、14回目の4月1日を迎えた。
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最後の白菜と豚肉で重ね蒸し煮。貯蔵しておいた冬野菜も、食べ終わりつつある・・。やっと・・。
(丸山淑子)


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