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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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「美しい国」?僕の考える
20060930080838.jpg

僕は今温室をつくっている。材料は、昨冬の大雪で倒れた杉丸太を近所から貰ってきて(貰ってくるといっても、山に入りチェーンソーで倒木を切り倒し、2m程に切りそろえて我が家の1500ccのワゴン車に積んで持ってくるのである)、構造的な部分(柱や梁)を作り、後の材料はホームセンターで買ってきて、トンテンカンテン建てている。われながら、けっこう美しい温室になりそうである(現状写真を載せる)。せっかく我が家に温室を作るなら、ただ機能を求めるだけより「美しく」楽しい温室がいい。

 この世の中も、「美しくない」「醜い」より「美しい」ほうがいい。特に女性など美しくなるために随分苦労(努力)している方々が多い。このところの若い女性の服装は下着まがいの重ね着で、様々な色を幾重にも着重ねるという、ミイラか案山子のようなかっこうの、少々色気を通り越して、嫌悪感すら感じる(これまた若いものだけかと思いきや4、50代の伯母様方もときてはいやはやなんとも)。最近は女性だけでなく男性諸君も美に余念がないようである。相当数の男性が黒髪を捨てて茶髪にしているのも、そういうことだろう。ただ、そういう彼らが「美しい」と思ってやっていることが本当に「美しい」のかというと、これまた評価の分かれるところであるが。

 そもそも「美しい」というものには一定の基準があるのだろうか。多分「美しい」ものの評価には一定の傾向はあるだろう。例えば鳥を例にとれば、一般的にメスよりはオスのほうかカラフルで「美しい」。本当に下手なガチャガチャな絵より職業画家の絵の方が一般的には「美しい」。ただ「感動」となるとまた別である。小さな子供の自由奔放な絵のほうが大変有名な売り絵「一枚の絵(ご存知の方はご存知だろう)」などより数段感動することもある。街中を歩いていても、避けたくなる汚い場やただ通りすぎてしまう場と、なんとなくひきよせられて佇んで見つめてしまう場がある。そのような場には、何かがある。小さなお狐さんの祠があるかもしれない、打ち水をした店先にしゃれた花壇があるかもしれない、石組みの側溝のせせらぎにめだかが泳いでいるかもしれない。そういう自然な営み、さりげない生活が描き出す風景は美しい。このあたりの「美しさ」は概ね共感を得られるのではないだろうか。

 その反面、わざとらしい空間、場はけっこう努力しているのに、どうもなという風景がある。最近気になった風景の一つが、NHKのニュースで流れる六本木ヒルズの夜景である。六本木ヒルズが出来る前は、光の海に浮かぶ東京タワーが東京の夜を醸し出していたのだが、最近の六本木ヒルズの夜景はどうも権威的に見え美しくない(それがホリエモンや村上ファンドの基地であったからかも知れないが)。特に六本木ヒルズの横に東京タワーを配置したアングルはいただけない。

 「美しい」とは、を考え出すと、大論文になるし美意識は相当個人的な感性、特に世代、環境によっても異なるのでこのあたりにしておくが、とりあえず先にあげた幾つかの事例を頭においておいて頂きたい。

 話は変わって、いよいよ安倍新内閣が誕生した。安倍新総裁は「美しい国」をつくるという。「改革なくして成長なし」をキャッチフレーズに政治を劇場化した小泉政権のあと(小泉さんの功罪はここでは論じないが、少なくとも社会がより拝金主義、弱肉強食になりアメリカ的混乱が拡大したことは確かだろう)の安倍総裁が言う「美しい国」とはどんな国だろう。昨日の国会での所信表明演説では、「活力とチャンスとやさしさのある世界に開かれた美しい国」と言っていた。
 この言葉を文法的に読み解くと「活力とチャンスとやさしさがあり世界に開かれ」ていることが「美しい」ということなのだろうか、それともそういう特性のある「別の意味で美しい(自然や町や暮らしぶりや)」国なのだろうか。安部氏の演説を聞く限り(ニュースで断片的に聞いた程度であるが)田中真紀子氏が批評した「ちっとも美しくない、何を言っているのか分からない、教育の再構築なら安倍さんこそもう一度教育しなおしたほうがいい(筆者要約)」といっていたが、僕も同感である。とくに「美しくなかった」のが、日本語の演説なのにやたら横文字が多く「日本の伝統や文化、自然を大切にする美しい国」と言っていたわりには日本語を大切にしていない、実に「美しくない」所信表明演説であった。

 僕の考える「美しい国」とはシューマッハが言った「スモール イズ ビュ?ティフル(これは本来外国人が言ったのだからカタカナでいいのです)」にのっとった政府であり、政府の考える「美しい国」など押し付けて欲しくない。とにかくまずゴミタメのような政治の場、政治家自身を「美しく」して欲しい。
「美しい」という概念は、それこそ個人的感性、創造性の中にあり、日本国民が個人の暮らしの中で自由におおらかに「美しさ」を醸し出せればいい。残念ながら現在の日本は、日本的美的感覚もおおらかな美しさを感じる精神的ゆとりも失ってきている。マスコミが言うところのセレブに代表される他者と競いあい目立ちたがる「醜い美しさ」は蔓延しているが。「美しい」は僕たち1人1人の暮らしの中に稟としてあって欲しいものである。
丸山暁〈55歳・人間〉

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主役は農林水産業だ!
 ここ10年、アチコチで「地産地消」や「身土不二」「地元学」等々の言葉が多く聞かれるようになりました。まさに、グロバリゼーションとは、反対の言葉でローカリズムを表す言葉として使われております。
その背景には、今までの拡大経済社会が、「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」を生み出し、環境汚染の元凶という反省がなされ、「次は、循環型社会だ」という認識の現れだと思います。
 ところが多くの人の言う循環型社会は、資源循環型社会(リサイクル)の事を言っております。鉄などの金属、プラスチックや紙等の資源を、再利用しようと言う試みや「もったいない精神」が取りざたされております。
ところがその傍ら、経済成長率のアップし景気の回復を願う、社会が有ります。
そこで資源をリサイクルしながら、経済を成長させると言う発想なのです。
 今の社会の制度は、経済が成長しなければ成り立たないシステムになっております。利益を上げ、その利益を投資し、人を雇い、売上を上げ、そして利益を拡大し、再投資する。その中で出来た制度で典型的なのが年金制度でしょう。
団塊の世代が、稼いでいたときには多くの人員で老人を支えてきましたが、この段階の世代が退職すると、少ない人員で多くの老人を支えるということになり、経済成長が強く言われ、それが望めないと税収のアップが叫ばれてます。
ところが、経済が拡大して行くと言うことは、商品を拡大生産し、売れると言うことであり、その生産・販売ロスが多大にふくらみ、資源が循環しても、雪だるま的に、余剰廃棄物は増大します。
つまり循環型社会とは、“資源が循環し、経済が拡大しない”と言う「生産量が増大しない社会」でないと成り立ちません。
DSCF1348.jpg

 今、江戸時代が見直されておりますが、江戸時代は、まさに循環型社会でした。
従来の歴史認識では、封建時代で重税に悩む農家というイメージでしたが、江戸時代の税率は、5公5民とか言われておりましたが、その時に設定された取れ高は江戸初期の取れ高を基準にしており、相当余分に残ったと考えられ、また野菜は町に売りに出かけ現金収入となり、結構裕福な生活をしていたと言うに最近は見直されておりま
す。また世界で一番清潔な都市とも言われ、見事なリサイクル社会であり、教育も寺子屋などで高水準に有ったと言われております。
その循環型社会の江戸時代の主力産業が、農林水産業だったのです。

現代でも農林水産業は、新規就農の20歳の人が作っても農業歴40年の人が作っても、生産量がほとんど変わりませんし、売上額も変わりません。だから拡大経済社会では評価されません。
 ところが現代社会は環境問題や、経済の停滞で行きつまりを見せ始めました。つまり拡大しきった社会は、パイの奪い合いになってしまったのです。
循環型社会を目指すなら、主役は農林水産業である。と思うのだが…

「公共放送」の役割を果たさずに民事手続き??NHK受信料未払い・未契約
 NHKの橋本元一会長が26日、経営委員会で受信料未払い世帯に対して支払いを求める民事手続きに入る方針を表明し、同委員会で了承されたことが報じられている。
 放送法に基づいて受信契約を結びながら支払いに応じていない人を対象に簡易裁判所を通じて督促する方法をとるとし、将来的には未契約世帯にも民事訴訟手続きを拡大していく方針だという。
 不祥事などがあったことなどで受信料の未払いがNHKの経営を圧迫する事態となったことがまだ記憶に残っている。それが現在どこまで解消されているのか分からないが、まだ深刻な事態が続いているのかもしれない。
 単に不祥事が続いたことへの反発だけでなく、NHKのあり方への疑問が広がってきている表れだという見方もあるが、多くの人が「払わなければ払わなくて済む」ということに気付いてしまったこともあるのではないか。
 
 NHKもたまにはいい番組があるが、それは民放に比べればという程度のこと。公共放送の必要性というのも、あってもいいが、なくてそれほど困るかと言えばそうでもないような気もする。
 そもそも、中立や公平を標ぼうしながら、一政党に過ぎない自民党の総裁選をかなりの時間を割いて報道し、結果的に安倍政権誕生を後押したりしているのだから、「公共放送」を言うのもどうかと思う。

 放送法には、「受信機を設置した者は、遅滞なく、次の事項を記載した放送受信契約書を放送局に提出しなければならない」とある。
 つまりは、受信契約を結んでいなければ、受信料を払う必要はないし、受信契約を解除することも可能だ。
 いかにも、契約が義務のようになっているが、受信機(テレビ)を設置しても、NHKを見るかどうかは視聴者の選択であり、受信契約を結ぶかどうかは自由意志だと解釈するのが当然のような気がする。
 1カ月全く見なくても、毎日24時間見ても、料金が同じというのもおかしな契約でもある。
 しかも、払った受信料がどう使われるかまで委任した覚えはないが、国会での審査はあるにしても、せいぜい「視聴者の声」として意見は述べることはできても、方針を変更する手立ては一般の視聴者にはない。
 社会通念上の「契約」からは、かけ離れたものになっているから、釈然としないのだろう。

 話は変わるが、県庁には各課ごとにテレビがある。出先も含めれば数百台、あるいは千台を超えているかもしれない。
 県職員OBに聞いた話だが、受信料はほとんど払っていないという。そんな予算などないし、親睦会みたいな形で金を集めて払うことも可能だが、人は毎年どんどん入れ替わるから、そんなめんどうなことはしてまで払う必要もないという理由らしい。
 役所ですら、払わないし、払わなくて済んでいるのだから、払う方がバカらしい。

 地上デジタル放送の開始に浮かれているが、NHKだって莫大な設備投資をしたはずだが、それを頼んだ覚えもないし、意見を求められたこともない。
 少なくとも、2001年の電波法「改正」の時に、10年後にはアナログ放送が打ち切られ、今のテレビでは受信できなくなることをもっとしっかりと報道し、国民の判断を呼びかけてこそ「公共放送」のばすだが、それも十分にしなかったNHKに受信料を進んで払いたいなどと、どうして思えるだろう。
 自らの役割を果たしていないのにも関わらず、民事手続きとは本末転倒ではないか。(ゼロテン)

真っ暗な会社
こんにちは。
暗闇展覧会。
DID



東京に治療所を持っている医者が言いました。

「私は経営が苦手だから、
すぐ患者に逃げられる」。

しかしこの医者には
リピーターの患者がいます。
飛行機でやって来る患者もいます。
独自の治療をしていて
マスコミにも取り上げられます。
5月に全国紙に掲載された記事を見て、
九州の人が治療を受けに
東京までやって来ました。

治療で快癒に向かったとき、
患者が言いました。
「オレがこの30年間苦しんでいたことは
一体何だったんだ?」

お先真っ暗だった患者は、
多額の寄付をしたそうです。

客に
寄付までされるような会社が
あるとしたら、
一般客に
逃げられても
仕方がないですよね。

さて、
郊外型の大型ショッピングセンターが
またオープンしました。
見たことがない場所に、どうしても
人は行きたくなります。

まだ見ぬものに
憧れを抱いて
ロマンチックになるのが
人情だからです。

このことさえ分かっていれば
全て許せます。
客は飽きっぽいのです。新しモノ好きです。

一面では、
売り上げを「奪われた」
と考えることも出来ます。
しかし、統計上の一般客を「奪われた」に
過ぎない、とも言えるのです。

「あちらの店に行くでしょうが、
私の店にも来るでしょう。
私の店には、違う魅力があるんですもの。」
と言えたら、
あなたの会社の先は明るい。

この夏、東京でイベントがありました。
ダイアログ・イン・ザ・ダーク、
直訳すれば「真っ暗な中での対話」。

http://www.dialoginthedark.com/

この「くらやみ展覧会」、
真っ暗な空間を体験する
「暗闇エンターテイメント」でした。
前売りチケットは完売になりました。

視覚障害者の案内で、
7人のグループごとに分かれて会場に入ります。
観客は、片手にツエを持って声を掛け合いながら、
真っ暗な会場を1時間半かけて回ります。

鳥のさえずりや
小川のせせらぎが
聴こえます。

歩くと葉っぱを踏む音がして、
森の香りもしてきます。

途中には
ビールを出すバーまで
あります。

参加した女性が言いました。
「めっちゃ、オモシロイ」。

人の声の距離感や、
何かを手で触る感触が
これまでと違う。
目が見えているときより、
何もかもが
アザヤかになる、
と言います。

人間は
とても面白い
機械
です。

視覚を休めると、
聴覚や味覚やなどの別の感覚が
鋭くなるそうです。

それで思い当たりました。
こう人間のクセを活用して、
消費者を
飽きさせないようにすればいいのです。

どうやって?

会社を真っ暗にするんです。??

客がこれまで使っていた視覚を
一度閉じてもらう。

つまり、会社の幕を一度閉じるんです。
倒産するということではないですよ。
一度すべてをリセットするんです。

するとどうなるか?

客は
どんな会社になるのか期待して、
前よりワクワクします。

本当のリニュアルというのは、こういうことです。

こんな冒険ができる会社は、
お先真っ暗な会社にはなりません。

経営アドバイザー 服部尚樹
http://blog.livedoor.jp/hattory1952/

テーマ:ビジネス - ジャンル:ビジネス

こんな役所では地域間競争を戦えない?北上市の電子データ非開示事案を斬る ?
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先日、地図製作会社が北上市に対し、図面の電子データでの交付を求めた訴訟の口頭弁論が開かれたとの記事が、地元の岩手日報に掲載された。
それによると、会社は地図製作のために農道などの図面の電子データでの交付を求めたが、北上市側は「紙の開示はできるが、電子データについては条例の規則に記載が無い。紙による開示手続きは条例に違反していない」と主張していると言う。

なぜ紙で開示できる情報を電子データでは開示できないのか、理由が分からない。規則に書いてないとか、電子データでなくても規則に違反しないとか、市は馬鹿げた主張をしているように見える。

情報というものは公開できるものか否かは、情報の内容そのものから判断されるものであるから、紙ベースで開示できるということは情報そのものを開示することに対しては問題は無いということだ。後は、紙か電子データかの問題だけである。
地図製作会社側の立場に立てば、電子データがあれば加工や修正が容易で間違いも無くなり、それを基に地図製作が容易になる。容易になるということは経費がかからない、安価な製品を作り出せるということだ。安価な製品ができれば、それを利用する社会にとっても大きなメリットである。

今や役所はコスト縮減とか効率化とかCO2削減などを掲げ、コピー紙の裏面の利用や電気をこまめに消したりしているが、それも結構だが、もっと社会全体の効率化を考えてこういう問題に対処すべきである。世の中では様々なところで、産・学・官が協力して事業を立ち上げようとしている時に、「規則に記載が無い。条例に違反していないから問題は無い」などとは、「自分たちに関係なければ相手の負担が大きかろうと知ったことではない」というような、後ろ向きで横柄な態度で、呆れてあいた口がふさがらない。こんなことで北上市は恥ずかしくないのだろうか。

この問題に限らず、役所の持つ情報とは役所のものではなく国民の財産であると言うことを再認識すべきだ。公開できないものを除き、もっと積極的に社会に活用できるようにするべきである。それにより社会の利便性が増し、経済が活性化すれば大いに結構なことではないか。
そういう視点に立たないと国内の地域間競争に取り残されてしまうし、更には世界を相手にしては戦えない。
<佐々 疾風(ささ はやて)>
山里便り?「もらう と とる」 2006年9月24日
稲刈りが始まった。
近年、コンバインでの稲刈りが増えている中、
集落の人たちは、「天日干しは、味が違う。うまい!」と言い、
長木を組み立て、昔ながらのやり方でハセカケで干している。
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品種は『ひとめぼれ』と自家用の餅米(品種は不明。みんなは、ただモチ米と言っている。)
ここよりも標高が高い地区では、「しゃべっても、知らねえ米を作っている。」そうだ。

県内のうるち米の作付け品種は、『ひとめぼれ』が65%のダントツ一位で、全体の65%を占めているらしい。「一部の地域では、作付けに適していない所も見られる。(岩手日報8/17)」そうだが、『ひとめぼれ』の人気は高い。我が家でも『ひとめぼれ』をもらったり買ったりして食べている。田んぼがないので買って食べることに抵抗はないが、『ひとめぼれ』しか食べていないことを、ちょっと反省していたところだった。
銘柄米に限らず、日本の米の品種は多い。寿司・丼・ピラフなど料理によって米の品種を変えて使いたいと思いつつ、10キロ袋で買っていた。この記事を読み、深く反省した・・。

市民ジャーナルで入道さんも「自然に謙虚さを!」で書いていたが、品種が単一化することは、危険なことだ。病害虫が入ったらどうするの?冷害の年は、どうなるの?暑い夏が続き、年間平均気温が上がったら?
国は農家や農業団体の法人化を進めることに決めたようだ。大規模化し、効率のよい工業的農業がさらに進むと、米の品種の単一化も加速する。不作の年は、全滅ということだってある。
手間ひまを最小限にして作った米や、工場で出来たヒヤシンスみたいな水耕栽培の野菜は食べたくない。
八十八回手間ひまかけてつくるから、米なのだから。

昔は、米が収穫された後、農家の人たちは「今年は反あたり○○俵もらった。」と言い、
もらった後には、何もない田にお礼肥えを与えていた。
今は、「今年は反あたり○○キロとった。」と言う。『もらう』と『とる』では、考え方が180度違う。
時代が変わり、生活が変わり、農業の方法も変わったけれど、土や太陽、自然からの恵みをもらっているということを、生産者も消費者も忘れてはいけなかったんだ。
大地からの恵みをいただきますという気持ちで、今日も元気に「いただきます!」。
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   朝晩涼しくなってくると赤い色が冴える             20060924082124.jpg
   ササゲも、そろそろ終わりにちかい
Yo




テーマ:田舎暮らし - ジャンル:ライフ

「まちづくりと暮らし」?僕の考える
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 この写真は、僕の集落の人たちが耕し植え育てた花壇から見た炭焼き小屋の風景である。この花壇も、炭焼き小屋も集落の人々が作った。すなわちそこに暮らす人々の手仕事である。大きな機械や、他者の手(お金と引替えにして)、行政や巨大資本によって出来上がったものではない。高度情報化消費社会であっても、日本の集落、過疎地域にですらこのような素晴らしい造景がある。造景とは、風景、景観づくり、すなわち「まちづくり」と捉えていただきたい。

 いわゆる「まちづくり」、中心市街地(商店街)活性化、過疎対策、逆に都心の過密、スラム化、再開発と言う名の歴史的文化遺産(歴史的空間)の破壊、私たちが暮らす場は多くの問題をはらみながらも、いわゆる「まちづくり」が行われてきた。先の市民ジャーナルで〈佐々疾風氏〉が郊外大型店と商店街の再生、商店の必然性について論じていたが、彼の論点は結局「まちづくり」は、「市民、住民にとっての必然性によって成り立つ」というところのようであり、僕も、ある意味、同じような見解をもっている。

 あまり日常的には語られることがないが、日本の「まちづくり」(大きな意味での都市計画も地域開発も市街地計画も暮らしの場を作ることも、今は「まちづくり」という言葉で括っておく)は大きく制度的には都市、地域の枠組み(土地の利用形態とか建物の種別とか)を決める都市計画法と建築物の構造、形態を規定する建築基準法にのっとって作られる。これらの法律がよく出来ていて皆が従えば、構造的な「まちづくり」は上手くいくかというとそうではない。昔から都市計画なき日本といわれるように、いつまで経っても日本の都市や街や住宅地が「快適に暮らしやすく」ならないというのが現実である。ただ見た目には随分高度にデザインされた空間は多くなってきたが、そう長続きしない。

 少し横路に反れるが、日本の都市や街並み、田園風景は「美しくない」とここ何十年も言われ続けてきた。僕も建築や「まちづくり」にかかわってきたが、学生の頃からずっと(僕だけでなく都市計画屋さんや有識者といわれるものたち、一般の市民も)「いわゆるヨーロッパに比して日本の都市、街並みは汚い」と思ってきた。確かに、観光案内やTVの旅番組、ニュースなどで見る多くのヨーロッパのまちは美しい。しかし、ヨーロッパを(主に西欧であるが)ゆっくり旅した時「なんだ、ヨーロッパにも汚いまちが沢山あるじゃない」と気づいたのも事実である。あの世界有数の観光名所パリでもブルージュでもバルセロナでもチョッと横路にそれるとうらぶれたごみごみした廃墟、雑然として危険の臭いのする街区がいたるところにある。薄汚いところの薄汚さと言う面では、少々キッチュ(いろんなものがありばたばたがらがら)な日本のほうが数段清潔でああり安心感もある。

 では、日本のまちづくりは問題がないかと言えばおおいに問題がある。そのおおいなる問題は、日本の都市政策、都市計画の主眼が「人々の暮らし」ではなく「経済効果」に置かれていることである。まず、日本の自然や街並を荒廃させ、日本経済を大不況に陥れたバブル経済は、とりもなおさず経済最優先の都市、地域づくりであった。実は経済発展というのは、消費物資の生産消費拡大(これが経済発展、好景気という実体である)と言う部分も大きいが、いわゆる商業ビルや住宅を建て道路や橋を作るという建設需要に追うところが大きい。バブル期に税金を使い、また安易な投資をして(それらは不良債権になった)壮大な建築、施設が作られた。しかし、それらは私たちの暮らしをよくする、すなわち良質の「まちづくり」ではなく、公共事業の名の元、国家、地域経済を疲弊するものでしかなかった。北海道夕張市が財政再建団体に陥ったのがいい例である。
 
また商業、商店街、中心市街地の活性化と称して、多くの法律を作り補助事業で税金を垂れ流してきた。「大店法」など一見大規模郊外店の拡大を規制しているようにも見えるが、実は時代に即して大規模店を促進する制度であった。今度の中心市街地活性化法の中心街の集積支援とて、今にもつぶれそうな中小商店では手も足も出ないというのが本音だろう。結局また大資本が中心街に乗り込んできて、経済的・歓楽的消費空間が華々しく作られ、そこは昔のような暮らしと商業、地域のコミュニティーが混在した町にはならないだろう。僕たちはある意味、再開発と言う見栄えにいい「消費的繁華街作り」に騙されてきた。お台場、六本木ヒルズ、安藤忠雄の原宿ヒルズしかりである。まだまだ広がりつつある大規模ショッピングセンタ?しかりである。

 ただ、本当のところ、今の日本人、日本社会はどのような「暮らしを」「まち」を求めているのだろうか、それが見えてこない。多分表向きは「昔のように近所が助け合い、みんなの目が行き届く地域」というだろうが、実際に多くの人々はそのような面倒くさい暮らしを望んでいないのではないだろうか。今の多くの人々は「個人的に自由で、他者と面倒くさいことでは係わらず、欲しいときに欲しいものが手に入る社会」を望んでいるのではないか。そういう意味では、日本の都市政策は大いに成功したといえる。
3大都市、特に東京ではまた地価の上昇が始まった、またヤクザまがい(本物のヤクザが動くのだが)の地上げも復活したようだ。結局日本では暮らしのための都市計画「まちづくり」というものは、まだまだ先のようだ。
丸山暁〈55歳・人間〉

我慢できない!大型SC!
 人口30万人の盛岡に、二軒目の大型ショッピングセンターが開店した。
一軒目の時は反対運動が起きたが、二軒目は反対運動の話も聞かない。
元々都市計画でショッピングセンターの用地として計画が出来ていたからと言う。おかしな話である。一軒目の立地で状況が変わっているのだから、計画があっても二軒目は、一軒目の影響等を勘案して計画変更すればいいのだが、それすら考えない。民間企業では考えられない出来事である。
しかし盛岡市の小売業の年間商品販売額の4000億の10%(二軒)を売り上げるという大型ショッピングセンターが、どれだけ街に影響を与えるのであろうか?と言う視点で取りざた出されているが、再度、大型ショッピングセンター自身が必要なのだろうか?と言うことを考えてみたい。
DSCF1029.jpg

いままで商品供給は充足していたのに、(満足・不満足はあるが…)新たに400億の商品が持ち込まれる。その物流のために、エネルギーが消費される。
また、あらたな電力需要が生まれることによって、発電の増加が求められる。
従来の商店が閉鎖することによって、離職者が新規雇用よりも増える。
夜遅くまで営業をすることによって、パートの母親が夜いない家庭が増える。
(教育問題・治安問題に多大な影響を与える)
遠くから集客をすることによって、ガソリン等の消費が増える。
新たな道路の混雑が発生し、道路拡張などの公共事業の予算が必要となる。
その他にも様々な影響が出てくるが…。

そして商店街が生き残れないと言うが、それ以上に農村の暮らしが成り立たない。
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盛岡の南サティが閉店し、都南地域の人は周辺のスーパーや中心部へと客が流れたが、手代森・乙部の農家の人達は、買い物する場所が無くなった。
食料品は近くにあるが、衣料品を買う場所が無くなった。
農家は、朝早くから夜遅くまで天気に左右されながら働き、ちょっとした合間を見て買い物に行く。それが子ども達の安い衣料品を買い求めるところが無くなったのである。
有る農家は「子どもの下着を買わなくなった」と苦笑いをした。

以前、ある農村に住んでいたときに、部落の中に、文房具屋・雑貨屋・魚屋と肉屋が混在しているおばぁちゃんが一人でやっていた店が小学校の前にあった。
近くの人は、茶飲みがてらちょっとした買い物をしていた。子ども達も学校の行き帰りに、忘れた文房具を買い求めていた。
おばぁちゃんの、小遣い銭稼ぎになったのだろう。
そんな店も、近くに大きなスーバーが出来て一掃された。

高齢化している農業、高齢化して地域が成り立たない農村、そして後継者がいない農家とも言われる。60代以上の農村女性は、殆ど免許を持っていない。
多くの人々やマスコミは、中心部の商店街だけ危機を叫ぶが、ここにも農業・農村の暮らしを軽視する人々がいる事に、我慢できない。

ロマンチック経営で行こう?啄木のマーケティング?
こんにちは。
石川啄木の直筆
takuboku



盛岡にある啄木賢治青春館で
買って来ました。

石川啄木直筆ノート
啄木の死の2カ月後に出版された
歌集「悲しき玩具」

「歌は私の悲しい玩具です。」
と言った啄木が
亡くなる前の最後の創作ノートを
販売していました。

本物のノートそっくりに
作ってあります。

ファンは
啄木を体験できます。
おみやげグッズのお手本のような商品です。

その中の一首


人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。


経営の話から読むと
これは
消費者心理でもあります。

人は流行に踊らされるけれど
心の片隅で
それを
さめて見てもいる。

そして
そうやってさめて見ている自分の
本当の好みは何だろう
と自問するのです。

ここにチャンスがあります。
流行の品に飽きた人を
いざなうチャンスです。

啄木の歌が
教えてくれました。



経営アドバイザー 服部尚樹
http://blog.livedoor.jp/hattory1952/


テーマ:中小企業経営コンサルティング - ジャンル:ビジネス

必要なのは増加原因の分析と対策?飲酒運転は社会の病理のシグナル
 飲酒運転による事故が連日、新聞やテレビのニュースになっている。昔から飲酒運転による事故はあったと思うが、最近は毎日のように起こっている。
 「飲酒運転」が一つのキーワードみたいになっているから、これまでは大して大きく扱われなかったものでもマスコミがニュースとして取り扱うようになったせいもあるのかもしれないが、確かに増えているという印象がある。
 福岡市職員による事故で3人の幼い命が失われたことが、きっかけの一つとなった。この後、公務員による飲酒運転が続き、「公務員がまた飲酒運転」と報道された。
 公務員の飲酒運転だから悪いのではなく、飲酒運転そのものが非難されなければならないのだが、一時は公務員バッシングのような形となり、マスコミの扱い方に違和感を感じたのは私だけではないだろう。

 かつて私は、飲酒運転の車に当て逃げされそうになった。その時私は、車の外にいて、ふらふらと逃げた車を走って追いかけ捕まえたから、「当て逃げされそうになった」と書いたが、逃げようとしたから、当て逃げと言ってもさしつかえないだろう。
 問いただすと、某新聞社のカメラマンで、すぐに社に電話したようで、あわてて数人の記者が駆けつけた。
 本人は酩酊状態だったが、駆けつけた記者から「壊れた車はきちんと修理しますから、警察や他のマスコミには伏せて欲しい」と懇願された。
 その時は車さえきちんと直ればいいと思い、それに応じたが、事故を報道する側でも身内の事故は隠そうとするものなのだ。
 そんな経験があったせいもあって、公務員でも何でも、マスコミがさも正義面で非難することにうさん臭さを感じてしまったのかもしれない。

 飲酒運転による事故の増加に伴って、各自治体が処分規定を見直し、「飲酒運転すれば懲戒免職」など厳罰化の動きが広がっている。
 飲酒運転は、事故につながるケースが多いから、厳しい態度で臨むことに異論はない。ただ、ブームのように処分規定を厳しくすることを競い合っているだけでは事故がなくならない。
 既に道路交通法の改正で飲酒運転に対しては罰則が厳しくなっているが、一定の抑止効果はあったにせよ、飲酒運転は減ってはいない。
 公務員も処分規定を厳しくしても、同じような結果になる可能性が高いのではないか。

 機械的に飲酒したドライバーでは車が動かないようにするということも話題となっているが、自動車メーカーが反対しているとの話も聞く。
 それも一つの選択肢ではあるが、飲酒運転が統計的にも増えているとすれば、まず必要なことは、なぜ増えているのかを分析、検証することだと思う。それなしには有効な対策は出てこない気がする。
 素人考えだが、ストレスの増加など社会的な要因で飲酒の仕方が変わってきているとか、そんなことも背景にあるようにも思う。とすれば、少し根が深いし、社会問題としてとらえるべきだということになるだろう。
 飲酒運転の増加は、何らかのシグナルであり、取り締まってなくす、罰を厳しくするということよりも、社会の病理の発露として「飲酒運転」をとらえた対策を真剣に考えることが必要なのではないか。(ゼロテン)

中心市街地商店街の再生は可能か??消費者が求めるのは商店街ではなく商品?
盛岡では先日の9月15日に、県内最大級のイオンショッピングセンター2店舗目が郊外のロードサイドにオープンした。今日は開店後初の連休とあって、近隣の空き地を臨時駐車場に当てても車が入り切らず、付近は渋滞の車で埋め尽くされていた。
全国的に郊外大型店の進出が中心市街地商店街の衰退を招き、更には中心市街地の空洞化させるということは長年言われてきたが、ついにここ盛岡でも黒船来襲の感がある。

ところで、「郊外大型店」対「中心市街地商店街」の対立の構図は、単純で分かりやすいため違和感無く受け入れられているが、それは本当に本質を突いているのだろうか。
そもそも商店街と消費者の行動はどのように形成され変化してきたのか、そこをしっかりと確認しないと本質を見誤る恐れがある。

歴史的に見ると、商店街は“人の集まるところ”に店を出したものが連なって形成されてきた。人が集まるところとは、神社仏閣の参道筋、街道の宿場、役所周り、最近では駅前等である。こういう人が集まるところの立地条件が商店を吸い寄せ、自然に商店街という集まりを形成してきた。
一方消費者サイドから見ると、モータリゼーションが発達する以前までは、通常の買い物は歩いて行ける近隣商店街に限られ、消費者側に商店を選択する余地はほとんど無かった。例えば我々の子供の頃にはこんなこともあった。都会から来た子供はすぐに見分けがついた。服装が全く違っていて「垢抜けた格好いい」服装だったからである。それは当時田舎に暮らす我々には「垢抜けた格好のいい」服を買いたくても近くの商店では売っていないから買うことはできなかったからだ。仕方なく近くの店に並べられているダサイ服を買うしか選択の余地は無かったのである。
すなわち商店街の商店は、立地条件の絶対的優位性を持っているために、消費者のニーズに合わせなくても物を売ることができたのである。この構図は江戸時代以前から車社会が訪れる前の1960年代まで変わらず続いてきたのだ。

しかし車社会の到来とともに、消費者は行動範囲を大きく広げることにより商店を選べる立場になった。そして高度成長が終わった1980年代以降には、世の中全体に量的な充足感が広まり、寒さを凌ぐために服を買う時代から、オシャレのために買う時代に変わってきた。消費者は自分で欲しい商品を選択するようになった。さらに、テレビやインターネット等の情報化の拡大により、欲しい物や安い物がどこで売っているのかを見つけ出すことが容易に可能になった。
ここに至って、長年保たれてきた商店街立地の優位性は、ガラガラと音を立てて崩壊したのである。
江戸時代から続いてきた売り手と買い手の立場は劇的に逆転し、売買の主導権は商店側から消費者・買い手側に移ったのだ。消費者に選択されない商品や商店は衰退する運命となったのである。

こういう視点に立てば、中心市街地商店街衰退の原因が、必ずしも郊外大型店の進出だけではないという一面が見えてくるのではないだろうか。

今年に入り“街づくり三法”が改正された。
都市計画法の改正では、郊外に行くほど大型店に対する規制を厳して市街地への出店を誘導し、中心市街地活性化法では、TMOに代わる「中心市街地活性化協議会」の設置を盛り込んでいるが、私には相も変わらず商店街護送船団方式のように感じられる。法律と行政主導の活性化は一時的に少しは効果を発揮するかもしれないが、根本的な問題の解決に繋がるのかはなはだ疑問である。

さてそれでは商店街の再生はどうしたらいいのだろうか。それは可能なことなのだろうか。
私は一人の消費者として自分の行動を考えてみると、「美味しいそばを食べたい」と思うときには住宅街の中にあるなじみのそば屋に行くし、ピザは郊外の好みの店に出かける。また、私の家の近くにあるブテックは住宅地にポツンと店を構えているがいつも若者でにぎわっている。これらは全て商店街に店を構えておらず、立地条件は悪い。
しかし、現代の消費者は、個々の商店、個々の商品を目指して買い物に出かけるのである。今では海外に買い物に出かけるという話も珍しくなくなった。個々の商店がキラッとした商品を出せばそこに客が集まり、キラッとした商店が集まれば結果的に活気のある商店街ができあがるのではないだろうか。
私は、“商店街”というものの実態とは何か、そもそも商店街は必要なのか、ということを突き詰めて、商店街という概念を無くしたところに商店街再生の答えが潜んでいるような気がする。
郊外大型店の動向や行政の支援などに目を奪われて時間を無駄にするより、自らの足下をしっかり見つめることが必要ではないだろうか。
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<佐々 疾風>

山里便り? 「手踊りは、好きですか?」 2006年9月17日
明日は、敬老の日でハッピーマンデー。
敬老の日というものを意識したのは、ここに来てからだ。
だいたい国民の祝日のひとつひとつを意識し、意味を考えたことなどなく、
「わーい。お休みだ!」で、過ごしてきた。

私の祖父母は、元気で現役時代が長かった。
母は「敬老の日を祝うのは失礼よ。母の日・父の日だけでいいわ。」と言い、
「明治生まれは、元気ですごい。私の方が先に行(逝)ってしまう。」と付け加えた。
その母も82歳となったが、私から見れば、
「大正生まれは、元気ですごい。どうにか頑張って母より長生きしなくちゃ。」と、思う今日この頃だ。
実家にヤクルトレディーが販売勧誘に来た時、
彼女の「おばあちゃん、体にいいですよ。」の一言が気にさわり、購入するのを止めたという。
母は、「私は、おばあちゃんじゃない。失礼よ!」と、ひどく気を悪くした様子で言っていた。
客観的に見れば、どこから見ても高齢者なのだが、その心意気には感心した。
そんな訳で、敬老の日は、私にとっては、長年ただの休日だった。

知らないおじさんがくれたハチミツ
1mほどの大きさのものをパカッと割って「うまいぞ。」と言い、軽トラで走り去った。
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     ピーマンのない頃から食べていたというゴンゲンナンバン。
プクッと膨れているおしりの部分で見分ける。

花芽をつみ、タネをつけないと霜が降りるまで楽しめる。シソキムチでごはん20060917075626.jpg
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ここに来た時、会う人ごとに「手踊りは好きですか?」と聞かれた。
どうやらこの地に住むには、手踊りを踊らなくていけないらしい。
話をよく聞いてみると敬老会や地区の文化祭で踊ることになっているという。
民謡や演歌に合わせて踊るのは、気が進まない。
どう考えても気の進まないことや自分が空しくなることは断ることにしている。
手踊りは得意な方々に任せ、裏方で手伝うことにした。
手伝うことにしたが、この地域の敬老会は、どの公民館行事よりも大変だった。
ナギナタのような草刈り鎌で下草を刈っていく、山の下草刈りよりも・・だ。

11ある公民館から出し物(手踊りや神楽など)は2つ以上、
会場設営・来賓接待・受付・下足番・料理の盛り付けなどの担当は3人ずつ出すことと通達がくる。
赤飯・煮しめ・漬物・ソバなど、当日の料理作りの割り振りも各公民館にくる。
当日は、公民館でお年寄りのために地域循環送迎バスを出す。
紅白の幕を張りめぐらした体育館に、ゴザが敷かれ長テーブルを並べた会場に
ちょっとオシャレをしたじいちゃん・ばあちゃんたちが100人以上集まって来る。
来賓の挨拶が終わると、小学生の合唱があり、会食と同時に舞台で踊りが始まる。
飛び入りのカラオケがあり、延々と続き、飲みすぎてひっくり返るじいちゃんがいたり、えらく賑やかだ。
同級生の顔を久しぶりに見つけ、嬉しそうに寄り添って話したり、みんなニコニコしている。

仕事に行くより疲れる、疲れて具合が悪くなり翌日会社を休んだ、という声もあるが続いている。
地域の敬老会は止め、各公民館で気楽にやりたいという意見も出ているが、館長会議で却下され続けている。祝う側も高齢化し、戸数の少ない公民館はゼイゼイ言っている。
このやり方で続けていけるわけがない。
遅かれ早かれ、もっと簡略化されたものになっていくはずだ。
ただ、面倒で大変な行事に参加したから、地域の人たちとも親しくなれたと思っている。

面倒なことは、避けてとおれた東京時代。同世代の気の合った集合体でいればよかった。
ここでは、そうはいかない。
それが社会の中で生きるということなのかなと思うようになった。
今年の敬老会は、仕事の都合で参加できなかった。
「来年は、断るぞ!」と、毎年思ってきたのに、なんか寂しい気持ち。
結構、私も楽しんでいたのかも。
yo



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「アメリカの戦争犯罪〈国家テロ〉」?僕の考える
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ちょっと足元が切れてしまったがこの写真は、かの有名な青森県の三内丸山遺跡の見張りの塔を復元したものである。縄文人は争いを好まず平和な暮らしをしていたと言う。もちろん何らかの争そいはあっただろうが、わざわざ他所の国まで軍隊を送り込み壊滅してしまうような愚考はしなかったのだろう。それが今の時代、何千キロも離れた国に数十万の軍隊を理不尽に送り込み、混乱に陥れる国がある。それが現代の正義と言うものらしい。
アメリカ、ブッシュ政権がいかに口角泡飛ばして正義と叫ぼうが、TVに猿顔(誰も言わないようだが、ブッシュの顔は真っ赤なニホンザルに似ている)をさらして「テロに対する正義の戦争」ととりつくろうと、イラク戦争は21世紀最初の戦争犯罪であることが確定した。ここがアメリカの面白いところだが、自らの手によってそれを証明して見せた。そこには政権とは違うアメリカの正義があるのかもしれない。

9月9日の新聞に「旧フセイン政権アルカイダと無関係、米議会が完全否定、戦争正当化で情報操作か」とあった。イラクに大量破壊兵器が無かったことは既に米政府によって明らかにされている。何のことはないイラク戦争は、アメリカブッシュ大統領の独りよがりな猿芝居であったことが、自らの手にとって明らかになった。これほど信憑性のある分析はないだろう。まあ勘ぐればブッシュが危うくなったので反対勢力が・・・・ということも考えられるが、そこまで疑ってしまえばもう僕たちに伝わる情報など何の意味も持たなくなるので、まずこの情報はとりあえず信じておこう。

アメリカは、独裁政権とはいえ、自立する国家として存在していた国家に「大量破壊兵器、細菌兵器を出せ、アルカイダのザルカウィを出せ」と難癖をつけて「出せないなら攻撃する」と、ミサイルを発射し空から爆弾を落とし、劣化ウラン暖をばらまき、多くの罪無き市民を含み5万人も簡単に虐殺してしまった。戦争(イラク戦争は戦争でなく侵略であるが)で人を殺しても一般的には犠牲者と呼ばれるが、戦争の「死」の実体は体を引き裂かれ、手足をもぎ取られ、内蔵をえぐられ、生きながら焼き殺される、しかもそれが赤ん坊でも少女でも男でも女でも・・・、この世の地獄、すなわち虐殺である。
世界はテロを許さないという、先進国、日本も国連もテロと戦うという。ではなぜ世界は、最強テロ国家アメリカと戦わないのだろうか(もちろん戦争をしたら負けるから武力ではありませんよ)。今世界でテロ国家アメリカを真っ向から批判し抵抗しているのは残念ながら、世界中がテロと名指しするイスラム過激派だけではないのか。テロ国家アメリカを世界の平和を願いテロを否定する全ての国が裁かず、テロリストと呼ばれるものたちだけがアメリカを裁いている、この矛盾が、この不条理が今という時代の不幸、テロの連鎖なのではないだろうか。
アメリカが国際的に超テロ大国(テロを超えたテロ国家)であることは、アメリカのテロの歴史をこと細かに紹介したアメリカMITの言語学者ノーム・チョムスキーの『覇権か生存か、アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社新書)、『 Noam Chomsky 』(リトル・モア)などに詳しく記録されている。中南米の民主主義に名を借りた傀儡政権や軍事政権に対する軍事支援いうテロ、トルコやイスラエル東チモールの民衆虐殺を放置、扇動するテロ、これらはまさにアメリカの戦略的国家テロである。そしてベトナムのアメリカの敗北を忘れてはならない。

さて、話は変わって僕は子供の頃、といってももう中学か高校の頃だろうが、こんな夢を見ていた。「僕はスーパーマンになって世界最強の兵器を持って、アメリカとソビエトに、今直ちに両国の核兵器を廃絶せよ、そうしなければ両国を直ちに攻撃し破壊する」、こんなことも考えていた、僕が怪盗ルパンになってアメリカとソビエトの大統領の家族を誘拐して、その引替えに米ソの冷戦を終わらせる。そんなことを結構真面目に夢想していた。その頃、今もだが、米ソ冷戦構造期、米ソは世界を数千回破壊する核兵器を増産していた、核抑止力と称して。今も冷戦は終わったがその構造は変わらない。

僕は、スーパーマンでも怪盗ルパンでもないから、現実にアメリカにもソビエト(ロシア)にも核廃絶働きかけられなかった、残念ながら今も核廃絶に対して「反対と叫び、心で祈る」以外成すすべがない。僕が今本当のスーパーマンであったらアメリカに「国家テロを直ちに止めなければ、アメリカを破壊する(アメリカと言うよりピンポイントに政府でいい)」と警告したら、僕はテロリストとして世界から抹殺されるのだろうか。当然CIAには狙われるだろうが。今となれば、ロシア革命、フランス革命など世界の自由の戦いはテロリズムの歴史であった。
今のパレスチナ、イスラム原理主義のテロリストと呼ばれる人々には個人の欲ではなくどこかそのような想いがあるのではないだろうか、そして世界の市民の何処かに、彼らに対する共感を覚える気持ちがあるのではないだろうか(もちろんどんな無差別テロは許されるものではない)。最後に、ジュネーブ協定の戦争犯罪とは「殺人、拷問、財産の破壊、軍隊による服従、拘禁、人質・・・・」である。イラク戦争でのアメリカを僕たちは、世界は、裁けるのだろうか。裁けなければアメリカを裁くのはテロリズムでしかなく、永遠にこの社会からテロはなくならないだろう。
丸山暁〈55歳・人間〉

安い米のからくり
そろそろ水稲の作況指数が、発表される時期になってきた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋すると(以下抜粋引用)

作況指数とは、10a(アール)当たりの平年収量(平年値)を100として、当該年度産の収量を表す 指数である。作況指数は、10a当たり収量/10a当たり平均収量_100 という計算式によって求める。
収穫時期に達した標本筆においては、標本株を収穫して、脱穀・乾燥後、籾摺りによって得られた玄米から、ふるい分けによって未熟な粒、小さい粒を除いて重量を測定し、その結果から平均的な10a当たり収量を推定する。 ふるい分けに用いるふるい目幅は、粒厚(米粒の短辺の直径)1.70mmを基準としている。(引用終わり)
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ところが発表された作況指数にいつも農家は実感がない。
それどころか「作為が有ってこんな数値を発表しているのではないか?」と疑問を持っている。
要は、「高い数値を発表して豊作だからと米価を下げる」という誘導をしているのではないか?
それに対して農水省は「“飯米として流通している実態を把握する“ための作況指数である」
と説明している。
この相違は年々ひどくなっている。
つまり、農水省は1.70mmのふるいで計測しているが、農家は農協の指示により1.90~1.95mmのふるいを使用している。その差が相違として農家に不信感を持たせている。
農協は、他産地との違いを出すために品質という意味で「粒揃いの良い、大粒の米」を出荷するために大きいふるいの使用を義務づけている。そのためにふるいに引っかからない大量の小米(屑米)が発生する。その屑米は、岩手県北部の場合、以前は“青森農協“と呼ばれた青森の業者が買い集めに回っていた。青森は以前政府米の産地である。つまり美味しくはないが大量に採れる産地であった。そのために混米用の米が各地の精米業者から引き合いがきて、そう言う業者が増えたのであろうと思われる。
ところがその屑米を農協も集め始めた。正規米の他に屑米も抱き合わせで注文が来るからである。農家には「屑米は業者にだすな。農協が買い上げる」という指示が出ていると聞く。
屑米は以前10円/kg程度の相場だったが、現在は100円近くで取引されているという。
その屑米は何に利用されるかというと、業務用や学校給食というのが噂だった。
ところが昨今の市販の米が異常に安い。東京付近では白米で2000円/10kgと言う値段も出ているという。(白米2000円/10kgという事は玄米で13500円/60kg程度である、生産者米価が12000?13000円/60kg円程度なのだが…)
そのからくりが、多分屑米に有るのではないか?と予測される。
以前、屑米だらけの米が販売されているのを目にしたことがある。(2980円/10kgだった)
農家には「品質を高めて他産地に勝つ」という目的を掲げながら、消費者には屑米を混米して安く売る。消費者も勉強をしないと騙される。

盛南イオンと「チャレンジショップ」の関係性!?
 盛岡市の盛南地区に同市では2つ目となるイオンの大型ショッピングセンターが12日にプレオープンし、15日にはグランドオープンする。一方で、大通商店街の空き店舗をこれから新たに商売をしようとする人たちに数カ月間、格安で貸し出す「チャレンジショップ」もオープンした。
 一見、関係のないように見える2つのオープンが盛岡の問題を浮き彫りにしている。

 3年前にオープンした前潟地区のイオン(核店舗・ジャスコ)は組合施行の土地区画整理に乗っかった出店だったと思うが、今回オープンした盛南地区のイオンは都市再生機構が整備した用地への出店だ。
 最初の出店の時から中心市街地の商店街への影響を懸念する声はあったものの、盛岡市は積極的な対応はせずに出店を認め、盛南地区は、公募したものの、都市再生機構が選んだという形で結局はイオングループと契約した。
 重要なのは、2つ目のイオンの出店用地は都市再生機構が整備したとはいえ、市が進めている盛南開発の一環であり、実質は市が選んだも同じだということ。 イオンが2つということを問題にしているわけではなく、大型ショッピングセンターが1つでも影響が心配されているのに、「盛南地区」ということで2つ目も簡単に出店が認められてしまったことだ。
 大型店舗の出店を規制しようとする動きは全国的に広がりつつある中で、盛岡市では、盛南開発を進めている以上、保留地を抱えたまま、空いたままというわけにはいかないから、止めるという選択肢はなかったということだろう。

 商店街への影響がどの程度なのか、はっきりとは分からないが、大通でも老舗が商売をやめて空き店舗が出たりしているから、かなりの影響があるのではないかと思う。
 そんな空き店舗を「チャレンジショップ」と称して、貸し出したりする事業を市が補助して始めたということが大きなニュースとなったが、これは全く滑稽な話で、それを手放しで報道するマスコミにもあきれてしまった。
 自ら推進する施策で、商店街を窮地に陥れ、それを小手先で何とか繕おうとする。1つ1つを分けて見れば、行政も良くやっていると騙されてしまうが、通して見ると、実は全く一貫性のない、ビジョンのないことをやっていることがよく分かる。これで廃業に追い込まれたら、泣くに泣けない。
 遡れば、そもそも、盛南開発そのものが本当に必要だったのかということを検証しなければならないのだろう。
 ただ、いつもそうだが、「ここまでやったのだから、途中で止めるわけにはいかない」ということで、今さら盛南開発そのものを批判することはある意味タブーになっているのではないか。

 そして今回、盛南のイオンには、「いわて活菜横丁」と銘打って、野菜の産直コーナーなどが作られ、なぜか遠野から出店している。
 影響は商店街だけにとどまらず、盛岡近辺の産直にも及ぶということだ。すぐ間近にある「サンフレッシュ」などは影響が大きいのではないか。

 街づくりへのしっかりとしたビジョンを持たない市の問題も大きいが、商店街なども一致して何とかしようとする気迫が感じられない。
 盛岡商工会議所などが前潟地区の出店の時から、市に対して影響を懸念しての要望活動も行われてはいるが、会員の一部はショッピングセンターにテナントとして入ったりと、これも足並みが揃っているとはいいがたい状況に見える。
 こんな状況では、商店街の空洞化はますます進んでいく。早急に小手先ではない対策をきちんと考えることが必要だ。
 そのためには、商店街が協力し合うこと、そして消費者、客の立場に立つこと。
 商店街の再生は、個々の商店の生業の存続だけでなく、郊外店に足を運べない高齢者にとっては死活問題である。(ゼロテン)
ロマンチック経営で行こう?ありえない時代 ?
こんにちは。
31年ぶりに復活するライブ。
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1975年に約5万人を集めて
オールナイトで行なわれたコンサート
「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート
インつま恋」が今月23日24日に
静岡の掛川市・つま恋で開催されます。
吉田拓郎さんも60歳になったんですね。

先日のことです。
吉田拓郎さんの「RONIN」という
古い曲を探していました。
CDショップにもネットにも見つかりません。
ミクシーの拓郎さんのコミュニティに
「ローニンの曲を探しています」
とメッセージを流すと、
すぐに
東京の音楽事務所の経営者の方から
メールが来ました。
そして、なんとCDを送ってくれました。
「RONIN」を聴きながら
感激でメールしたら、
盛岡にも仕事でいらしたことがある
とのことでした。
お友達になれそうに思いました。
あり得ない時代ですね。

その方は今、青森県の下北半島在住の
23歳のシンガー”mammy Sino”さんを
プロデュースしています。
宿命の女性シンガー。
いままで何人の男と女が彼女の歌声に独りで泣いたんだろう・・・・・・。
やがて日本中が、いや世界中が
Sinoの歌声に癒されにちがいない。
と語っています。
http://kogopara.seesaa.net/


ラジオ・マガジンを更新しました。

誰もしていないことをする!
http://www.voiceblog.jp/romantic-keiei/

ぜひ聴いてください。
<服部尚樹>

岐阜県裏金問題?トップの対応はみんなが注目している?
岐阜県の裏金問題は、調査が進むにつれて梶原前知事の責任が明らかになりつつある。
最近の不祥事では、雪印乳業、三菱自動車などトップの事後対応のまずさが火に油を注ぐ形となり問題を拡大させてきたが、今回の岐阜県裏金問題では、それらからの学習効果が全く見られないことに驚かされた。

梶原前知事は、最初は「承知していない」と否定し、その後「若い人には分からないと思うが、当時はそれが慣習的にどこでも行われていた」と開き直り、全容が明らかになるにつれて初めて責任を認めることになった。

梶原知事と言えば、つい最近まで全国知事会の会長として地方分権の先頭に立っていた人である。こういう事態にいたって市民としてはどう考えるべきなのだろうか。
我々はこういう人を知事会会長に選んだつもりはないが、全国の知事による投票で選ばれたと言うことは、間接的に全国民が選んだと言うことになる。そうなると他人事のように批判ばかりもしていられない。

私は、政治や行政、あるいは企業のトップがこういう情況に追い込まれるのを見るにつけ、その評価をどう位置づけるべきなのか考えてしまう。
元々そう言う人物で化けの皮が剥がれたのか?、あるいは、ある面では立派な業績を残すような人物でも完璧ではないと言うことなのか?。
私は後者の論を支持したい。成し遂げた業績はその成し遂げた結果をもって評価されるべきで、別の事案のミスにより帳消しにされるべきではない。
しかし、多くのこういう事案でトップに立っていた者がその対処に当たって醜態をさらすのは、過去の業績を帳消しにされることを恐れるあまり、隠そうとして失態を重ねていくように見えて仕方がない。一つひとつの物事に誠実に対処してくれれば、社会は全てを帳消しにするようなことはしないと思う。隠そうとしたり取り繕ったりする不誠実さに対し社会は必要以上に攻撃を加えるのではないだろうか。

社会の指導的に立って注目を集めている人たちだけに、想定外の事態に遭遇した時にこそ、正面を向いて社会に範となるべき行動をとってもらいたいものだ。
将来を担う若者たちが見ているのだから。
<疾風>

山里便り? 「柔らかいは、おいしい?」 2006年9月10日
天気の好い日、ポッカリと空いた午前中はパンを焼く。
こねて丸めてボウルに入れ、そのへんに置いておくと、段々膨らんでくる。
その変化していく様子を見ているのも楽しい。
2・3種類まとめて作り、冷凍しておく。

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     作る過程が楽しいし、焼いている間の空気がいい。
香りも味のうちで焼いている間から美味しい。焼きたてを食べてもおいしい。
2度おいしくて、得をした気分になる。


某大学の農学部の先生が、
「アメリカの食料戦略は、戦後すぐに始まりました。食糧難の日本に小麦と脱脂粉乳を送りこんできたのです。
子供の頃に食べなれた味は、大人になっても食べ続けるものです。給食でパンを食べさせていれば、大人になっても食べ続け、将来、日本はアメリカの小麦を買い続けるだろうという戦略だったのです。」
と、静かに力強くおっしゃった。
パン好きな私は、どうやら見事にアメリカの戦略に、はまってしまったらしい。
そういえば、牛乳も好きだ・・。

「買ったパンは、口に入れると綿あめみたいに溶けるけど、
しっかりしていて味のあるパンでおいしかったよ。」と、toeさんが笑顔で言った。
喜んで食べてもらえて、よかった。
ここ数年で、山里の小さなまちにもパン屋が3軒出来た。
県内各地でもパン屋が増えたし、産直めぐりをすると野菜の横にパンが並んでいる。
減反した田圃で作っている小麦・雑穀の利用、米の消費拡大や、
農家の起業を支援するという意図もあるようだ。
国や県が進めている『地産地消』や『安全安心の県産品』という追い風に乗って増えたように思う。
大手のパン製造会社も、南部小麦・雑穀・米粉で、県産の山ブドウ・リンゴなどを使ったパンを作り始めた。
ここに住み始めた14年前から比べると、随分バラエティーにとんだパンが買えるようになった。

多種多用なパンが売られているが、口に入れるとクタッとネチッとするパンが多く、香りもしない。
大きくても持つと軽くて頼りない。
消費者は柔らかいものが好きと思い込んでいるのかもしれない。
柳田國男が明治以降、日本の食べ物は3つの著しい傾向を示していると書いている(明治大正史世相篇)。
温かいものが増え、柔らかいものが好まれるようになり、甘くなってきたと嘆いてから77年、
ますますその傾向は強くなり、柔らかくて甘いものが美味しいと思われているように思う。
そういえば、野菜も果物も風味がなくなった分、妙に甘くなった。

フランスの主食であるバゲットは、国が1本のバゲットに使う小麦の量と値段を決めている。
大きければ水が多くてフカフカだし、小ぶりならば密度が高いということが一目瞭然で分かる。
この制度は、日本の豆腐にも取り入れてもらいたいなあ。
同じ豆腐一丁でもメーカーによって、やけに水っぽい豆腐があるもの。
これも柔らかい=美味しいの解釈なのかな!?
Yo

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「天皇制と男子誕生 」?僕の考える
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今週の市民ジャーナルを書くに当たっては、日本国民なら避けて通れないことが起こった。それはTVやラジオが「日本国中が喜びにわいています」と伝えた、秋篠宮妃の男子出産である。ある夫婦が男の子を産んだ、これはそれだけでめでたいことである。秋篠宮家に男の子が誕生した、これも同じくめでたいことである。しかし、秋篠宮家の赤ん坊、特に男の子の誕生は、「親王」と呼ばれ「天皇」となっていく可能性(皇位継承第3位)がある特別の赤ん坊である。

さて、日本人はこの男の子の誕生をただ手放しに喜んでいるだけでいいのだろうか、このことをちょっと考えてみる必要はないのだろうか。どこからもこの件について喜び以外の声がちっとも聞こえてこないのが僕には不思議なのである。もし有識者と言われる人や報道メディアが言及しないなら、日本の片田舎に暮らす僕ぐらいは少々疑問を呈しておいてもいいだろう。
皆さん、「お前は非国民」と石などぶつけないで下さい。このような自由な、おおらかな議論が出来ることが正常な社会なのです。ただ、ここではっきり断っておくが、僕はある家族(一市民であれ天皇家であれ)に男の子が生まれたと言うことには心から祝福をおくります。そして生まれてきた赤ん坊、御家族の喜びを云々するものではありません。 

 さて、「親王」の誕生に日本中が喜びにわいていると言う今、なぜ僕はこのようなことを考えるのだろうか。また考えなければならないのだろうか。それは僕にとって、日本国民として、天皇とは一体何なのか、あたりまえに「国民の象徴」として国民の前にあらわれ歓迎される天皇とは何なのか、僕には天皇を単純には受け入れられないからである。

 神話の世界では天皇家はヤマトタケルの頃から続いているようだが、歴史的には推古天皇即位後、聖徳太子が『天皇記』で歴代天皇の系譜を明らかにしたという。AD3世紀卑弥呼を経て大和朝廷が、日本の統一を始めて古墳時代日本中で豪族の戦いがあったのだろう。そして徐々に権力が集中し曽我馬子、物部守屋の争いと続きAD592年推古天皇が即位して聖徳太子が摂政となって、日本の歴史、天皇制も形になってきたようだ。ここで僕がいいたい事は、天皇の歴史と言うものは、神の摂理の如く形而上学的に日本という国に君臨しているものではないと言うことである。天皇とは幾多の争いの果てに権力を握ったものが編んだ歴史の中で生まれたものである。
  
 その後の天皇制、天皇の変遷については、日本人ならほとんど小中高で日本の歴史の中で詳しく学んだはずである。学んだはずだというのは、一応教科書には目を通し、試験に出るから天皇の名前、変遷などの年代も覚えたのだろうが、今はほとんどすっからかんである。皆さんもそうでしょう。
 それでも、日本の天皇がいわゆるヨーロッパの王様とはかなり違うものであると言うことは理解できるだろう。ヨーロッパの皇室はほとんど、中世から近代にかけて権力争いでその地域を制覇したものが王となり、他国の侵略から自国を守りぬいたものが生き残って、その王が市民革命によって主権を失ったが、その時の王の家系が今も皇室として残っている。要するに、権力、統治能力を持っていたものが今も皇室として残っている。
 しかし日本の場合、8?10世紀頃までは天皇も権力を維持できたが、その後は武士との戦いに敗れ、強くなった武士の権力の影で利用され生き延びていた。そして江戸幕府の時代には、権力統治能力は完全に失ったが、いわゆる日本という国の権威の象徴として奉られ続けてきた。そして明治維新によって大日本帝国大元帥として天皇は権力の座に返り咲いたが、その時の天皇とて、権力を欲しいままにする王様ではなく、憲法に定められた法治国家としての天皇であった。
 
 また、今の天皇を考えるのに避けて通れないのが天皇の戦争責任である。大日本帝国の天皇は既に、天皇として自己欲自己決断によって国を導く存在ではなかった、その時の政治権力の象徴としての地位でしかなかった。では天皇とはたいした存在ではなく、戦争責任もなくうっちゃっておいていい問題かというとそうではない。天皇は確かに個人的に権力をもつことはない、しかし天皇は、権力を持ったものに三種の神器の如く利用される最高の存在なのである。その象徴が15年戦争(日中戦争、太平洋戦争、2次大戦)での「天皇の軍隊」である。政治によって、国民は天皇のために死ぬべき運命と平然と決め付けられた歴史があった。ついこの間のことである。 日本社会は戦後大きく変わったのだろうか。今度首相になりそうな政治家は戦後は終わった、新しい強い日本を作るのだと言っている。そしてそのためには「愛国心」を持てと。繰り返すが天皇は確かに権力は失った。しかし権力を握ったものは天皇を利用する。

 女性週刊誌的「雅子さま」「愛子さま」「紀子さま」と、皇室に向けるほほえましい眼差しと、今度の男子「親王」の誕生をただ祝福するのとは異質なものである。このたびの男子「親王」誕生が、これからの天皇制(天皇制廃止も含めて)を考える契機になればいいのだが。僕は天皇家という国家に特別に守られる日本人がいることに子供のころから疑問を持っている。全ての日本人を平等に、どんなに貧しく地位の低い日本人でも国家が暖かく守ってくれる国ならこんなことを考えないのかも知れないが。
丸山暁〈55歳・人間〉

農林省はいらない!
Mixiに下記のような書き込みがあった。以下引用
 “日本全国に農家は約196万戸、7割以上が兼業農家。専業農家はわずか44万戸。
  面積的にみても経営耕地面積が3ヘクタール以上の農家はわずか19万戸。
  逆に1ヘクタール以下の農家は110万戸。“
そして9月1日の岩手日報に下記記事があった。以下引用
“新農業対策きょう始動
 政府が2007年度から農家に実施する新たな経営安定対策の加入申請受付が、1日から
 全国で始まる。すべての農家に対し補助金を一律にばらまく従来の仕組みを見直し、一定規 
 模以上の農業の「担い手」に支援を集中。零細農家が多い国内農業の集約化を促し、農産物 
 の国際競争力強化を目指す。
とある。その内容は、4ヘクタール以上の農家を「担い手」と認め、中小農家は地域内で20ヘクタール以上の単位の農家団体を「担い手」として認定し、補助金の対象とする。
そして、その農家団体の「担い手」には、法人化や経理の一元化を求め、対象作物(米・麦・大豆・テンサイ・原料用馬鈴薯)の輸入格差や減収差額を補助金で補填する。と言う。
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おかしな話である。
国内の6割が零細農家であり、それを集約させて国際競争力がつくのだろうか?
日本の田んぼや畑は、大変狭く個々の条件が多様である。
アメリカやカナダのように、広い圃場の単一条件で機械化が出来る体制ではない。
まして中国のように、人件費が安いわけではない。
完全に零細農家つぶしである。
零細農家は、自給的な要素と、地域環境を守ると言う側面も持っており、これらの農家が農業を辞めざるを得ない状況を作ると言うことは、地域環境に大きな影響を及ぼす。
耕作放棄地が増え、大規模農家への水路の確保が困難になり、耕作から生まれる景観が壊れ、また地域への食糧供給が単一化し、多様な食糧の供給が難しくなる。
その零細農家対策を「20ヘクタールの集約化」と言うことでごまかそうとしているが、集約化は殆ど進んでいないし、集約化したところで、若手担い手は、殆どいないし、作物も単一化する。
 そして「担い手」として認定された大型専業農家や法人化した経営団体が生産する農産物は、世界の農産物と競争させられ、効率と合理化の中で多大な機械化の借金を背負わされる。
いずれにせよ、この新農業対策では、これから農業は破綻するであろう。

「日本は農業を捨てた。」と言っても過言ではない。
この新農業対策を推進するなら、農林水産省はいらない。
なぜなら、「担い手」と呼ばれる農家や農業団体は、グローバル経済の中で競争させられるのだから「経済産業省」の管轄でよい。
そして零細農家は、地域の食糧を守り、地域の人々の健康を守るという意味で、「厚生労働省」管轄、地方行政の窓口にすればよい。
そして農業予算の大半を占める農業土木は、「国土交通省」に移管すれば良いだけである。
農林水産省は、もう役目を終えた。

私は静かに祝いたい
 昨日からきょうにかけて、テレビはどの放送局も皇室に41年ぶりの男子誕生を祝うニュースと特別番組が放送され、ワイドショーも当然のことながら、この話題に多くの時間を割いていた。
 新聞も同様、ニュース報道だけでなく、手回し良く、広告入りの特集記事が掲載されている。
 新しい命の誕生はおめでたい。しかし、騒々しく、押しつけがましいのは嫌なので、私は静かに祝いたいと思う。

 きょう午後、徳山高専の女子学生殺害容疑で手配されていた同級生の男子学生が遺体で見つかったというニュースがあるテレビ局の速報で流れた。
 気になっていたニュースだったので、速報が流れた時にチャンネルを回してみたが、番組を中断して、ニュースを流した局はなかった。

 この2つのニュース扱い方を見て、改めて今のマスコミというのは、視聴者、読者のための報道をしていないと感じる。

 皇室に男子誕生の扱い方自体が冷静さを欠いていないか。事実を伝えることよりも、祝うことに力点が置かれているだけでなく、祝わないといけない、乗り遅れてはいけない、という雰囲気を競って作り上げているように見える。
 誕生を祝う市民の声を拾うことはまだしも、各地で祝っている風景、記帳所、誕生記念のワインなどの発売など便乗商法の紹介など、祝賀ムードを一所懸命盛り上げている。

 昭和63年の年末から昭和64年の年始にかけて、毎日、昭和天皇の容態を伝え、「下血が○○?」と発表されたことを思い出す。
 そんなことを毎日、伝えられることを果たして昭和天皇や皇族方が望んでいたのだろうか。

 昭和天皇の容態報道、そして今回も、どこか、どれだけ大きく扱うのかを競うことで、扱わないことや小さく扱うことで受ける非難を恐れ、それを必死で回避しようとしているようにも見える。
 
 それと、テレビでも、新聞でも同じだが、著名人の祝い事、訃報は、ある意味では書き入れ時なのである。特に、皇室となれば大変だ。
 何日も前から特番、特集を準備し、せっせとCM、広告を集めて稼ぐ絶好の機会なのだ。
 そのためには、自ら祝賀ムードを盛り上げるのは当たり前。皆こぞって祝っているという雰囲気を作り上げなければ儲からない。

 この姿勢や体質は、さまざまな場面で異常な報道を生み、増幅させ、間違った世論形成につながる危険性をはらんでいる。

 女子学生殺害の容疑者遺体発見をテロップだけでなく、詳しい情報を知りたいと思ったのは私だけではないはずだ。
 自分たちの都合でニュースを押し付けたり、情報の価値を勝手に判断されては困る。価値判断は視聴者、読者、市民がするものだ。
 とはいえ、市民はマスコミに対して、賢く、ある適当な距離感を持ちながらつきあっていく以外には方法はないだろう。(ゼロテン)

競争社会に出口は無いのか
先日の新聞で「地域ブランド力調査・都道府県ランキング」という記事が目に止まった。何気なく眺めながらも私の住む岩手県はどの辺に位置しているのか気になったが、幸い最下位グループではないことに何となくほっとしながらも、東北各県の中では下位に位置するのを見てがっかりもした。
ところで、このようなランキングはどういう目的で行われるのだろうか。
都道府県の競争を進めさせることが目的なのだろうか。

競争にすることにより人間は努力し成長するという考えがある。競争のないところでは停滞を招き、進歩も発展もなくなる。競争は社会を活性化させ人々を幸せにしてゆくという考えだ。

今や大競争の時代である。入試競争はますます過熱し、都市部では幼稚園から競争が始まり、小学校から大学、そして大企業に就職するまで続く。しかし大企業に就職してもその中でもまた熾烈な出世競争が果てしなく続く。地域間競争もますます激しくなって来ている。地域ブランドを確立し経済的に優位に立つことに必死だ。競争に勝つことが地域の収入を増やし、地域の幸せをつくると考えるからだ。
競争の渦に巻き込まれると、常に全力で走り続けなければならない。走ることを止めれば勝ち残ることができないし、勝ち残れなければ敗者になると言うことなのだ。 .

しかし、競争が激化するにつれて、競争社会の歪みが見え始めてきた。
企業は競争に勝ち残るために正規雇用を減らしパートを増やしてきた。これにより人件費の抑制と機動性を保持することにより競争力を増して高収益をあげてきているが、一方では、パートという名の低賃金不安定雇用を増大させてきている。
行政の分野でも似たようなことが起こりつつある。NPOの活用は、行政でもなく企業でもないもう一つの公共の担い手を作るという視点からはその意義は高く評価されるが、一方では、正規雇用による業務執行から、NPO・ボランティアという名の低賃金請負業に仕事を移管し、不安定雇用の増大に手を貸していると言う見方もできる。
このように競争が激化してくるにつれて、低賃金不安定雇用が増加し、「結婚できない。子供をつくることを躊躇する」という少子化の原因をつくり出しているという一面も見えてきている。

今競争の果てに見え始めてきたものは、「少数の勝ち組と拡大する低賃金不安定雇用」、「競争の渦の中にいる人間の疲労感の蓄積」、「少子化による社会システム維持への障害」などである。

だが、こういう問題点が指摘されてきても、競争の渦から外れることにまだ社会は賛成しないだろう。今や競争はますます社会の隅々にまでまで拡大し、競争相手は国内に止まらず世界全体に広がっている。もし競争から降りれば、他の人間や他の地域、あるいは他の国がそこに割って入り、負け組に入ってしまうことを恐れるからである。この恐怖感が更に人々を競争に駆り立てていくのだ。

競争社会が必ずしも幸せな社会をつくり出せないと言うことが見え始めてきたとしても、競争から降りた後の道筋が見えない限りは、死ぬまで競争の渦の中で走り続けることしかできないのだ。

社会全体が競争に疲れ果てて倒れる前に、過度の競争からから逃れられる新しい社会システムを考えなければならないのではないだろうか。
しかし、良い答えはなかなか見えてこないし、答えは無いのかもしれない。
あるいは、行き詰まる処まで行けば、自然に答えが出てくるものなのだろうか。
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<疾風>


山里便り? 「サンマが来た!」 2006年9月3日
朝夕めっきり涼しくなると、サンマがやって来る。
北海道沖で動物プランクトンを食べ、体脂肪を蓄えてコロコロ太ったサンマが
親潮にのって三陸沿岸に南下してくる。
サンマ好きの私にとっては、ワクワクする季節の始まりだ。
サンマとリンゴが好きで、岩手に来たようなものだ。

大船渡でサンマが初水揚げされたというニュースを見た翌日、
スーパーの魚売り場に『大船渡産 刺身用サンマ 1匹98円』と赤字のビラが下がっていた。
はしりのサンマにしては、すごく安い。
思わず吸い寄せられ、下がっていたトングでサンマをビニール袋につめていると、
隣に30代らしき女性が立ち、彼女もトングでサンマをつかみ始めた。
「どれが良いか、わからないわあ・・。」と、つぶやきながら、
つかんでは置き、また他のサンマをつかんでいる。
袋に入れているサンマよりも、つかんで置いたサンマの数の方が多い。
わからないなら、つかんだサンマを袋に入れればいいのに、サンマの肌が傷むじゃない。
などと自分がサンマになったような気分になったり、
原油価格が高騰している時に、こんなに安くしていいのだろうか。漁師さんも大変だなあ。
などと思いながらもウキウキと袋に詰めた。

味覚的にもサンマが好きだが、養殖されていないということも気に入っている。
元気に海を泳いで来たヤツというだけで美味しい気がする。
養殖魚はイメージが悪いのか最近は、『おさかな工場で生産』と書かれたパックを見かけるようになった。
病気になりにくい、産卵後は味がおちるなどの理由で人工的に不妊にした魚や
メスの方が大きくて高値で売れるからという理由で、すべてをメスにするような生殖細胞操作をされた魚は遠慮したい。それに、養殖魚の抗生物質の多用投与も気になる。

旬のモノを毎日食べる。
サンマの季節には、毎日サンマ。それでいいじゃない。
乱獲によって激減したアジやイワシの二の舞を演じることなく、いつまでも庶民を楽しませてほしい。

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サンマの次は、サケ・タラと海の味覚は続き、産直でもキノコにブドウ・リンゴが並び始めた。
毎年、この時期には、ここに住んでよかったと思う。
「東京には、何でもそろっているからね。」と、言う人は多い。
何でもあるようで何もないのが東京ではないかと思う。
確かに、日本中・世界中のものが集まり、食べることが出来るけれど、
それが本当に美味しいものとは限らない。
トラックや飛行機に乗って来たモノを食べているのだから・・。
yo


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「表現の自由という凶器」?僕の考える
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この写真は以前スペインのトレドを旅した時、トレド大聖堂の近くの河っぷちに捨てられていた無惨な人形である。トレドはゴヤのキリスト画で有名なルネッサンスの都であり、一時寂れたものの今また華やかながら、荘厳な聖地、観光地として賑わいを見せている。その聖地に打ち捨てられていた人形がやけに気になって写真に収めた。そして、この原稿を書いているうちに、この人形のことを思い出した。 

 ここのところの凶悪犯罪、殺人を見ていると、まるで日本という国が犯罪博物館になってしまったように思える。凶悪犯罪はアメリカが本家本元と思っているうちに、小泉首相を先頭に、政治家たちがアメリカに尻尾を振ってついて行くうちに、日本国家は数では負けるものの犯罪の種類ではアメリカに追いついたのではないか(小泉さんおめでとう。アメリカと仲良く肩を並べましたね)。拉致監禁暴行殺人、絞殺、刺殺、撲殺、射殺、バラバラ殺人、生き埋め、薬物殺人、焼き殺し、様々な手段を使ったリンチ殺人、数年前まではこっそり本屋で立ち読みするか、図書館で、犯罪史や刑罰史などを見なければ現実のものとしては、ぼく達の感性に引っかかってこなかったような犯罪が、今の日本では日常的に起こるようになった。
日本は犯罪マニア(そんなマニアがいるのなら)にとっては新聞、TVを見ているだけであらゆる種類の犯罪を実感できる国になった。最近エコミュージアムや街中博物館など、地域まるごと博物館が大流行であるが「日本まるごと犯罪博物館」はどうもいただけない。

 しかも、それら凶悪犯罪(最近凶悪犯罪が多くていわゆる凶悪犯罪の定義も難しい)の多くが、いわゆる普通の人々、特に最近は青少年(少女)によっても行われるようになった。
 元々、マニアックな凶悪犯罪、監禁暴行や生き埋めなどは、まれに起こる異常な犯罪として猟奇犯罪などと呼ばれていた(猟奇犯罪との凶悪犯罪の分類も難しいのだが)。そしてそういう犯罪を犯すのは、いわゆる普通の人々ではなく、その筋の人、例えばヤクザや異常者(チンポを切り落とした阿部定事件など歴史に残るチン事件である)の専売特許であったが、今の日本では一見普通の人々、おとなしく真面目と言われる少年少女が日常の中で猟奇的凶悪犯罪を犯してしまう。
 ここでは、痛ましい個々の事件に言及するものではないが、なぜこれほどまでに凶悪犯罪が日常化、しかも普通の人々、特に青少年の世界までもはびこってきたのだろうか。
 僕には科学的、統計的分析を試みるだけの能力も情報も無いが、その原因をお茶の間まで入ってきた「表現の自由という凶器」にあると考えている。

 人間は脳である。すなわち人間が意志によって行動を起こすのは、脳が指令を出すからである。では脳にそのような情報(様々な犯罪行為)を与えているのは何なのだろうか。もちろん、人間は本能としても、教育されなくても、あえて殺人の方法を知識経験として知らなくても、殺人を犯す危険性は芽生え実行することも可能だろう。聖書の上で、人類最初の殺人としているカインの弟殺しは、単なるひがみ、嫉妬からだった(僕の聖書にはその殺人の手段は書いてないが、多分そこらあたりの石で殴ったか棒でひっぱたいたのだろう。きっと聖書研究の中では明らかなのだろうが)。

 では、現代社会において日常を暮らしている市民の脳に、犯罪の形態、手法、効果、そこにいたる精神構造を刷り込み、植え付けているのは何なのか。それは「表現の自由」という名の元、擬似犯罪を巷に垂れ流しているTV、雑誌、ビデオ、ゲームなどでは無いのか。2時間ドラマという名の「殺人見本市」、そこには脳が創造可能な殺人方法、殺されるものの苦悩の姿(もちろん演技であるが)が様々な形で描き出される。猟奇殺人、凶悪犯罪は、アニメと言う名の子供向けマンガでも、手足バラバラ、血がドバドバは何のためらいも無く巷に溢れている。犯罪、殺人ゲームの過激さはここでは表現できないが(僕はゲームをやったことがありませんが、本屋やレンタル屋さんを覗いてみても分かります)。米軍は兵士を戦場に送り出す前に殺人ゲームをやらせると言う(NHK報道)。殺人ゲームで殺人に慣れたものは敵らしき影に90%の兵士が発砲し、体験していない兵士は30%だという。疑似体験(バーチャルリアリティー)は人間の脳には実体験と同等に作用する。僕にとっての陰惨な死の体験は、幼児期見た映画『日本誕生』で火矢に焼き殺される木の上の兵士の映像と、小学校4年の時見た川から引き揚げられた腐乱死体である。たとえバーチャルでも現実でもこの二つは僕の脳に同等の死の恐怖を記憶として残している。
  
日本には表現の自由がある。思想心情、芸術創作、国家権力への抵抗・・などの表現の自由は当然守られなければならない。しかし、猟奇犯罪、残虐性を商品(TVやゲームなど)として誰の目にも触れる形で垂れ流すのには、僕は反対である。マニアが個人的に情報を集めたり楽しんでいるのはほっとけばいい。表現の自由とは、どのような表現が人間の、特に子供たちの脳、社会に悪影響を与えるか、そういうこともちゃんと議論した上での表現の自由でありたい。「表現の自由という凶器」がはびこっている、気をつけなければならない。
丸山暁〈55歳・人間〉

ピーマンの価格はいくら?
「ピーマンは東京でも値段が下がってきました。 先日渋谷のある地下では、岩手産ピーマンが4個で98円でした。ただ、ピーマンの色は薄くて小さかったけれど。 普段は値段の高い銀座でも、岩手産ピーマンが4個で140円くらいで売っていました。こちらは大きくて緑が濃くて、おいしそうなピーマンでした。 消費者としては安いのは嬉しいのですが、一体いくらで売れるのが適正なんだろう…と、スーパーで首を傾げる毎日です。」
「野菜の値段って、言われるがまま、買わざるをえないものですよね。
お肉は買わずに別のものに変更できるけれど、野菜は買わずにいられないですし・・。
東京では!味はともかく!そんなに極端に値段が違うとは思わないでいました。
もちろん場所にもよるのでしょうね。」
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 こんな会話が、ミクシィでなされている。
ピーマンの適正価格とは、一体いくらなのだろうか?
生産農家から言えば、ピーマンは、一粒1円以下の種に、さまざまな経費を掛け、5トン/10aの収量を上げ150万の売上、経費が80万、差し引き70万の所得という計算が、ある行政機関の試算で出ている。(もっとも「これは作文だ!」と現場の担当者は言うが…)
だとすれば、100gあたり30円が農家からの出荷単価となる。
 市場流通は、3分の一が小売業、3分の一が卸売り業、3分の一が農家とすれば、ピーマン一袋当たり、約90円が適正価格となる。
これが経済学における原価計算であろうと思う
 
ところがここに大きな落とし穴がある。
太陽の値段が、入っていないのである。
太陽から放射される光は、植物の光合成に必要かつ欠くべからざるモノであり、それがなければピーマンは育たない。そしてその熱は、葉から水分を大気に蒸散させ雲となり、雨を降らせ、土にしみこませ、また植物に吸収し光合成に利用される。
太陽が無ければ、収穫は皆無となり、雲の影響で照射量が少なければ、収穫は少なくなる。
「フランス革命は、日本が引き起こした」という説がある。
1783年の浅間山の大噴火で、噴煙が世界中を覆い、ヨーロッパは大飢饉が続き、庶民が食べ物を手に入れるために特権階級に対し、フランス革命(1789年)を起こしたといわれる。

つまり「ピーマンの生育に大きな影響を与えている“自然”が、経済学では全然評価されていない」と言うことであり、そして自然は、評価されるべき対象ではなく経済が存立する大前提である。ところが、それを忘れて経済原則だけで、多くの人は「生」を考えている。
傲慢以外の何者でもない。
我々は、「自然に包まれて、生かされている」という謙虚さを持たないと…。



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