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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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「いじめ」は社会の歪みの表れ?対処療法の緊急提言では効果は期待できない
安倍首相の肝いりで設置した教育再生会議が29日、いじめ対策の緊急提言を出した。
 報道によれば、▽問題を起こす子どもへの社会奉仕や別教室の教育など指導、懲戒基準の明確化▽いじめに関わったり、放置・助長した教員への懲戒処分の適用▽いじめを見て見ぬふりをする者も加害者として指導する?などが盛り込まれたが、一部委員から出ていた、いじめた側の子どもの出席停止の措置は当面見送ったという。
 中には、隠さずに保護者らに報告し、家庭と地域一体となって解決に取り組むことなど、当然やられていなければならないことをなぜ今ごろ文言化するのか首を傾げたくなる項目もある。
 これらは、「対処療法」に過ぎず、とても今各地で表面化している「いじめ」が劇的に減少するとは思えない。

 なぜなら、「いじめ」が発生するのか、その要因、社会的背景に迫っていないと思われるからだ。

 自分の子どものころ(昭和30年代後半?40年代初め)を振り返ってみると、いじめのようなことはあった。いじめられたこともあったし、いじめの側にいたこともある。
 しかし、今の陰湿ないじめとはどこか違っていた。「いじめ」というよりは「からかい」に近かったと思うが、何よりもある種のルールや限度があった。
 取っ組み合いもしたし、言葉での「からかい」もしたが、一方が泣いたら終わりだったし、やりすぎがあれば周りから「止めろ」という声がかかったし、卑怯な手を使うようなことがあれば非難を浴びた。
 子どもの世界のルールではあったが、大人の世界のルールの影響を多分に受けていたのだと思う。

 「いじめ」の質が変わったのはいつのころからか…。おぼろげな記憶では、高度成長期、教育分野では中教審が「数%のハイタレント」を養成することを主眼と位置付け、それと「その他大勢」という区分けが企図されたころからだろう。経済の発展が最優先課題のように扱われたことから歯車が狂い始めたのかもしれない。

 そういうことを考えると、「いじめ」は社会の歪みの表れではないかとさえ思える。

 直接的には、いわゆる「受験戦争」という形で選別され、子ども同士が競争にさらされ、その関係にもゆがみが生じる。
 取り巻く社会は経済の論理が優先され、企業の業績の向上に向かって、父親は「企業戦士」と呼ばれ、競争に駆り立てられていく。
 父親の帰宅が遅くなり、あるいは休日を潰して働く、単身赴任など個人の生活が犠牲とされ、家庭から団らんも消えた。
 そして、最近は、リストラと称する企業に都合のいい首切りや雇用の不安定化で、格差が拡大。企業内では成果主義などの形での差別と選別、パワハラといった「いじめ」もクローズアップされている。
 しかも、フリーター、ニートの増加と若者の雇用の安定のみならず、雇用機会さえままならず、将来への希望が持てない状況への苛立ちは増大している。

 それら、子どもたちを取り巻く環境や社会全体のゆがみをそのままにしているなら、どんな対策を採ろうが、一時的にあるいは表面的に減少したとしても、根本的な解決にはならないだろうと思う。

 今回の対策では見送られたが、「いじめた側の子どもの出席停止の措置」を「有効な指導方法だ」などと発言する委員では、腐ったみかんを排除しようとするだけで、新たな「いじめ」を助長することには思いも至らないのかと、あきれるしかない。

 そして、何より、医療・介護保険の「改正」、自立支援法、生活保護行政など障害者、高齢者、低所得者などの弱い者をいじめる政府に子どもたちの「いじめ」を語る資格があるのだろうか。
 そんな政府に頼るのではなく、まずは地域のコミュニティの再生に取り組みながら、一体となって子どもたちを育て、守ることが最も有効で近道なのかもしれない。(ゼロテン)

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ブックレビュー ;『西欧「偶景」今昔話』 丸山暁著
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本文エピローグから

「・・・・仕事をするもしないも自由、誰とまたどんな組織と関ろうと、一人でいようと自由、まさに飢える自由も手に入れた。
・・・・・・・・・・・・・
ジャズ喫茶もCDショップも本屋も都会の華やかさのかけらもなく、汗糞たらして稼ぐ暮らしが、子供の頃から夢に見た自由だろうか。
 ひょっとしたら僕は自由になったつもりが、全く不自由になってしまったのかもしれない。
今思う、結局自由とは、何処にいても手に入り、何処にいても失うことのできるものなのではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・」


ふと立ち止まって人生を考える時に開いてみることをお勧めする。
<疾風>

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シンドラーエレベーター報道のその後?垣間見える日本の歪み構造?
シンドラー社製のエレベーター事故から約半年を経過し、事件に対する関心が薄らいできた頃に、やっと国土交通省がエレベーターの緊急点検結果を発表した。
内容は「シンドラー社製のエレベーターに不具合発生率が突出して多いとはいえない」として、同社製品に構造上の問題はなかったと結論付けた。

さて、このシンドラー社製エレベーター事故は、わが国のマスコミ報道と言うもののおかしな姿勢を改めて露呈させてくれた。

6月の事故発生直後は、シンドラー社製エレベーターは欠陥製品でこれが原因で事故が起こったという“断定的推定”を元にした報道がなされ、シンドラー社叩きに専念した。
それは、再発を防止するため事故原因を突き止め責任の所在をあきらにしようとするものではなく、事件をセンセーショナルに報道し世間の関心を煽って視聴率を上げようとするもののように見えた。
案の定その後の報道に事故原因の究明に関するものは殆んど見られなかったし、今回の国土交通省の発表に対しても、そのニュースは隅に追いやられてしまっている。

現代のマスコミと言うものはテレビやラジオはNHK以外は無料である。すなわち民間放送はコマーシャルで収入を上げているものだから、コマーシャルを放送することが第一の目的であり、そこに視聴者を引きつけるために番組があるといっても過言ではないかもしれない。新聞も、購読料より広告料収入の方が多いという現実の中では、やはり広告のスペースを売るために、話題性に飛びつく傾向があることに否定は出来まい。
全てがそういうコマーシャリズムの中で動いているとは言わないが、全体としてはそういう面が衣の下に隠しきれず覗いて見えるように感じるのは私だけではないだろう。

マスコミと言うものはそういうものであるという認識を持ちながら、報道に接していかないと本質を見失ってしまう。

今回のエレベーター事故については、国土交通省の「シンドラー社製のエレベーターに構造上の問題はなかった」との発表よりも「高校生がエレベーターで死亡する事故があった東京都港区住宅公社のマンション『シティハイツ竹芝』で、シンドラーエレベータ製の事故機の交換工事が終わり三菱電機製の新エレベーターが20日運転を始めた」とのニュースが大きく報道されている。
今更シンドラー社製品は欠陥品ではなかったというのでは、これまでの報道との整合がとれず引っ込みがつかないと言うことなのだろうか。あるいは自ら描いたストーリーに合わないものは興味がないということなのだろうか。

シンドラー社製品に構造上の問題が無かったとすれば、メンテナンスの問題はどうだったのか、そこのところの責任の所在は何処にあるのか、そこを追及しなくては方手落ちである。

さて、この問題のもっと本質的なことは、シンドラー社がマスコミに一方的に叩かれても泣寝入りせざるを得ないような理不尽な社会構造をこのまま野放しにしていていいのか、ということである。
これは単にシンドラー社いじめの問題ではなく、日本社会のゆがみの一端が垣間見えたということである。
このような問題は実は社会のいたるところに蔓延しており、小さな問題だと油断して見逃していると、気がつかないうちにシロアリのように社会の土台を侵食してゆく恐れがある。
一つひとつしらみつぶしに潰していかないといけない。
<佐々 疾風(ささ はやて)>

山里便り29「冬支度、完了!」 2006年11月26日
バリバリという音をたてて、屋根の上を風が通った。
風の音が強くなると、そろそろ冬が始まるのだなと思う。
私の住んでいる谷間の集落は、町内で一番風が強い地域だと、郵便配達のおじさんが教えてくれた。
バイクで走っていても「ゆるくない。」と言っていた。
一年を通して風の強い所だが、季節によって風の音も違う。
木の葉を払うような北風が吹き、小雪(しょうせつ)を過ぎた頃から、朝の気温はマイナスをさしている。
バケツを下げて薪を取りに行くと、ポクッポクッと霜柱の音がする。
そろそろ、冬野菜を収穫して貯蔵する頃だ。

大根、人参、ごぼう、とっくり芋を掘りあげて土に埋ける。
穴を掘り、ムシロを敷き、生えていた形に立てていく。ムシロをかけてネズミ除けの杉の枝を乗せ、取り出し口が分かるように土をかける。畑の一角に、大小様々な土盛りができた。
スーパーに行けば何でも売っている時代だが、
この小さな山を見ていると「春までの食料を確保したぞ。」という安心感が沸いてくる。
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ムカゴを植えておくと3年後には食べ頃に 20061126074639.jpg
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とっくり芋でフワフワ揚げ

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大きく育ったタアサイでスープ炒め煮

じゃが芋・白菜はムロに入れ、ネギはダンボールに立てて入れてクン炭を詰める。
日持ちもよく、いつまでも瑞々しい。
去年は、ソバガラでやってみた。本当は、モミ殻を使うと良いらしいが、あるもので代用して間に合わせている。
畑の天地返しをして農具を洗い、スプレー油を吹きかけてしまう。
あたり一面、黒い土色になった畑を見回すと、「ああ、今年の土遊びも終わりだなあ。」と思った。
始める時には、「春が来てしまった。めんどうだなあ。」と思うけれど、
土と親しみながら過ごしているうちに、それが生活の一部になっていき、終わってしまうと名残惜しい。
まだ、雪が積もったわけじゃないし、落ち葉を集めて腐葉土作りでもしよう。

冬支度が整うとホッとすると共に、春までの間、自分と向き合う時間がなくなってしまった気分!
yo



テーマ:田舎暮らし日記 - ジャンル:ライフ

「炭焼きと文明」?僕の考える
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今年も炭焼きが始まった。僕の暮らす谷間では、昔は炭焼きが正業として盛んに行われていたが、多くの山間部と同じように、高度経済成長の中でいつしか炭焼きが消えていった。しかし、近年の地域おこし、環境の見直し、自然志向によって、各地で炭焼きが小規模ながら復活しつつある。僕の集落でも昨年、炭焼き釜が地元の人の手により復活し、今年もまた炭焼きの煙が立ち昇り始めた。

近代文明は、産業革命、エネルギー革命を繰り返し、現代の高度な文明を築き上げた。そして、そういうこと、文明の発達、発達した文明は、人類にとって望ましいもの、人類の目的ともされてきた。では、そういう文明というものにおいて、炭焼きという行為は文明においての進歩なのだろうか、それとも後退なのだろうか。もちろん、今から炭がエネルギー供給の主流を占めるという状況を考えるのではないが。ちなみに我が家の暖房の60%は薪である。それを最近ではバイオエネルギーというそうだが、要は単に丸太を切って割った今も昔も変わらない、薪である。

僕たち日本人を含む先進国、発展途上国でも一部富裕層は、高度に発達した文明社会を生きている。そして、僕たちはそれがあたりまえのように暮らしてきた。文明は発達すればするほど良いものだと。しかし、近年の環境破壊、地球温暖化などの顕現化により、僕たちは、文明が発達することは人類にとって、どうも良いことだけではないということに気づいてきた。このことに対しては、多くを語る必要もないだろう。

過去の歴史をみても、3大文明インダス、チグリス・ユーフラテス、エジプト文明もその時代、高度に発達した極限状態で亡びた。最近TVで露出が頻繁になってきたインカ帝国の空中都市マチュピテュ(こんな名前だった)も今は単なる廃墟である。
そのように、発達した文明の先にあるものは、歴史が教える通り、文明の崩壊が待っているのだろうか。そうであるなら、現代社会が向かいつつある文明の姿は、皮肉だが、歴史的には正常な文明の姿だと言える。文明を発展し続けて、どこかで限界が来て、急激に崩壊する、それが、文明というものなのだと納得して、今を生きる僕たちは、文明を限りなく享受して、静かに現代文明の崩壊を待つこととしよう。めでたしめでたし、と。
 
とは言っても、〈崩壊に向けて発展し続ける文明をそのまま容認することが、文明というもののあるべき姿なのだろうか。〉禅問答のような問いかけであるが、ここで少々「文明」なるものを考えてみたい。

国語辞典レベルでの「文明」は「世の中が進み、精神的、物質的に生活が豊かである状態」とある。また哲学的には「文明は人間が、人間にとって自然を利用しやすく形成すること、またその成果(岩波哲学小事典要約)」とある。
フランス、リセ(高等学校)のP・フルキエの哲学講義によると「文明”civilisation”は、18世紀に、動詞”civiliser”から派生したが、その動詞自体はラテン語の”civis”(市民)と”civitas”(都市、国家)に由来している。よって文明は整然とした政治組織をもつ都市における諸関係」、とある。また、「開花した国の知識、風俗、思想の総体『科学アカデミー辞典』」、などから始まって、「文明とは、高いレベルの暮らしやすさ、基本的な欲求を充たすための気苦労から開放された特権階級によってなされる。しかし、技術、富、暮らしやすさは手段にすぎず、西欧諸国(ここでは今の日本の僕たちも見事に含まれるだろう)では多くの人が、その手段を目的と勘違いして、結局は真の文明から遠ざかっている。」、とあり、つぎの展開となる。「文明とは本質的に精神的なものである、〈知能の発達〉〈感性の洗練〉〈自己支配〉〈モラルの観念と宗教〉。」と来て、最終的に「文明とは、ある社会の成員の精神的発展に好都合な、社会組織と技術的装備と精神的雰囲気との枠組みである。」と締めくくっている。

 このように「文明」を解釈してくると、「文明」というものの本質が少し見えて来る。さすが、フランスは哲学の国である。なかなか、鋭い分析をしている。僕の考える「文明」はP・フルキエの「哲学講義」の後半に近い、超要約すると「文明とは人間にとっての便利さだけではなく、その時代に必要とされる知恵や技術の総体である」、ということになりそうだ。さて、「文明」をそのように考えると、冒頭で挙げて「炭焼きは」、現代社会において、文明論的には、いかなる位置付けにあるのだろうか。それは、未来を見据えて考えると、最も進んだ文明へいたる一方策となるのではないだろうか。そして、そのような仕組み、制度、行為を行おうという意思のある地域こそが、世界で最も進んだ文明の地と、これからは考えるべきなのではないだろうか。ま、後の判断は皆さんにお任せします。

 それらを踏まえて解釈すれば、現代の高度に発展したかに見える、グローバルな科学技術文明は残念ながら、未来に向けての「文明」の姿ではないということになる。今最も高度な「文明」とは、自然の循環に中で「持続的社会」を模索する思想、制度、行為などの総体をいうのではないだろうか。炭焼きにこそ、未来への「文明」の姿が見えてくる。そして、多量のエネルギーを消費し、機械化し、身体的行為が少なく、金儲けのために多くのストレスに晒された、六本木ヒルズの暮らしは、未来に対して最も非文明的生活と言えるのではないだろうか。僕の文明論においては、これは持たざるもののひがみではない。
丸山 暁〈55歳・人間〉


タウンミーティング質問依頼?民主主義における対話の原点とは?
先日岩手県沿岸北部に位置する普代村で村政懇談会が開催され、参加者がわずか13人であったと新聞が報じていた。
一方、全国各地で開催された政府主催のタウンミーティングは、いつも会場が“ほどよく満員”になって、“ほど良い意見交換”が交わされたと言われてきた。

さて、民主主義における対話集会とはどういうものなのだろうか。
参加は自由、発言も自由。そこが一番の基本である。
参加しないのも自由であり、程良く無い耳障りな意見が飛び交うこともあり、意見が出ない白けた空気が漂うことも有り得るのが、民主主義の市民対話の場なのである。
そして、賛否とともに無関心を含めた、多様な主張の存在を認めることが民主主義なのである。

しかるに、会場に程良く満杯になる参加者があり、程良い議論が為されるなどと言うことは民主主義の世界では殆んどあり得ない事で、それは民主主義ではないと言って良いのだろう。
それは、フセイン統治下のイラクや北朝鮮や共産党独裁政権下のソ連などで良く見られた景色である。そこには自由と民主主義は存在していなかったのである。

今回の政府主催タウンミーティングで質問者に依頼して謝礼を支払ったことについて、塩崎官房長官は「議論を活発にするために行なったもので、問題は無いと認識している」と発言している。私は、この塩崎長官の「問題は無いと認識している」という認識こそが問題であり、そういう民主主義の本質を理解していない人間が政府の中枢に座っていることが大きな問題であると認識している。

ひと昔前まで(僅か10年程前まで)、日本の多くの大企業の株主総会では、総会屋にお金を渡し、経営陣に都合の良い意見を言わせたり、経営陣に反対する意見を封じ込めたりすることが行なわれていたが、最近はこれがはっきり犯罪であるとして当事者は逮捕起訴されている。

タウンミーティングでのやらせ質問と謝礼は、これとよく似ているように私には感じられる。

さて話は戻って、普代村の人口は3千6百人ほど。タウンミーティングが開催された札幌は190万都市で、普代村の528倍である。
すなわち、普代村で13人集まったと言うことは、札幌市の人口に置き換えれば、(13人×528倍=)6,864人集まったと同じことである。
普代村懇談会への参加者の数13人は、“僅か”とはいえない。
その13人が活発な議論を行なったのだから、普代村こそ、村民も役場も民主主義の原点を理解していると言っても過言ではない。
次回のタウンミーティングは是非普代村で開催して欲しいものだ。
<佐々 疾風(ささ はやて)>




山里便り28「猟、解禁!」 2006年11月19日 
子供の頃から食べものが登場する『おはなし』が好きだった。
ただの「バタつきパン」と書かれていても、自分が食べているバターつきのパンとは何か違う、
特別おいしい食べものに思えてくる。
TVドラマでもお馴染みだったL..I..ワイルダーの『小さな家』シリーズの中では、
収穫間際のトウモロコシ畑がムクドリの大群に襲われ、ローラの父さんが次々とムクドリを撃ち、
そのムクドリで母さんがパイを焼き、みんなで「おいしいね。母さんは料理上手だね。」と言いながら食事をしている場面がある。焼きたてパイの湯気と香りが、本の中から漂ってきそうだった。
心に残った場面で、生きていくというのは、こういうことなのかもしれないと思ったものだ。

昨日の夕方、チューリップを植えていると、近くでバンと爆発音がした。一瞬何だろうと思い、「ああ、猟が解禁になったのだ。」と気がついた。
毎年、11月15日は猟解禁の日だ。キジ・ヤマドリから始まり、2月のクマまで動物により猟期が決まっている。狩猟日は水・土・日曜日。この日に山に入る時は、気をつけろという。明るい服を着て人間だと分かる格好で行けと忠告された。黒い服だとクマに間違われて撃たれる危険があるそうだ。
我が家の周辺から猟区が始まる。猟区と禁猟区は、人口密度や交通量などによって決められているのだろうが、このあたりだって結構人が住み、それなりに車も通る。揃いのオレンジ色のベストを着たハンターたちが、無頓着に道路に車を停め、鉄砲を持って歩きまわる。目が合っても挨拶するわけでもなく、畑や田んぼの中を横断していく。作物を植えていない時期とはいえ、田畑の持ち主だって畦を歩いているのに、少しは遠慮して歩いてよと思いながら眺めている。

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    手前の白と茶色の縞柄がキジ、奥がヤマドリの羽。「首に巻くと温かいのさ。」と言い、タヌキの毛皮をくれた。皮についている脂肪を取り、洗って板に貼って型崩れしないように干せという。とりあえず、言われたようにやってみたが、カラスに突っつかれて尻尾しか残らなかった。

猟友会の狩猟解禁パーティーに、何度か招いてもらったことがある。キジにヤマドリ、タヌキにマミアナ、クマまでをご馳走になった。それぞれに味が違い、自然の中で生きていた獣の味をしっかりと主張していた。
キジをもらった時には、クチバシとツメ以外は、全部食べられると教わった。毛をむしり、うぶげ(?)を毛焼きして解体していくと、スーパーに並んでいる鶏肉みたいにモモ肉・ムネ肉・ササミに分かれてく。ひとつひとつの工程の中で、命をもらったんだなあと思いながら、さばいていった。
しみじみとした気持ちで作ったムネ肉のタイム焼きだったが、実に美味だった!

ここ10数年、地元では猟をする人が減ったそうだ。ハンターの高齢化と銃の維持管理・免許更新の費用も大変らしい。今では、食べものも十分にこと足りて、昔のように食べるために撃つ猟ではなくなり、大半がスポーツとしての狩猟を楽しむ人たちだそうだ。ハンターの多くが関東方面など都会から『撃つ気』で来ている人たちだという。
食べないものを撃つというのは、ひどく抵抗がある。
もらった命は、余すところなく美味しく食べつくしてもらいたいなあ。
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ハンターじゃないから豚肉で夕飯!甘辛味のネギ巻きとセージバターソース。雪に埋もれるまで、沢のクレソンが元気。
yo

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「閉塞的階層内競争社会その4」僕の考える
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もう「閉塞的階層内競争社会」などという、どう考えても憂鬱で出口のない、閉塞的なのだから出口がなくてあたりまえなのだが、テーマを何時までも書いていると、これを読んでくださる皆さんも、もういい加減にしろ思われるかもしれないので、もうこのテーマは止めにしておこうと思ったのだが、今日、秋じまい(作物の収穫、貯蔵)で畑に出たら、隣の水道ポンプ小屋の軒下にスズメ蜂の大きな巣を見つけてしまい、彼らの攻撃性、喧嘩っ早さを思いついた途端、やっぱり今回も「閉塞的階層内競争社会」を書かなければと、なんだか思ってしまった。またかと、読む気も起こらないかもしれませんが、お付き合いください。

我が家にはスズメ蜂がよくやってくる。こともあろうに僕はもう2度も刺されてしまった。一回目は左腕の手首を刺され、大したことはないと市販の虫刺されの薬を塗って放っておいたら、どんどん腫れて腕がマルタンボウになり、手の平はグローブのようになって紫色に腫れてきた。これは大変と急いで、3日目に病院に行ったら、「何ですぐにこない、死んでしまうぞ」と脅かされ、実際毎年何人も死んでいるようだが、注射を打ってもらって何とか治まった。二度目は耳の後をやられた。チェーンソウでジャ?ンジャ?ン薪を切っている時、耳の後がムズムズすると思って手で払ったのがいけなかった、一気にジクときた。普通の蜂に指されたらチクと表現するが、スズメバチに刺されるとチクのチのすぐ跡にジンという感じのまるで鈍い錐で突き刺したような強烈な痛みが走る。「やられた」。刺されたところを指でなぞると、固いものに引っかかった。抜いてみるとなんと真っ黒い針が刺さったままだった。これはえらいことだ、でっかいスズメ蜂に違いない。

今回はもうゆっくりしてはおられない。下手をすると死んでしまう(スズメ蜂に刺されると、一度より2度、2度より3度と危険が増すという)。かみさんを呼んで急いで車で病院に向かった。1人で運転して行ってもいいのだが、途中でショック症状を起こすことがあるので、「蜂に指されたらすぐ救急車で来なさい」と医者に言われていた。案の定、数分立つとフット気が抜けてきた。病院についてすぐに注射を打ってもらいベッドに横になると点滴が始まった。なんだかふわっとした気持ちになり、頭がほわっとしてきた時「血圧40、奥さんを呼んで」と医者が行った。こらはやばい、と思っても、意識が薄れるとはそういうことなのか、大変だとか恐怖心すら薄れるようで、ただボートして横になっていただけだった。10数分たった頃だろうだろう、意識もはっきりしてきて、どうやら助かったようだ。

皆さんも蜂、特にスズメ蜂に指されたらすぐ病院に行くことをお勧めします。命に係わりますよ。

さて「閉塞的階層内競争社会」とスズメ蜂の関係だが、スズメ蜂は肉食かつ凶暴で、何にでも攻撃して来て噛んだり刺したりする。特に黒いものには熊と間違えて攻撃するそうだ。それだけではない、今年数回2匹のスズメ蜂同士が絡み合い空から落ちてくるのに遭遇した。そのうち何度かは二匹とも踏み潰したが、どうもお互い刺しあったのか、かじりあったのか分からないが、二匹が絡んだまま死にいく姿を目撃した。彼らは他の種を襲いながらも、同種同士でも熾烈な争いをしているようだ。そんなことを思ったら「閉塞的階層内競争社会」を思い出してしまった。

こういう「閉塞的階層内競争社会」の問題で今最も許せないのが教育改革をテーマにしたタウンミーティングのヤラセである。小泉首相の肝いりで始まったタウンミーティングだが(本来これはこれで結構なことではあるが)「やっぱりね」というのが正直な感想である。何かことが起こった時、もしくはなにか新しい動きをする時、なるべく波風がたたず、穏便に済ませられる方法を何気なく、裏ではみんなおぼろげながら知りながら知らん顔をして、画策している。こういう不正は、不正とも思われず、けっこう習慣的にこの社会では広く横行してきたことではないだろうか。

僕も大人になりいくつかの公的な会議や集会に出てきたが、多くの場面で明らかなヤラセに遭遇してきた。まず、何だコリャと思ったのが、初めて参加した県知事との懇談会である。何の事前情報も知らずに個人的に参加して、意見交換の場で手を上げて質問したのだが、参加者にあれ、という目で見られてしまった(知事本人はなんの不思議も感じていなかったようだが)。他の質問者は、何々団体、協議会の顔役が指名され事前に用意した(もちろん、個々の団体の代表が関係する問題を質問するのは結構なことだが)当り障りにない陳情、提言でシャンシャンシャンとことが運んでいった。そこには意見交換、対話という本来の姿は見られなかった。大体多くの行政の会議や集会はこのような性格を持っている場合が多い。中には紛糾するものもあろうが、多くは問題が起こらないように穏便に済まそうとする集まりがまだまだ多い。これは主催者だけでなく参加者にも責任があるが。

本来対話、意見交換を通して、お互いの考え方を修正したり、考え直したり計画を見直したり、納得したりするための集まり(会議、集会など)が、あまりにも形式的であったり、原案を頑なに押し付ける集まりが多すぎる。多分こういう組織的な日本的慣習(外国の集まりをTVなどで見ていると、実体はどうだか分からないが、けっこう意見を戦わせているようにも思える。)が、組織だけでなく個人の行動にも反映し、言いたいこと、真なる思いを表現できず、自己抑制し、または真綿の圧力により抑圧し、知らず知らずに閉塞的社会を作っているのではないだろうか。

社会全体に少々の不平不満、ある程度の抑圧があっても、暮らしが安定し、将来に対してもある程度希望が持てた時代は、不安な心が表層には表れてこなかったのだろうが、現在の日本社会は心の不安、心の叫びを吐露できず、かつ自分の中ではごまかしきれず、もしくは吐き出せず、自己崩壊に向かっているのではないだろうか。
これは、国家の最高機関国会(あの場ではほとんど対話がなされていない、また自民党は教育基本法を強行採決しそうだ)から、地方行政、会社の会議、地域の集まりにまで、見事に巣くってい悪しき構造である。そこでは多くの人間が「閉塞的階層内競社会」のなかで、先に上げたスズメ蜂のように同類を傷付け合っている。〈子供の自殺〉その最も大きなしわ寄せが、最も抑圧された、逃げ場のない子供社会に表層化してきている。

とにかくあらゆる場、階層間、閉じ込められていても対話しましょう。素直に、喧嘩をしてでも、心から、最初は照れくさくても、どきどきしても、顔が赤くなっても・・誰かに話をして、お互い意見を交換しましょう。そこにしか「閉塞的階層内競争社会」を打ち破る方法はないのです。
丸山 暁〈55歳・人間〉

「勝ち組」と「負け組」が入れ替わっても解決はしない?再チャレンジ支援策はブラックジョーク
 小泉内閣で広がった「格差」の是正をうたい、安倍内閣が政策の目玉の一つとしている「再チャレンジ支援」。今出ている「再チャレンジ可能な仕組みの構築(中間取りまとめ)を見ると、とても現在急速に進行している格差が縮まるとは思えない。
 一番の問題は、なぜ格差が広がったのかということから(意図的に?)目を背け、広がった原因には何もメスを入れようとしていないことだ。
 このままでいくと、格差はもっと広がる可能性が高いし、それが国の根幹を揺るがしかねない。
 世帯の収入の減少は当然税収減になり、年金や社会保険制度自体が成り立たなくなる。そういう状態を創り出すことで、消費税の引き上げにつなげるというのだろうが、それではさらに格差を拡大していく結果になるのは目に見えている。

 格差が広がった要因はいくつかあるだろうが、最も大きな要因は、「競争しろ、自己責任で生き残れ、国や自治体に頼るな」という「構造改革」路線、そして行き過ぎた規制緩和だろう。
 護送船団方式で既得権を守り、新規参入を疎外するような業界のあり方には問題もあったから、規制緩和がすべて悪いとは言わないが、価格競争の激化のしわ寄せが労働者に向けられ、雇用が不安定になったことが格差拡大につながっている。

 中間取りまとめでは、「再チャレンジがしやすく、勝ち組、負け組を固定しない社会」、「人生の各段階で多様な選択肢が用意されている社会」を目指すとしている。
 「勝ち組」、「負け組」と色分けすることを否定してはいない。「負け組」を減らすとも言ってはいない。つまりは、「勝ち組」と「負け組」が入れ替わることを奨励しているだけで、まじめに働けば安心して働けるような社会を目指しているわけではない。
 「再チャレンジを可能とする柔軟で多様な社会の仕組みの構築」をうたい、困難に直面している人の支援と称して、若者、女性、団塊の世代などに加え、事業に失敗した人、病気、多重債務、罪を犯した人にまで支援メニューを示している。
 手厚いと思いきや、肝心の非正規雇用を減らすとか、正規雇用を増やす具体策はなし、正規・非正規労働者間の処遇の均衡を言いながら、企業任せで具体策はない。
 みんなが「勝ち組」と「負け組」を経験すれば均衡がとれるというのでは、単なるブラックジョークだ。

 「自己責任」を言っていたものが、「格差」が拡大し、再チャレンジを言わなければならなくなったこと自体、「構造改革」路線の誤りを認めざるを得なくなった表れだ。
 年功序列が決していいとは思わないが、成果主義を採用した企業の多くが問題を抱えている。少なくとも、多くの人たちが安定した正規雇用を求め、雇用する余裕のある企業もあるとすれば、政府は必要な措置を採り、企業に正規雇用を増やさせることが必要だ。
 国の役割は、企業の利益を増やし、守ることではなく、国民の生活を守り、安定させることではないか。
 政治の世界でも、「勝ち組」と「負け組」の入れ替え、「再チャレンジ」が必要なのだが…。(ゼロテン)

こんなことを許して日本はいいのか?群馬大医学部56歳主婦を年齢を理由に不合格に?
先日、群馬大医学部を受験し筆記試験で合格ラインに達していながら、面接で落とされた56歳の主婦が訴えていた裁判で、前橋地裁は門前払いの判決を下した。

この主婦は、父親の死から高齢者医療への強い思いを抱き、朝4時に起きて猛勉強をしてきたと言う。
大学は不合格の理由を明確にしていないが、主婦の問い合わせに対し、年齢が理由であったと非公式に述べていた。
裁判所は、原告の立証不足を指摘して、「年齢を理由とする入学拒否とは認められない」と訴えを退けた。

この事案はわが国に横たわる多くの問題を露呈させた。

その1「わが国には、“本音”と“たてまえ”が、公においても使い分けられる理不尽な社会が、まだまだ大手を振って存在している」
その2「56歳はもうチャレンジしてはいけない年齢なのだろうか?」
その3「この主婦が入学した場合、大学6年間とインターン等で約10年を経て医師になった場合65歳になるわけだが、その年齢の医師は不要なのか?」
その4「大学とは職業養成所で、学問を修めるところではないのか? 学問を修めようとする人間に年齢制限をすることが教育機関の姿勢として適性なのか?」
その5「こういう裁判において大学は、国民である原告の求めに応じて不合格理由を積極的に開示すべきではないか?。公の機関なのだから。」

私は、こういう理不尽な社会正義に反する行為が、国立大学医学部という権力を持つ公の教育機関において為されるところに、現代社会の病巣の縮図を見るような気がする。
安部総理が声高に「再チャレンジ」とか「教育改革」などと叫んでも、この主婦のような社会の範となるような気高い志を潰してしまうようでは、誰も信じてついて行こうという気は起こらない。
また、裁判所が自らの任務を放棄して、責任を回避するような判決を出すことが、一所懸命頑張ろうとする市民の気概を挫いていることを、認識しなくてはいけない。

50歳を過ぎて難関の国立大学医学部の試験に挑み、現在の医療のあり方に疑問をもって医学の道に進もうとする心掛けは、同世代のものとして頭が下がる思いであり、こういう人にこそ自分の老後の医療を託したいと私は思う。
<ハヤテ>

山里便り27「しみじみと、葬式饅頭!」 2006年11月12日
テレビを見ながら朝食を食べていると、ワイドショーの司会者が
「このところ、身近な人たちが次々と亡くなっていきショックです。季節の変わり目ですから、皆さんも体調には気をつけて下さいね。」と話していた。

私の周りでも確かに多い。この一週間の間に、17戸の集落で3回葬式があった。
日本人の平均寿命と言われている年齢に近い人たちの葬儀だったので、和やかに式は進んだが、誰かが欠けるというのは、ちょっと寂しい。

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   木枯らし一番が吹き、落ち葉が積もり始めた。色とりどりの落ち葉で絵の具箱みたい!

14年前は、稲刈り・脱穀が終わる頃、集落の半数の家から杜氏や酒つくりの手伝いで出稼ぎに出る人たちがいた。冬になると人口密度がさらに減り、ガランとした感じだったが、年々、高齢化と日本酒ばなれのために出稼ぎにでる人も減り、今では一人だけとなった。
春になると、出稼ぎに行っていた人たちが次々と帰ってくる。自分のつくった酒をぶら下げて、帰宅の挨拶で集落をまわる。
Matsujiさんは、長年、杜氏頭として働いてきた人だった。杜氏だけれど酒は飲まない。集落の集まりの時には、いつもジュースを飲んでいた。だが、自分のつくった酒に自信がある。
初対面の時、「宮内庁にも収めている酒だよ。」と、自分のつくった一升瓶を下げてやって来た。
見るからに高級そうなラベルが張ってある大吟醸酒で、品が良い風味の軽くてフルーティーな日本酒だった。
「うまいけれど、酒というよりワインみたいだ。今の酒は、みんなこうですね。」と、率直すぎるsunちゃんが言った。
その翌日、再びMatsujiさんがやって来て、「じゃあ、これはどうだ!」と言い、にごり酒を差し出した。
麹の香りがする昔ながらの酒の味がした。「うまい!」と唸ったsunちゃんを見て、Matsujiさんはにやりと笑った。
実に好い笑顔だった。それからずっと、我が家には大吟醸酒とにごり酒を2本セットで届けてくれていた。

見えるところ見えないところで世話になり、いろいろなコトを教えてくれた人たちが亡くなっていく。
どの人たちも実に個性的だった。個性的で優しい人たちだったから、異質なものであった私たちを受け入れてくれたのだと思っている。『ごんぼほり』もいなくなり、がんこ者も少なくなってきた。

全国どこでも同じモノが買え、食べられるになりボーダーレスの時代。
人柄も、笑えるくらい『岩手県人気質』の本に載っていたとおりの人が少なくなってきたように感じる。
年々、人も食べ物もアクやクセが少なくなり、妙に口当たりが良くなっていくように思える。
ここ数年で、酒つくりの現場も変わったそうだ。
諸般の事情で、いろいろな制約があり、思うような酒つくりが出来なくなってきたという。
何だか、ちょっと残念だなあと思いつつ、
みんな安らかにと、一言つぶやき、葬式まんじゅうをほおばった。

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     11月11日は、岩手県では『鮭の日』。このところ、毎日のおかずは鮭!
yo

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食糧自給率向上の秘策
食糧自給率の向上が言われて久しい。なかなか向上しないでいる。
その対策として、小麦や大豆の栽培を補助金付きで行う政策が取られている。
しかし、おかしな話だ。
小麦や大豆を使用するのは、業者である。
小麦は、製パン業者、製麺業者、大豆は、味噌製造、醤油製造、豆腐・納豆などのメーカーである。
一円でも安く、原価を下げたいと言う業者が一番大量に使用している。
そこへ中国産やアメリカ産などの海外産と格段の値段の違いがある小麦や大豆を作らせ、自給率向上の作物として指定するのは、補助金を出して作らせ、補助金を付けて保管し、買わせるという昔の食管法のような物である。
食管法の廃止で、一体、何を学習したのだろうか?

物を作らせるのではなく、日本人の食生活を変えないと食糧自給率は、上がらない。洋食を止め、和食中心の食生活にすることである。
そのような意識の高い人々が増えることによって、小麦の使用量は、大分減る。
そして、大豆は、自家生産させることである。
大豆で自分の家の味噌を造り、醤油を作り、豆腐や納豆を作らせる。
作れなかったら、地域の大豆をまとめてメーカーに依頼することである。
だいたい、小麦や大豆を作る労働よりも、買った方が安い、と言う発想から輸入が増えてきたのである。生業として大豆の生産をさせることである。
そして輸入飼料で生産されている畜産である。
飼料の輸入を全面的にストップすれば、一挙に畜産は崩れる。
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ところが洋食を和食にというのは個人の嗜好の問題である。
また大豆を生産しろというのも、経済的メリットがないと個人は選択しない
そして飼料の輸入ストップは、他国や畜産業界の反対で困難である。
と言うことは、食糧自給率を上げると言うことは、無理と言うことである。

ところが、ここに一つの方法がある。
ちいさな単位での自給を目指すことである。
一つの集落で自給出来るくらいの米・小麦・大豆を作ることである。
余った耕作地に、鶏を放し、豚を飼い、牛を放牧することである。
あまった作物を鶏に豚に牛に食べさせることである。
一つの自給圏を作る。「どんなことがあっても、食べものに困らない自給圏を作ろう」と言う強い共通の意志が有れば、食生活を変えることは可能である。
そのような自給圏を、幾つも幾つも作ることである。
そして 自給圏の余剰の農産物は、農地を持たない都市へ供給することである。
都市は、足りない分を輸入に頼らざるを得ない。
しかし、それがイヤな人々は、田舎に移り住むことになるだろう。
都市への一局集中を防ぎ、豊かな食文化の地方を作り出す。
これは絵空事なのだろうか?(入道)

「閉塞的階層内競争社会その3」?僕の考える
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北国の我が家の庭にも既に薄っすら霜が降りる今日この頃であるが、今年の野菜たちは、まったく見事に育ってくれた。写真の手前は白菜で、これから寒さが増してくると、もっとしっかり巻いてきて味が乗ってくる。その上のちょっと一段高い位置にすっくと立ち上がっているのが大根。これはもう見事に育って、そろそろ掘り上げなければならないのだが、埋けるには(大根は土に埋けて冬越しをする)まだちょっと暖かすぎる(暖かい内に埋けてしまうと腐ってしまう)。その奥には葱がつんと槍の刃先のように天を突いている。
 彼ら野菜たちは、我が家の堆肥をすきこんだ(我が家の堆肥は我が家の雑草〈堆肥に使うのだから雑草ではなく貴重な有用植物だが〉を熟成した堆肥である)それぞれの区画で、太陽の光を浴びて、雨を受け、すくすくと育ってくれている。彼らは、形態的には決められた「閉塞的」区画ではあるが白菜と大根と葱などに「階層」はなく〈夫々に個性的な価値を持つ〉、結果的に出来不出来はあるものの、のびのびと育っている。中には人生と同じで、生をまっとうできないもの、他所に飛んでいって大きく育つもの、消えていくものもあるが、夫々が同種の中で競い合っているわけではない。
 
私たち人間もある意味、人類みな平等という理念は認めるものの、現実には、貧富の差、環境の差などある意味野菜たちと同じように構造化した「階層」のどこかで生まれてくる。しかし、その後の人生において、我が家の畑の野菜たちが太陽や雨の恵みを受けるように、社会保障や教育が均等に受けられる「解放的競争社会」であればいいのだが、現代の日本社会はそうではなくなって、「閉塞的階層内競争社会」になりつつある。それは固定化した階層社会の中で、周囲と競わなければならない社会であり、そういう社会で大人も子供も精神が蝕まれているのではないだろうか。

 そのような社会を作り上げている大きな原因の一つが教育問題であろう。政府は何が何でも、「国家のために世界と競争する子供たちを育てる」ための「教育基本法改正」を急いでいる。そうではないのだ、教育改革とは、そんな〈管理〉を強化して「閉塞的階層内競争社会」をより強化することではないのだ。今必要なのは「開放的機会均等創造教育」である。

確かに人間社会にはある程度の競争は必要なようだ。そうでないとやっぱり何もしないで食って寝ていたいという人間は必ずいるものだ。蟻や蜂の社会にも2割程度は働かないやつがいるという。そして働くやつを2割殺すと、殺さなくても除外すると、働かなかったやつが働き出すが、やっぱり2割は働かないという。これは、どんなに景気が良くても、人間社会にもいえることだろうから、競争なんて馬鹿らしいという人間も当然居るだろうが。

 現代日本の問題、失業率4%(日本だけでなく景気がいいというアメリカとて失業率は5パーセント、多くのヨーロッパは10パーセント近く、アジアアフリカには50?60%という失業率もあるが)、働く意欲、生活のために働かなくてはならない人々に正当な働き口がないということ、どんなに一生懸命働いても一定限度(年収200万円程度)以上、経験を積んでも所得が伸びないという階級が増えてきた。これはIT革命後の先進国共通に起こっている問題である。以前のように頑張れば報われる社会ではなくなってきた。

 仕事にはいろいろある。3K(以前は建設業であったが、今は介護関連の仕事のようだ)といわれる仕事、一見楽しそうに見えるが結構ストレスの多い都会のサラリーマン、玉の輿を狙う女の子には憧れの医者とて、うつ病を診察しながらうつ病が最も多いという精神科医、苦境にある多くの中小企業の社長たち・・また同じ仕事でも楽な部署厳しい部署、生き方の上手いやつ下手なやつで・・・仕事の充足感、満足感は違うだろうが、人生においては働くという行為、努力が報われる(例えば収入、地位など)ことが必要ようである。「生きるとは何か」島崎敏樹(1978年岩波新書)に「生きがいとはその場に居る甲斐と、前に進む、すなわち行くことが共に備わっていることである」、それが「生きがい」とあった。多分人間が働く意味もそういうことなのだろう。

 ところが、残念ながら今の日本社会にある閉塞感、苛立ちは、〈自分が居る場(仕事でも生活でも)が不安定(雇用や将来設計において)であり、かつ正当、普通に頑張ってもなんだか報われない〉という状況にあるのではないだろうか。もちろん、進取な気性に富み、誰よりも努力して、地位やお金を得ている成功者はある。これはこれで賞賛に値するが、どうも最近の地位や名声、お金の裏には不正が見え隠れするが(裁判中の堀江氏、村上ファンドの村上氏、賄賂ずきのあちこちの知事たちなど)。

 本当は「閉塞的階層内競争社会」をいわゆるケインズの計画経済とアダム・スミスの神の見えざる手、放任主義、サッチャーやブッシュの新保守主義、市場主義、グローバリズム(アメリカ民主党の勝利で多少変わってくるか?)あたりを論じながら、解明したかったのだが・・・少々力不足なのでまたこの次とする。
 ただ、人生の一般的な幸せは、我が家の野菜たちのような生き方かもしれない。与えられた環境、境遇で均等な社会環境(制度)のもとのびのびと暮らしていく。そういう社会になればいいのだが。
丸山 暁〈55歳・人間〉

空疎になった「改革」という言葉?好んで使う人物は疑ってかかれ!
 最近は、誰もが好んで「改革」という言葉を使いたがる。「改革」の本来の意味は「現行のものを改めて、よりよくしようとすること」(旺文社・詳解国語辞典)のようだが、言葉の意味通りに使われているのか首を傾げることが多い。

 「改革」の類義語には「変革」、「刷新」がある。少し広げると「維新」、「革新」なども似たような言葉だ。
 「革新」と言えば、かつては政治の分野では自民党などの「保守」に対して、旧社会党、共産党などを指して使った。
 そういうことを考えると、以前は自民党が「改革」などという言葉を使うこともあまりなかったような気がするが、当の自民党が多用するのだから、日本という国の現状は問題が山積しているということだろう。

 その中でも小泉純一郎前総理が好んで使っていたが、それ以来、「改革」という言葉は空疎になってしまった。
 「改革」という言葉の響きは現状に問題を感じている国民にとっては何かしらの期待感を抱かせる。それをうまく利用したのが、小泉政治だった。
 だが、「現行のものを改め」ることが、「よりよくなる」とは限らない。それは本来は「改革」に値しないのだろうが、それでも小泉前総理は「改革」という言葉に固執していた。
 「改革なくして成長なし」から始まって、先の衆院選のポスターには「改革を止めるな」というコピーもあった。
 行財政、道路公団、医療や年金、教育、郵政民営化と「改革」を冠したものは多かったが、どれも国民にとっては「よりよくなった」とは言いがたいものばかりだ。
 道路公団は解体され、民営化されても、無駄だと指摘されていた高速道路は建設され続けているし、医療費は負担が増え、年金は「100年は大丈夫」と言ったとたんに出生率の低下で先行き怪しくなったし、郵政も一部の地方では集配局の廃止されそうである。

 そして、政権を引き継いだ安倍内閣もまた、「改革」を唱えている。今は教育「改革」だととして教育基本法の「改正」にやっきとなっている。
 確かに、「いじめ」や高校での「単位未履修」問題がクローズアップされ、学力の低下も指摘されており、現状に問題があるめは確かだろう。
 そういう意味では、教育「改革」が必要なのは分かるが、教育基本法の「改正」がそれを解決するものでは決してない。法律に問題があるわけではないのだ。むしろ、日の丸、君が代の強制も含め、「愛国心」の押しつけや教育現場への管理強化が主な目的だという指摘のほうが当たっているのではないか。

 もうひとつ思うのは、国民の不満などをうまく吸い上げ、先手を打って「改革」を使った方が、他方に比べて勢いが出てしまうようなところがある。
 一方が「改革」を言ってしまうと、他方は「改革」を言えなくなり、「守旧派」みたいにとらえられてしまう。
 マスコミを引き込み、それをうまく使ったのも小泉前総理だったようにも思う。
 教育基本法だけでなく、憲法、特に九条を的にした「改革」が企図されているが、何でも変えることがいいことではない。
 大切に守り、後世に残すことが「よりよい」のだということを忘れてはならない。

 だから、最近は、「改革」という言葉を好んで使う人物こそ、疑ってかからなければならないと思うようになった。
 マスコミの報道に流されず、「改革」という言葉が出てきたら、誰のため、何のため、どんな中身なのかを自らよく考えて判断することが必要だということを学習させてもらったのも、小泉前総理の「功績」なのかもしれない。(ゼロテン)

熊の分を横取りしてはいけない!
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先日遠野に出かけた折に産直に立ち寄った。
収穫の秋たけなわであり、農作物が赤や緑に色艶良く並んでいた。掘り出し物を物色していると、「やまぶどう」が目に入った。これは珍しいと値段を見るとなんとひと皿250円と安価である。良い土産ができたと買い入れ意気揚揚と家に帰って、「山葡萄を買ってきたぞ!と、自慢げに取り出したところ、「こんなものを買ってきてはいけません!!」と妻に叱られてしまった。

「これは山に棲む熊や狸のものなのです。人間は栽培している葡萄を食べることができるのに、熊達の食べ物を横取りするようなことをしてはいけない」と。
「む・・・・」そこまでは考えも及ばなかった。反論もできず、酸っぱい山葡萄を口にしながら渋面を噛締めてしまった。

今年は例年に無く熊に襲われる被害が多いそうだが、それは人間のせいかもしれない。
春は“たらの芽”“タケノコ”、秋は “キノコ”に “やまぶどう”や“アケビ”“マタタビ”まで、何でもかんでも採り尽してお金に換える。自分で食べる分には“もういい” という限があるが、売ってお金に換えようとすればどこまでも限りが無い。資源が枯渇するまで収奪しなければ収まらない貨幣経済の性か。

山の動物達にとって人間は、強欲凶暴な侵入者なのだ。我慢も限界に達すれば怒り心頭、堪忍袋の緒を切らしてやむなく反撃に出る気持ちも分らないではない。
熊の領分にまで押し入って彼らの食料を分捕って来てはいけないのだ。

狭い日本で生きていくためにはお互い様なのだから、熊たちの生活のことも考えて、人間も少しは遠慮というものを身につけなくてはいけない。
反省させられた山葡萄であった。
<佐々 疾風(ササ ハヤテ)>
山里便り26「正法寺と温室!」 2006年11月5日
暦の上では、そろそろ立冬だが、今年の秋は穏やかに晴れた日が続いている。
冬野菜を収穫し、土に埋けたりムロにしまうには少し早い。

このところ紅葉行楽シーズンで、R396を走っている車が多い。
毎晩の天気予報も、紅葉情報付きだ。
我が家は山の中にあるので、自宅で紅葉が楽しめる。どの窓から外を見ても、360度のパノラマといった具合に、
素晴しい紅葉が見える。そんな恵まれた環境に住んでいるので、「花見だ。山菜取りだ。きのこ狩りだ。紅葉見物だ。」と、わざわざ他所まで出かけて行こうという気にはならないが、たまには、よその紅葉でも見ようかと正法寺に出かけた。
水沢にある正法寺は、何となく心惹かれる寺で、何度か足を運んでいる。
以前、出かけた時には、今にも朽ち果ててしまいそうな有様だったが、改修工事が終わり、日本一の大きさを誇る茅葺屋根も葺き替えられ、建造物も補修されていた。素朴で簡素でありながら堂々として力強く、歴史と格式のある寺らしいたたずまいに変わっていた。境内を歩き、本殿に向かうと、建物の周りに砂利が敷いてある。
「泥はねよけの砂利だよ。うちの温室と同じさ!」と、sunちゃんが、ちょっと自慢げに説明した。
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手作り温室三代目。三代目は泥はねよけの砂利付き。2坪ほど広さだが、室内で作業も出来る広さ。初代は、江戸時代の温室並みに簡単なものだった。ローリエ・ローズマリー・レモンバーベナ・レモングラス・グリークオレガノ・木立ベゴニア・ゼラニウムなどが並ぶ。庭の花も、まだまだ元気。 
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基本的に外で越冬できない植物は、蒔かない・植えないことにしているが、
越してきた当初は、耐寒性の強弱が分からず、いろいろ蒔いて育ててしまった。
育ったモノを凍死させることも出来ず、冬は鉢に移して部屋の中に移動する。
2階の窓際は植木鉢でいっぱいになり、ちょっと住み心地が悪い。
春先のタネ蒔き時期にも、温室があると便利だ。
最初の年は、タネを直まきにしていた。蒔いて土をかければ、自然に発芽してくると思っていたが、そう上手い具合に育たないものもある。長雨で土が固く締まってしまい発芽できなかったり、カモシカやタヌキの足あとがペタンとついて芽が潰れたりして、がっかりしたものだ。
なんだか自然のリズムに逆らうような気がして、最初は抵抗があった温室だが、今では必需品になっている。
正法寺の砂利と我が家の温室の砂利の共通点を見つけて、気をよくして帰宅後、夕暮れ時のあたりを見回し、
正法寺の紅葉もきれいだったけれど、家から見える紅葉が一番きれいだと思った。
身びいきだということは、よく知っているけれど、
それが、地域に対する愛情というものだよね!そして、郷土愛や祖国愛につながっていると思う。
ナショナリズムではなくて・・ね。
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寒くなると美味しくなってくるカジキマグロを酒ゆで。レンジで温めた大根おろしと南蛮しょうゆをかけて。酒ゆでした豚肉を大根と水菜で和えてサラダ風。最近、酒ゆでに凝っている!yo


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「閉塞的階層内競争社会その2」?僕の考える
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今回のテーマは前回と同じく「閉塞的階層内競争社会」なんて、固い、なんだか分からない七面倒臭いテーマなので、せめて冒頭の写真だけでも明るいものにしよう。この写真がなんだか分かりますか?防空壕と答えた人は相当年配の人だが、随分と陽気な方だろう。きっとどんな時代、戦争中でも、どこかに人生の楽しさ、喜びを見出せたる人ではないだろうか。次に祠と答えた人は、実は昨日我が家を訪れたある人は「あの祠のようなものは何ですか」と聞いてきた、ということは、これが祠に見えることもあるのだろう。こういう人は、信心深いか、下手をするとあらぬ宗教にのめりこんでいく人かも知れない。地下牢だという人は一度精神科を訪ねた方がいい。
このダークグリ?ンの枠に赤い扉の構造物は、我が家の室である。僕の市民ジャーナルをちゃんと欠かさず読んできた方は、「僕という人間?5〈環境3〉」にあった写真と同じものだろうと、お気づきになったに違いない。これは室(ムロ)である。14年前に作った室の扉が老朽化して壊れたので、新しく作り変えたものである。

 さて、面倒臭いテーマだから明るい写真からと言っておいて、結局僕の文章は面倒臭くなってしまう。これに懲りずに今日もお付き合いください。

「閉塞的階層内競争社会」、この言葉はまだ何処でも、誰からも言われたことのない僕の造語である。この言葉は現代の日本社会、ひょっとしたら、現代だけでなく日本という社会での社会人〈あえて社会人としたのは個人個人は結構個性化、多様化してきているので、あえて大人の一般的な社会活動という意味で社会人としておく〉生き方の特性を表している言葉ではないかと考えている。
まず「閉塞的階層内競争社会」の「閉塞的」は読んで字の如く「つまっている、塞がっていること」であり、「階層内」とは「あるヒエラルヒ?、支配的な秩序によって形成された個々の階層内部」のことである。そして「競争社会」はそのまま「皆が競いあっている社会」である。言葉の全体的意味はそんなとこだが、字義をそのまま理解しても、なんじゃこれという域をでないので、具体的事例で説明したい。

いままさに政治決着しようとしている「高校必須科目未履修問題」であるが、なぜこのような理不尽な問題が起こったかというと、大方は大学受験問題に端を発していることだろう。ではなぜ、こういう問題が起こったか。僕はそこに「閉塞的階層内競争社会」の典型的事例をみる。そのことを、僕たちが大学を受けた30数年前と今の大学受験制度を比較して考えてみたい。

多分今40代以上の方々は御存知だろうが、30数年前、国立大学は2期校制であった。それは東大、京大など旧帝大や東京工大、一ツ橋や地方の古い大学を1期校として、横浜国大、埼玉大、山口大、愛媛大など戦後出来た大学(地域的バランスもあったようだが)を2期校(この分類方法は少々違うかもしれないが)としてほぼ半分づつ受験次期がずれていた。これはこれで、確かに1期2期という階層、優劣はあったが、高校生もまだのんびりしたもので、関東で言えば、1期校を東大や一ツ橋を受けてだめなら横浜国大、埼玉大(受験ランクでは東大と相当開きがあるのだが)、なんてのんびりしたものだった。高校でも「お前の偏差値ではあの大学はダメだろうが、ま、ひょっとしたらなんとかなるかも、とにかくやってみろ」なんて時代であった。そんなことで、大学にランク付けはあったが、まだ、度胸や運、そして努力によって、かなり挑戦の幅が広かった。

しかし1期2期校という序列があるのは良くないと文部省が言いだし、(確かに最初は第一希望の1期校を落ちたという惨敗感は残っているがいず忘れていく。中には1年生ですぐ止めてまた挑戦するものもあるが)、1期2期校がなくなり、共通一次なるものが導入され、大学は夫々に個性を生かし受験生の選択肢も増やすのだといっていたが、結局蓋を開けて見れは、大学は見事に新たな明解な偏差値による序列(1・2・3・・10・11・・40・・50・・)がつけられてしまった(前期後期日程はあるが)。

今の大学受験を見てみると、高校(予備校も含め)での成績によって受験生個々に偏差値が設定され、偏差値で括られたランクの受験可能(合格可能)大学が選定され、そこには、夢やまぐれが介入する余地がない。歴史や伝統でほぼ固定化され、偏差値によって階層化された大学に偏差値で割り振られた受験生が、夫々の偏差値の範囲内で競い合っている。そんな構造がまさに「閉塞的階層内競争社会」なのである。そして、その大学ランクは残念ながら、概ね、企業のランク、高級官僚の合格ランクと一致する。もちろん、個人的な運、努力によって覆されることも多少はあるだろうが。

もうひとつの事例を挙げれば、日本企業社会の伝統的重層構造、特に建設業に現れる下請け孫受けひ孫請けの構造に端的に現れている。この件はまたこの次とする。
経済成長期は効率的に見えていた「閉塞的階層内競争社会」の歪みが、社会的目的を失った今、精神的圧迫をきたし、様々な予期せぬ犯罪やいじめ、自殺を誘引しているのではないだろうか。この件はまた次に論じてみたい。
丸山 暁〈55歳・人間〉

豊かさとは…
「豊かさとは何か?」と、ここ10年ぐらい問い直す声が多い。
貧しい戦後から、高度成長期、そしてバブルと続き、経済成長に重きを置いた社会が破綻し、その不良債権を処理して、再び経済成長を求めている。
経済は、限りなく成長するのであろうか?
経済とは、「物を生産し、流通させ、貨幣と交換し、消費する、一連の流れ」のことを言うらしい。
経済が成長をすると言うことは、生産量が増大し、流通量が拡大し、貨幣が大量に動き、消費量が増えることを意味する。
ところが一人の人間が消費する量は、限界がある。と言うことは、人間が増えていかないと経済の成長は、あり得ない。
現在、発展途上国は、人間が増えているが、先進国は頭打ちである。
つまり先進国は発展途上国に輸出することで経済成長を続けているのではないだろうか?
発展途上国に購買力をつけさせるために、さまざまな援助が行われ、国民生活のレベルアップという名の下に、先進国の文化を押しつけ物を豊富にしている。
しかし、その国の人々も物が豊富になったら、次はどこへ行くのだろうか?
結局どこか破綻させて、復興させるということなのではないだろうか
つまり戦争によって壊滅的打撃を与え、それを再建するというスクラップビルドでしか、経済成長は続いていかないと考えるのは考えすぎか?
経済成長を求める限り、争いは続くというのは素人の考えだろうか?
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最近、ネットワークビジネスというマルチ商法まがいの商法が人知れず、流行している。都会が終わって、地方都市にまでやってきた。限られた人口の中で、会員を増やすと言う商法はいずれその人口の壁に突き当たる。
先に飛びついた会員は収益が上がるが、その影で末端の会員は、在庫を負担し、借金を抱えて悲劇を増幅している。
まさに経済成長を求めることは、マルチ商法に似ている。
先進国だけ経済利益を得て、遅れてきた国は、草刈場になっていく。
経済とは、世の中を納め人民を救う「経世済民」というのが原語だというが、
常に成長を求める続ける経済は、多くの人々を救うことが出来るのであろうか
そろそろ「経済成長を求めない仕組み」を考えないといけない時期に来ているのかも知れない。
それは右肩上がりの直線を求めるものではなく、回る循環を基本にした考え方ではないのだろうか。「循環」それは地球と言う限られた世界の中で、えいえいと昔から営まれてきた仕組みである。
多くの人は、「いまさら昔に戻れない」と言うが、もはや戻らざるを得ない時が来ているような気がする。
そして伸びることではなく、「回る豊かさ」それは自然の循環を基本にした「農を中心とした営み」の中にこそ、有るのではないかと思う。(入道)



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