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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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犬が人を噛んでも事件だ?メディアに求められるもの
 「犬が人に噛みついてもニュースにならないが、人が犬に噛みつけばニュースだ」ということが昔から言われている。もちろん、日常的に起こっていることはニュース性が乏しく、非日常的なことこそがニュースとして価値が高いといった比喩的な表現であり、そのままのことが報道現場で行われているわけではないだろう。
 最近のニュースを見ていると、毎日のように全国どこかで殺人事件が起きている。しかも、親が幼い子どもを虐待して殺したり、中学生や高校生が親や同級生を殺すといった、まさに非日常的な事件が増えている。そして、都市部だけでなく、地方でも同じような事件が起こるようになってきている。
 「普通」の殺人事件は日常となりつつあり、新聞でも大きな見出しがつかないことさえある。かつてはニュースとして報じられた独居老人の孤独死などはほとんどニュースとして扱われなくなっている。かつて非日常だったことが日常になった結果だ。
 テレビでも、新聞でも、出版でも、「人が犬に噛みつく」ようなことに飛びつくのは、どうしても「売るため」ということが前提にあるからだ。経済の論理に巻き込まれ、その価値基準で物事を見ていないかと危惧する。
 リストラなどという言葉を肯定的に使い、ニートなどという言葉も抵抗感もなく使っている。一昔前なら、「首切り合理化」などといったら、経営者に批判の矛先が向いたはずだし、若者の仕事がないなどというのは大変な問題だっただろう。
 メディアにも、それらを日常の出来事にしてしまった責任の一端があるのではないかと思う。
 「人が犬に噛みつく」ような非日常の出来事であった時に、もっと批判的に取り上げなければならなかったのに、流されたり、見過ごしてしまった結果、日常になってしまったと、とらえればである。

 メディアの使命は起こった事実を伝えることだけではないはずだ。事件であればその背景、社会問題であれば解決の糸口を探り、問題提起することではないか。
 私は、「犬が人を噛む」ようなことでも、ニュースになり得ると思っている。取材の仕方、背景を掘り下げていけば、普遍的な中身が導き出せる。
 本来、非日常だったはずの事象だけでなく、市民の日常生活を丹念に見直すことでさまざまな問題の解決のヒントがでてくるような気がする。
 「売る」ことだけでなく、メディアが社会的使命を果たそうとするなら、そこに目を向けるべきだろう。
 それだけに頼らず、まずは市民自身が自分の感覚を磨き、身の回りの出来事や変化を自ら積極的に発信していくことが必要だと思う。日常の出来事だってニュース、社会と切り離された個々人の生活はない。情報の「出し手」の立場に立つことで、一方的に「受け手」だった時よりは周りがよく見えてくるはずだ。
 「市民ジャーナル」はその受け皿となる媒体の一つでありたいと思う。(ゼロテン)

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長い76年と僅か100年?冥王星の除外と北海道コメ販売首位奪還?
最近関心をひいたニュース二つ。
一つは、冥王星が太陽系の惑星から外されたこと。
1930年に発見されて以来、4分の3世紀の間惑星の地位を保ってきたが、詳細な観測結果と国際天文学連合総会で惑星の定義を明確化することに伴い、惑星の地位を失った。
二つ目は農水省が発表した2005年7月から2006年6月までのコメの都道府県別販売実績で、北海道が新潟県を抜いて5年ぶりに首位を奪還した、というもの。首位奪還ということは以前も首位だったということで、2度びっくりという感じだ。
私の認識では、北海道は寒冷で稲作には適さないとされ、幕末までの稲作の試みはほとんど失敗し、明治以降にようやく徐々に浸透していったとされる。以前読んだ風土論の本には、北海道に稲作が定着するまでの苦労話が語られている。直播き技術の開発、風呂の残り湯で苗を育てた話や、屯田兵が突然変異の寒さに強い苗を偶然発見し、それが北海道北部や東部に稲作が広がるきっかけになった話、などである。
このように、つい100年前までは、稲作が容易ではなかった北海道が、販売実績全国1位になるなど、誰が予想したであろうか。

冥王星は、発見から76年の長きに渡り人々に信じられ現代人の思考にしっかり根をおろしていた。天文学という最先端科学の中で、しかも遠い銀河系の外の話しではなく、太陽系の惑星という地球の家族のような星の定義が、21世紀の今日にまだ再考の余地が残されていたとは、科学にはまだまだ新しい発見や発明が残されている期待感を抱かせてくれた。
北海道の稲作は、僅か100年程度で稲作不適の地から、全国1の販売地域になるという「農業技術」、「日本人の対応力」、「北国の農家の粘り強さ」、これらのすごさを見せつけてくれた。
長い76年と僅か100年が、科学と技術に夢を感じさせてくれた。
<疾風>
山里便り?「キュウリとカッパ!」 2006年8月27日
1898年生まれの祖母に、
「おばあちゃん、戦争中の話を教えて・・。」と言うと、
「どの戦争のことだ?」と聞かれた。
日中戦争から記憶にあるらしい。
米屋の長女だった祖母が、植木職人だった祖父と所帯を持ち、
目黒に居を構え、1930年に父が生まれた。
近くを流れていた目黒川は、その頃は水量も多くきれいで、子供たちが水遊びをしていたという。
子供たちが川遊びを始める頃、キュウリも採れ始める。
親たちは、「水の神様、今年も子供たちをお守りください。」と、
ひと夏の水遊びの水難から守ってくださいという祈りをこめて、
子供の名前を書いた2本のキュウリを流したそうだ。
子供の頃に聞いた話なので、水の神様はカッパだったのか、何故2本なのか、
どんな種類のキュウリだったのかは分からない。
もっと詳しく聞いておけばよかった・・と思っている。

キュウリの原産地はヒマラヤ山脈の南山麓一帯と言われている。
インドでは三千年以上前から栽培されていたという歴史の古い野菜だ。
日本にキュウリがやって来たのは、天平の頃、
中国の華南から伝わった黒イボタイプ、華北から伝わった白イボタイプ、
シベリヤ経由で伝わった太キュウリがある。
たかがキュウリだが、されどキュウリで、奥の深い野菜なのだ。
かつて東京でも、太めで短く白っぽい馬込半白キュウリというやつがあった。
昔は日本各地で、いろいろな品種のキュウリが栽培されていた。
「子供の頃はああだった。こうだった。」と言うと、随分、年をとったような気持ちになるが、
その当時、八百屋に並んでいた人参はゴボウのように長かった。
キンピラや精進揚げにすると美味だった。
キュウリや人参に限らず、野菜の品種が減った。
食生活が多彩になり野菜の種類は増えたが、品種は減った。
畑における品種の多様性の減少は、食卓おける多様性の減少であり、
それは、文化の多様性の減少につながっていると思う。
この3つは、密接な関係にある。

キュウリには、少々思い入れがあり目をかけて育てている。
子供の頃、火傷をするとすりおろした汁をつけられたり、
うちみの時には、すりおろしたキュウリと小麦粉と練ったものを塗られた。
乾くとカパカパするうえに、キュウリの色が残ってしまう。
気がすすまない治療法だったが懐かしく思い出す。
うちのキュウリは、四葉(スヨウ)タイプで漬物向き。
肌の表面に凹凸があり、「これ、ゴーや?」と聞いた人もいた。
ゆっくり育ってゆっくり太る。
実がしまっていて美味しい。
カボチャに接ぎ木したブルームレスキュウリとは、ひと味もふた味も違う。
キュウリは身体を冷やすから、夏に食べるといい野菜といわれる。
今年の夏は暑かったから、せっせと食べた。

キュウリ三昧!
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民話の里、遠野にはカッパにまつわる話が多く残されている。
遠野でも川にキュウリを流していたのかな。
yo



テーマ:いなかぐらし - ジャンル:ライフ

「アメリカの属国日本」―僕の考える
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 小泉首相の任期切れに伴う自民党総裁選が表面上は賑やかになってきた。現在安部、谷垣、麻生の3氏が立候補表明し3氏の政権構想や足の引っ張り合いも見えてきたが、あと2氏程度出るとか出ないとか、自民党内の勢力図、かつ国民世論も安部氏に大方向いており、十中八九安部氏に落ち着くのだろう。日本のこれら政治的選挙においては、残念ながら概ね予想が覆されることはない。この一匹のトンボは安部氏の一人勝ちという意味ではなく、なんだか日本の先行きを考えていたら、去り逝く夏を感じるようで・・・・・。

 さて、そうであれば当面の日本の舵取りは自民党安部氏ということになるのだろうから、安部氏の政権構想を見てみたい。彼の書いた新書本がベストセラーになっているようだが、読んでいないので新聞に報道される範囲での安部氏の政権論だが、第一に憲法改正、第2にアメリカの真似をして米国家安全保障会議(NSC)のようなものをつくる、当然日米同盟強化、次に、再チャレンジ支援策、あとは自民党誰でも言う年金問題、教育、少子化とくる。

 ここでは個々の政策論議はしないが、今度の政権も小泉首相に続いて、またアメリカべったりかと情けなくなってしまう。憲法改正、NSCのような組織構築とて、日本独自の戦略構想ではなくアメリカとの軍事同盟、アメリカの子分、属国としての立場を強固にするようなものである。小泉さんがブッシュに尻尾を振ってついて行く柴犬なら安部さんは土佐犬だろうか(威厳のある土佐犬には申し訳ないが)。

 日本の政治は敗戦後ことあるごとにアメリカを向いてきた、向いてきたと言うよりアメリカの指示 に従ってきた。このことは日本の戦後史、武装放棄から朝鮮戦争によって即警察予備隊の創設、自衛隊、そして今イージス艦やP3Cを買わされて、MD計画に乗っかってアメリカの盾になろうとしている。憲法をアメリカの押し付け憲法というがいい憲法ならしっかり守ればいいではないか。日米同盟で米軍の下部組織として(アメリカの戦略では日本軍〈自衛隊〉は単なるアメリカの極東軍としての位置付けである)機能しやすいように憲法改正するなど恥ずべき行為、国賊ものである。

 ここのところの自民党政権の政策はほとんどアメリカの意向、アメリカの政策の後追いである、民営化、IT戦略しかり。政治家、特に学者であった竹中平蔵氏が「アメリカの好景気は・・だから日本も云々」と話し始める時の彼の子供っぽい素直さは、帝国主義を破った正義の国に憧れた数十年前の日本の子供たち、すなわち僕たちに似ている。日本という国は何年経ってもアメリカか。ただし今の僕は幾つかのアメリカ文化は好きだけど、アメリカと言う国の政治、特に世界戦略、経済戦略には新たな帝国主義国家として断罪したいぐらい嫌悪している。

 では日本の政治家が追い求めるアメリカとはどういう国なのか、彼らは世界1の軍事覇権大国に憧れているのだろうか、それとも経済大国に。そういうアメリカという国は国として、その国に生きる市民の平和を、幸を追求する国なのだろうか。

 最近TVを再び賑わしているジョンベネちゃん殺害事件を見るまでもなくアメリカは経済大国であると共に犯罪、凶悪犯罪大国である。ここに興味深い統計がある。?全てのアメリカ人女性の13?25%がレイプに会う。?アメリカでは殺人死が1人 /200人、日本1.2人/10,000、イギリス1.35人/ 10,000人。?アメリカの12歳の子供が一生の間に凶悪犯罪に会う確立は83%。他のも上げればきりが無いのでやめておくが、これがアメリカの普通の市民社会である。しかも好景気のアメリカとは数%の大富豪と3,000万人?4,000万人の貧困層(年収10,000$以下)を生む国である。これが、日本という国の政治家たちが追い求めている 国である。

アメリカとはいかなる国なのか、本当に付き従っていいのか、そこが一切検証されていない。ただ言える事は、アメリカと言う国の政治は既に国民には向いておらず、軍事産業(アグリビジネス、IT産業とて、国家戦略である)を中心とした資本家たちの稼ぎを第一に、国民に自立を強い(けん銃所持が合法なのは、その典型である)、アメリカ国民ではなくアメリカという形のない国家という記号を世界的に強固にしようとしている国なのである。

 それでもアメリカはどこかで人気がある。僕もJAZZが好きである。でもこのこととアメリカ国の政治政策を混同してはならない。日本の政治家のアメリカかぶれは、小泉首相の世界の失笑を買ったはしゃぐ姿にあるように、情けないほど子供じみている。そんな政治家を選ぶのはもう辞めようよ、自分のことは自分でちゃんと威厳を持って考えられる大人の政治家はいないものだろうか。このままでは次アメリカの次の要求は「血を流せ」である。

丸山暁〈55歳・人間〉

農業と競争原理
「有る程度の競争は、必要だよ」とよく言われる
 スポーツならば、一定のルールの上に立ち、勝ち負けを競い合う。
ボクシングやレスリング・柔道は、体重別制限がある
(もっとも“小よく大を制す“のが醍醐味だ。と言われるが、総じて体格のいい人が勝つことが多い)また団体球技は、人数の制限がある。(サッカー11人・野球9人等々)
 工業なら、その製品の性能の優劣、デザインの好悪で競い合う
生産量が小規模でも、その機能や独自の意匠で勝つことが可能である。
 商業ならば、販売手法による売上の多寡や利益の多さで競う。
小規模でも地域密着の販売や、独自の品揃えなどで特徴を出し、勝たないまでも継続することができる。

しかし、農業に競争はあり得るのだろうか?
 地球という小さな星に、太陽が降り注ぎ、光合成という仕組みで植物が生産され、それを動物(人間も)が食べて、寿命がきて、星(土)に帰る。
その循環という枠組みの仲で、我々は生かされている。
 そして江戸時代の3000万人から近年の1億2000万を超える人口増により、植物の収量を高める。動物の増体重を求める、などという品種改良や、栽培方法の開発で、食糧の増産をおこなってきたが、ここ50年は科学技術を駆使した、さまざまな手法が取られ始めている。
ところが遺伝子組み換えやクローン技術などの科学技術で生産された物が、同じ組成だと言っても、食べ続けることにより子や孫に、どんな症状が現れてくるのか、疑問である。
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 そして単位面積当たりの日射量は、一定であり、土も栽培に要した養分を再度補充しないと前年並みの収穫量を上げることは出来ない。
稲作など、理論的には一反分(300平米)で最高24俵の収穫が可能であるという。
ところがその翌年は、土壌養分の収奪量が多いため、土が再生できず、収穫量は皆無に等しいと言われる。
人間は、「今年は豊作だから腹一杯食べて、来年は食べなくても良い」と言うわけにはいかない。まして気象条件が毎年違い、土壌条件が地域によって違う。
そこで生産された農産物は、「安定生産」と言うことが一番に評価されないといけないはずである。
 そこへ安さ、量。美味しさ、鮮度等の競争原理を持ってくると、人件費の安いところへ流れて農を見失い、大量生産のための機械化で化学肥料や農薬の多投により土を壊し、美味しさを求めて栄養のバランスを崩し、鮮度を求めて大量のロスを生み出す。
 自然の恵みと言われる農産物を、さまざまな工夫をして調理し、余すことなく食べるという生き方を、何万年も続けてきたからこそ、今日がある。

「異常さ」を異常と感じない異常?自民党総裁選報道
 自民党総裁選は安倍晋三氏の独走となっているようだ。それにさして関心があるわけでもないが、連日、テレビ、新聞で報道されているから、何となく見てしまう。
 ポスト小泉と言われはじめてから数カ月、ずっとこの状態が続いている。よくもまあ飽きずにと傍観していたが、何か引っ掛かりを感じるようになってきた。

 「なぜ、たかが政党の総裁選を連日報道するのか」ということにである。メディアの報道姿勢に対してである。
 時々、その疑問に答えるように「自民党の総裁選は、日本の総理大臣を決める選挙ですから」とテレビのキャスターが言う。
 だが、明確に言えば「自民党総裁=総理大臣」ではない。改めて言うまでもないが、議院内閣制の日本では、国会での首班指名を経て総理大臣が決まるからだ。
 アメリカの大統領選での民主、共和両党の候補者選びのような国民が直接選ぶ選挙に直結しているのなら、まだ分かるが、総裁に選ばれても、自民党の一部が首班指名で「小沢一郎」と書けば、ひっくり返ることだってあり得るのだ。

 国民の人気投票で決まるわけではないのに、世論調査をして「安倍氏リード」などと報じる。「国政選挙での顔に誰がふさわしいか」ということで自民党の国会議員も判断する傾向が強くなっている。
 これも情けない。衆議院が小選挙区制となった影響も大きいだろうが、政治とは主義主張だというのは過去の話になってしまったようだ。

 小泉首相は意図的にメディアを活用した。裏を返せば、メディアは利用され、自ら創り出したが故に、小泉政権への批判を躊躇した(ように私には見える)。

 国民が知りたいことにこたえているフリをしながら、メディアは主体性を放棄しているのではないか。
 「世論は安倍氏支持」ということが、知らず知らずのうちに改憲、靖国参拝、消費税増税、日米同盟の強化などに、メディアがお墨付きを与えてしまう結果となってしまうことが怖い。

 「総裁選で誰が選ばれるか」より、格差の拡大、老後への不安、雇用の不安定さ、農家や中小企業が経営に四苦八苦している現状など、今、国民が何をどう考えているのかを浮き彫りにしていくことがメディアの本来の役割ではないか。

 「異常さ」を異常だと感じなくなってきていることが一番異常なことだと思う。(ゼロテン) 
加藤紘一宅放火事件で思ったこと?真理に対する畏れと謙虚さを持とう?
加藤紘一元自民党幹事長の自宅が放火され、犯人の右翼の男が割腹自殺を図るという事件が起こった。
自分と意見が対立する人間に対して、問答無用と暴力で押さえ込もうとする行為が、この日本でまだまだ行なわれていることに、無性に腹が立った。

こういう事を起こす人間は、自分が正しいと思うことが世の中の正しいことであると信じて疑わない。

しかしよく考えてみてほしい。天動説は数千年間も世の中に信じられ、反対する者を迫害してきた後、それが間違いであったと証明された。魔女狩りは中世ヨーロッパからアメリカまで広がり多くの命を奪った後衰退し、今ではそんなことを信じる者はいない。しかし地動説とて、それは現代の観測精度から得られた結果が地動説によってうまく説明できるということに過ぎず、将来新しい理論が出てこない保証は無い。

そもそも真実というものは世の中に存在するのだろうか。
戦争も一方から見れば正義の戦いであっても、他方から見れば侵略やテロになる。
真実というものが、そもそも存在するかどうか疑いの余地があるし、真実らしきものが存在するとしてそれを見つけ出したとしても、それが未来永劫の真実であると証明することはできない。
我々はそういう、“分からない世界”に生きているのだということを自覚しなければならない。

すなわち、「自分の考えも真実でないかもしれない」という恐れを常に持っていなければならないのだ。
確実に言える事は、物事に対して、「それを真実(正しいこと)だと『私は思う』」、ということだけだ。

自分の考えは正しい(真実だ)と断言し、信じて疑わないような人間は、世の中の真理や正義というものが如何に不安定なものであるかを知らない、無知な人間であると宣言しているようなものだ。
そういう考えは、右翼に限ったものではなく、自然保護活動家や、開発推進派など世の中のいたるところに存在し、真っ当な話し合いを妨げている。最近のテレビのショー番組討論の場面で声高に相手の発言を遮って罵りあう場面を面白おかしく流すことも、そういう事態を助長している。

加藤紘一氏宅の放火犯人に限らず世の中皆が、真理に対する畏れと自己に対する謙虚さを持つ時、はじめて話し合いが始まると私は信じている。
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<疾風>



山里便り?「ハーブたち!」 2006年8月20日
銀座の画廊の中、会社帰りのサラリーマンやOLといった様子の人たちの中で
彼女は目立っていた。
健康的に日焼けをし、軽快な服装のはつらつとした40代の女性だった。
Sunちゃんとその友人たちが、趣味の絵のグループ展を開いた時のこと、
彼の上司の奥さま(ややこしいけど・・)が、大きなハーブの花束を持って来てくれた。
バラやユリやガーベラなど、色鮮やかで華やかな花束の中で、
そのグリーン一色の花束は印象的だった。
彼女は、ひとつひとつのハーブの名前と効用を生き生きと熱心に説明してくれたが、
とても覚えきれない。
私は、ただ「はぁ。」とか「そうですか。」と、失礼のないように返事をしていた。
特に自然や園芸が好きとか、ハーブに興味があったわけでもなかった。
その当時、日本では『第二次ハーブブーム』で、TVや雑誌では「ハーブ!ハーブ!」と騒いでいたが、
「ただの草じゃない!」くらいにしか思っていなかった。
22年前のことだ。
帰宅後、一応、上司の奥さまに敬意を表し、ガラスの水差しに活けて放っておいた。

その頃の私は、遠足なみの遠距離通勤の共働きで、ひどく疲れていて
彼女の「葉っぱをこすって香りをかぐと気持ちが落ち着くのよ。」という言葉を思い出し、
毎日、葉っぱをこすっていたように思う。
そんなふうにいじられても、ハーブとやらは元気で、フト見ると発根している!
急に興味がわいてきて、本屋に行き、初心者向けのハーブの本を買い、改めて名前を調べた。
土に植えてみたが、日当たりが悪いのか大きくならず増えもしない。花も咲かない。
生かさず殺さずといった状態のまま、引越しをするたびに持ち歩き、この地まで一緒に来た。
何となく捨てられずに育て始めたハーブだったが、
見て触って香りを楽しみ、食べて飲んでおいしいハーブに、はまった。
そして、私のハーブコレクションが始まった。

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ハーブティー用のハーブたち
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陰干しをし、茎がポキポキ折れるくらい乾いたものからビン詰め保存
今年の夏は暑いから、乾くのが早い!


ここで育ったミントは、東京時代のものよりも葉の巾が狭くなり、葉色も変わった。
土質や気候で、葉の形や花の色が変わるということを知らなかったので、
どこで育てても同じ色・形になると思っていた。
考えてみれば、工業製品ではないから、あたりまえのことなのだ。

北見のハッカ油は、世界的にも有名で高値で取引されていたそうだが、
そのハッカは、岩手からの開拓者が持ち込んで増やして栽培したものだということはあまり知られていない。
湿度が低く日差しが強い岩手の気候はハーブに適していたらしく、
すくすく育ち、花を咲かせ、増えた。そして、香りも強くなった。

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     ミョウガもハーブ。ボウルで氷の器を作って遊んでみた。
梅たれ&コチュジャンたれを添えて。


彼女との出会いがなかったら、ハーブに親しんでいなかったかもしれない。
人との出会いやモノとの出合いとは、そういうものだと思う。
yo

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「8月・原爆・戦争」?僕の考える
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 僕にとってこの8月15日は記念すべき日となった。それは僕が写真にある『西欧「偶景」今昔話』という本を出版し、発売日が2006年8月15日であるからである。この本はB6版128ページの小さな本であるが、38才で会社を辞め、西欧10カ国放浪の旅に出て、この地(北上山系早池峰山の麓の小さな集落)に移り住んで14年、僕にとっての今、マイルストーンのような本である。他者からみれば小人のマスターベーションのようなものであるが、人生55年生きてくると、それなりに考えることがある。とりあえず「丸山暁―僕という人間」に御関心ありましたら、ご購入のうえぜひ読んでみてください。
『西欧「偶景」今昔話』絵/文 丸山暁(新風舎1200円税別)。本屋さんに平積という夢のようなことはまずないでしょうから、皆さんのお目にはなかなかとまらないと思いますので、本屋さんに注文していただくか、amazon.co.jpなどを通して御購入下さい。

さて、8月は、僕にとってだけでなく日本にとって6日、8日、15日と暑くてボートしていても忘れてはならない日々がある。
僕は1950年生まれである。だから現実体験としての1945年の8月6日、8日の原爆も8月15日の敗戦の日(終戦の日ともいう)を知らない。だから、当然体験としても記憶にもない原爆や戦争を忘れるどころか知らなくたっていいのだ、とはいっていられない。なぜなら、僕は日本という国の今を生きているからである。

今を生きるという事は、今だけを生きているわけではない。今というのは?tというほんのチョッと前の時間が移動した今であり、今という今とてあっという間に?tの先へ進んでしまう。すなわち固定的な今という今は存在しないのである。このことは微小の時間(?t)でも起こっていることであるが、実は僕たちの人生、歴史というものも、そういう時間の中に存在する。すなわち、今という時代は今だけで存在するのではなく、今とは過去を受け継ぎ未来へつながるための今でである。だから今を生きる僕たちには、今の日本の繁栄と共に過去の大日本帝国の戦争、広島、長崎の原爆も受け継ぎ、未来へつなげる責任がある。

では僕が、日本という国の歴史としての戦争を受け継ぐと共に、僕個人として受け継ぐ戦争とは何なのだろうか。
一つは父母の戦争体験、特に敗戦直前から終戦にかけての満州からの逃避行、引き上げの惨禍、苦労である。ソ連軍の戦車の砲撃、銃撃にさらされながら、逃げ遅れた者たちが戦車にひき殺されるのを目の当たりにしながらの逃避行。母はその時身ごもっており、川を渡れずオヤジが刀を抜いて心中しようとした時、親しくしていた中国人が舟を出してくれてかろうじて助かったこと。その途中兄のお産の産湯を汲みに井戸まで行った父が持ち帰ったバケツには銃弾で穴が開き、何度も水を汲みに行ったこと。引き揚げ船での惨状、日本に帰ってからの苦労。これら父母から聞いた戦争の話を僕は記憶に留め忘れてはならない。父母が戦争を生きぬいたから、今の僕がある。

もう一つ、僕が直接体験した広島の原爆である。もちろん体験と言っても僕が広島市に暮らしたのは1960年頃のことであり、原爆投下時の体験ではない。しかし、原爆投下後10数年経った広島には多くの原爆の傷跡が残っていた。
街で行き交う多くの人々の顔や手足にケロイド(焼けど)で引きつった傷あとがあること。原爆スラムに暮らす友人(彼は転校生の僕にしばらく家を教えてくれなかった)。母親の被爆により髪が抜け落ち、真夏でも黒い毛糸の帽子を被っていたクラスメートの色白の美少女。夏、市内の元安川(きっと数万人の人々が焼け爛れた肉体を冷やし、きっと川とて灼熱地獄だったろうが、水を求め川に身をなげ死んでいった川)で水底に潜ると、貝殻に混じって多くの骨があった。
これらの広島の体験は戦後の体験であるが、僕の非核、非武装、反原発の思想につながっている。僕が今、岩手の山奥で畑を耕しながら暮らしているのも、広島の原爆体験が少なからず影響していると思う。

そして僕の生きる時代にもに戦争がある。ベトナム、湾岸、中東戦争、ソマリア、ニカラグア、アフガン、・・そして今まさに戦場のイラク戦争、イスラエル・パレスチナ。これらの戦争は日本が直接戦場となっていないのが、戦争は毎日のようにTVや新聞を通して、僕たちの心、感性に訴えかけてくる。これらは同時代の戦争として記憶に留めておかなくてはならない。そして、今を生きる僕たちは戦争を止める方向を少しでも模索しなければならない。しかし、日本は戦争のできる国に近づきつつある。日本が戦場となる戦争も、決して夢物語ではない。なぜなら、既に戦争の道具は十二分にそろっている(日本は世界4位の軍事大国である)。何処かに戦争の引き金を引く馬鹿がいないとも限らない。だいたい戦争に突入するのは、国家の責任を背負っている馬鹿な戦争好きな政治家の気まぐれや勘違いからである。これから8月15日は非核反戦の日と『西欧「偶景」今昔話』出版記念日である。
丸山暁〈55歳・人間〉

自然に謙虚さを!
 今年の稲作は、前半低温長雨で日照不足という冷害の様相で推移した。
ようやく8月になり高温と好天気に恵まれ、やや回復してきたように思われる。
岩手の場合、6月7月の天気は、稲穂を作る時期で、その穂数が多いか少ないか?
また8月9月の天気は、出来た稲穂に十分にタンパク質が溜まるかどうか?に影響を与える。
そして、いつも7月後半に低温がやってくるが、この低温は、出来た幼穂に影響を与え、受粉できない稲穂を形成する。(“はくふ”と呼ばれる)
 岩手の稲作は、7月後半の低温をいかに避けるか?そして8月9月の稲穂の充実期の温度を確保するために、いかに出穂をお盆の前後に持ってくるか?が重要な稲作技術だった。
 そう言う意味で今年、県北部は7月後半の低温でやや“はくふ”が見られるが、これから8月後半、9月の天気で持ち直すと推測する。
ただ9月の台風で、稲穂が充実し首をかしげた状態で強風や水害で倒伏するとまた、穂発芽と言い、品質の悪い米が出来る可能性もあるが…。
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 15年ほど前であろうか?小生が農業の世界に入ったときに、岩手県北部は気象条件が悪く銘柄米が作れなくて、ほとんど政府米のお米ばかり作っていた。
当時、県南部の銘柄米(ささきにしき・あきたこまち)は高い値段で取引され、県北部は、政府米(いわて21・たかねみのり)を多収量で、収入を確保していた。県北部でも農家は、自家飯米ということで銘柄米と作っていたが…。
また当時は、早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)と、3種類の品種と作って冷害に備えた物であった。
農家も、前年度米を自家飯米として保管し、8月になりようやく今年度の収穫の見込みが立ったときに、新米を食べた習慣をもっていた農家がある。

ところが平成5年の大冷害の時に、あちこちから
「生まれて初めて、米を買って食べた」という農家の言葉が聞こえた。
当時は、様々な問題もあったタイ米の輸入や、政府備蓄米の放出で切り抜け、翌年度の豊作で、冷害の米不足も過去の記憶と消えてしまった。
しかし、その時の検証をすると、ほとんど農家は銘柄米の1種類の生産に走っていた。つまり銘柄米が冷害に遭うと、全滅という状況にあった。
翌年また冷害にあえば、もう食べるものが無いという状況に遭遇しただろう。
(冷害は2?3年続く、というのが定説である)

もう一度、多様な品種を栽培し、冷害に備えるという謙虚さが必要ではないかと思う。お金は食べることが出来ない。単なる交換するための道具である。
農家自身が、自然に謙虚に向き合うと言う以前の稲作を見直すことは、市民に食べ物に対して謙虚な姿勢をもたらす事になるのではないかと思う。

お節介なマスコミ?有権者を惑わす選挙情勢分析報道
 民主党の達増拓也代議士が岩手県知事選挙に出馬することを小沢一郎党首とともに記者会見で明らかにした。
 早速、岩手日報が「知事選胎動」という連載を掲載している。民主党の動きだけでなく、自民党、あるいは現職の増田寛也知事の動向などを伝えている。
 3回連載ときばってはいるものの、まだまだ対立軸がはっきりしていないせいもあり、少々中身が薄いという印象を拭えない。

 「選挙報道」という言葉がよく使われるが、大体はどこの陣営が有利なのかの「情勢分析」が主となっている。それも読者の関心の一つではあるから、報道する意味もないわけではない。
 しかし、今の選挙報道のあり方は、時に「選挙は有権者の投票によって決まるもの」であることを忘れているのではないかと思われてならない。

 今でもなごりがあるが、組織が選挙の大勢を左右していた。農業でも、漁業でも、建設業でも、業界団体が動き、労働組合でさえ、組織として特定の候補者を押し付けてきた。その動きをフォローすることが選挙取材の常道だったと思う。
 今は浮動票、支持なし層が増えて読みにくくなっているから、世論調査も多用して「正確な分析」を試みようとする。

 事前の有利、不利は、結果が出ればあまり意味をなさない。極端に言うと、選挙情勢の報道がなくても、有権者は何も不都合がない。むしろ、この報道が有権者ミスリードする、もっと言えば、公正な選挙を疎外する危険性さえある。
 選挙終盤の報道で結果がひっくり返ったのではないかと指摘されている選挙もあったようだ。

 選挙報道は、有権者が判断できる材料を提供することに徹するべきではないか。候補者の政見、公約のほか、その選挙で何が問われているのか、いわゆる争点などだ。この争点も、マスコミが勝手に作り上げていることもあるから、有権者の視点から、国、あるいは地域で何が問題となっているのか、候補者に対して何を望んでいるかを報道すべきだろう。有権者の立場から、候補者に考えをただす姿勢が大事だと思う。

 選挙情勢も、世論調査も、投票する個人からすると、余計なお世話。少なくとも、公示、告示後の情勢報道は控えるべきだと思う。
 「正確な情勢分析」はマスコミの単なる自己満足に過ぎない。取材も、調査もやめろというのではない。事前報道ではなく、結果分析に使えばいいのだ。

 とは言っても、率先してやめるマスコミがあるとも思えないから、これからも、たぶん続くのだろう。
 結局は、有権者自身が、報道に惑わされずに自らの判断で投票するしかない。それも自己責任だという自覚を持って。(ゼロテン)

歴史的建造物の保存を考える?岩手川の酒蔵?
今年3月に自己破産した盛岡市の酒蔵会社・岩手川が所有していた、「浜藤の酒蔵」(鉈屋町)と「浜藤私邸」(仙北町1丁目)が売却され取り壊される恐れがあり、市民団体などが保存を求めて声を上げている。
多くの草の根的市民団体や経済団体がこうした声を挙げることは素晴らしいことであり、そういう声を上げる人がいるようなまちに住んでいることに誇りを感じる。

さて、歴史的建造物の保存に対しては、最近では県公会堂の存続か否かが議論されたことが記憶に新しい。

では歴史的建造物の保存はなぜ必要なのだろうか?

様々言われているところを列挙すると、「伝統の文化の保存」「歴史的景観構成要素の保存」「観光資源としての活用」「原風景・懐かしさの保存」「快適さと潤いをもたらす構成要素の保存」・・・。

これらの表現は、抽象的であるため決め手に欠けるが、抽象的であるが故に底の浅い経済理論に押し切られることが無いと言う利点もある。

私は、都市における歴史的建造物の存在は、ある種の「癒し」であると思う。そういうものがあるだけでホッとする。忙しく動き回る都市の住民ほど歴史的建造物に対する思い込みが深く、田舎のではむしろ新しいものに対する期待が大きいと感じるのはそのためではないだろうか。
もう一つには、都市という集客装置が必要とする要素に「多面性」「重層性」がある。簡単に言うと「雑多」ということである。「雑多」の中には、 “新しいもの”“綺麗なもの”“整然としたもの”“便利なもの”、そして“古いもの”“懐かしいもの”“怪しいもの”“不思議なもの”が混在していて、そこに人は惹きつけられる。
歴史的建造物も、「雑多」の構成に必要不可欠な重要な要素である。

保存の目的に対しては、突き詰めれば多様な意見があると思うが、多くの市民が賛同するのであれば、税金を投入することも違和感の無いところであろう。

ただ、保存の後の活用はもっと難しい。
「公会堂」も保存されたが、活用に対しての熱意は市民から感じられない。

浜藤の建造物も、単なる文化財の陳列品として残すのではなく、岩手銀行や井弥商店跡の正食普及会のように使い込んでいければ、建物が呼吸して生き続け、一層その存在価値を増していけるだろう。
だが、そう言うのは簡単だが、実行するのはなかなか難しいところであり、市民の知恵の出し所かもしれない。
<疾風>

山里便り? 「隣の畑も、うちの畑!」 2006年8月13日
「まず、食べて。」と、山ウドのおじいちゃんがトウモロコシを4本くれた。
2日後、「まず、食べて助(す)けて。」と、隣のtoeさんが8本くれた。
このあたりでは、『まず』で始まる話には、否定も拒否もできないことになっている。
「まず。まず、さ。まず、よ。」と、こちらが黙って同意するまで続く。
意向を聞く気の時は、「いらねっかぁ。」とか「食(く)わねっかぁ。」と言う。
我が家では、トウモロコシを作っていないので喜んでもらい、急いで湯を沸かしてセイロで蒸かした。
トウモロコシと枝豆は、湯を沸かしてから取りに行けというくらい、鮮度の低下が激しい野菜だ。
蒸かしたトウモロコシは、ふっくらとツヤツヤと光っている。
おいしい。甘みとうま味があり、柔らかいのに粒がしっかりしている。

冷凍保存をしてスープ・天ぷら・しょうゆ味のモロコシご飯などに大活躍。
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昔はトウモロコシの皮を陰干しして保存し、冬の夜なべ仕事で草鞋を作ったそうだ。
山ウドのおじいちゃんに習って作った草鞋。鼻緒はワラ。


我が家の敷地は一反歩。
そこに家・小屋・薪小屋が建ち、果樹・花・ハーブなどが植わっているので、畑の面積は150坪程度。
最初の数年は、何でも植えて育てて食べて喜んでいたが、
栽培期間の長い乾燥豆類・沢山植えないと実つきの悪いトウモロコシ(タヌキよけも大変!)・
場所をとるカボチャやユウガオ・メロン・スイカは作ることを止めた。
となり近所の広い畑でのびのびと育ったものが届くから。
そんなわけで、隣の畑もうちの畑のような気になっている。

toeさんちのユウガオ
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近所の人たちは、「油炒めが一番うまいっけ。毎日食べても飽きないなっさぁ」と言う。
うちでは、酢の物・浅漬け・油あげと味噌汁やすまし汁の具に。今日はカニカマと含め煮にした。


どこの家でも、昔々、大家族だった頃と同じように野菜を植え、育てている。
とても家族では食べきれない量だ。
それでも作りつづける理由は、1年でも畑を休ませてしまうと荒れてしまうから。

地下水をくみ上げて広大なスペースを灌漑するアメリカ・オーストラリアの農業は、
土壌の塩濃度が上がって作物が作れない状況になりつつある。
中国でも、砂漠化が始まっている。
天災で洪水の多い東南アジアにも、期待は持てない。
日本には、作物を育てることができる農地が十分にあるのに放置され荒れていく。
輸入に頼り、世界の食糧を買占め、食糧の値を吊り上げている。
貧しい国の人たちは買えない食べられない状態が続き、より貧しくなっていく。
食料自給率が約40%の横ばい状況で、先進国の中では最下位だと政府は嘆いているけれど、
このあたりの自給率は、ゆうに100%を超えている。
このまま畑を荒らしていくことは、もったいないことだと思う。

お盆休みが始まって、この集落が一年で一番にぎやかになり、人口が増える時、
麦で迎え火・送り火を焚き(パチパチとよく燃えるから、昔から麦を燃やしていたそうだ)、
煮しめと天草でトコロテンを作り、家族や親戚を待つ。
食べてくれる人たちが帰って来て、よかった!
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先祖のお墓にも迎え火・送り火!

「今年は、スイカは20株植えたから。好きな時に持っていって。」と、toeさんが笑顔で言った。
「はーい。」と答えて、今年は、暑いうちに取りに行こうと思った。
去年は、秋になって大きなスイカが2コ届き、甘かったけれど、食べるのがちょっと大変だったもの。
yo




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「省エネは増エネ」?僕の考える
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 北国とはいえ気温34度、このクソ暑い時に汗糞たらして(この辺りではがむしゃらに働くことを「汗糞たらして」という)冬に備えて薪を割る。今年は少し少なめだが、毎年2tトラックに一杯、長さ2m太さ20?40cmの雑木丸太を切って割る。暑い夏に汗を流して割った薪で冬の暖をとる(地元材なのでCO2付加0なのです)、これこそ僕が考える「省エネ」である。結論から言うと、「省エネ」とは「機械(人間以外のエネルギー消費機能)もしくは他者にゆだねた労働を自分自身の身体的労働に戻すこと」である。

 最近「省エネ」はあらゆる場でのうたい文句になってきた。国や行政も口を開けば「環境省エネ」政府は省エネルック、今年はクールビズとやらで小泉さんの腰ぎんちゃくははしゃいでいる(安部さんがノーネクタイで麻生さんとか福田さんがネクタイしているのは笑えます)。今年のファッション界ではクールビズとやらが結構売れたようだ。電化製品、車、住宅に至るまで「省エネ」にあらずんば商品にあらず、の感がある。お上も企業も「省エネ」に熱心で結構なことである。これからの地球環境、少なくとも日本の環境は大いに改善されることだろうと、大安心である。ほんとかな?

果たして、いま家電製品などでいわれるところの「省エネ」というものの実体はいかなるものなのだろうか。この夏場、夏場だけではなく現代生活では一年中大活躍の冷蔵庫であるが、冷蔵庫は電化製品の中で最も「省エネ」が進んで家電の環境優等生であると言われてきた。家電量販店のチラシにも「省エネ」はうたい文句である。
しかし、昨年「省エネ」をうたう冷蔵庫の消費電力量の測定方法(JIS、日本工業規格の測定法)がおかしいじゃないの、という疑問が日本消費者連盟から出された。JIS の測定では、壁から30cm離し、冷蔵庫に何も入れず、製氷器のスイッチを切って、凍結防止ヒータ(野菜室など)も切って、かろうじて冷蔵庫が自分だけを冷やしている(要は安眠状態の冷蔵庫)状態で、「皆さん従来の冷蔵庫の半分、3分に1の消費電力です。これを買うとあなたも環境にやさしい人です」と言っていたのである。実際の家庭の使用状況、壁からはせいぜい数センチ、冷蔵庫にもあたりまえに物を入れ、冷凍庫で肉やアイスを冷やして、製氷器で氷を作ったところ、うたい文句の2倍から5倍の 消費電力であったという。

このあたりの見せ掛けの「省エネ」は、冷蔵庫だけでなく多くの場面で起こっているのではないだろうか。家電メーカでもJISの担当者でも、それを管理する通産の役人でも、「省エネ」が目的ではなく売れればいいのである。その証拠に、冷蔵庫はお客様の多様化と称してどんどん多機能大型化、すなわち「増エネ」している。

このことはTVでも同じことである。TVはいま平面ブラウン管からいわゆる薄型TV(プラズマや液晶など)に移行しつつある。そうゆう薄型TVのうたい文句も、高機能(映像の鮮明さ、録画システムなど)に加え「省エネ」である。「環境を考えるならシャープです」とか「プラズマにいらっしゃい」などと美人のおばさんやおねえさんがしきりに「消費電力は従来の半分、3分の1ですよ」と涼しげにおっしゃるが、大型の薄型TVの消費電力は100?200Wある。自慢ではないが、我が家の20インチ平面ブラウン管TVの消費電力は45Wである。当然、薄型TVも開発当初から比べれば消費電力は数分の1になっているのだろうが、部分的に「省エネ」してもシステム全体(TVという機械)は「省エネ」といううたい文句でどんどん「増エネ」しているのである。変なの。

これに拍車をかけるのが、いらぬおせっかいの地上派TVである。もうこれ以上チャンネル増やし、なおかつ録画し、機能を増やして、精度を上げて、便利にして・・・生身の人間はTVだけに係わっては生きていけないのです。結局TVを通して人間を益々消費拡大動物にしたて、すなわち「増エネ」を益々拡大するだけなのです。昔、大宅壮一の言った「TVは一億総白痴化」と言ったことが本当ななった。僕にいわせれば「地上波TVは一億総消費端末機」ということだ。

結論は「省エネ」といううたい文句も結局「大量生産大量消費=増エネ」の免罪符、消費拡大指標の役割しか果たしていない。その証拠に「省エネ」といいながら通産省も電気事業連合会も電力の生産(消費)予想はあいかわらず右肩あがりである。最初に書いたが根本的な「省エネ」とは、「個々の機械の消費エネルギーを減少さするだけではなく、機械にゆだねたエネルギー消費を人間の身体的エネルギーに転換、もしくは取り戻す」ことである。すなわち人間の身体性の回復である。これなくして「省エネ」はあり得ない。このことは多分あまりお金のない新しい世界を求める人々にしか出来ないことかもしれない。

どんなに「省エネ」と叫んでも、やっぱりお金があれば「便利なもの、贅沢なものが欲しい」というのが一般的だろう、政治家でも、環境派でも、市民でも。TVのある番組で日本のいわゆる知識人が「中国のエネルギー消費拡大が心配だ」というようなことを言ったら、いわゆる中国の知識人がその日本人に「あなたは食欲を止められますか」と切り替えした。彼は黙ってしまった。このまま人類は文明期という歴史の中で滅んでいくのだろう。
丸山 暁〈55歳・人間〉

農業に人件費は必要か?
 水耕でトマトを栽培している新規就農者のところへ、見学に行った。
その水耕栽培の農家は、パートを使用し、化石燃料を利用し、建物や機械などの設備投資をして生産を行っている。
彼は、新しい発想で、農産物の販売に取り組んでいた。
その発想とは、販売先ごとにブランドや包装を変え、値段設定を変えていくというモノだった。
以前、彼の水耕栽培を見学したある農家は、当店に来て「学ぶべきところがある」と感心して言った。
従来農家は、農協から種や肥料を買い、野菜を生産して農協の規格ごとに選別し、農協から資材を購入し、梱包して農協に届けるまでが仕事だった。
そこには値段を付けるという、作業はなかった。
自分が生産したものは、市場が勝手に値段を付けて、さまざまな農協の経費を引かれ、入金されてきた。
ところが、昨今にぎわいを見せている産直で、初めて値段を付けるという作業が加わったが、だれも自分の値段がいくらなのか、分からない。
そのため、市場価格や、最初につけた人の値段を参考にしてつける。
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彼は「農産物を産直に並べるとき、その値段の中に人件費というモノが入っていない。」と言う。
人件費という概念は、機械が導入され、人々が機械に使用されて、「時間を売る」と言う発想に基づいた明治以降の思考ではなかったでは無かろうか。
機械が導入される以前は、人の手作業でモノが産みだされてきた。
そこには、人の熟練した技が生かされ、その商品に対する想いがあった。
熟練しない若者は、満足するモノを作り出すために大量の時間を消費した。
そして、だんだん熟練するに従い、短時間で作り出す技を習得したが、出来たモノが自分が満足するか?と言う課題が残った。
結局モノを作り出すという行為は、自分の技を高め、モノを生む喜びをもたらす行為だった。そこには時間の効率や金銭は関係がなかった。
それが現在残っているのは、職人技と言われる手工芸品と「農業」ではないか?

農業は、機械化されたとは言え、自分の土地の履歴や土質、そして気象を予測し、野菜の生長を観察し、適切な対処をしながら安定した量のモノを生み出す、職人技である。同じ地域でも条件が微妙に違い、その中でモノを生み出す技は、隣の農家でもそれぞれに違う。
そういう農業の世界に、「人件費」という概念を導入する事は、“技を時間で計る”という熟練さだけを評価し、個々の様々な条件下で作ったモノに満足するという達成感をないがしろにするものである。

農家は、その達成感を求めながら、市民はその技を認める。
そのような関係が作られることが、経済優先社会のなかで、今必要とされているのだが…。
それには、市民のモノを見る目が養われなければ、ならない。

政党の対応と「公約」への疑問?長野県知事選挙から
 長野県知事選で現職の田中康夫氏が敗れ、村井仁氏が当選した。選挙結果は有権者の選択であり、それについて論評するつもりはないが、両氏を推薦、支持した政党の対応には大いに疑問が残った。
 村井氏を自民党が押し、田中氏には共産党、そして最終盤になって民主党の小沢代表、鳩山幹事長が支持を表明するという構図だった。ただ、地元の民主党支持者などは田中知事への嫌悪から村井氏支持に回った人たちも多かったと報道されている。
 村井氏は衆議院議員時代に郵政民営化法案に反対して、いったんは政界引退に追い込まれ、自民党から戒告処分まで受けた人物。
 郵政民営化法案に反対した議員たちに「刺客」まで送り込むなど、凄まじい選挙だったことは記憶に新しい。その一人だった村井氏を自民党が押し、当選後は同氏と会談した小泉首相が「よかった、よかった」と述べたり、武部幹事長が「党として村井県政を全面的に支援する」とまで言う感覚が分からない。
 「のど元過ぎれば…」ということなのかもしれないが、反対した他の議員や元議員にはまだ距離を置いている。

 小泉首相は8月15日の靖国神社への参拝を「公約」だとして強行する構えだが、郵政民営化は最も重要な「公約」だったはずで、それに反対した人物を支援することは、ある意味「公約」に反する行為ではないのか。
 国民が「公約」をすべて実行することを期待しているかどうかは別にして、「公約だから」と強行したり、忘れたふり(?)をするのは、手前勝手過ぎないか。
 「政治家とはそういうもの」という声が聞こえてきそうだが、小泉首相には今までの政治家とは違った実行力を期待していた国民も多かったはずだから、やっぱり一貫性に欠ける。

 民主党は独自候補を立てられなかったことが最大の問題。田中氏に乗ったのは党利党略みたいなもので、本部と地元のズレは公党としてはお粗末だと言われても仕方がない。

 田中知事と言えば「脱ダム宣言」。無駄な公共事業の象徴のように言われたダム。すべてのダムが必要ないとは思わないが、住民参加で見直して、河川改修など別な方法で治水を行うことも選択肢として広げていくことはいい。
 たまたまなのだろうが、選挙前や選挙中に全国的に大雨による洪水被害が発生し、長野県でも大きな被害を受けた。一部で「ダムが放流したから被害が拡大した」という指摘もあったようだが、選挙と併せて考えると、皮肉な結果だった。(ゼロテン)

ロマンチック経営で行こう?招福花火?
こんにちは。
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夏休みの楽しみは花火大会です。
今どきの花火大会には
花火師の姿が見えません。
コンピューター制御で
機関銃のように
自動回転で連射されていました。
これも戦争技術の民間開放です。

たった10分だけの花火大会もあります。
それでも、
大勢の人が、
大音響で花開く夜空の大輪を見上げては
元気になって帰っていきます。

人を元気にさせることに
お金を使う会社は繁盛します。
そういう祈りの花火投資です。

人間って気前いいなぁ。

不況だ不況だと言われていますが、
街をよく見ると、
盆と正月が一緒に来たように
繁盛している店が必ず見つかります。
最近回転した回転寿司屋さんが、
いつもにぎわっています。
身近にあるのに
繁盛している店に気づかないものです。
黙って繁盛しているからでしょうね。

「繁盛して毎日が盆と正月のようです。」

そんなことは誰も口外しませんよね。
不況の話は世間に蔓延しても、
景気のいい話が
なかなか聞かれないわけです。

思えば
花火大会は、
札束を燃やしているようなもの。
札束の回転放火です。
お客様を喜ばせるためには、
札束に火をつけるようなことを、
人は平気でやっているのでした。

花火に投資をするような
気前のいい会社に
福が来ないはずは
ありません!
<服部尚樹>

最近、市民として納得できないこと
「岐阜県庁で裏金」
これは公金横領事件じゃないの?
接待に使えば贈収賄事件
焼却したと言う話もあるが本当かなぁ?
現金を燃やすやつなんているだろうか。燃やしたと言えば何も残らないのだから、実際はポケットに入れたんじゃないか?
県職員組合の口座に移したと言うが、こんなことに加担するような御用組合はつぶした方が良い。

指示したとされる元副知事や出納長は、なぜ逮捕され

ないのだろうか。不思議だ!



「北米トヨタセクハラ訴訟」
セクハラで、北米トヨタの社長とトヨタ本社が総額1億9000万ドル(約215億円)の損害賠償を求められた訴訟で、トヨタ側が一定額を支払うことで和解した。
内容を非公表とすることを条件に合意したと説明している。
なぜ非公開なのか?日本最大の企業の大トヨタともあろうところが、こんな秘密裏に大

金を払って黙らせる
手法をとるなんて事でいいのだろうか。

正々堂々と内容を公表すべきではないのだろうか。
株主はそれで納得するのだろうか?

「巨人最下位争い」
ナベツネ氏は早々原監督の続投を示唆している。
アンチジャイアンツとしては来年も楽勝できて結構なことではあるが、

あまり弱すぎてもイジメ甲斐がない

やっぱり江川を監督にして、落合、古田、牛島などと競わせたい。

しかしそれにしても、巨人ははピッチャーの使い方が悪いなぁ・・・
木佐貫、林、久保なんてせっかくの素質を殺してしまってる。
野手でも堀田、黒田、三浦、鈴木を腐らせるようじゃ、先は無いねぇ。
その点、ロッテのバレンタインや西武の伊東は見事な用兵だ。伊東は好きなタイプではないが、監督としての実力は認めざるを得ない。
オリックスはやる気があるのかなぁ。
阪神で全然駄目だった中村に監督をやらせるようじゃ、せっかく近鉄を吸収合併した意味が無い。
もう一度梨田にやらせた方がましだ。
やる気が無いなら、シダックスにでも売ればいいのに。

<疾風>

山里便り? 「おそろしいのは、草!」 2006年8月6日
暑い!
『夏は涼しく』を夢見て岩手に移り住んだのに、こう暑いと裏切られたような気持ちになる。
長かった梅雨の後の太陽は、本当にありがたい。
ありがたいと思っているのは雑草も同じらしく、みるみる育ち、はびこる。
「ほれ、あれ。おそろしいほど草が生(お)えてなあ。とてもとてもおよばない・・。」と、
kotoさんが何度も繰り返しながら、自分の畑をながめていた。
そして、「孫がいるから薬は、使いたくないのさ。」と付け加えた。

「雑草という草は、ありませんよ。」と、
某シンポジウムでお目にかかった大学の先生が、にこやかに説明してくれたことがある。
確かに、すべての植物には名前がある。
それに、ハコベもスギナもオオバコも食べられるし、
1日であっと言う間に生長するスベリヒユは、山形県では立派な野菜として畑で栽培されている。
野菜の乏しい季節ならば有難いが、食べきれないほどの収穫のある夏には、
誠に勝手ながら、雑草の範疇に入れさせてもらう。

雑草対策は、まともな作物(いろいろな意味で)を作ろうと思っている人たちにとっては、
ずーっと昔から悩みの種だったようで、
江戸時代の農書には、「大農(立派な百姓)は草が生える前に草を取り、
中農(並の百姓)は草が生えてから草を取り、
小農(駄目な百姓)は草が生えても草取りをしない。」と、書かれている。
当時の日本の農業は、西欧諸国に比べて手入れが格段によかった(シーボルト記)そうだ。

時代が変わり、今は黒マルチカバーをかけると光が当たらず雑草が生えにくいとか、
土の水分が多い時に耕すと、雑草のタネの発芽を促すから乾いている時がよいとか、
カバークロップ(シロツメクサや牧草などの雑草抑制植物)を混植すると効果的という説や、
逆に、雑草は土の流亡を防ぎ、土の水分の蒸発を抑えて土を活性化するとか、
土に有機物を供給し、根からの分泌物で土を活性化する働きがあるから悪者ではないなど、
様々な事が言われたり書かれたりしている。
いろいろな説があるけれど、自分と気があったやり方をすることにしている。
例えば、マルチをかけると土も息が出来なくなるような気がして、かけない。

ヨーロッパの童話や市場の映像、ガーデニングの本などで、いろいろな種類のベリー類が登場する。
家まわりにベリー類を植えるのが夢だった。
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ブルーベリーの好む土が分からず、あちこち植え替えること3回目。
去年、裏の土手に植え、薪切りで出るおが屑を根元に敷き、酸性土壌にしてみた。
今年は大きく育ち、実もひとまわり大きい。
「こんな所でねえ・・。」と思いながら摘み取って冷凍。たまったところでジャム作り。


『月は植物の主』という、古代インドの言葉があり、
月の満ち欠けと植物の生長は、密接な関係があるらしい。
日本でも江戸時代から、新月の2日前にタネを蒔くと生育が良いと言われていたそうだ。
ドイツ在住の友人の話では、ドイツの有機栽培農家は満月の夜にタネ蒔きをするという。
そうすると雑草が生えないという。
暗い中で、どうやってタネを蒔くのか不思議だが、
彼女は、「満月だから暗くないのよ!やってみるといいよ!」と、確信ありげに答えた。
夜中は眠るものと思っているので、まだ試したことはない。

私は「中農で十分!」と思いつつ、首からからベープマットを下げ、草取りをしている今日この頃・・。
これが毎日、永遠に続くっていうわけではないし・・ね!
yo

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雑誌版「市民ジャーナル」発行についてご意見をお寄せ下さい
 ブログ新聞「市民ジャーナル」は4月にスタートして4カ月を経過しました。一部はコミュニティにも掲載されていますが、寄せられた原稿は100編を超えています。
 ブログの良さは、手軽に誰でも原稿を書き、掲載できることですが、半面、どんどん新しい原稿が掲載されていくにしたがって、古い原稿は目に留まらなくなってしまいがちです。
 執筆者も内容も多彩であり、他のメディアにはない視点で書かれた貴重な原稿を埋もれさせてしまうのも、もったいないと考えています。
 できるだけ多くの人の目に触れることなどを目的に、新たな試みとして、ブログに掲載された原稿を抜粋し、雑誌版の「市民ジャーナル」を発行する計画で編集作業を進めています。

 発行する限りは、多くの人に手にとってもらいたい、1回で終わることがないようにしたい、と考えていますが、「内容が硬い」、「読みにくい」などの意見もあります。
 そのため、市民が自らの考えをストレートに市民に伝える媒体を作るという試みに期待や関心をいだいている皆さんに雑誌版の発行の是非、どうすれば読まれるものにできるか、どうすれば多くの人に存在を知らせることができるのか、などについてご意見をいただきたいと考えています。
 また、スタートから、できるだけ多くの市民に市民記者として参加していただくことを呼びかけていますが、どうすれば書き手、読み手を増やせるのかについても併せてご意見をお寄せいただければと思います。

 編集、出版などについてご協力いただける方があれば、それも大歓迎です。

危うい公共事業〈プールで死〉?僕の考える
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写真は夏が来て、せっかく生まれたカブトムシだが既に死んでいた。日本の南西部で多くの災害をもたらした長く雨の多かった梅雨が明けて、やっと夏の日差しがやってきた矢先、悲惨な子供の事故が報道された。埼玉県ふじみ野市の市営プールで小2の女の子が流れるプールの給水口に吸い込まれ亡くなった。事故の原因が究明されるごとに、この事故は明らかに人災であることが判明しつつある。まずは、亡くなった少女の御冥福をお祈りする。

 この事故の直接的原因は、給水口をガードするカバーが半分脱落したことによる。しかし何故、その蓋が脱落し、脱落した状態でプールを営業し、事故に至ったかという構造を見つめれば、これは明らかに人災である。
 まず直接的な原因となった、蓋の脱落だが、これは蓋をボルトで固定すべきところを針金で縛っていたため、針金が腐食して切れたようだ。ここでは3っつの人的ミスがある。1、ボルトで固定しなかったこと。2、腐食を促進する塩素の水の中でステンレスでなく普通の針金を使ったこと。3、たとえ、腐食する針金であっても、毎日の点検で危険箇所のチェックをしていなかった。この3っつのどれかが現場で守られていたらこの事故はおきなかった。

 では、何故これだけのミスが見逃されたのだろうか。まず、蓋はボルトで固定するという国の指導を誰も知らなかったのか。次に、せめて腐食しやすい針金を鉄製ではなくステンレスに変えることに、いい大人の誰も気づかなかったのか。そして、監視員は毎日何を点検していたのか。実は僕も学生時代プールの監視員をやっていたが、プールの底、給排水口の点検は、1時間ごとに潜って真面目に点検していた。その頃一日1500円の安いバイトだったが。

 では、そのようなプールの管理状況を生んだ原因は何なのか。事故の直接的責任はその時プールを管理していた人間にあるのだろうが、そこにいたる真の原因は、このプールを管理する管理体制全体にある。まず事故を起こすような管理会社(太陽管財)に管理委託したふじみ野市、そして管理を委託され下請けに丸投げした「太陽管財」、最後に丸投げされた「京明プラニング」。そこには単なる管理ミスといういうより、長年慢性的に続いている行政と業者の癒着(癒着でなくても馴れ合い)構造がある。この仕事は1,000万円程度の入札による事業であるが、5?6社が数万円単位の誤差で入札して「太陽管財」が5年間連続受注してる。そして丸投げした下請けはこの入札に参加した別会社(本来なら商売敵)である。
 こうゆう状況が生まれる背景には明らかに談合がある。当然普通の感覚をもっていれば市側のそのことにも気づいていたはずだ。もし「知りませんでした」というなら、きっと「知りませんでした」というであろうが、よっぽど自分の仕事に対して無関心か、よっぽど想像力、注意力の欠如した、責任ある仕事(ある意味どんな仕事でも)、少なくても公的な仕事にはつくべきではない人間であろう。また「太陽管財」が下請けに丸投げした件は、これは日本中何処にでもある構造であり、驚くことではない。たとえ1,000万円の管理事業でも1,000億の公共工事でも日本の多くの公共事業で起こっている構造である。そして、大体においてそこに政治家が絡み、業者と首長や役場の癒着(時として賄賂)が起こる。

 既に結論めいたことを書いてしまったが、今度の「ふじみ野市のプールでの少女事故死」は単なる一地域の特異的事件ではなく、日本(国でも県でも市町村でも)の公共事業(市営のプール管理も道路も橋も公共事業である)であたりまえに起こりうる事件であったと、僕は解釈している。

 先日TVを見ていたら、大学時代の友人が「申し訳ありませんでした」とブラウン管の中で頭を下げていた。これは東京の石神井川だったか、首都高速道路公団(今は何とか機構に名前が変わったか?)が堤防の上に洪水予防でかさ上げした仮説の堤防が所定の構造になってなく、先の大雨で倒壊して河川が氾濫してしまったことへの謝罪だった。その構造はコンクリートの堤防の上に仮説のボード(コンクリートかスティールかは定かでないが)数箇所ボルトで止めただけで、素人目にも(僕も一応その世界で飯を食っているが)危ういものだった。彼は僕なんかより真面目で数段成績も良かったから、きっと彼がその現場を見ていたら、すぐに改善していただろうが、残念ながらその欠陥に事故が起こるまで、誰も気づかなかったようだ。
実態はわからないが、多分その工事もあたりまえのように何処かの有名な業者が受けて何処かの小さな業者にやらせていたのだろう。そして、それを管理する体制が、公団側にも、請負側にもなかった。死者こそでなかったがこの事故の構造は「今回のプールの事故」と同じであると考える。
 この記述は頭を下げていた友人を個人的に批判するのではなく、今の日本の公共事業の構造からは、このような事件がいつでも起こりうることを言いたかったのである。もし僕が公団に勤めていたら(受けていても僕の成績では入れなかっただろうが)彼の変わりに僕が頭を下げていたかも知れない。日本という国は、このような被害者や加害者に誰でもがなりうる危うい社会である。 
 丸山 暁(55歳・人間〉

誰を取り締まるのか?(米の流通)
 以前、農政事務所(旧食糧事務所)が入り、新米の表示でもめたことがある。
農政事務所の担当者が、一ヶ月の間に3回も入ってきて、新米が入荷していないか?新米の生産者は誰か?それは検査米か?その表示は間違っていないか?と言う調査である。
米は収穫後、検査を受けないと産年・品種・産地を表示できない。この制度はコシヒカリ等銘柄米が、出荷した10倍もの量が流通するために、出荷したところから、後追い調査が出来るようにというシステムらしい。
たまたま一人の生産者が、検査を受ける前に出荷したのを咎められた。

 また、県の環境保健部だろうか?何回か調査に入って「玄米の袋詰めの表示がなされていない」との指摘を受けたことがある。なぜ玄米に袋詰めの日にちの表示が必要なのか疑問だが、一人の生産者が記入していなかった為、指導という形で3人もやってきた。
米は、精米したときから酸化して劣化が始まる。玄米で保存し、食べるごとに精米をすれば良いのだから、玄米は産年だけで良いはずである。
そのうえ、農家は、梅雨明けの酸化を心配して、籾で保存するところが大半だ。
ところが業者は、古米を混ぜたり(産年をごまかす)品種を混ぜ合わせ、産地を偽って、値段を安く設定する為に、表示が厳しくなったらしい。

 米の流通には様々な問題がある。
昔、混米は米屋の技であった。いかに一年を通して安定した味を出すか?
新米の時期は、どんな品種でも美味しいので、銘柄米の比率を低くする。
梅雨明けは、味が落ちるので銘柄米の比率を高くする。
その工夫は、個々の米屋のノウハウであったが、それが悪用され、屑米などの小米を入れて「いかに安く作れるか?」という技になってしまった。

(農家から出荷する玄米の値段が60kg15000円前後(以前は20000円前後していた)だから、精米を10kgで3000円を切る単価はあり得ない。それが都市では、もっとも安いモノが精米10kg「2000円前後」で売られているらしい。)
そこには当然、悪意の混米があり、取り締まりが必要である。

農家は、品種を何種類も生産していない。以前は冷害や気象の変動に備え、早生・中手・晩生・餅米を生産していたが、最近は銘柄米が殆どである。また、その品種を混ぜ合わせる技術も持っていない。
新米の収穫が始まると、玄米を置いておくスペースが無いので前年度産の米を早く売りさばかないといけない。古米を保存するわけがない。
(以前は、新米が収穫するのが確実になってから、前年度分を食べると言うことを農家は実践していた。最近の農家は、そう言うことは無い)
まして、産地をごまかすと言うような事はあり得ない。
(名前を出しているのだから、当然その地域の収穫の米である)
DSCF0022.jpg

そんな農家の直売する米を、何回も調査に入るというのは、よほど流通業界に対する調査能力が無いのか?人員が余ってヒマなのか?それとも補助金漬けの農家なら、素直に言うことを聞くだろうと、権力を振り回しているのか?でしかない。
そろそろ収穫時期がやってきた。業者が農家を回って、昨年産を「安く買い叩いて集めている」と言う。「屑米も高騰している」と、あちこちから聞こはじめた。(入道殿)

社会の持続的な発展を?「偽装請負」報道に接して
 名だたる大手製造メーカーの「偽装請負」を追及する記事が朝日新聞の7月31日から3日間、いずれも1面トップで報道された。大きな事件や事故以外ではあまり記憶がないほど、新聞としては異例の扱いである。
 「偽装請負」といっても、にわかには理解できない。何が問題なのか。いわゆる「派遣」との違いもよく分からない。
 ネットで検索してみると、業務請負という形式での労務提供、労働者派遣であるのに、請負という形をとる「違法派遣」で、職業安定法、労働基準法に違反するという。
 本来の請負は、建築工事などのように、注文を受けた家屋などを完成させて注文者に提供し、完成に対して報酬をもらう。これは分かりやすいが、問題となっている製造業の場合は、機械組み立てなどの作業をする労働者派遣を請け負うということのようだ。
 派遣は合法なのだが、契約が請負契約なら、請負者には、事業主としての責任、指揮監督が求められ、単に肉体的労働力の提供を禁止している。
 今ひとつ分からない部分はあるが、要は実際は製造工場の指揮監督下にあるのだから、請負には当たらず、違法だということなのだろう。
 同紙では、賃金が低く、雇用も不安定、安全の責任があいまいなどの問題点を指摘している。

 労働法制上の問題を論じるつもりはないので、これくらいにするが、偽装であれなんであれ、労働力提供の派遣が増えることで、大手企業が本来負担すべきものを削り、労働者を安く使う構造が広がっていることは確かだ。

 昼時間帯に民放ラジオで求職情報が流れるが、ほとんどが派遣である。職種によって違うが、時給1000円前後で、残業込みで15万円から18万円程度、20万円を超えるものはあまりない。派遣先は、県や市町村が誘致した自動車や電気のメーカーのようだが、派遣先の企業名は出てこないのでよく分からない。

 企業が本来果たすべき社会的な責任を果たしていないということのほかに、次のような問題を感じる。
 一つは、年収200万円を切る状態では、いわゆる「労働の再生産」は難しいのではないかということ。
 生活していくのがやっと、病気で長期入院などということになれば、成り立たなくなる可能性が高い。教育費などを考えると、子どもを生み育てることも難しい。若者であれば、将来設計が立たず、結婚すら躊躇するかもしれない。労働を通じて豊かさを享受できなければ、労働の価値、意欲など湧くはずもない。出生率1.25人を問題にするなら、これを何とかしないと解決はしない。
 
 もう一つは、企業がこの状態を続けていけば、将来的には製造した商品を買える人がどんどん減少していくことにならないか。
 どんなにいい製品を作っても、自らは買えない人たちを増やし続けているのでは、先細りになるのは目に見えている。
 国内で売れなければ海外にというのかもしれないが、そうなれば、さまざまな問題が生じる。
 それが資本主義なのだという声が聞こえてきそうだが、何でも市場に任せればいいというわけではないだろう。
 非常に単純的な話だから、そうはならないのかもしれないが、どこかで舵を切らないとそうなる危険性をはらんでいると思う。

 要は、企業や市場の論理で無軌道な経済でいいのかどうかだが、私は持続的に発展できるような社会が望ましいと思っている。
 何でも安ければいいという訳ではないし、良いものを適正な価格で売買することが必要なのだと思う。まさに社会政策的な問題だ。

 そういう意味では、県が自動車産業を支援して、雇用目標を達成するというのは、全くの一時しのぎというより、もっと悪い結果を招く危険性もある。時間が掛かっても、地場の産業を地道に育てていくことに真剣に取り組むことが必要だろう。(ゼロテン)

ロマンチック経営で行こう?アンチークな稼ぎの構造?
こんにちは。
アンチークな掛け時計。20060731231938.jpg


アンチークなインテリアには
なぜかヒカれます。

昨日泊まったホテルのアンチークなインテリアに
間近でたくさん囲まれて、分かりました。

アンチークは、なぜ心に伝わるのか?

一度でも人に愛された
そういうモノには

愛された痕跡

があるからです。

愛の痕跡には
愛の力が残っているのです。


私の仮説


さて昨日、すごい出会いがありました。
尋常ではない
量と質と報酬のある
仕事をされている方でした。
でもフツーの方でした。

その方は、
自分のノウハウを伝える事業を
生涯サポート体制で
やっています。

彼は
自分が稼いでいるノウノウを
公開指導しています。

そのため
指導をした人に
自分の仕事をパクられて
自分の稼ぎを奪われている
それは否めないという面がありました。

それでも平気な顔で続けます。
で私は尋ねてみました。

どうしてこんなに惜しみなくノウハウを公開する仕事をしているか?
彼が言いました。

「自分に次の新しい課題を課すため」

なるほど、
彼はいつも
先頭を
走っているのでした。

トップランナーになって
だれもしていない事業ノウハウを持っているからこそ
いつも、
あんなに物凄い額の報酬を稼げるのでした。

彼は、一度受講した者に対しては
無料で「生涯サポート」する制度を
持っています。
だから人気があります。
サポートスタッフを使って体制も整えています。

フツーの会社が無料でこんなサービスをすると
ツブれます。

それでもできる。
そういう会社は、どこかで稼ぎの仕組みを持っているはずです。

その仕組みは、なかなか見えないですが
一つだけ分かりました。
社長さんは、常に自分に

次の新しい課題を

課しているのです。
そのためには
古いモノを捨てていかなければならない。
古いモノにしがみついていたら
新しい課題には取り組めない。

だから今のノウハウを敢えて伝授する。
これが
この社長さんが大きく稼ぐ手法
というより
前提なのです。

小さく稼ぐ手法は
この会社にくっ付いて行って
常に更新される検証済みのノウハウを
生涯サポート体制の下で
伝授してもらうことです。

コバンザメ商法(^^;)
<服部尚樹>


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