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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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高レベル放射性廃棄物の最終処分場問題を考える
独立行政法人・日本原子力研究開発機構(本部・茨城県東海村)は、遠野市内の国有地で高レベル放射性廃棄物の地層処分に関するボーリング調査を予定していたが、市は国の関係省庁などに正式に中止を要請、事実上、調査再開の道が閉ざされた、というニュースが報道された。
 突然ふってわいたような仰天ニュースのあっけない幕切れ。胸をなでおろした県民も多かったかと思うが、本当にこれで終わったのだろうか。
低レベル放射性廃棄物の処分場の立地調査が、久慈市と野田村で行われたことが最近になって明らかになった。調査を行ったのは、原子力研究バックエンド推進センター。全国170カ所で処分場の立地調査を進めているという。
野田村を対象に行った調査は、医療や研究機関用の低レベル放射性廃棄物の処分場に関するもので、原子力発電所は該当しないとのことだ。だが、その説明を素直に信じていいのだろうか。
高レベル放射性廃棄物の最終処分場を建設する場合、文献調査(2年)、概要調査(4年)、精密調査(15年)の各調査が前提になっており、調査だけで21年の歳月を要する。そのあとの建設に10年がかかる。
国は、最終処分場の操業を平成40年代後半(2033年?37年)としているが、仮に最も遅い平成49年に操業しても、既に文献調査が行われていないと間に合わない。だが、候補地の選定そのものが難航している。
高レベル放射性廃棄物を一時貯蔵している青森県では、候補地が決まらないことに対して「六ヶ所村がこのまま最終処分場になるのではないか」という懸念をよせている。
遠野市では、既に地表踏査などの調査が実施されており、候補地が決まらなかった場合の担保的な存在になりはしないだろうか。
日本原子力研究開発機構は、遠野市での調査の目的を「研究のため」と説明しているが、高レベル放射性廃棄物の地層処分に関する調査は、既に岐阜県・東濃地方で実施されており、研究データなら既に取得しているはずだ。純粋に研究のための調査なら、何も遠野市でする必要はないと思うのだが。
岩手県で放射性廃棄物の処分場建設に伴う調査がされたのは、釜石、遠野、久慈、野田の4カ所。すべてが沿岸地域で西側に北上山地がある。
「なぜ遠野市が調査対象に選ばれたのか」と日本原子力研究開発機に電話で尋ねたところ「学術的専門家の意見を参考にしながら地域を調べた結果、遠野市が適していると判断した」という答えが返ってきた。
推進側は、高レベル放射性廃棄物の容器の耐用年数を数千年とし、高ベル放射性廃液をガラスで固めたガラス固化体は、地下水に接しても放射能が溶け出すことはないとしている。
一方、高レベル放射性廃棄物の処分地調査を誘致するか否かでゆれている高知県・東洋町で講演したアメリカの地質学者、ローレン・モレさんは「(高レベル放射性廃棄物高を)地中に埋めると5年で穴が開いて放射能が漏れるので、アメリカでは埋めることができない」と講演したとのことだ。
六ヶ所村の再処理工場が本格稼動(来年8月)すると、プルトニウムとウランが取り出されたあとの高レベル放射性廃棄物は、どんどん増えていくことになる。
この核のごみは、とてつもない放射能と高熱を発し、地上で30年?50年間冷却したあとでないと地層に埋めることが出来ないといわれている。だが、50年間では、地層に埋める温度にならないという学者もいる。
原子力発電に関する事柄は難しくて、素人には非常に分かりにくい。エネルギーの単位、人体に及ぼす放射能の影響、組織構成など、全てが複雑で系統立てて問題をとらえることが難しい。
例えば独立法人・日本原子力研究開発機構は、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して平成17年10月に誕生した。核燃料サイクル開発機構の前身は、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)だが、高速増殖炉の開発に伴う重大な不手際などで1998年に組織が解体、核燃料サイクル開発機構に改組された。
一方の日本原子力研究所は、国産原子炉の基礎研究を目的に、昭和30年11月、財団法人として設立、その後、特殊法人となった。
同研究所は、高速増殖炉の開発を手がけることになったが、組織が不安定な状態になったために開発から外され、代わりに動力炉・核燃料開発事業団が発足して開発を行ってきた。
同研究所は、原子炉の総合研究などのほか、医療や農業への放射線応用の研究も行っているとのことだ。
このように組織一つをとっても中身がややこしく、一般にはなかなか理解できない。
12年ほど前、夜の新宿を歩いたことがあるが、余りの明るさにびっくりした。こんなに明るくていいのだろうかと、なぜかうしろめたさのようなものを感じた。
上空から映し出される夜の東京は、おとぎの国のような雰囲気さえ漂わせているが、地上の生活者の暮らしは、のっぴきならない状況に追い込まれている。
こままいくと、ものがなかった戦前戦後の暮らしよりも深刻な事態を招きかねない、と考えるのは私だけだろうか。
電気のある快適な暮らし。その恩恵にあずかっていることを有難く思う。ただ、湯水のように電気を使う暮らしは、国土を汚すだけでなく、私たちの生活そのものが成り立たなくなる危険性を孕んでいる。
一番大切なことは、私たち国民が安心して日々の生活を送れるということで、国はそれを保障する責務がある。
国策や一部の企業の利益を守るために、これ以上の犠牲を国民に強いるのは、そろそろやめてもらいたい。お前たち国民はどうなってもいいから、国や大企業を大事にしろというのでは、あまりにひどすぎる。
原発の問題も含めて、私たちは生活そのものを見直す時期に来ているように思う。美しい日本を核のごみ捨て場にして、次世代に引き渡してはならない。(草子)


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山里便り33「心豊かに新年を!」 2006年12月24日
柚子湯に入って冬至を過ごし、
クリスチャンではないけれど、心静かにクリスマスを過ごす。
そして、お正月。
年々、あっと言う間に1年が過ぎていく。
今年も、つつがなく季節の変化を楽しみながら過ごすことができた。

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暖かい冬でも、毎年クリスマスの頃には雪が降る。
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国産丸鶏1羽980円。一晩濃いめの塩水に漬け、水気をきり、お腹にハーブをつめてオーブンで1時間焼く。今晩は、ロースト・チキン!
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来年も、日々の営みや日常の雑事を面倒がらずに、元気に育てて作って食べよう。
そろそろストーブの上で黒豆でも煮始めようかな。

心豊かに新年を迎えたい。
みなさん、よいお年をお迎えくださいませ!
『山里便り』は、2週間冬休みです。
yo






テーマ:田舎暮らし日記 - ジャンル:ライフ

「想像力と政治」?僕の考える
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前回の市民ジャーナルで、地球温暖化が本格化(北極海の氷の融解、シベリア、ツンドラ地帯のメタンガス噴出)し、温暖化はもう人間の手を離れ、地球の定常現象になってしまったと書いた矢先、この写真をみると、「なんだ、温暖化でバラの季節が3ヶ月早まったと言ったって、こんな巨大な氷柱が出来るようなら、まだまだ温暖化といっても大したことないじゃないの」という御仁の声が聞こえてきそうだが、この天にも届くかに見える氷柱は、実はたった50cm程度の小枝に、屋根から滴り落ちたしずくが凍りついた氷柱なのです。この青空の下、お昼にはすっかり解けてしまいました。残念。
 まあ、この巨大な氷柱は遠近法のトリックなのです。この氷柱をどう見るかは、皆さんの想像力次第なのです。

 さてさて、今回のテーマは想像力だが、またまた、馬鹿なヤツが日本の政治の中枢に踊り出てきました。本当はいつもいつもこんな馬鹿なヤツラ(口汚くてすいません、でも、本当に僕は頭にきています)のことは書きたくないのだが、でも、これが日本国政府、すなわち日本の法律制度をつかさどり、ある意味僕たち国民の殺傷与奪の権をももっている、政治の中枢にいる大馬鹿者のことなので、仕方なく書いてしまいます。
政府が、殺傷与奪の権を持っているとは、この民主主義の世の中でいいすぎだと、疑問の方々も多いだろうが、今や日本の自殺者がコンスタントに3万人となり、そのかなりの比率が生活苦や労働環境や病気であり、近年の弱者切捨ての政策(対高齢者、障害者、病症者などなど)によって、本当に生きていけない人々が増えてきて、憲法で保障されている生存権すら危うい国になってきた。また、人間を殺す権利を持っているのは、日本においては国家だけである。すなわち殺人を制度として許容している。死刑制度の問題にはここで深入りするつもりは無いので、このあたりにしておく。

 前置きが長くなったが、そんな政府の、しかも僕たちの暮らしに最も影響しそうな政府税務調査会会長の本間正明が任命そうそう何の仕事もしないうちに辞任した。
その理由がなんと、上さん以外の女性と公務員宿舎に引っ越してきて暮らしている、ということである。別に彼がどんな女性と暮らそうが、そんなことは知ったことではない。真面目な浮気だろうが、その辺の女の子を引っかけようが、プロのオネ?様であろうと、どうぞご勝手にである。しかし、税務調査会の委員長になって初めて公務員宿舎に入ってくる時に、ちょっと考えれば物議を醸し出しかねない女の人と一緒に暮らし始めることは無いじゃないの。いい年して、今更、片時も離れていられないと言う、青臭い坊やの恋物語でもあるまいし。

要するに、ここで言いたいことは、彼の女性問題ではなく、彼の〈未来に起こることに対する想像力の無さ〉なのである。〈こんなことをしたらどうなるか〉、子供でもちゃんと考えながら生きている。それが、大の大人が、しかも日本有数の国立大学の教授で、日本の将来を左右しかねない立場の人間がである。「全くいい加減にしろ、この馬鹿もの」。

 多分、生物の中で、未来への創造力を持って生きているのは人間だけであろう。動物も、特に高等動物の中には、未来を読んで(察知して)行動するものもあろうが、それは刷り込まれた本能であったり、経験的な反復なのではないだろうか。想像力を働かせ、未来への幾つもの仮説を立てながら、一瞬一瞬を選択しながら生きているのは、多分人間だけではないだろうか(このあたりは、生物のプロではないのでこのあたりにしておきます)。

 今、この国の不幸の多くは、〈創造力の欠如〉に起因するのではないだろうか。政府が画策する戦争のできる国とは、〈他者の身体を生きながら切り刻み虐殺することであり、合わせて自国の国民をも家族から切り離し、抹殺することである〉、これは空想ではなく、イラク戦争の米国を日本に置き換えて創造してみればいい。また、自由競争、自己責任という経済社会環境で、どんない働いても、年収百数十万円で、様々な税金を払い、社会保障が切り捨てられる暮らしのなかで、子供を育て、教育できるのか、また収入が年金だけの高齢者、年金すらもらえない高齢者が年金を払いながら平穏に暮らせるのか、ちょっと創造すれば分かりそうなものである。

 人間の脳の出来事、すなわち思考や想像力は、実は体験したことが脳内にモデルとして構築され、現実に起こった事象をそのモデルと照らし合わせることで、判断したり想像するようである。この解釈は僕の相当はしょった解釈なので、詳しくは脳科学の本を読んでください『脳と心の地形図』リタ・カーター(著原書房)、かの有名な『唯脳論』養老孟司(草土社)あたりが楽しいですよ。

 また、他者にたいする〈愛〉や〈深いやさしさ〉と言うものは、多分想像力から来るものではないでしょうか(衝動的な性欲や単なる甘えではなく)。今の多くのこの国の政治家や国家の中枢にいる者たちには〈愛〉〈人間に対するやさしさ〉、もうひとつ付け加えれば〈正義・公正〉と言うモデルを脳内に持っていないのではないだろうか、すなわち正義、他者の痛みを理解する想像力がないのではないだろうか。彼らにあるのは、どっちが儲かるか、選挙に勝てるかという、欲得の世界だけである。
想像力の欠如した人間たちが中枢にいる国には〈愛〉がない。そういう政治家を選んだ、そういう国の国民は〈愛〉のある未来を想像できない。それは絶望である。
丸山 暁〈56歳・人間〉

農産物と市場原理
 大根・白菜がトラクターで踏みつぶす大量廃棄が、テレビで流れている。
以前も、キャベツが大量廃棄されている映像が流れたことがあった。
市場に溢れて値崩れ起こしているために、出荷調整だという。
野菜は、冷蔵設備などの保管や物流が発達したおかげで、産地がリレーで移り変わり常に日本列島に地域の旬に関係なく切れ目無く溢れるようになった。
天気がよいと、終盤の産地の収穫が続き、序盤の産地の収穫期が早まり、その結果、量があふれ値崩れを起こし、大量廃棄につながってしまう。
 また高い値段で取引されると、翌年は、その品目を多くの人が栽培するために作付け面積が多くなり、値段が下がる。
値段が安ければ、消費者が喜ぶのだから良いのではないか?と思う
しかし、値段が安ければ、農家の手間にならないと言う。
 そして「農業は生産性が上がらないから輸入しろ」と言う人が数多くいる。
十二分に量の確保が出来ているのに、競争の中で厳格な見栄えの規格を設定され、市場への出荷が押さえられるから、そのように言われるのだろう
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 市場経済は、モノが溢れれば単価が下がり生産を控え、モノが無くなれば単価が上がり生産を増やす、そして需要と供給のバランスをとると言われる。
もし、自動車が市場で販売されるならどういう事になるのだろう
市場の値段が下がれば、製造を中止する。
市場の値段が上がれば、増産をすることが可能である。
そして作ってしまってから値段が下がっても、売り控える事が出来る。
生産も流通も人為適にコントロール出来るのである。
 ところが農産物は、市場の値段が高くなったからと言って増産するには期間がかかりすぎる。そして増産に取り組んでも、その結果は、天気次第である。
また売り控えると言うことは出来ない。たちまち腐ってしまう。
昔と比べて、生産・流通共に格段の技術発展を遂げたが、結局、人為的にコントロール出来ないのが農産物の生産である。

以前は、「お百姓さんが、丹誠込めて作ったのだから無駄にしてはいけない」と言われ、昨今「もったいない精神」が取りざたされ「農産物は自然の恵みだ」と言われているのに、おかしいと思わないのだろうか?
多分そういう感覚を麻痺させるのが、市場経済原理なのだろう
人間は食べて生きると言うよりも、金さえあれば生きていけると言う拝金主義に陥る仕組みが、市場経済原理なのだろう。
農産物が市場経済原理から逃れる方法は無いのだろうか?

醒めた目でへそ曲がりの議論をしようではないか
また今年も年の瀬が近づいてきた。ついこの前2006年の正月を迎えたばかりだったような気がするが、知らぬ間にあれからもう353日が経ってしまった。
時の経つのが早く感じるのは、しっかり充実した時間を生きていない所為かも知れない。深く反省するばかりだ。

さて今年を振り返ってみると色々と世間を騒がす事件が起きてきた。
ライブドア事件、村上ファンド代表逮捕、耐震偽装事件、シンドラーエレベータ事故、岐阜県に始まる裏金問題、福島県に始まる3県知事逮捕等々・・・・。
これらの事件発生とともに、マスコミは横一線に並んで、一斉に犯人探しと悪者叩きに専念し、社会の興奮を煽り、煽られた市民が更に興奮を増幅させて一種のヒステリー状態に陥る。
その興奮は次の事件が起こると、一瞬のうちに一斉に乗り移って、前の事件は潮が退くように人びとの話題から消えて行く。

シンドラーエレベータ事故はあれほど騒いだにもかかわらず、いまだに事故原因の究明も責任の所在も明らかになっていない。
耐震偽装事件は、姉歯建築士が逮捕されただけで、木村建設や偽装を通報したイーホームズが耐震偽装とは関係のない別件で起訴され、結局真相は闇に葬られ、表向きは姉歯建築士の単独犯行という構図に落ち着きそうな情勢である。
岐阜県に始まる裏金問題は、トップが責任を明確にしないままずるずると時間が経過し、二人の自殺者を出してしまっている。
福島、和歌山、宮崎3県の官製談合事件は、知事逮捕で一件落着となりそうな情勢であるが、果たしてここだけの問題であろうか。もっと上は何も問題がないのだろうか?
何度も繰り返し発生する問題であるのだから、今度こそ構造的な問題究明とシステム改革を期待したいがどうだろうか。
これら全て、ヒステリックに騒いでいるうちに、本質的な問題究明も今後への教訓も残さないまま、熱が冷めて置き去りにされようとしている。

情報化が進み様々な媒体が並立し、いろんな所から社会に発信できる状況が生み出されてきたが、いまだ賛否平行な議論はなされず、ますます「寄らば大樹の陰」的な、本質から外れた、ヒステリックな一極集中的な議論が目に付いてきている。
これでいいのだろうか?

今の時代に必要なものは、敢えて物事を覚めた目で見ながら斜に構えて意見を述べる、「へそ曲がり」ではないだろうか。
既存マスコミが大衆を煽り、“大樹”となってしまったときに、へそ曲がりな草の根ブログの果べき役割は無視できないものとなりつつあるのではないかと、眠い目をこすりつつキーボードを叩いている今日この頃である。
<はやて>

食糧自給率と地域自給
以前、フィリッピンから看護師を導入するというニュースが有った。
国内では、ニートやフリーターが、多く発生し、失業率が上がる中、
外国から言葉が不自由な看護師を、なぜ入れないといけないのか?
国内で、もっと看護師を増やす努力をしないのか?
雇用を増やすことが、国内の急務ではないのか?と疑問を持った。
多分、安い労働力と言うことが、最大の目的ではなかったのか?
 ところが最近の海外情報で、生活改善の為に高給を求めて医者や看護師が流出することで、フィリッピンの子ども達の健康が危機にさらされている。と言う記事を読んだ。
フィリッピンの子ども達の健康まで犠牲にして、導入することなのか?
国内事情だけを考えていると、その本質が見えてこないと思った。

高品質のコーヒーは日除け栽培され、安価なコーヒーは日当たりの良い場所で栽培されると言う。
先進国の人々が安物を求めるために、途上国のコーヒー農家は栽培面積を広げ、日除けの森林がドンドン破壊され生態系に影響を与えていると言う記事もあった。
途上国の生態系を破壊してまで、安いコーヒーを求めるのか?
途上国から輸入すれば、その国の人々が豊かになると思ったが、思わぬ影響を与えるモノだ。

地球全体で考えれば、海外との取引は、足りないモノを補充し、あまりを輸出するというようなことなら大歓迎だが、
ひょっとして、そんな取引から逸脱しているのではないだろうか?
モノや人は、余っているところから、足りないところへ流れると思っていたが、現実は、安いところから、高いところへ流れているようだ。
このままでは、途上国はますます貧困に、先進国はますます富む形になるだろう。
しかし、国家間だけでなく、日本という国の中でも、都市と地方の格差が広がっていると報道されている。

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地方で生産された農産物を、都市へと出荷される構造を指定産地制度や物流などを日本の農政は作ってきた。
それが、都市と地方の格差を広げてきたのではないだろうか?
都市へモノや人が多く流れ、都市の人は旬を忘れ、農作物を作っている人を忘れ、単なる商品ということでしか考えなくなった。
多くの人は安いモノを求めて、国産ということよりも、安ければ良いという発想になり、食糧自給率は落ちた。
食糧自給率は、市場経済のなかで考えれば、上がることはない。
なぜなら、品目横断や水田集落ビジョンなどで大規模栽培や、大規模の担い手を作ろうとしているが、それで出来た麦や大豆は、多くが味噌や醤油、製パン業者の原材料であり、安ければ良いという市場経済原理から抜けられない。

「自給率を上げる」それは地域自給率をあげることで、国の自給率が上がると言う発想を持たないといけないのではないだろうか?
そのためには、切り捨てられる中小農家は、地域のために農産物を作るということを目的にするべきであり、地方農政は、地域の中小の農家を支援するべきであると思うのだが…。

山里便り32「小春日和!」 2006年12月17日
暖かい。
早春の花が咲き始めた。
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イギリスでは、「デージーの花を1度に9つ踏んだら、それは春が来た証拠」と言う。
まだひとつ。だから確かに冬。


北国で雪のない冬の景色は、少々物足りない。
小春日和の土曜日は、師走という気分にもならない。
そんなわけで、パンを焼くことにした。
粉をこね、ひとつにまとめ、南側の窓辺におく。
例年だと、この時期に窓辺発酵法では上手く発酵しない。

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残っていた黒大豆きなこも入れてみた。テキトーに分割し、2次発酵後、焼く。
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去年も11月までは、とても暖かかった。
12月に入り、一気に雪が降り、年末のドカ雪で27時間の停電となった。
幸い我が家は薪ストーブなので暖房には困らなかったが、
ロウソクの明かりの中、ナベでご飯を炊き、食事をし、お風呂にも入れず、昔の生活を体験した。
ロマンチストなmayumiちゃんが、
「えーっ、大変でしたね。でも、だんなさんと二人でロマンチックですねえ。」と言っていたが、
とんでもない。ごはんを食べて洗うだけで、いつもの3倍時間がかかった。
それに、はっきりと見えないものを食べていると、おいしいという気持ちにならない。
『料理は、目でも食べる。』という意味が、よく分かった出来事だった。
一日目は、結構面白く楽しめたが、二日目の晩には、さすがに疲れた。
オール電化の家でなくて、よかったと思ったものだ。

色づかないブドウや落果するミカンが増えているという。着色不良や害虫発生時期の拡大など、温暖化が原因とみられる果物の影響が全国的に報告されているそうだ。
耳にたこが出来るほど、地球温暖化が叫ばれて、そろそろ皆が生活の中で、そのことを実感し始めているはずなのに、一方では、オール電化の家がもてはやされ、町なかはライトアップされ、テレビや冷蔵庫は大型化し、24時間営業の店が増えている。この矛盾!

どうか、今年は、停電するようなドカ雪が降りませんように!
それに、そろそろ雪が降ってくれないと、保存している冬野菜が傷んでくる。
どしゃぶりの雨の日曜日、外を見ながら雪道は怖い、でも暖かいのも困ると思っている。この矛盾!
yo



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「死に至る病それは」?僕の考える
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12月も中旬、北上高地早池峰山の麓、そろそろ夜など?5℃まで下がり、何回か雪も降ったという今日この頃である。何で今頃バラの蕾の写真なのだと思われるかもしれないが、それはこっちが聞きたいことである。先日我が家のバラ園(バラ数本の花壇だが)をふと見たら、もう新芽が芽吹いてきて、しかも、春から咲き続けてきたバラの蕾がまた膨らんできた。これは大変と、剪定鋏みを取り出して、バラの第一次剪定を始めた。この剪定は、本来、2月から3月にやることである。
東京からここに越してくる時、持ってきた、赤と白のバラを植え、こちらで数本増やしたバラの手入れは、毎年2月から3月と相場が決まっていた。確かに数年前から、やけに新芽が大きいなと思っていたけど、ことここにいたって、これは、びっくりどころではなく、恐怖である。

僕がここに越してきての13年で、バラの季節が間違いなく3ヶ月早まった。これは明らかに定常的な気温上昇(気温上昇による定常的な地温上昇も起こっている)、すなわち地球温暖化の影響だろう。人間は、人工的な都市環境や、いい加減で曖昧な気分で、環境変化をごまかしているが、自然を生きるバラたちは、素直に環境変化に順応してきている。ま、人間もまだかろうじて生き続けているところを見ると、とりあえず、いろんな意味で、環境変化に順応しているのだ、と言えるかもしれないが。

 しかし、今まだ、繁栄を享受し浮かれながら生きている人類だが、環境破壊〈地球の温暖化〉は、「人類の〈死に至る病、すなわち絶望(キルケゴール『死に至る病』)の一つである。
 地球温暖化の壊滅的最終章として、スーパーコンピューターがはじき出した幾つかの現象が、〈北極海の氷の融解〉と〈シベリア、ツンドラ地帯の融解によるメタンの放出(メタンはCO2の数倍だか数十倍の温室効果がある)〉であった。ここ数週間のTV(NHK)と新聞(岩手日報)の報道によると、既に両方とも危機的状況が顕現化して来たという。北極海の氷は2040?2070年で無くなり(もちろん冬チョッとは凍るのだが)、シベリアのメタン放出が現実化してきた。ここまで来ると既に、人間の手では、環境変化(ここではもう環境破壊と呼ばず、環境変化と呼ぼう、なぜなら、これまでの温暖化は人間の行為によって起きてきたのだが、これからは、人智を離れ、地球の活動として温暖化、すなわち環境変化が始まってしまったのだから。)は止められない。今だ、少々の気づきがあっても、人類として温暖化を止める方向に世界の政治経済は舵を切っていない。地球上はいまだ飲めや唄えの大騒ぎである。もちろんその影には数十億人の飢えをも共存させながら。人間とはやはり生物としても特異である。
 
 既に人類にとって地球環境は〈死に至る病、すなわち絶望〉となった。

 この世には、もう一つの人類にとっての絶望がある。それは〈核兵器〉である。今世界政治の場では、北朝鮮の核放棄を求めた6各国協議が話題であるが、この世に数万発の核兵器を温存しての核廃棄交渉である。米ロそれぞれ1万数千発、仏英中が数百発、イスラエルインドパキスタンが数十発、そしてイランが開発し、多くの中東諸国も核開発に踏み切るだろう。そして、放射性兵器は既にばらまかれ始めた(ロシアの諜報員殺害事件)。核兵器の所持は、核抑止による平和の維持だという。そのためには、核をもつ国は、限りなく核開発を進めざる負えない。核抑止とは、先に上げた、人為による環境破壊が、地球自らの環境変化に転化したのと同じように、核抑止という核開発のスパイラルに転化する。核兵器が廃絶されることはまずありえない。なぜなら、世界唯一の被爆国の政治家や市民も核を欲しがりはじめた。

 これ、すなわち核兵器が人類にとっての〈死に至る病、すなわち絶望である〉。

 人類として、これだけ絶望があるのに、我が国にはもう一つの絶望がある。日本という国で普通に生きていくこと、〈普通の定義は難しいが、日常の定常的な労働や義務をはたしながら、ある程度のゆとりと夢を持って暮らすこと〉が、将来の平穏で豊かな暮らしにつながらない。いつも、市場経済だ自由主義だと競争を強いられ、時流に乗って、機転の効いた努力をしなければ、いつでも貧困に陥いって「あんたは努力が足りないよ」と国に切り捨てられてしまう。常に、未来に不安をいだきながら、競っていなければ、日常が維持できない社会、これは日本の今の暮らしの状況、〈死にいたる病、それは絶望〉ではないだろうか。

 人間の精神的病は、〈人間にとっての唯一の確かさ、死、すなわち絶望から生まれる〉、というのが通説である。

 これだけ、絶望が揃った世の中で、僕たち人間は、よくもまあ、けなげに生きていることか。ある人は、それでも未来に希望をもちながら、ある人は物を集めることで不安を解消し、ある人は一時の恋に、酒池肉林に・・・。
しかし、普通に真面目に逃げずに、逃げられず、生きる人々、子供たちも〈狂う〉しかなくなるかもしれない。その〈狂い〉の先に様々な異常と言われる現象が表出してくるのではないだろうか。今の異常と思える社会現象は、案外、人間がもっている、時代への正常な反応なのかもしれない。

 すくなくとも、日本の今の政治状況は、世界的にも、国内的にも、僕たちを絶望から解放してはくれない。だからといって、政治に背を向けていたら〈奴らは何をやらかすかわかったものではない(汚い言葉でごめんなさい。でも最近の政治家たちのやっていることを見ると、印籠を出して叩きのめしたくなるのは、僕だけでしょうか)。自民党がダメなら民主党、それでもダメなら共産党といっても、共産党ももぬけの殻だし。昨日、教育基本法改正案も自公ファッショで採決されてしまった。さてさて、それでも、絶望の時代だからこそ、希望をもってがんばりましょう。それも、人間の特性かもしれない。
丸山 暁〈56歳・人間〉

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20061208000101.jpg

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久間防衛庁長官の資質に疑問
久間防衛庁長官が先週テレビのインタビューの中で、ある重要問題に関して「あまりこの問題は議論したくないんだよね。いろいろうるさくなるから」というような発言をした。それに対してインタビュアーが「それは国民に対して“知らしむべからず、寄らしむべし”ということか」と質したが、うやむやに答えてその場を取り繕った。
その数日後、米軍のイラク戦争をめぐり「政府として支持すると公式に言っていない、小泉首相が記者の質問に答えて個人的に発言したものだ」と発言し、その後訂正した。
この二つの発言が他ならぬ防衛庁のトップ、他国で言えば軍のトップから出たところに大きな危惧を感じた。
最近のタイ国の軍事クーデターは記憶に新しいところであるが、世界中のいたるところで軍部が武力を背景に国を支配してきたことは枚挙にいとまがない。わが国は歴史的な過ちの轍を踏むことが無い様に文民統制を執ってきている。しかし、今回のような「国民の前で議論したくない」という、民主主義を否定するような考えを根底に持っている者が、文民の代表の座に座っていていいのだろうかと大きな疑問を感じてしまった。
また、イラク戦争発言は、閣内の認識不一致というような些細な問題ではなく、防衛庁長官が総理大臣を軽んじて反旗を翻すような深層心理が垣間見えたような気がしたのは私だけの思い過ごしであろうか。
<はやて>

山里便り31「病院が診療所に!」 2006年12月10日
大雪(だいせつ)を過ぎても、ここ数日は温かい。
雪がないということは、なんて楽なのだろうと思いながらR396を走っていると、
大迫町の手前で救急車とすれ違った。かなり急いでいる様子だった。
車体を見ると大船渡消防署と書いてある。盛岡の救急病院へ向かうのだろうか。
病気・事故・出産、理由は分からないが、無事に助かるといいなあと、人ごとながら思った。
大船渡からここまでは1時間、ここから盛岡までは40分かかる。長すぎる。

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       今朝の月。今日は曇っていた。

数年前の夏、熱射病から過酸素症候群になり、救急車で町内の病院に運ばれたことがある。
昼食後、頭がボーっとして息苦しく、手足が冷たくなりしびれてきた。ロレツも回らない。初めての経験で自分に何が起こったのか分からず、不安になった。同じ年の知人がくも膜下出血で倒れたことを思い出し、なお更、心配になった。119番通報し、我が家に救急車が着いたのが5分後、
朦朧とした意識の中で、「苦しい・・。息ができない・・。」と言った私に、救急隊員が酸素マスクを付け、手を握ってくれた。どうなるのかと思いながらも、とりあえず安心した。
ひととおりの診察を終えた医者が、「過酸素症候群ですね。ま、念のためCTスキャンを撮っておきましょう。」と言った。情けない顔をして点滴をしている私に、「何も問題は、ありませんよ。今度、苦しくなったら息をちゃんと吐いてね。吸ってるだけじゃだめだから。」と言い、「また、苦しくなったら、いつでも来ればいいですよ。」と笑いながら付け足した。
「いつでも来ればいい」という言葉に、心から安心した。
親切な救急隊員のしてくれた酸素マスクは、余計に症状を重くしたのだけれど、
心からありがとう、という気持ちになったことは憶えている。
私の場合は、笑える出来事だったけれど、笑えない人たちがたくさんいる。

地域人口6000人の町で、4900名以上の署名が集まったにも拘らず、5年前に20数億円をかけて新築された、この町の県立病院は来年4月から盛岡中央病院付属の診療センターになることが決まった。人口の3割以上が高齢者のこの町で、日に3度のバスが通るだけのこの地域での町外への通院・入院は、かなりの負担になる。
それに、新しいレントゲン設備・広々としたリハビリテーションルーム・入院病床は、どうなるのだろう。医療福祉の充実ということで、病院敷地内に保健センターも新築されたばかりだ。
県内の中央に位置し、比較的交通の便もよく、主要道路は整備されている。自然環境もよく、駐車場も十分にとれる土地もある。新築された病院のまわりには、薬局・スーパーなども新しくできている。中央に集約することだけを考えず、医療福祉を中心にした、まちづくりも可能なのではないかと思う。医師が確保できないと言うけれど、あれほど余っていると言われた医者は、みんなどこへ行ってしまったのだろう。

知事は、「ご理解いただきたい。」の一言で締めくくった。
それは、こちらの台詞だと思った。

日本は福祉国家目指すのではなかったのか。福祉国家に行き着く前に、医療福祉制度がしぼんでいく。
盛んに北欧に視察に行って来て、何を見てきたのだろうか。
本来、福祉という言葉は、幸せの意味をもつ。
医療福祉の充実がないと、みんなが幸せにはなれないということじゃないのかな。

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   きんかんの甘煮で、ゆるゆるきんかんゼリー。きんかんは、のどに良いっていうから瓶づめで作って保存。   焼き芋の残りの上に林檎のレモン煮&バターをのせて焼いたアップルポテト。『1日1個の林檎は、医者いらず』と言うそうだから、せっせと林檎を食べている。
yo


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「良いことか悪いこと」?僕の考える
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 僕が母から学んだ、今も事あるごとに心に浮かべる言葉は、「良いことか悪いことかは、自分で考えなさい」という言葉である。少年期、昔の山の暮らしでも、子供にとって、今とは違った危険があった。ある冬、広島ではめずらしく、大きな池の一面が凍った。多くの子供たちが、氷に乗って池の真ん中近くまで行って遊んでいた。もちろん僕も池の真ん中まで行きたかったのだが、それを察知したのだろう、母に危険だからと止められた。それでも池の真ん中まで行くのだと主張すると、「良いことか、悪いことかは、自分で決めなさい」ときた。僕は子供なりに、いつもは張らない氷だし、少し岸から離れるとミシミシ氷がなることを知っていた。結局僕は、岸ぎりぎりの氷に乗るだけで、池の真ん中まで行くことはなかった。
 このことを、僕は子供心に、臆病者と思ったこともあるが、母の言葉は僕と言う人間の行動規範になった。もちろん、この写真の時「氷に乗ったら危ないよ」と諭されているのではない、この写真は春の野原のようである。

 なぜ、こんな和やかな親子の写真(何を隠そう僕と母である)から始めたかというと、とにかく市民ジャーナルを書こうとすると、書くことはたくさんあるのだが、そのどれもこれもが、よくもマア何時もいつまでも、次から次へと不正や破廉恥事件や凶悪犯罪や政治家の茶番劇や増収賄事件など、できの良くない大人たちの話や、いじめ自殺、親殺し子殺し、児童虐待、ロリコン犯罪など子供たちの悲劇ばかりなので、たまには楽しいことでもか書きたいな、と考えていたら、僕の純真な子供時代がふと頭に浮かんできてしまった。そして、僕と言う人間を育ててくれた今あの世にいる母のことを。

 もちろん僕も清廉潔白に生きてきたわけではない。これまでには闇の入り口を覗いたこともある。もちろん嘘をついたことも。ある目的のためにナイフを研いだことも。幸いにしてそれを使うことはなかったが。社会人となり、不正の一端とは知らずに、否、薄々知りながら、今思えば不正の一端だったろう事を担ったことも。しかし、幸いに、自ら意識して社会的不正や、犯罪、まして破廉恥的犯罪を犯すことはなかった。

一見つまらないことだが、就職してこんなことがあった。僕は大学を出て当時大阪に本社のあったゼネコンに就職したのだが、その会社は1年間全寮制で、どこか学生時代の延長のような気楽さがあった。その時、同期の仲間数人と大阪梅田の繁華街に遊びに行き、まったく子供じみたことだが、「万引きしようぜ」という話が持ち上がった。「おれたちはよくやっていた」、そういったのは東京の中堅私大出の数人だった。その場には東京の超一流国立大のやつ、そして二流国立大の僕がいたが、実際に万引きをやってのけたのは、東京の大学に行っていた連中だった。彼らが何処の大学出とはいいません。
 その時も、「僕は万引きすら出来ないのか」と、自分に対して子供じみた葛藤もあった。しかし、僕の行動規範には「良いことか悪いことかは自分で考えなさい」があった。今は、万引きは、明らかに勇気ではないと確信している。

 彼らも、今では、建設会社の幹部になっていることだろう。彼らの子供じみたゲーム感覚の万引きと、相変わらずの建設談合問題を直接結びつけるつもりはないが、やっぱり日本社会、組織には、「みんながやるなら」いう行動規範があるのではないだろうか。
 最近犯罪として表面化する多くの社会的不正は、実は、表ざたになって、犯罪として立件されたから不正と認識するのであって、社会一般の通念では、表ざたにならなければ少々の不正(談合や政治家への賄賂、公務員の裏金、カラ出張などなど)は不正と認識されていないのではないだろうか。皆がやっていること、それはあたかも社会的に認知されているかのように考えているのではないだろうか。建設業、建設業だけでなく、防衛庁や文部省、多分全ての官公庁で起こっている、権力や立場を利用しての身内や利権者への特命や談合、あのまじめそうに見えた竹中平蔵元蔵相も身内の業者になんだかやらしていた。多くの政治家が資金欲しさ票欲しさのために、プライドも理性も捨ててしまうことはいまさら言うに及ばず。

 「子供たちよ、偉そうなことをいうやつのことなど信じるな。どうせ裏では何をやっているか解かりやしない」、多分今更僕がこんなことを言わなくても、敏感な子供たちはとっくに見抜いているだろう。だから、純粋な子供たちは怖くて、本音を大人たちには見せられない。
 世の中表面的には滅菌殺菌清潔社会になってきて、清く正しくというものの、社会の腐敗がこれだけ表層化してきたのだから、僕たちは、社会観を大きく転換する必要がある。「大人の社会は本来汚いものなのだ。」だから、どうにか正しい道を探しながら歩まなければ気持ちよく死ねないよ。今の社会に必要なことは、大人が自分の中に自らの行動規範を持つことである。ただ、「良いことか悪いことかは自分で考えてみたら」、お金儲けや物欲が一番だ、みんながやることが正しいのだ・・、そんな規範だったらどうしよう。
 丸山 暁〈56歳・人間〉

農業と補助金
 以前、ある直売所の会議で、「野菜の作り方」という講座があったと聞く。
講師は、県の農業改良普及員。
オブザーバーとして自治体の農林課の人間が出席していたらしい。
講座が終わって、講師の普及員が本を取り出し、紹介した。
「この本一冊有れば、どんな野菜でも作り方が書いています。価格は千円」
「欲しい人は?」と聞いたところ、パラパラと2?3人の手が挙がった。
そのうちに参加者の一人が「補助金は、出ないのですか?」と聞いたところ
農林課の人間が「じゃぁ?補助金出しましょう」と言ったとたん、
殆どの人が、続けて手を挙げたらしい。

 農業と補助金の関係が、取りざたされて久しい。
補助金は分配する方にとっては、権力の象徴である。
そして農家は、役人にこびているようなふりをして、金にこびる。
いつから、そんな乞食根性になったのだろう。
 役人と親しくなり、補助金を貰う仕組みを熟知している農家もいる。
さまざま補助金を利用して規模拡大し、挙げ句の果てに大きな賞を受賞した。
本来なら税金を使用しないで頑張っている人を、褒めないといけないのではないだろうか?

農業は、自立出来る唯一の仕事である。
何て言ったって、自分の食べ物を生み出す技を持っているのだから。
だれにもこびを売ることなく、どうどうと生きていける職業である。
それが、補助金を貰うために役人にこびを売り、その仕組みを利用する
「制度だから当然」「利用しない手はない」と言うが、補助金のために制度にそった仕事になり、本来の自立を失う。
農は、自然にしか支配されない。
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ある農家が言っていた、「はした金で、補助金漬けと呼ばれたくない」
こんなポリシーを持って欲しい。と思うのだが

社会教材としての「価値」を評価しよう?自民党復党騒動と郵政選挙
 郵政民営化法案に反対して自民党を離れた無所属議員11人の復党が決まった。復党願いだの、誓約書だのと大仰な話になったが、結局収まるところに収まっただけの話だろう。
 政治家の口から「信念」などという言葉を聞いたのも久しぶりのような気がするが、その本質は復党が叶わなかった議員も含めて「打算」が透けて見えている。
 「私は郵政民営化そのものには反対ではなかった」などと復党に際しての記者会見で平気で言っている議員が、選挙中の演説でははっきりと「反対」を口にしている映像が流されたりしているのだから笑える。
 とは言っても、自民党には2億数千万円の政党助成金が上積みされ、11人にはそれなりの配分があるようだから、打算以外の何ものでもない。

 マスコミも連日、「昨年の衆院選は何だったのか」、「税金の無駄遣いだった」などと騒ぎ立てていた。これも政治家(というより「政治屋」か?)に密着して取材している者であれば、当然予想できた事態が起きただけなのに、何で今さらという感が拭えない。
 今こんなに騒ぐのなら、なぜ昨年の総選挙の時に、「刺客がどうの」と小泉劇場にどっぷり浸かり、茶番劇を報じたのか。結局、自民党の本質的な姿を有権者に知らせ、郵政選挙の欺瞞を伝えなかったのかと思う。
 ただ、その時に起きている事象に流されて報じているだけなら、ジャーナリストを名乗る資格があるのかとさえ思う。

 そして、インタビューに答えて「騙された」といったような話をする有権者にも、少々腹が立っている。騙した人を非難する前に騙された自分を恥ずかしく思わないのだろうか。失礼を承知で言わせてもらえば、「これまでも、いつも、そうやって騙されてきたはずなのに、まだ懲りませんか」と。
 
 騙す、騙される、煽る人のうち、だれが一番悪いのか、人それぞれ考え方はあろうが、期待を込めて言わせてもらうと、やっぱりマスコミだと私は思う。
 「郵政選挙」と位置付けたのは小泉前総理で、それに乗せられ、「刺客がどうした」、「どちらが有利か」と流れを作った責任は大きい。
 衆議院選挙の位置付けを考えたら、郵政だけに矮小化した報道自体に問題があった。
 教育基本法の「改正」、憲法の「改正」、戦力を持たない日本には不整合の防衛「省」への格上げ、タカ派色が目立つが、それ以外にも、医療費の負担増、定率減税を廃止しながら、一方で法人税を下げようとしたり、障害者自立支援法という名の支援切り下げ…、多数を得た与党がやってきた、あるいはやろうとしていることを見れば、重要な選挙であったはずなのだ。
 マスコミは、その時々の話題性を狙って、何かを一括りにしたがるが、そのことによって、大事なものを見えなくしてしまう。「既成政党」批判もそうだし、「二大政党論」だって、有権者の判断を誤らせ、特定の政党を利する役割を果たしたと思う。

 昨年の選挙と今回の騒動は、騙す側、騙される側、知ったかぶりで煽る側、それぞれがしっかり見えた社会教材だったと評価すれば、あながち無駄ではなかったのかも知れない。
 教訓とするならば、日本は民主主義の国だと言うが、それほどの国、国民にはなっていないということを再認識することだろう。
 必要なのは、一人一人の国民が自ら判断する目、物差しをきちんと持つこと。そうでないと、騙される人がいつも損をする。(ゼロテン)

官製談合とは脅迫・恐喝・公金窃盗罪だ?一罰百戒ではなく百罰百戒で挑め?
福島県に始まり、和歌山、宮崎と官製談合の広がりはまだまだ止まりそうも無い。
官製談合とは、一般の業者間の談合とは全く異なり、官職にあるものが公権力を私的に利用し、業者を脅迫して社会の財産を還元させ不当な利益をあげようとする、脅迫・恐喝である。
更に、業者側から献金という形で収賄するということは、間接的な公金窃盗なのだ。
こんな悪徳犯罪に対し、官製談合などという生易しい言葉を使われたのでは、本当の談合をしているところから、「談合という言葉を使ってもらいたくない」と文句の一つも出そうな話である。

さて、何故こんなに官製談合がはびこってしまったのだろうか。
それは公正取引委員会と検察の怠慢の結果であると私は思う。
役所と天下り先業者の癒着はこれまで公然の秘密であり、他にも道路公団を始めとする国や県の外郭団体の発注案件では、不明朗な随意契約なども多々見られてきていたところである。
しかし、それに対する摘発は、思い出したように数年おきにポツリポツリと行なわれるだけであり、その度に、検察や公取やマスコミまでもが「一罰百戒」という言葉を、何の疑問も持たず公然と使ってきた。
「一罰百戒」とは「見せしめ」ということで、たまたま運の悪かったものだけが罰を受け、他の者は「やれやれ助かった」と胸をなでおろす。殆んどの場合、その見せしめの生贄には巨悪ではなく小悪が選ばれる。巨悪は罰を受けず、首をすくめて暫くほとぼりの冷めるのを待ってまた蠢き出すのである。
一罰を受けた小悪に対しては「あいつは運が悪かったなぁ」と同情しながら、不正体質は無くならないで続けられてゆく。

官製談合がここまで広がった原因は、公取や検察が「一罰百戒」などとお茶を濁して多くの不正を見逃してきた職務怠慢の結果であるとも言えるもので、さらには、マスコミや市民も「一罰百戒」などというアンフェアを見逃してきたつけが回ってきたということなのだ。
不正に対しては「百罰百戒」でなければならないのだ。
そして「官製談合」の本質は、「脅迫・恐喝・公金窃盗」であるとはっきり認識すべきである。
<佐々 疾風(ささ はやて)>
山里便り30「夜空を見上げて、よかった探し!」 2006年12月3日
雪が止んだなあと、空を見上げると星がきれいに見えた。
冬の空は、高く澄んで見える。
自分の星座を探してみたが、星がたくさんありすぎて北極星しか分からなかった。

ここに住むまでは、星はプラネタリウムで見るものだと思っていた。
中学校の社会科見学で渋谷のプラネタリウムに行ったことがある。特に楽しかったという記憶もなく、
授業がなくなってよかったという思い出しかない。
ここで出会った人たちは、口を揃えて「東京の空には、星がないねえ。」と千恵子抄の詩みたいなことを言う。
そして、「水がまずいねえ。」と、必ず付け加える。
言われてみればそうなのだが、気がつかずに生活していた。

我が家にやって来た、星好きな人は、
「星がきれい!すごく近くに見えるね。」と言い、いつまでも空を見上げていた。
鳥好きな人は、「いろいろな鳥がいるね。観察しないの。これ読んで少し勉強したら?」と言い、
初心者向けの野鳥の本をくれた。
蝶好きな人は、「たくさん蝶がいますね。盛岡ではモンシロチョウも見なくなりましたよ。」と言っていた。
ここに、そんなにいいコトがあったなんて!
私の気がつかなかったコトをみんなが教えてくれた。
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             12月に入り、本格的にまじめ(?)に薪ストーブを焚き始めた。炎を見ていると、あったかい気持ちになる。

ここに来た当初、熱心に『よかった探し』をした。
土がある、食材が豊富、物価が安い、みんな親切などなど、ここに来てよかったコトだけを探した。
自分で選んで来た土地だから、来てよかったコトだけしか考えたくなかったのだと思う。
意識的に『よかった探し』をしていたような時期があったと思う。
月日が経ち、心から「ここに住んでよかった。」と思える今、改めて、落ち着いて『よかった探し』をしてみよう。
まだ、気づいていないモノが見えてくるかもしれない。
とりあえず、夜空を見上げて星をみてみようかな。
私だけ、まだ、見たことがない流れ星も見てみたい。

星座の本をパラパラと読んだら、みずがめ座は10月の空に見えると書かれていた。しかも見つけにくい星座だそうだ。1年中、同じ星が同じ空にあると思っていたので、ちょっと、がっかり!
来年には、見つけられるようになっているといいな。

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     毎日、大根が登場。食べても食べてもなくならない。     
yo



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「民主主義というファシズム」?僕の考える
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 「暗雲にわかにたちこめて、さてこの世は・・・・」、不気味な未来を予告するかのような1シーンであるが、本当は朝食を食べていた時、窓から見えた、山々に霧が立ち込めたさわやかな風景なのである(これは白黒ではなくカラーです)。しかし、このカットだけを取り出してみると、不穏な未来を予見するようにも感じられる。この世のものというものは、多くの場合、この風景のように、見方、それを捉える人の意識、考え方によって、良い面と悪い面の両面を持つものである。

 郵政民営化に揺れた自民党の茶番劇だが、どうも自民党造反組み(僕は造反ではなく、郵政反対派であって、造反組みと言う表現には違和感を持っていたのだが、自民党という徒党集団にとっては造反なのだろう)12人の内11人は、「郵政民営化に賛成します」とねがえって、「おおせのとおりにいたします」と誓約書まで書いて、自民党に復党するようだ。自民党からすれば、票欲しさ、造反議員からすれば選挙公認、政党助成金欲しさ、寄らばやっぱり大樹の陰と、見事に利害が一致したのだろう。
 その言い訳に野田聖子が「郵政民営化に反対したが、選挙では自民党が勝利して、郵政民営化を多くの国民が指示したのだから、それに従うのが国会議員の務めである」旨の発言をしていた。彼女は、それが民主主義の姿、すなわち投票による最大多数が正義であると言いたかったのであろうが、そういう態度こそ民主主義を崩壊し、もしくは民主主義の闇の部分をよみがえらせ、ファシズム化する愚かな民主主義者の考え方である。
1人でも、正義を貫く姿勢、正義を主張できる体制が整っていることが、民主主義のあるべき姿であるのに。
 
現代政治体制においては、とりあえず民主主義が理想的で、公正な政治体制であろうと考えられている。確かに、王政や帝政、独裁体制などより、市民に公正な政治体制であろう。しかし、そういう民主主義体制であっても、民主主義を安易に横行させれば、ファシズムと同じような、強権的な政治体制にないうることも、忘れてはならない。
 その証拠に、第2次大戦を引き起こした、全体主義といわれる大日本帝国、ナチ、ムソリーニのファシズムも、民主主義体制から生まれ、現代世界最高位の独裁国家、北朝鮮とて北朝鮮人民民主主義共和国なのである。

 そもそも、民主主義とはいかなるものなのか。民主主義と言う言葉は、デモクラシーの訳語で、ギリシャ語のデモス(民衆)とクラティア(支配)から成り立っている。そして、民主主義(デモクラシー)が政治の舞台に登場したのは、18世紀末に起こったフランス革命で、ジャコバン党のロベスピエールが1794年に国民公会で行った演説によるとされている。実は、その頃のデモクラシーとは、ルイ16世やマリー・アントワネットや反体制派を次々に断頭台で公開処刑するという恐怖政治によって成り立っていた。皮肉にも、断頭台を発明したギロチンとて断頭台の露と消えた。チョッとでも逆らえば殺してしまう、というのが民主主義の萌芽期、根底にあった。

 確かに、封建的な王政から市民が権力を得るためには、まさに血を流しての戦いの歴史が必要だったろう。実際にフランス革命では、60万人が殺し合い、バンデ地方では革命政府反対派への女子供を含めたジェノサイド(皆殺し)もあった。民主主義の始まりは、「みんなで決めたのだから、何がなんでもそれに従わなくてはならない。そうでなければ命で贖え。」という、非常に強権的な制度であった。

 その後世界的に民主主義が正義、公正な制度として定着するのが、第一次大戦における対ドイツの戦いにおいて、帝国主義にたいする民主主義の戦いと位置付け、2次大戦でも日独伊枢軸国(ファシズム)に対する民主主義の勝利となり、民主主義は正義で公正な平和を築く制度として世界的に認知されるにいたった。しかし、その後、アメリカは民主主義を錦の御旗にして、朝鮮戦争を、ベトナム戦争を、そして懲りずに今また、「民主主義を世界に広めるのだと」イラクを内戦状態に陥れた。これも民主主義の闇の部分である。また、いわゆる民主主義にも人民民主主義や社会民主主義やイラク、イランのようなイスラム民主主義(選挙による政治体制)だってある。アメリカの、ただ自分が商売しやすい自由、市場主義を押し進めることだけが民主主義ではない。

 さてさて、自民党の内紛から話が広がりすぎたが、民主主義という体制、公正・正義らしく見える言葉の中にも、よくよく注意して使わなければ、監視しなければ、強権的、ファッショ的状況が生まれ得ることを喚起したかったのである。こういうことは、何も政治の世界だけでなく、僕たちの日常の世界でも起こっている。「赤信号、皆で渡れば怖くない。」もそういう範疇の社会状況だが、今は「赤信号、僕だけ渡らなければ殺される。」。子供たちの世界にまで、こういう大人社会の負の民主主義の影が立ち込めてきたのではないか。
 たった1人でも、大勢に反論を主張できる人間性、またそれを受け入れ対話する体制、それが出来て初めて民主主義は真に機能するものなのである。そうでなければ、民主主義はいつでもファシズムに姿を変えうるものである。〈やさしくしてくれるからと、通い続けたキャバレーの女の子に、いつしかケツの毛まで抜かれてしまう〉、民主主義とは気楽に付き合うと、そんな性格を持っているものなのです。みんなが気楽に?選んだ政治家たちに、日本国民はそういう目に合わされているのではないですか。うん、我ながらいい喩えである。
丸山 暁〈28日にやっと56歳になった人間〉http://www.geocities.jp/sunchanfly



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