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疾風

Author:疾風
岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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産直はブームか?
 産地直売所が、岩手では大流行である。そして「淘汰の時代に入ってきた」とも言われ始めている。産地直売所はブームだったのだろうか?それを考えてみたい。(産地直売所、以下産直と略す)
DSCF1710.jpg

 岩手の産直は、りんご等の果樹から始まった。農協や市場に出せない規格外品の販売や、個々の農家で対応してきた近隣の贈答用を共同で販売するために、20年ぐらいの歴史があると思う。それが10数年前から野菜を販売する産直が徐々に増えてきた。そして今県内に有人産直が300近くを数えている。
多分東北では一番ではないかと思う。
その経営形態は様々であるが、一番多いのは地域の農家が集まって組合を作り、販売しているタイプである。(建物は補助金を利用する、JAが建てて貸与する、第三セクターで貸与する、等々がある)
新鮮・安価・顔の見える関係というのが、産直の売りであるが、こんどは流通業者が産直コーナーと名付けて店内に作り始めた。しかしこれは産直を全面に出して、客集めをして他の商品も売るという戦略か、自社も地域の農業経済に協力していると言うポーズでしかないし、農家がそれに利用されているだけである。それは売り場面積から想像できる。
そして市場流通では対応できない「新鮮」というメリットは、朝どりした農産物を店に出し、夜に下げる、また翌日には値引きすると言う過剰鮮度競争を生み出し、「安価」は、出荷者の店内競争や市内の八百屋の単価へ影響を与え、市場へ出荷している農家も低単価にあえいでいる。
また「顔の見える関係」と言いながら、顔写真を店内に張る、そして当番で交替で店に出るというだけの対応をしている産直が多いが、それも流通業者にマネをされ新鮮みが無くなってきた。
そして、他産直や業者との違いを打ち出すために、特徴有る商品をといい、新品種の導入や加工を手がけ始めているが、しょせん気候が似たような地域に何軒もあるために、似たような農産物しか並ばないし、また競争になる。
 結局、経済というモノに翻弄されて、競争させられ、徐々に衰退していく運命にあるのではないだろうか。そして生き残るのは、資本力の大きな産直であり、そしてそれはまた、単なる大規模小売業と何ら変わらないモノになってしまい、今度は流通業者との競争の中で消えていく。消えていかなくても、農家が得る金銭的メリットは、以前と一緒になってしまう
やはり経済の中の流通形態の一つとして考えていくことはブームでしかない。
産直は「物を売る」と言う土俵にのってはいけない。
様々な地域事情があるところで、その地域の人々と一緒になって、地域を作ると言う場所の提供が、他者との違いを作り出すことになるのではないか?
市民に地域農業への理解を深め、農業の難しさ楽しさを語り合い、農業は地域と共にあることを伝え、そして市民の食と健康を想い、一人一人の関係性を作り出す、そんな関係性の拠点としてあることが目指す方向ではないか。(入道殿)

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ただならぬ商品
こんにちは。
志が高いのはすばらしい。
20060629122832.jpg

先日、家族連れがレストランの席につくなり、
みな携帯電話を取り出して
携帯画面を見入っていました。

最近、人の会話が少ないですね。
会社でも、
隣の席にいる社員に
メールで連絡したりしていませんか?

最近、女の人から聞いた話です。
「面と向かっては言えないことでも、
メールだと簡単にお願いできてしまう。」

ある本にありました。
「いやなことはメールで頼め。」

メールは便利なようで、
どこか欠けているところがあります。
メールで「好き」と書かれてあっても、
電話で声を聞いてみてホントのことが
分かったりします。

声はウソをつけません。
電話の声で、会社の業績が分かったりもします。
電話に出た社員の声に元気がある会社は、
繁盛しています。

さて、今月発売された電話が、驚きの商品です。
「Skype スカイプ」という
インターネット通話ソフトが組み込まれているので、
スカイプ利用者同士の通話料金が無料になります。
タダモノではない(価格は15,540円)電話機です。

http://pioneer-pcc.jp/

スカイプという通話ソフトを開発したのは
ルクセンブルクのスカイプ社です。
インターネットから無料で配布されているので、
パソコンで無料電話をかけ合っている人が
急増しています。

スカイプ利用者間では国際電話も無料になるので、
気の利いた会社は海外支店との業務連絡は
スカイプでしています。

米国の連邦通信委員会の委員長マイケル・パウエル氏が
「これで通信業界は終わった」
と言ったほどの革命的ソフトです。

有料になりますが、
スカイプから固定電話・携帯電話へ発信もできます。
スカイプは今の電話の脅威となっています。
さらに凄いことに、スカイプはテレビ電話になります。
数千円程度で買えるミニカメラを
パソコンにつなげるだけです。
5人までの同時通話が可能なので
テレビ会議にも利用されています。

スカイプ利用者は現在、世界で数千万人、
日本でも百万人を超えているようです。

ときどき電話会社から営業の電話がかかってきます。
「料金が格安になる通話サービスがあります。」
しかし、電話の価格競争をしている場合ではないのです。

将来、携帯電話もスカイプにつながると予想されています。
するとどんなことになるか?
携帯電話代がかからない通話が流行ります。
考えるだけでも恐ろしいですね。

ただ、パイオニアコミュニケーションズのこの機種、
ネーミングが惜しいのです。

「デュアルモードコードレス電話機TF-FS55M-S」

これでは消費者に商品の価値が伝わらない。
少し驚かせて価値を伝える、キャッチコピーのコツです。

私は『ただならぬ電話機・Skypio(スカイパイオ)』を提案します。
スカイプとパイオニアをつなげた造語です。

こうやって客をちょっぴりビックリさせる。
「ネーミングの豆知識だよー。」
(最近人気のお笑いタレント桜塚やっくん調)(^^)

<服部尚樹『「ロマンチック経営」で会社の売上を伸ばせ!』>
メディアは癒着構造からの脱却を
 増田寛也知事は、月2回ほど県庁内で定例記者会見をしている。知事から発表がある場合もあるし、記者からの質問に答えるだけの時もある。回数の違いはあるが、どこの県でも似たようなものだろう。
 今は、インターネットで公開されているから、リアルタイムで見たり、聞いたりすることもできるが、会見場には通常、県政記者クラブに加入している記者以外は入ることはできないことになっている。一般の県民はもちろんだが、記者クラブに加入していないマスコミ、フリーのジャーナリストも同じである。
 以前、業界紙記者だったころ、参加を申し入れたことがある。なぜ参加できないのか聞いたところ、県の広聴広報課の担当者が「記者会見は県と県政記者クラブの主催なので」との回答だった。
 結局、その時は、クラブの幹事社の承認があれば参加しても良いということになり、了解が得られたので、「質問はしない」という条件で記者席とは別の席で会見内容を聞くことができた。
 また、県議会の常任委員会を取材した時、傍聴席でも良かったのだが、記者席は机があり、空いていたので、そこに座ったら、後で社のほうに記者クラブから苦情がきた。「記者席は記者クラブの席なのだ」と。
 任意団体に過ぎない記者クラブは、いったい何の権限があって、他のメディアの取材活動を制限するのだろうかと腹が立ったが、当時は自分の責任だけでケンカするわけにもいかず、そのままにしたが、どう考えても納得がいかない。
 県庁内には記者クラブの部屋があり、各社が机と電話を置いている。詳しくは次の機会にするが、このスペースの賃料、駐車場の使用料など特権的かつ癒着の構造も問題だ。

 田中康夫知事の長野県はというと、記者クラブの部屋は業界紙であろうが、フリーであろうが、報道関係者であればだれでも使えるスペースにしたようだし、プレスリリースも同様のようだ。
 知事の記者会見は報道関係者だけでなく、一県民であっても参加して質問もできる。(同県のホームページを見ると、生のやり取りがそのまま掲載されている)

 「改革派」と言われている増田知事なのだから、少なくとも、記者会見はどんなメディアにも開放すべきだろう。既にインターネットで公開しているし、事前に質問事項が届かなければ質問には答えられないほど柔な知事ではなかろう。記者クラブの部屋の開放も考えるべきだ。
 少し前なら、県民に対してさまざまな情報を伝えるためとか、理由付けはできただろうが、県の広報、インターネットのホームページを通じても直接県民に情報を伝えられるようにはなってきている。
 クラブ側にしても、特権というと言い過ぎかもしれないので、恩恵と言い換えてもいいが、それを手放すのに抵抗したいのは分からないでもないが、もうそろそろ考えるべき時期ではないのか。
 さまざまな「業界」の談合や行政との癒着を取り上げ問題として指摘してきたメディアが、これと同じような構造で県など行政とのつながりを持ち続けることをどう説明するのだろうか。
 この構造から抜け出さない限り、マスメディアが市民から遊離し、信頼を失っていくことになるだろう。(ゼロテン)

チョイ÷和尚のtimelag・blues?葬式と和尚の責任?
葬式で生業を得てる以上は、和尚としての責任は、確かにある。
ただその責任の、果たし方の問題でもある。

霊、死後(死んだらどうなる、死んだ人はどうしてる、等々の問題も含む)については、わからないから、わからない、と答える、責任の果たし方もある。
さもわかった風に、答えることが、かえって無責任になることもある。坊さんは、立場上そのように振る舞っているのが現状である。わからないことを、わかった風にすることで、お金が儲かるシステムになっている、これが教団フランチャイズ?である。
坊さんも、知らず知らずのうちに、それに巻き込まれているのが現状でもある。

和尚の責任とは何か?ここからの自問自答であり、その視点からの葬式ってなぜやるの?という問いかけでもある。

責任という観点からいえば、葬式をするとは、死者に対する責任があるということでもある。少なくとも和尚は、そのような責任を担っている、と思われる。では、死者に対する責任の果たし方とは、死者の願いを語り継ぐことでもある。
とりあえず、今回は責任という観点から、葬儀を考えてみた。

確かに、葬式をするとは、区切りであり、けじめである。
ただ、残された者にとって、という条件付きである。

私の死は、抽象的であるし、漠然としか、考えが及ばない。が、
他者の死は、えらい具体的である。身近かな者の死は、日常生活の中で、立ち止まざるを得ない。立ち止まって、その死を受け入れざるを得ない。その受け入れの始まりが、葬儀であり、それに続く49日?100カ日、一周忌、三回忌でもある。
確かに、それが葬儀をする理由である。

私とは、一人で在りつつ、他と共にある、という私の存在構造と同一しているから、葬儀をするのである。それは、喜びや悲しみの理由であるのかもしれない。それは私にとっては、矛盾なのかもしれない?が、やはりこれは私という存在構造からは、外せない条件でもある。むろんこれは、生者の存在構造でもある。また、人間的生者は死という観念を持ってしまった。
これが、葬儀をする理由でもある。

確かに、他者の死、身近かな者の死は、立ち止まらざるを得ないし、それをあえて受け入れざるを得ない。

が、まだその先もある。和尚の責任ということの問題であるのかもしれないのだが?

生者は、一人で在りつつ、他と共にある。
これは身土不二である。
身土不二とは、一人で在りつつ、他と共に在る、そのことの具体的範囲でもある。そのことを普遍化して云えば、一人で在りつつ、他と共に在る、になる。それが、家庭でもあり地域でもある。さらに、他と共に在る、ということは自然、及びそこで生息する動植物も含まれる。
生者とは、生とし生けるもの、である。一人とは人間的生者である。
で、言い換えれば、
一人の人間的生者は、人間的他者及び自然と他の生とし生けるものと共に在る、ということになる。
これが身土不二でもある。
むろん、それはそれぞれの地域の、自然やそれにともなった暮らしによって、それぞれの文化なり習慣なりが、形成されてくる。それがそれぞれの地域の、身土不二的具体性である。つまりローカル性でもある。日本的ではなく、それぞれの地域の身土性がローカル的であり、地域性でもある。
以上が、私と関わりを、考える上での基本になる。
これが私の存在構造でもある、からである。
とはいえ、人様はいつのまにか、生者といい、他者といっても、それを人間的に限るようになってきた。また、自然も人間的加工の対象としてしか、考えが及ばなくなってきた。
いずれ、一人で在りつつ、他と共に在る、という考えは、色々な意味で分水嶺的な、基本概念?でもある。

生き方としては、そのバランスが問題になる。

と、話はとんでもない方向に、行ってしまった。
ま?いいか、所詮は独り言と、読み手の迷惑は考えず、先に進む。

確か葬式の話であった。
なぜ葬式をするのか?である。
かなりしつこい・・・・・・?

後に残された者は、立ち止まり、他者の死を受け入れ、気持ちの整理、区切りを付ける。それが葬式をする理由でもある。
ただそこに、戒名料とか、読経料(お布施と称されている)が、料金として設定されてくるのか?は、中々微妙なところでもある。しかも、坊さん側の言値である。
そこで、立ち止まり、他者の死を受け入れることと、その料金設定のズレ、しかも坊さん側の言値である。
それこそ違った意味で、立ち止まらなければならない、のだが?。
葬式のドサクサで、それもままならず、結果として何をしたのだろう?、というおちになるのが現状である。そしてハッキリ残るのが、お金が出て行った(金がかかる)ことだけである。

確かに通過儀礼としての葬儀は、坊さんは楽である。
坊さんのみではなく、葬式をする方も、何となくただの通過儀礼にしてしまっている、のが現状でもある。
残された者が、立ち止まり、他者の死を受け入れ、その残された者が、どう生きて行くのか、を考える契機にするのが葬式の勝負どころにもなる。

いずれ、和尚はあまり前向きにものを考える、癖がついていない。立ち止まり、振り向かなければ、見ることができない、後ろの他者が気になるのである。
<チョイ÷和尚>

テーマ:日記 - ジャンル:日記

全体のコンセンサスと少数意見のバランス
先日の新聞に「がん登録に患者らの賛否」という記事が掲載された。「賛否」というところに「おや?」と引っかかった。反対する人なんているのだろうかと。
詳しく読んでみるとアンケート結果は、賛成16人、反対1人、その他5人である。「賛否」という見出しだけ読めば、賛成と反対が半々と考えるのが普通である。16対1なのに賛否などと書くことのバランス感覚は良いのだろうかと考えてみた。

わが国では、今や男性の3人に1人、女性の4人に1人はがんで死亡しており、最近では、毎年30万人のがん死亡者と60万人のがん罹患者が報告されている。
がんの研究は世界中で進められてきて、発症原因はかなり突き止められつつある。しかし、治療法は進歩してきたとはいいながら、他の疾病に較べれば、まだ暗中模索といったところではないだろうか。
一時期、インターフェロンが夢の特効薬ではないかと期待されたこともあったが、いつの間にか話題にも上らなくなった。

私は家族や親戚が、がんに罹患した経験から、治療法について多くの本を読みあさった時期があった。それによると、様々ある治療法に対して、医師の間でもかなり賛否が分かれている。これは他の病気にはほとんど見られないことで、決定的な治療法が未だ確立されていないというところが本音ように感じられる。
つい数年前には、厚生省の認可を受けて10年以上も使われた治療薬が、1兆円以上も売り上げた後で、ほとんど薬効が無いとして認可が取り消されたことがあったが、こういう事例は氷山の一角で、似たような事例は枚挙にいとまが無い。
さらにこれに輪をかけて、多くの民間療法が巷にあふれ、藁をもすがるおもいで、怪しい民間治療に何百万円もつぎ込んで何の効果も得られなかったという話は数え切れない。
患者側から見れば、たった一つの命を賭けているのにたまったものではない。

がんは今では、生活習慣病といわれ、様々な原因が複合的に作用して発症するといわれている。このような場合には、治療法の開発には多くの臨床データを集めた統計解析が有効となる。正しいデータを集めて統計的に解析して、薬は本当に効果があるのか? その効果はどれ程なのか? 民間療法で効果があるというのは本当なのか? 膨大なデータを無駄にせず生かしていかなければ、がんとの戦いに打ち勝つことはできない。

さて、そういう重要な問題を論じる時に、新聞の見出しに「がん登録に患者らの賛否」と書かれれば、がん登録することに反対すべき声も大きいような誤解を社会に与え、患者や家族に、がん登録を躊躇させることにもなりかねない。
この新聞は、個人情報保護の観点などから問題があることを明らかにするため、あえて少数意見を尊重するという立場でこういう取り扱いにしたのだと思う。もちろん少数意見の中に多くの真実が隠されていることも歴史が証明してきているところではあり、少数意見を無視せず耳を傾けるという姿勢は評価できる。

しかし、少数意見を尊重しすぎることにより、多数意見を軽んじる傾向が見られるのも問題がある。
最近ややもすると、少数意見を尊重することが正義であるような風潮が見られる。
しかし、社会全体、公共の利益を守り追及してゆくためには、全体のバランスの中で、個人の利益や権利が制限を受けること有り得ると言う事も、あえて今一度考える必要がある。
もちろんそこでは十分な議論を尽くした上のことではあるが。
<疾風>
山里便り? 「ササゲに、手!」 2006年6月25日
ササゲに『手』を添えた。
『手』がつくと立体的になり、ぐっと畑の様子がよくなる。
八の字型にひもを結ぶには、少し早い。
数日前のどしゃぶりの雨でも倒れなかった。
できるだけ自力で、がんばれと声をかけている。
昔は、畑と子どもには手をかけすぎるなと、言ったそうだ。
手をかけすぎずに、何気なく目と心をくばれということらしい。

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小指より細く小さいものは、生でも食べられる。
塩・コショウ・オリーブオイルをかけて食す。
育ちすぎて太ったものは、佃煮にする。
カサが減り、ザル1カゴ分のササゲが丼1杯になる。
料理によって、好みの育ち加減を選べるのは、自家菜園ならではの楽しみだ


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キュウリとチクワの入った梅ごはん
ササゲの梅干種煮


「立派な手、あげたんだあ。」と、言われる。
支柱は、『手』と言う。
「この花は、芋?種ッコ?」と、聞かれる。
芋類も球根も、『芋』と呼ぶ。
「岩魚が歩いてたっけ。」と教えてくれる。
人も車も魚も、歩くという動詞を使う。
枯死した木を見つめて、
「死ぬ気で、死んだわけではないども・・。」と、つぶやく。
実に分かりやすい。
語彙が少ないとも解釈できるが、リアリティーがある。
生活と農作業が、密接な関係にある。
自然と寄り添って生きている、優しさときびしさを感じる。

梅雨入りし、長雨がつづくと畑に入れない。
晴れ間を見て、草取りや土寄せをしながら畑まわりを点検しておく。
ジャガイモの花芽をかき、キュウリの土寄せも完了。
朝2時間ばかりの菜園の手入れだが、すでに1日の仕事が終わったような達成感!
そういえば、銀座のOL時代には、達成感という言葉を使ったことがなかったかも。
yo


テーマ:いなかぐらし - ジャンル:ライフ

僕という人間?その9
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僕が生まれたのは戦後5年たった1950年であり、生まれた地は宇都宮であるが、2歳で広島の山奥に移り、小学校5年生から広島市内で暮らした。その頃の広島は、ピカドン、原爆投下から10年経っていたが原爆の惨禍が色濃く残っていた。原爆により草一本生えないという言葉も広島市民の心には記憶されていた。僕がこのような青年になるまでには、僕の心の中には原爆というものが深く深く刷り込まれていった。そういう僕の〈歴史〉が反核・反原発の思想に今もつながっている。
 
人にとっての〈歴史〉は、いわゆる教科書が教える過去の出来事を記録した大局的な世界や日本の〈歴史〉もあるが、もうひとつ個々の人間が生きてきた〈歴史〉もある。人間にとって、どうゆう国の歴史的歴史を生きてきたということももちろんその人の形成に係わるが、その個人がいかなる個人的歴史を生きてきたがその個人にとってもっとも大きく影響してくる〈歴史〉である。もちろんそういう〈歴史〉は世界史や日本史のように文字に書かれたものではないが、文字に書かれなくとも〈歴史〉は〈歴史〉として存在しているのである。

僕たちはうっかりしていると〈歴史〉とは文字に書かれた〈歴史〉だけが〈歴史〉だと勘違いしてしまう。そのうえ、文字に書かれた〈歴史〉は文字に書かれることによってあたかも過去にあった真実だと思い込んでしまう。また〈歴史〉とはそのような意図をもって編纂されるものでもある。しかし、ここでもう一度〈歴史〉とは何なのか考えておく必要がある。

書かれた〈歴史〉だけが〈歴史〉なのだろうか。〈歴史〉とはそんなものではないということは一寸考えれば誰にでも分かることである。なぜなら人類が始まって以来100万年以上人類の〈歴史(種族の争いや統合、権力や領土の変遷など)〉はあったのに、書かれた歴史などせいぜい3?4千年前のことだろう。しかも、書かれた歴史とて3千年間365日24時間60分60秒の間の全世界で起こったことが記録されているはずもない。記録された〈歴史〉など宇宙に輝く(肉眼で見えなくても)星たちのほんの一握りにも匹敵しないだろう。書かれている〈歴史〉はせいぜい人間が名前をつけた星座ぐらいだろうか。本来〈歴史〉とはそのようなものなのである。

それなのに国家の為政者、権力者はその国の書かれた〈歴史〉を金科玉条の如く奉り、あたかもそこには真実だけが記録されているかのように装って国民に押し付ける。これは決して日本だけのことではなく世界中のことである。そしてそのつくられた〈歴史〉(中には当たっている物もあろうが、為政者が都合のいいように編纂してきたのが歴史である)を正当化することで国家や民族のアイデンティティーをたもとうとする。

もちろん僕は〈歴史〉全てをチャカシたり否定しているのではない。個人にも国にも〈歴史〉があってあたりまえであり、それは自らの存在意義でもある。しかし〈歴史〉があまりにも教条主義におちいり、国と国、民族と民族の争いを増幅する道具となり、また国民を国家の臣民として教育していく手段となることに疑問を感じるのである。
〈歴史〉とは過去に起こった出来事の正しいかどうかも分からないほんの一部であることを忘れてはならない。だからといって、過去の歴史的過ちを忘れてもいいということではないことはいうに及ばない。〈歴史〉とは未来を、平和な世界を切り開くためのテキストとして世界で共有できる〈歴史〉でありたい。

僕のこれまでの〈歴史〉にも負の〈歴史〉がある。小学校3年生の時、農場のイチゴ畑で数人で熟れたイチゴをつまみ食いしてつかまった時「最初にやろうといったのはヒデちゃんだ」とみんなで一番小さな仲間に罪を押し付けてしまった。そのことがいまだに忘れられない。自分が何かごまかしたり、正義を考える時いつもヒデちゃんのことを思い出し、彼に会うことがあったら謝りたいと思っている。幸い僕がいいつけたのは農場長だった僕のオヤジで、オヤジはちゃんと見抜いていたようで、彼だけが怒られることはなかった。それがせめてもの救いであったが、きっと彼の心には小さな(ひょっとしたら大きな)傷を残したことだろう。

〈歴史〉とはそのように隠された〈歴史〉もある。否、都合の悪いものは隠す傾向にあるのが〈歴史〉である。だからこそ学校教育でも〈歴史〉は〈歴史記述〉をどれだけ記憶するかではなく、なぜそのような〈歴史〉があったのかを考える場であればいいのだが

丸山暁(55歳・人間)

有機農業は、付加価値なのか?
 有機認証を受けたある農家は「何故JASの有機認証を取らないのだ。色々なところから引き合いがあり、高く売れる。」
またある農家は「有機栽培だから高い値段を付けても売れるでしょう。色々な手間がかかっているのだから。」
『有機農産物は高価格』と言うのが、一般的常識である。
実際に有機栽培に取り組む農家の労働は、大変である。自家配合のボカシ肥料を手づくりし、又は高価な有機質肥料を購入し、挙げ句の果てに虫に喰われて商品にならないロスも大量に出てくる。そして、あまり効果のない虫の天然忌避剤を何回も散布し、雑草に負けないように、人力で草取りをする。
今の社会では、労働時間と賃金が比例するようになっているが、それならば、当然有機農産物は、高くても良いはずである。いや高く売れるから取り組んでいる農家も多い。結局、有機農産物は。“有機農産物が美味しい”と思っている一部の金持ちの為の物になっている。
 しかし、本当に有機農産物を欲しがっている人は、子ども達のアトピーや病気に悩んでいる、若い年収の低い夫婦である。
以前、病気の子供を持った若いお客さんが「通販で有機農産物を買うとめちゃくちゃ高い。」と言い。また東京へ出かけたときに、ある自然食品チェーン店で、しなびたちいさな大根が「有機栽培400円」と付いていたことに、驚いた。
合鴨水稲


 農業が産業なら、当然その労働に値する収入を求めなければならないのだろう。そして倍する手間をかける有機農業は、高収入が当然である。ところが「命は、地球よりも重い」と言いながら、命の糧をつくる農業は、あまりにも重労働で低収入である。
ある国家公務員は「残念ながら農業は産業として確立出来なかった」と言いきった。小生は「農業を産業として国が引っ張ってきたのではないか?」と抗議したが、彼は「だから残念ながら、なのです」と言った。
農業とは、一体何なのだろう?農業を産業として捉えて良いのだろうか?
そして、有機農業を付加価値の対照として、捉えて良いのだろうか?(入道殿)

「創造的である」ということ〈上〉農の営みから 「創造的である」ということ〈上〉農の営みから
内山 節 (2006/04)
農山漁村文化協会
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チョイ÷和尚のtimelag・bluse?『自問自答』?
「人様は、なぜ葬式をするのだろう?」
和尚であるにもかかわらず、答えが出ない。
とんでもねー・・・・・・、和尚である。

「人様が、死んだらどうなるんですか?」よく聞かれる。
「私は、死んだことがないのでよくわかりません」といつも答えている。

「霊は、死後の世界は、あるのですか?」これもよく聞かれる。

和尚は、その道の専門家でもあるかのような、誤解がある。
正直、和尚である私は、そのような問いかけには、答えようがない。なぜなら、解らないからである。

人様が、死んで骨になり墓に入れる(今風の表現では)、古風な表現では土に帰る。
人様は、なぜこれで満足できないのか?むしろこっちの方が疑問である。それでいいじゃん!何が不満なの?。

やばい!やばい!これでは葬式不必要説ーお経を上げるとか、焼香をするとかの必要性ーまでいってしまう。確かにお経には、死んだ人をどうにかする力など一切ないし、そのようなことなど一切書いていない。葬式をする方では、薄々そのようなことに気がついてはいる、と思う。
にもかかわらず、人様は葬式をするのである。

「人様は、なぜ墓をつくり、葬式をするのだろうか?」と、いつも葬式を執行しつつ、こころの中で思っている。

何とも頼りのない和尚である・・・・・・・・・?
<チョイ÷和尚>
----------------------------------------------------------------
『怪しい公務員』
何ともコメントしにくい日記ですね。

3年前に父が死んで墓を作った。
何故作るかという疑問はもたなかった。
が、どういう墓を作りたいか、というものはもっていた。

地元の石材店を使う。
日本の石を使う。
大きさは競わない。
小さくても品のいいものにしたい。
パソコン文字はいやだ。
手書きにしたい。

ということで、たこ入道さんの母上様に書いていただいた
----------------------------------------------------------------
『たこ入道』
一晩考えました。
そんな和尚を持った檀家は、どう考えたらいいモノだろう?と
----------------------------------------------------------------
『すずりょ』
葬儀をあげる。残された者は残された者なりにケジメと区切りが欲しいのかなと思います。

葬式は一種の儀式として、区切りとして、お坊さんにやってもらうというか、やはり当事者として自分では区切れないから、お坊さんという他者(?)を介して区切ってもらう。49日とかいう制度も、区切って区切って、何度も区切って、自分なりに納得する手段なのかなと思います。

自分ではなかなかスッキリ区切れないから、お坊さんに区切ってもらって、お墓やお位牌という偶像(?)が必要なのかも。それが無いと、自分なりに納得できないというか、いつまでも自分の中に残ってしまうというか。外に出す事で少し楽になるというか。
---------------------------------------------------------------
『たこ入道』
よっ!すずりょ?!さすが!
自分の心を納得させる事だよね?。
「納得」この言葉、最近よく使うのだ!小生も。
「腑に落ちる」と言う言葉も!

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

厳罰は妥当か?懲戒処分で氏名を公表(岩手県教委)?もう顔写真の公表しか残されていない!
 岩手県教育委員会は19日付で、5月に酒気帯び運転で検挙された県立高校の男性教諭と同乗していた女性教諭を懲戒免職処分にしたことを発表した。氏名も公表し、一部マスコミでは名前や年齢も報道されている。
 この報道に接して、2つのことを考えさせられた。この処分が果たして妥当なのかということと、マスコミの報道姿勢の問題だ。
 報道によれば、男性教諭はこれまでも酒気帯び運転で検挙されたことがあること、女性教諭は勤務時間中に私的な電子メールを使用していたことが考慮され、悪質だと判断されたための処分だという。
 県民の目を考慮して、教職員を含め、公務員への処分は厳罰化の傾向が強まっている。
 何か不祥事が起き、処分が発表されると、「民間に比べて処分が甘い」という声が寄せられていることが、県のホームページを見てもうかがえるが、県民が皆、厳罰化を望んでいるのかは疑問がある。
 不祥事といっても、窃盗や傷害などの一般的な刑事事件、職務に関連した横領や収賄などの刑事事件、セクハラ、交通違反、不適切な事務処理などさまざまである。
 考えなければならないのは、発生した原因、その事案の重大性、再発の防止、更正の可能性ではないか。それらを考慮して処分を決めているはずだが、それが妥当かどうかだろう。
 刑事事件として立件されたものは、他人の生命や財産、権利を侵害しており、処分が重いことや氏名の公表にもだれも異論はないと思う。
 セクハラは、個人的な問題というより職務に関連しており、職務権限を利用しているとも考えられ、場合によっては相手の権利の侵害ともなるから、ある程度処分が重いのは納得が得られそうだ。氏名は公表されないのは相手が特定される可能性も考慮されているのだろう。
 交通違反はどうか。多くは違反した個人の問題であり、職務との関連はない。罰金を支払い、場合によっては免許停止や免許取消の行政処分を受ける。これは公務員でも民間人でも同じだ。
 飲酒運転などに対しては、県職員などは懲戒基準で、酒酔い運転は免職、酒気帯び運転は停職、繰り返した場合は免職、同乗者も処分の対象となっている。これに加えて、悪質な場合には氏名を公表することを新たに付け加えたようで、今回の件ではこれが適用されたものとみられる。
 民間でも、罰金刑を受け、行政処分を受ければ、何らかの懲戒処分を科すことが多いし、それに違和感はないが、公務員だけが氏名も公表されるというのは少し厳しすぎると思う。
 他人の生命、財産や権利を侵害していないこと、氏名を公表されることによる更正の機会の実質的な制限にもつながりかねず、セクハラへの処分と比べても重いと考えるからだ。氏名の公表は処分ではなく、制裁といった意味合いで、根拠もあいまいであり、これ以上となると、顔写真の公表ぐらいしか思い浮かばない。
 誤解されないように付け加えるが、飲酒運転や酒気帯び運転を擁護するつもりは毛頭ない。
 一度厳しくした規定を見直すことは難しいだろうが、県民から見て妥当なのかどうか再考してみる価値はあるような気がする。厳罰主義だけでは再発を防止できないし、そもそも罰を与えることが処分基準の目的ではないはずだ。

 県教委は氏名を公表したが、報道各社の対応は分かれた。氏名を報じたメディアもあったが、そうしなかったところもあった。官庁の提供情報をそのままではなく、検討したうえで扱わなかった「良識」あるメディアがあったことが救いだった。(ゼロテン)



朝市の賑わい?中心市街地活性化の源を考える?
昨日の日曜日、久し振りに神子田(みこだ)の朝市に行って来た。20060619160747.jpg

早朝の一仕事を済ませてからの帰り道に寄ったので、着いたのは7時半頃であった。もうかなり売れてしまって品薄状態であったが、ぶらぶらしながら値引きされた最後の残り物を漁るのも、朝市の楽しみ方のひとつである。

一見みすぼらしい柱と屋根のバラックの光景は古い伝統を感じさせるが、実は、ここは各地に伝わる伝統的な市(いち)と異なり、昭和43年に結成された「盛岡地区生産者立売組合」により開設され、その後昭和50年代に車の駐車場を求めて現在の場所に移転してきた、比較的新しいものである。それでも今ではこの神子田の朝市は、盛岡の観光名所一つに数えられるようになって、観光バスで繰出す光景も見られるようになってきた。

ではなぜ、深夜まで営業しているきれいなスーパーマーケットが歩いて行ける範囲に点在し、さらに、郊外には何でも揃う大型のショッピングモールが見られる時代に、早朝しか営業せず、朝の8時には閉まってしまうようなこの朝市が、毎日多くの市民を引き寄せるのだろうか。
地域の商店街が、中心市街地活性化法などにより法律で保護され、アーケードや歩道などを補助金を受けて整備しながら、人通りが減少して衰退に歯止めがかからない状況が見られる中で、なぜこの朝市が賑わいを保っているのか。実に不思議な現象である。

それでは私はなぜ朝市に出かけていくのだろうか。
一言でいえば、“何か掘り出し物に出会えるのではないか”という期待感が、眠い目をこすりながら足を向けさせるのである。
それは本屋に出かけていってぶらぶらと立ち読みしながら想定外の本を見つける期待感と似ている。デパートというものが出現したときも、見るだけで買わなくてもいい場所、何時間ぶらぶらしても飽きない場所として人気を集めたのだというが、盛岡でも、最近流行の雑貨屋『ビレッジバンガード』や『イオンショッピングモール』に若者がぶらぶらとするのも、そういう感覚かも知れない。
そこでは特に何かを買おうと目当てがあって出かけていかなくてもいい。期待感に引き寄せられて、子供が宝探しに出掛けるのに近い感覚かもしれない。

ところが、衰退しつつある商店街からは、そういうわくわくした期待感が感じられない。綺麗に整然とした店の並びからは宝探しの感覚はどんどん薄れてしまった。商店街が人を呼び寄せられなくなったのはもしかすると、そういう感覚が失われてしまったからではないだろうか。

そういう意味では中心市街地に求められるのは、もはや物を売る商店ではないのかもしれない。わくわくする期待感を提供する楽しい場所が求められ、その期待感に引き寄せられて、そのついでに買い物をしてお金を払うようになるのかもしれない。

もしそうだとすれば、商店街の再生を図ろうと、商店の外観を統一したり歩道整備を進めてきた中心市街地の活性化計画は、その意図する方向とは逆に作用して、わくわく感・不思議感を消滅させ、衰退を助長する結果を招いてきた可能性もある。

賑わいの源は何か? 先入観を取り払って、街を眺めてみる必要があるかもしれないと、朝市の雑踏の中で考えさせられた。
<疾風>

山里便り? 「お父さんたちは、麺くい?」 2006年6月18日
アタマとカラダ、両方を使いながら生活する山里の暮らしは気にいっている。
ただ、ちょっと寂しいことは、
早朝、自転車のガタンという音と共に、新聞が届かないこと。
朝刊と前日の夕刊が、午後2時過ぎに郵送(送料は購読者負担)で届く。
そして、駅の雑踏の中で、立ち食いそば屋のカウンターに並んだお父さんたちを見れないこと。
住んでいるまちには駅がなく、ヒトよりもカエルの方が圧倒的に多い。
田んぼに水が入ると、すぐに分かる。夜な夜なカエルの大合唱が始まるから。

子供の頃から、人が食べる様子を見るのが好きだった。
サラリーマンが朝の通勤途中に、池袋の地下街や新橋駅で立ち食いそばを食べている、
その様子を横目で遠慮しながらも、まじまじと見てしまう。
立ち食いそば屋は、朝・昼・夕と一日中、混んでいた。回転が早く、動きがあり、活気に溢れていた。
「お父さんたち、がんばっているんだな。」と思い、ソレを見るのが私の密かな楽しみだった。
会社の食堂でも、いやな上司がかけそばなどを食べている姿を見ると
その無心で一生懸命な様子に、妙に心を打たれて
「この人も、家では、結構いいお父さんなのかも。」と、思ったりしたものだ。
無類の麺好きなのか、安いからなのか、
何故か、私が見た多くのお父さんたちは、麺食いだった。

ヒトも動物も、ものを食べている時は、無防備になり、無邪気で一生懸命になる。
そんな素のままの表情を見るのが好きだった。

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冷やしうどん
薬味は、おろしショウガ・ミョウガタケ・チャイブの花
庭まわりを歩くと、薬味になるものが何か見つかる。便利!
豆腐の南蛮しょうゆ焼き
南蛮しょうゆは、去年漬けたもので熟成してまろやか


某保険会社のインターネットでのアンケートによると
『子から父に贈りたい漢字』の上位3位は、『謝、愛、健』だったそうだ。
家庭のあり方が問われたり、親子関係が希薄になってきていると伝えられているが、
多くの人たちは、好い父子関係を築いているようだ。
家族に、なんだかんだと言われながらも、世の中のお父さんたちは、
感謝され愛され健康でいてと願われているのだと安心した。
今日は、父の日。
がんばって、お父さんたち!
yo

テーマ:家族 - ジャンル:ライフ

僕という人間―その8
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なかなか利発そうで、そのうえ天使のように無垢な子供である。なにを隠そう、この写真は今から54年前の僕である。戦後間もない宇都宮の農場にあった林の中でのワンショットである。古びた椅子にペタンコになった座布団をひいて、手にもっているのは、きっとやっとひとつあてがわれたオモチャなのだろう。僕の「歴史」は、このような状況から始まった。

 「歴史」というものは小学校から高校まであたりまえのように授業の教科として習い、
最近も歴史認識、歴史観などと国家にとってもとても重要であるが如く議論されている。しかしあたりまえに語られる「歴史」だが「歴史」とはいったい何なのかというと、はっきり説明できるものがどのくらいいるだろうか。
 
「歴史」を広辞苑でひくと「人類社会の過去における変遷・興亡の記録」とある。「歴史の父」と言われているヘロドトスの『歴史書』の序文には「ギリシャ人や異民族の・・とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情・・・」とある。また歴史の教科書にしても歴史年表にしてもその記述のほとんどは戦争による地域、領土、国の変遷を年代的に記述したものである。よく言われることだが「人類の歴史とはまさに戦争の歴史である」というのは一つ当たっているようだ。
このことをアンブロース・ビアスのブラックユーモアの書『悪魔の辞典』では「『歴史』大抵は悪者である支配者と、大抵は愚か者である兵士とによって巻き起こされる、大抵は重要でない出来事に関する、大抵は間違っている記述。」と表現している。「歴史」を冷笑的にみてもやっぱり「歴史」とは戦争の変遷のようである。
こんにちの日本に置ける最も重大な「歴史」に関する議論は、靖国参拝問題や尖閣列島などのいわゆる日中、日韓の歴史認識であり、結局これも戦争によって引き起こされた、歴史認識の問題である。

A・トインビーの『歴史の教訓』は「いったい歴史から学び取るべき教訓”lessons”というものが少しはあるのだろうか」と始まっている。またマルク・ブロックの歴史学の名著『歴史のための弁明』の序文は「パパ、歴史は何の役にたつの、さあ、僕に説明してちょうだい」とはじまり「たとえ歴史がほかの役に立つことができないと断定されねばならぬとしても、歴史は慰安になるものである」と書いている。

こうやって「歴史」とは何かをひも解いてくると、どうも人々の暮らしにはたいして役に立たないが「歴史」とは「時の権力者が己の愚考を都合のいいように書き連ねたあまり役に立たない国家的慰み物語」ということになる。

確かに世界の権力者・為政者が過去の「歴史」から何かを学び将来の危機を回避するように「歴史」を学んだなら、ここまで戦争を繰り返し、地球環境を破壊し、核兵器開発を熱狂的に行うはずがない。世界の為政者はそれぞれの「勝手な歴史」を「恣意的に解釈して己の愚考を自己弁護するための錦の御旗」に祭り上げようとしている。そうゆう意味で「歴史」を学ぶことなど愚の骨頂であり、「歴史」など真面目に学べば学ぶほど、世界は戦乱から抜け出すことなどあり得ない。なぜなら「歴史」を学ぶということは、個々の国、民族のルサンチマン(怨念、憎悪)を積み重ねることである。
このことは、洋の東西、先進国発展途上国に係わらず(発展途上国の内乱などはこの傾向が強い)全く世界共通に起こっている「歴史」解釈の悲劇である。

では「歴史」は人類にとって害こそあれ無用の長物なのだろうか。そうとも言い切れないだろう。それは「歴史」の学び方による。確かに「歴史」は恣意的に書かれた国家の「歴史」であったとしても、ただ過去の「歴史」を記憶するだけでなく、今を生きる僕たちがそれを未来の「歴史」のために読み解き「歴史」を再構築し、過去の「歴史」を乗り越えることである。いつの日か未来の「歴史の教科書」に「この世から核兵器が排除され、戦争も起こらなくなった」という「歴史」を刻むために。
残念ながら「愛国心」を「教育基本法に国を愛する心」をと言っている国の「歴史教育」では、そんな日は来ないような気がするが。
 
ま、世界の「歴史」とは身勝手なものと批判しつつも、個人の「歴史」とてけっこう身勝手なものである。僕自身の「歴史」を思い起こしても、都合の悪いことは隠し、忘れ去り、誇れることは浮き彫りにしてきたのではないか。僕の心の奥底に「嘘つき」というささやきがあったとしても「歴史」とはそういうものかもしれない。 
しかし、そういう僕とて過去を反省しよき未来を生きようと、遅まきながら多少の努力をすることもある。世界もきっとそのようにできるのではないだろうか。そのような「歴史」を刻めるかどうかは今を生きるぼくたちの「歴史」である。
―丸山暁〈55歳・人間〉―
 

ドキュメンタリー映画「六ヶ所村 ラプソディー」を見て
青森県・六ヶ所村で暮らす人たちの生活から、日本の核の利用問題を考えるドキュメンタリー映画「六ヶ所村 ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督作品)が10日、盛岡市中ノ橋通のプラザおでってで上演された。
核燃料再処理工場を稼動させることは、そこに住む住民の生活を破壊するだけでなく、将来、国を滅ぼすことになる、そんなことを予感させる映画だった。
核の問題は聞きなれない用語や専門的な知識が必要な上に、情報が操作されているため分かりづらい部分がある。分かっているのは「再処理工場や原子力発電所は放射能を出すので危険」ということで、どの程度危険なのか具体的に分からない人のほうが多いと思う。
映画は、核の利用することで生じる問題をそこに住む人たちの生活と交差させながら、分かりやすく描き出していた。再処理工場の問題は青森県だけでなく、地球規模の問題であることが実感できる内容だった。
再処理工場は、むつ小川原工業開発跡地に関連施設とともに10年の歳月をかけて、2兆1900億円かけて建設された。
最近話題になった再処理工場でのアクティブ試験は、原子力発電所で使われた使用済核燃料からプルトニウムを取り出すもので、本格稼動と実質変わらないとのことだ。
再処理工場が本格稼動すれば、原子力発電所の一年分に相当する量の放射能が、一日で放出されるというから、農漁業に与える影響は深刻だ。
映画の中で反対派の学者は、プルトニウムの致死量は、100万分の一?。20?(各砂糖一個の大きさ)があれば、2千万人を殺すことができると説明していた。現段階でプルトニウムを安全に利用する技術はなく、「プルトニウムを使える社会はこないし、こさせてもいけない」と再処理されたプルトニウムがいかに危険な物質であるかを指摘していた。
原発を推進する側も「恐る恐る」で、原発を動かしている限り「安心する日は来ない」と賛成派の学者がインタビューに答えていたが、このような危険を犯してまで、なぜ原子力発電所を運転するかと言えば、莫大な利益が得られるからというから何かが狂っているとしか思えない。
日本はすでに43トンのプルトニウムを保有し、長崎型原爆に換算すれば2000発以上になるという。再処理工場の処理能力は、年間800トン、本格稼動が始まると毎年4.5トンの核分裂性プルトニウムが製造され、長崎型原爆が250発以上つくれるとのことだ。
原発がなければ日本のエネルギー事情は賄えない、といった説明を耳にしたことがあるが、上映会では、原発がなくても電力不足にはならないことが説明された。(「日本の発電設備と量の実績」でネット検索すると出てきます。)
2000年度の資料によると、水力、火力、原子力発電所を合わせた設備量を100とすると、原子力発電所は、設備全体の18%しかないが、総電力の約30%を供給している。稼働率は原発が82%、火力発電所が43%、水力発電所が23%。発電所全体の年間の設備利用率は5割弱。原発を停止しても、火力発電だけで電気の供給が間に合うのだ。
再処理工場は、見晴らしの良い高台にある。再処理工場のある核燃料サイクル施設は風上にあり、農地が風下にある。再処理工場の排気筒から放出された放射能は、海から吹くヤマセに乗って風下の農地に広がっていく。
映画は、核燃料サイクル施設に反対する住民と、賛成派住民の日々の暮らしを2年余りかけて撮影、原子力発電所の推進派と反対派の学者の見解を交えながら、核燃料サイクル施設が本当に必要な施設かどうかを問いかけていた。
原発を使う限り、安心する日は来ない。
(草子)

南部短角牛を守れ!
最近、南部短角牛がもてはやされている。(スローフード協会の「味の方舟」プロジェクト認定、雑誌「食楽」における人気ブランド牛1位などなど)
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南部短角牛は、明治初期に役用牛だった南部牛に、輸入した肉用牛を交配したものである。通常の肉牛は殆ど舎飼いだが、南部短角牛は夏は山へ放牧し冬は牛舎で飼う、夏山冬里方式と言われる放牧主体の飼い方である。
岩手は山間地が多く放牧に適した地形が多い。その放牧地で自然交配をして秋には山から子牛を連れてくる(他の肉牛は、親牛の乳が出にくいため子育てに労力を要する)また放牧中は山の草を食べるために飼料代がいらず、荒れ果てた地域の草資源を利用でき自給率に大きな貢献をし、その放牧地は素晴らしい景観を作り出す。そして農家は、放牧中の5月から10月までは、他の仕事が出来る。
そして他の牛より飼料効率がよく、体重が増えやすく、本来の草資源主体のため内蔵に無理がかからず、内蔵廃棄がすくない。(肉牛の黒毛和牛や乳用牛のホルスタインなどは半分廃棄となるが、南部短角牛は2割である。そして内蔵はことのほか旨い)黒毛和牛の霜降り肉は交雑している脂肪の美味しさであるが、その南部短角牛の赤身肉は、肉本来の美味しさを持っており、最近の健康志向と相まって高く評価されている。
このように良いところばかりだが、なぜか飼育頭数が減少し歯止めがかからない。
その一番の原因は、低価格である。赤身肉というだけで平成3年の輸入解禁と同時にアメリカなどの大規模畜産の牛の肉と同じ評価がなされてきた。
 そもそも南部短角牛は、有畜複合農業の要であった。南部曲がり家という建物は、馬や牛の役畜と一緒に住む為の家で、大量に飼育する方式ではなく、各農家で数頭づつ飼っていた物を博労が買い集めて市場に出していた。ところが昭和36年に農業基本法ができ「他産業並みの所得を!」を合い言葉に、単一作物に移行し、お金に換えやすい農作物・畜産に規模拡大してきた。そして肥育頭数はどんどん増えたが、結果としてグローバル経済による輸入解禁によって競争にさらされることになった。
それに追い打ちをかけるように、霜降り肉信仰・外食産業の隆盛により量の確保・良い物を安くというデフレ経済等が、低価格の原因となった。
肉質や飼育方式で高い評価を得ているが、低価格という経済的矛盾。これを解決するために、様々な手法が取られているが、経済で考えるのではなく、文化として守ることを考えてゆかざるを得ないのではないか?
いずれにせよ、畜産は破綻する。中国の肉食が増え、原油の高騰によって運賃が上がり、代替燃料として飼料からエタノールを採ることが検討され、飼料の流通に赤信号がともされている。
 春、行列を組んで山に上げ、素晴らしい景観を保ち、そして人間に利用できない草資源をタンパク質に替える。その恩恵にあずかる人たち、その文化的価値を理解できる人たちだけで支えて行かざるをえないだろう。
評価と価値が一緒になるまで…(入道殿)

恐るべき新商品
こんにちは。
赤ちゃん恐竜のミニロボット。
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先日、盛岡市の旧馬検場でイベントがありました。
「いわての馬コは日本一」。
遠野の馬の里から参加していた馬が
ホースセラピー
をしていました。

乗馬によって
平衡感覚が刺激されるので
精神障害や身体障害のリハビリに効果がある。

馬は
人間より体温が高いので
乗馬で気持ちが和み、
血行もよくなる
とのことでした。

犬や猫を使ってのアニマルセラピーは
老人施設などで普及していますが、
馬によるホースセラピーが登場しました。

さて、今年の年末には、
ロボットによるセラピーが
実現されるでしょう。

現在、米国のウゴビ社が開発しています。
http://www.ugobe.com/pleo/index.html

赤ちゃん恐竜のオモチャです。
周囲を不安げに見渡して、
少しずつ動き始めるのです。
背中をなでてやると尻尾を動かします。
テーブルの端まで行くと、
不安そうに下を眺めて危険を察知したように
動きを止めます。

まばたき、あくびもします。
退屈、楽しい、怖い、悲しいなどの感情も
表現すると言います。

製品の動画が公開されています。
http://www.demo.com/demonstrators/demo2006/63039.html

ロボットとは思われない出来ばえです。
本物の小動物のようです。

日本のソニーのロボット犬「アイボ」は、
最近、生産が停止されました。
アイボの価格は20数万円でした。

この恐竜ロボットの予定価格は、
何と2万円です。
これは世界的ヒット商品になるでしょう。

動物は価格が高額です。
エサ代などの飼育費用もかかります。
ところがロボットは電気代だけで済みます。
しかもこの恐竜ロボットは
柴犬よりずっと安価です。

このロボットは、
高度なソフトが組み込まれているので、
外部からの刺激に合わせて
自分で動きを決めていくことができ、
結果として個性のあるロボットペットに育つ
といいます。

学校で情操教育の道具として
活用されるかもしれない。

子供向け玩具として
今年秋に発売予定ですが、
日本に上陸する頃には
街の玩具店に行列ができることでしょう。

このペットロボット「プレオ」の開発には、
ケーレブ・チュン氏が関わっています。
タカラトミーから
おしゃべりロボット「ファービー」が販売されています。
ファービーは、世界で4,000万個、日本で320万個も
販売されました。
チュン氏はこの「ファービー」も開発しました。
まるでファービー氏は、
ピノキオに命を吹き込んだゼペットじいさんの現代版ですね。

ところで、落語家の三遊亭鳳楽には
300もの出し物があるそうです。
落語の中に登場する人物のことを覚えるのは
大変だろうと思いますが、
鳳楽さんの著書に書いてありました。

登場人物と「長年付き合っているうちに、
彼らが勝手にしゃべりだすようになりました。
私に乗り移るとでもいうのでしょうか。」

芸は極めると、こうなるのです。
ペットセラピーも、
極めると、

動物と同じ気持ちが乗り移る
ロボットペット
が登場します。

それにしても、
人間がロボットに癒されるようになる社会。
<服部尚樹>



テーマ:岩手県 - ジャンル:地域情報

村上代表はトカゲのしっぽ?黒幕はいつも逃げ切る?
 村上ファンドのニッポン放送株の売買がインサイダー取引だとして、村上世彰代表が逮捕された。
 異例の記者会見をし、「悪者扱いされるのはむちゃくちゃ儲けたからだ」「儲けることがなぜ悪い」といった趣旨の発言をして反発を呼んだ。
 法を犯したから罪に問われようとしているのであって、そうでなければ、あるいはしっぽをつかまれなければ、うらやまれることはあっても、金を儲けること自体は責められることはなかったかもしれない。
 少なくとも、ライブドアに捜査の手が入らなければ、こんなことにはならなかっただろう。
 この事件は、村上代表の逮捕で終わりになるのだろうが、何か釈然としないものを感じる。
 派手に動き回ったから、村上代表だけに視線が集中しているが、ファンドは資金がなければ成立しない。本人はどう思っているか分からないが、ある意味村上代表は操られていたという見方もできる。
 大きく関わっていたのは、オリックスの宮内義彦会長だというのは周知の事実。ファンドの立ち上げ時に傘下の休眠会社を提供。資金も出し、社外取締役も送り込んでいた。さながら、オリックスの別動隊のようだ。
 オリックス以外にも、出資はしていなくとも、運用資金を委託していた会社、人はたくさんいたはずだ。昨日には、日銀の福井俊彦総裁も富士通総研理事長時代に1000万円拠出し、アドバイザーも務めていたことが発覚した。
 今回の事件の背景にはこうした無数の資金提供者の存在のほか、国策として推進されたさまざまな規制緩和があると指摘されている。
 宮内会長の場合は、小泉内閣で規制改革・民間開放推進会議議長で、規制緩和の推進役でもあり、資金などの提供も含めると、いわば黒幕的な存在だ。
 阪神電鉄の株買い占め、経営権の奪取の動きは、儲けるための手段だっただけでなく、阪神の持っている大阪の一等地の開発を狙ったオリックスが村上代表を動かしていたとの見方さえある。
 真相は闇だが、今のところ法律上は村上代表だけが罪に問われ、黒幕は安全圏にいて追及を逃れたとの印象が拭えない。まるでやくざの世界と同じではないか。
 日本経団連の御手洗冨士夫会長が12日の記者会見で、今回の事件について「インサイダー取引が事実なら非常に悪質」と述べたと報道されているが、オリックスの宮内会長は経団連の評議員会副議長であり、身内の問題でもあるのだから、人ごとのようなコメントだけでお茶を濁してはいられない。
 日銀の福井総裁は「誰が見ても納得されるような使途に振り向けたい」と1000万円の使い方について答えているようだ。お決まりの社会福祉への寄付みたいな話になるのか分からないが、庶民からすると大金をポンと捨てられる人たちの感覚で事件が処理されていくことにも反発を感じる。
 ファンドは継続されるようだし、出資金と社外取締役を引き上げたオリックスも運用資金はそのままだと言われているから、村上代表個人は表舞台からしばらく消えるだけ。少し経てば、何もなかったように動き始めるのだろう。
 「トカゲのしっぽ」だったと見てしまえば、村上代表も哀れにも思えてくるが、「めちゃくちゃ儲けた」という金額がどれくらいで、罪に問われたとしてもどれくらい手元に残るのか、そんなことを考えるしかないような虚しさだけが残った。(Z)
シンドラー社エレベーター事故問題から見えてきたこと(その2)?性質が悪く危険なマスコミ?
6月12日に、事故を起こしたエレベーターの製造元、シンドラー社の幹部が来日し記者会見をした模様がテレビで伝えられたが、これを見て違和感を持ったのは私だけだろうか。

会見場には100人を越える報道陣が集まり、異様なムードが漂っていた。
シンドラー社は「「被害者のご冥福をお祈り申し上げ、ご遺族に哀悼の意を表します」と述べた後、「これまで当社のエレベーターの構造や設計が原因で起きた死亡事故は一件もない」と主張を繰り返した。
これに対しマスコミ各社から「事故原因について言及がないのは誠意に欠ける」「責任をどう考えるのか」「被害者に謝罪しないのか」「補償はどうするのか」などの質問(追及?)があり、これに対しシンドラー社側は「事故原因は捜査中であり、捜査には全面的に協力する」と述べるにとどまった。
記者会見での事実はここまでである。
これを受けてのテレビの報道は「事故に対する責任を明らかにしないのはけしからん」「謝罪をしないのはけしからん」「まず頭を下げて謝罪の言葉を述べるのがわが国の慣習であるのに、欧米の会社はそこを理解していない」などというものであった。

「おいおい!ちょっと待ってくれよ!」と言いたくなってきた。シンドラー社に対してではなく、テレビを始めとする報道陣に対してである。
「いつから日本は、責任がはっきりしなくても頭を下げる慣習の国になったんだい?」
「事故原因がはっきりしないのに謝罪や補償の話しないのはあたりまえじゃないの?」
「原因や責任の所在がはっきりしない物事に対し、責任は?謝罪は?補償は?なんて追及する権利はマスコミにあるのかい?」
マスコミは思い上がっていませんか?

建設関係や建物の管理の現場に身を置いた経験のある私から見れば、この事案の関係者は、「エレベーターの製造設置を行なった会社(シンドラー社)」「保守点検を事故直前まで行なっていたメンテナンス会社」「メンテナンス会社に委託を発注したこのビルを管理していた港区住宅公社」「住宅公社を指定管理者に選んだ港区役所」「この建物を建設したの元請の建設会社」などである。
また、先入観無しに一般論的に事故の原因となる可能性は以下のようなものが考えられる。
・不良業者の選定(業差選定段階)
・設計上の欠陥(設計段階)
・製品の不良品(エレベーター本体製造段階))
・据付不良(工事段階)
・点検不良(メンテナンス段階)
・修理不良(修理段階)
・各段階の検査ミス(検査段階)
・運転操作ミス(運用段階)
これらのどこに事故原因があったのかを、冷静に科学的に調査分析を行なうことが必要なのであり、その結果を受けて、責任を明らかにし、再発防止に努めることが今後なすべきことである。

ところが、どうもマスコミは真実の解明よりもニュースを高く売ること、すなわち視聴率や販売部数を稼ぐため、ヒステリックになって、センセーショナルに騒ぎ立てることに熱心であるように見える。端的に言ってしまえば「真実の解明より、誰でもいいから悪者を仕立てて金儲けをしよう」という振る舞いである。

現代のような競争社会においては、「報道」もテレビ局や新聞社の、単なる“商品”となってしまったのだろうか。商品を高く売るためなら真実解明などには興味が無く、事実を少しくらい膨らましたり削ったりしながら、騒ぎを大きくすることも平気でやってしまう。
最早こういうマスコミでは、村上ファンドやホリエモンの金儲けと何ら区別がつかないし、彼らを批判する資格もない。むしろ、報道と言う正義を隠れ蓑にし、権力を持っているだけにもっと悪質で危険である。
もう少し冷静で論理的なジャーナリズムが育たないと、この国は本当に困ったことになってしまう。
しかし、それを育てるのも誰かがするのではなく、市民一人一人の力ではある。
<疾風>

テーマ:気になるニュース - ジャンル:ニュース

シンドラー社製エレベーター事故から見えてきたもの?安物買いの銭失い?
シンドラー社製エレベーターの事故が大きなニュースとして取り上げられている。
シンドラー社の社長はテレビのインタビューに答えて、「メンテナンスは当社が行なっていたのではないことをはっきり述べておきたい」とコメントした。
一方、あるメンテナンス会社は、「シンドラー社から詳細な図面や部品の供給が受けられず、苦慮していた」と発言している。
また報道によれば、「シンドラー社は安い価格で入札して日本市場に食い込んできていた」。「メンテナンスはメンテナンス専門会社が安く請け負っていた」とも伝えられている。

ここから問題点が浮かび上がってくる。
「メンテナンス会社が、図面や部品の供給を受けられないのに、エレベーターの点検を安く請け負うことは無責任ではないか」
「シンドラー社が、自社以外のメンテナンス会社に図面や部品を供給しないとすれば、独占禁止法上の「不当な取引拒絶」「不当な取引妨害」にあたる可能性がある」
ここのところは、いずれはっきりしてくることだろう。

私が問題にしたいのは別のところで、「必要なお金をケチるな!」ということである。
エレベーターは、年1回の法定点検が建築基準法で義務付けられており、設置費用より、その後のメンテナンスの費用がかかる設備である。
そのメンテナンスはメーカー系列のメンテナンス会社と、独立系のメンテナンス会社が競争しているのが現状である。メーカーは自社の製品のメンテナンスを行うという優位性を生かして高い価格でメンテナンスも受注しようとする。一方、独立系メンテナンス会社は、メーカーの中に割って入る形になるため、無理をして値段を下げるしか方法がない。とある独立系の会社のHPを見ると、「メーカー系のメンテナンス会社より5割も安い」ことを売り物にしている。

一般的には安いものはメンテナンスがかかる。メンテナンスがかからないものは高い。しかし、買う側から見ると、初期設置投資も安くしながら、その後のメンテナンス投資も安く済ませたいと考えるのは当然である。安いものを買ってメンテナンスも安く済ませるためには、リスクを回避するための相当な知識・技術力を自ら持ち合わせていることが必要になる。本来はその知識や技術力が上乗せさせられてコストが高くなるのである。
このためこういう場合には、費用が高くても絶対的に信頼のおける業者に頼むか、費用が安い業者に頼む場合は、それをチェックできる技術を持った第三者にお金を払って依頼する方法をとる必要がある。それは建物を建てる場合に建設会社に施工を請け負わせながら、その施工管理を第三者である設計事務所に依頼することが建築の世界では行われているように。

ところが、わが国では一般的に、知識や技術力のような “物として目に見えない事柄”に対して正当な評価をし、お金を払うという意識が足りない。
昨今、世情には「コスト縮減」「効率化」が、熱病のうわ言のように、そこかしこから聞こえてくる。
コスト縮減も効率化も、もちろん当然良いことであり、誰も異論を挟む余地は無い。しかし、何が本当に必要なのかをしっかり理解し、ライフサイクルコストや人間の感情まで踏まえた上での、本当のコストや効率を理解しなければ、近視眼的な上辺をなぞるだけで、本来必要なものまでも削ってあとで後悔するような、『安物買いの銭失い』になってしまう。

良いものに正当な高いお金を払わなければ、世の中は『悪貨は良貨を駆逐する』ことになってしまう。
<疾風>

テーマ:社会問題 - ジャンル:ニュース

山里便り? 「1個めは、お母さん。」 2006年6月11日
6月11日は、暦のうえでは『入梅』。
中国では、旧暦5月は『僻邪(へきじゃ)の風』が吹くといわれ、
そのねじけてよこしまな風(どんな風?)は、人間の体調を崩し、植物にも大敵だそうだ。
園芸書にも「梅雨時は、草取りをして風通しを良くしなさい。」とか、
「雨水が流れる溝を掘って、排水を良くしましょう。」などと、書いてある。

この時期に思い出す、好きな言葉がある。
『1個めは、お母さん。』
おにぎりは、最初に握るひとつめに、手についている細菌がつく確立が高いから、
1コめは自分の分。
その後に、家族のおにぎりを握る。
お昼に同じ物を食べ、お弁当の状況をチェックするという意味だ。
それを知ってから、私も1コめは、自分用と決めている。
念のため、腐敗防止のために赤梅酢で握る。
塩分も丁度よい、ほんのりと赤いおにぎりが出来上がる。

各地からの移住者(?)の多い街、東京では、親の出身地によって、
同級生のおにぎりの形が違っていた。
大きなボール状や俵型、円錐形、定番の三角形など、多様で楽しい。
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岩手では、梅干を漬けるのは7月中旬、東京にいた頃より1ヶ月以上遅い。


最近は、食中毒防止のために、
「おにぎりはラップで握りなさい。そのまま持って行けば、空気に触れないから傷みにくいです。」とか「ビニール手袋をして握りなさい。」などの指導があり、お弁当の本にも書いてある。
私は水蒸気が溜まって、かえって不潔だと思うけれど、
『ラップで、おにぎり方式』は、定着してきている。
不特定多数に食べさせる弁当屋や食堂は別にして、家庭では、素の手がいいんじゃないかな。
てのひらで優しく、しっかりと握るからこそ美味しい。

学生時代、同級生同士でお弁当交換をして食べた時、
チョット悪ぶっていた男の子が、
「オレ、かあさんが握ったおにぎりしか食べられないんだ。」と言った時には、のけぞるほど驚いた。
そういえば、「お袋が握ったおにぎりは、すぐに分かるんだ。親父やばあちゃんのより大きいから。
きっと、たくさん食べて大きくなれって思っていたんだと思うよ。」と、言っていた少年もいた。
どうやら、おにぎりとは、そういう食べ物らしい。

こんな山の中に住んでいても、コンビニやスーパーなどで、いろいろなおにぎりと出合う。
なんで傷みやすい煮玉子や牛丼の具、マヨネーズを入れるのかなあと思う。
その分、通常よりも余計に酸化防止剤やら添加物が入っているのに違いない。
このてのおにぎりを食べなければいけない時、最初の一口に、少々勇気がいる。
それに、管理されて機械が握ったモノやビニール手袋で握ったモノは、かえって不潔な気がする。

料理が好きで食品会社に入社した女性が、「お弁当は、腐敗防止のために霧吹きで酸化防止剤を、
たくさんかけるんですよ。そんな作り方に疑問を持って会社を辞めました。」と、言っていた。

誰が作ったのか、誰が握ったか、顔の見えるモノを食べていきたい。
yo

僕が見てきた村上ファンド
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この写真はここのところTVニュースに頻繁に出てくる時の人のアップである。つい最近までは市場経済、小泉改革の超勝ち組みの筆頭として、今は東京拘置所へ送られる身として。問題はこの写真が誰であるかというだけでなく、目元に注意していただきたい。彼はいつも目の下に大きなタボを作っている。この写真はTVからデジカメで撮ったものであり、もし肖像権に抵触するならすぐ引っ込めますので、問題あるようならご連絡ください。最近贋作騒ぎもあったようだし、御本人、TV局の方々肖像権、著作権を侵すつもりありません。

 村上ファンド村上世彰氏がインサイダー取引で逮捕された。ここ数年小泉改革と共に市場経済の寵児としてホリエモン共々TVに頻繁に出るようになってから、僕なりに彼に注目してきた。それは彼の仕事ぶりや稼ぎではなく、彼の顔である。僕はユニセックスでも少年愛(彼の元気さには一途な少年的な魅力的があった)でもないが、僕が注目していたのは彼の目元である。彼はTVに出てくるといつも挑みかかるように元気に話しているのだが、彼の目の下にはいつも大きく膨れたタボがあった。
  
数年前TVの健康番組で精神科医が「人間ストレスをため込むと目にタボができる」と言っていた。僕はそれ以来TVを見るとき、番組の中身を見ると共に、その番組にでているいわゆるTVタレントや俳優、著名人の顔の目の下に注目してきた。
 
例えば目の下にタボを作っているタレントの代表格はスマップの中居君(みんなそう呼んでいるので僕もそう呼ばせていただく)。彼はいつも目の下に大きなタボ(しかも紫色の見事なタボ)を作っている。彼はスマップと言うグループのリーダーであり超忙しいのだろう、そのうえ歌が下手ときているから精神的なストレスをいつも感じているのではないだろうか。先日スマップ全員が出る番組を見ていたら、目にタボを作っている順番は、1位が中居君、2位が草薙君、3位が真吾君と続き、木村君少々と来て五郎君はほとんどなかった。僕は「眼にタボ=忙しさ*精神的緊張(ゆとりのなさ)*緊張の持続時間」だと解釈している。タボの少ない木村君は超人気者で忙しいだろうが実力と落ちつきがある、五郎君はあまり忙しくないのでは?スマップの皆様及びスマップファンの皆様、僕の勝手な解釈をお許しください。

ここ最近の最もけなげなタボはフィギアスケートのアイドル安藤ミキティーのタボである。彼女はオリンピック選考前は破竹の勢いで自信にあふれキラキラ輝いていたが、妖精真央ちゃんに追い越され、不本意な成績でのオリンピック代表選出以後、4回転にこだわり、実力も出し切れず日に日にストレスをため込んで、本当に大きな、かわいそうなくらいのタボを作っていた。それに比してさすが銀板の女王荒川静さんはどんなに多忙でも、オリンピックの重圧でもいつもすっきりした目元をしていた。そこには厳しい訓練(心身とも)に裏打ちされた正当な自信があったのだろう。
もう少し芸人の世界で例をあげれば、いわゆる青木さやか、羽田陽区などの2?3流芸人(いつ消えていくか分からない)、や才能もないのに体と笑顔と馬鹿さ加減で勝負している女の子たちは、どんなに着飾ってもケラケラ陽気に振る舞っても見事なタボを作っている子が多い。ま、あらさがしはこのくらいにして、そうゆう視点でTVを見てタレントの行く末を占うのも一興である。

村上ファンドの村上世彰氏は時代の寵児と思え巨額のお金を稼いでも、常に精神的ストレス(多分正義、正当ではないといういうことは本人が一番知っていたのだろう)と緊張感、忙しさのなかで、一見強気に見えても、心の平穏は保たれていなかったのではないだろうか。彼の心のうちを僕は知りえないが。彼は株式市場に大きなストレスをかけていたが、実はそのアンフェア―なやり方は自分自身にこそぎりぎりのストレスをかけていたように思う。

もちろん時には命をかけてタボができるまでがんばることも人生の中ではあるだろう、しかし、競争があたりまえ、その中で勝者になることが理想しても、そこには青臭くても社会正義、公正というイデオロギーが必要なのではないだろうか。たまには忙しくても自分の顔を鏡に映し、目にタボがないか、心の中をも覗いて見る、そんな時間をもちたいものだ。
僕の顔を鏡に映してみると、目元に年齢による少々のたるみはあるものの、タボはできていないようだ。あんまりがんばっていないということか、ぼくのようなナマケモノはたまにはタボができるくらいがんばらなければならないのかも知れない。
丸山暁(55歳・人間)


貨幣経済と自然
今週NHKの「クローズアップ現代」で割り箸の問題を取り上げた。
日本の使用量250億膳の殆どが中国産。中国では森林の乱伐で洪水等の災害が起こり木材に税金を掛け、また中国は使用していなかった割り箸の新規需要が増え、原料が高騰しているのが理由だという。経済評論家の内橋克人氏は、「昔は、間伐材を利用した廃物利用だったが、安い東南アジアに木材の生産が取って代わられ、国内の森林が荒れ、間伐が意味をなさなくなった。安いと言うことで80年代から中国へ変わっていったが、中国も乱伐で砂漠化が進行し森林再生を政策として掲げ始めた。我々は安さの中に何があるのかと言うことを考えて選択しないといけない」と結論づけた。
 10年ぐらい前、環境問題で騒がれたときに、割り箸が取りざたされたことがある。ところがその時は「間伐材を利用したもので木材資源の濫用ではない」と言う論調を聞いたことがある。結局それはまやかしだった。
そして識者は「割り箸産業が無くなっても、それは時代の流れだ」と言うようなコメントがのっていた。その時は何となく腑に落ちないと思っていたが、たかだか10年の間に現実として我々の前に現れてきた。
 経済的合理性で言えば、「安価」と言うことは、最優先の事項であろう。いかに安く作るかで機械化し効率性を高める。そこには労働を単純化して人件費を抑制し、いかに資金の回転を早めるか、と言うことが最大のテーマであった。結果として、人件費の安いところへ産業は流れ、自然が荒廃し、我々の暮らしに影響を与える。
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 貨幣は短期間で増殖する。しかし、自然はゆったりとした蓄積である。ある林業家は「林業家は80年サイクルで考える」と言った。そのような雄大な時間は、貨幣経済には与えられない。
暮らしが、綿を着て、木の家にすみ、まわりから採れるものを食べていた時には、たぶんゆったりとした時間が流れていたのだろう。それが貨幣でモノが交換できることが浸透した、ここ100年、我々は忙しくなった。
そして、暮らしは成り立たなくなっていく。
多分、割り箸は価格を上げる、別の産地を探す、新しい素材を開発する等様々な方策が取られるだろうが、失った自然は回復するまでに相当の時間を要する。
天然資源(木材・石油・鉱物)を貨幣に替える事の是非は、多分行き着くところまで行かないと、気が付かないだろう。
「真の豊かさ」それはゆったりとした時間にしかないと思う。それに気が付く人を増やすために「語りかけること」しか我々に出来ることはないのだろうか。 (入道殿)

テーマ:環境・資源・エネルギー - ジャンル:政治・経済

六ヶ所村の再処理工場に不安
青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場でアクティブ試験が3月31日から始まったが、事故が相次ぎ、いいようのない不安を覚える。
アクティブ試験を始めてからこれまで、硝酸ウラン溶液の漏えい、作業員の被ばくなど、軽微なものを含めて5件の事故が発生。これに対して日本原燃の児島伊佐美社長は、5月30日の記者会見で「少し数が多いと思うが、トラブルの事象そのものは想定内」(読売新聞青森版、5月31日付)とコメント、来年8月の本格稼動に何ら影響はないと発言している。
日本原燃では、アクティブ試験時に想定されるトラブルをホームページで公開、油や蒸気、化学薬品の漏えい、配管の詰まりなど82の事例と対応策を公表している。
素人なので中身については、よく分からないが、これほど多くのトラブルが想定されること自体が問題ではないのか。
5月17日に発生した硝酸ウラン溶液漏えい事故は、異臭に気づいた下請け会社の社員によって発見された。この時、漏えい検地システムは作動しなかったばかりか、放射性物質が含まれている溶液を作業員がふき取って処理したとのことだ。
児島社長は記者会見で「試運転全体としてはまずまず」(岩手日報、5月31日付3面)と一定の評価を下しているが、かなりずさんな対応が含まれているにも関わらず、何が「まずまず」なのかが分からない。
目もくらむような豪華な意匠で「完璧」を装ってはいるものの、内実は問題だらけで、当事者も不安におののいている、そんな構図なら大事故が起きれば大惨事を招くことになる。
アクティブ試験は、原子力発電所で使われた使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す総合試験のことで、実態は本格稼動と何ら変わらないという。
日本原燃では、使用済核燃料を再利用することがエネルギーの長期安定供給につながり、工場の操業は「安全である」と説明している。
仮に工場内の事故が未然に防げたとしても、工場が稼動している間、海と空に放射性物質が放出されるのだ。
日本原燃では、安全作業を経て海と空に放出すると説明しているが、三陸の海を放射能から守る岩手の会の資料によると、海に放出される放射能の濃度に規制がなく、どれくらう放出するかは日本原燃に判断がまかされている。原発なみに放出する濃度を規制すると稼動できなくなるというのがその理由というから、言葉通りには受け取れない。
自然界に放出される放射能の濃度は、人体に影響がないと言うが、一回に放出される量は微々たるものでも、大気圏に囲まれているので二酸化炭素同様、年数を経るごとに自然界の放射能の線量が増えていくことになりはしまいか。もしそうなら、放射能を完璧に管理する技術を持たない私たちは、真綿で自分らの首を絞めることになる。
核燃料再処理工場の問題を地元で暮らす生活者の視点から追った映画「六ヶ所村 アプソディー」が、今月10日、盛岡市中ノ橋通のプラザおでって・ホールで上演される。
上演時間は、午後2時からと午後6時の2回。料金は前売りで一般1000円、学生500円、当日は一般1200円、学生600円。問い合わせは、プラザおでって(盛岡市中ノ橋通1-1-10、☎019-604-3300)まで。(草子)

建設談合の現状はどうなっているか。
 公共工事をめぐる入札談合事件の摘発が相次いでいる。仕事がどんどん減っているはずなのに談合は減っていないのか、なぜ談合するのか、防止策の現状などを考えてみたい。

 ■談合は増えているのか?
 鋼鉄製の橋りょう、防衛施設庁、汚泥処理施設など規模の大きな談合事件の摘発がマスコミを賑わせたこともあって、表面上は談合は増えているようにも見えるが、実際は摘発される数が増えているだけで、談合自体は減っていると見るのが妥当だろう。
 では、なぜ摘発が増えているのか。
 一つは独占禁止法や官製談合防止法など法令の改正や新たな法整備によるものであり、二つめには業界の結束が揺らいできていること、三つめには公正取引委員会の体制の強化が挙げられる。
 
 ■なぜ談合をするのか?
 談合は、受注(利益)の配分と適正な(高値)価格の維持が主な目的で、そのための組織を作り、調整するのが一般的だった。
 それだけなら、ある意味「互助会組織」だとも言えるが、それにとどまらない介入があるのが通例であり、それこそが問題の本質と言えるだろう。
 それは、公共工事という大きな利権に群がる人々(その多くは政治家や官僚)の存在である。
 「天の声」という言葉を記憶している人も多いだろうが、平成5年ごろの宮城県知事や仙台市長などを巻き込んだいわゆるゼネコン汚職、建設大臣も務めた中村喜四郎氏の事件、地方においては市町村長への贈収賄という形で無数に起きている。
 受注を約束する代わりに、政治家に金が流れる。確かに業界も儲かったが、政治家に流れる金を確保するためには高値で落札するのは至上命題だった。
 もう一つは、官僚機構の関与で、最近の鋼鉄製の橋りょうや防衛施設庁の事件などのように天下り先の確保と受注がセットになっているものだ。発注者と受注者がぐるになっているのだから、予定価格の漏洩、指名業者の選定、何でも好きにやれた。
 
 ■談合の防止策は?
 防止策は法令によるものと、入札制度によるものの大きく分けて二つ。
 先に触れた法令の整備、改正の特徴は、温床となっている官製談合の排除とともに、いわゆる「たれ込み」の奨励にある。
 官製談合を摘発しやすくし、罰則を強化したことでの抑止効果が期待される。また、公正取引委員会の調査以前に最初に情報提供すれば課徴金を免除、二番目、三番目でも減額するという方法はいかにもアメリカ的で個人的には好きではないが、これも一定の効果はあるだろう。
 入札制度では、一般競争など競争性、透明性の高い方式の導入がある。これで完全に防止できるわけではないが、やりにくくはなる。また、電子入札の導入も一定の効果が期待はできる。
 それ以外でも、かつて採用されていた工事完成保証人制度(相指名業者の保証が得られないと落札できない)から履行保証制度(金銭での保証)の導入、本県のように条件付き一般競争など同一工事への入札参加者の下請けは認めないなど下請けも使った調整行為の防止も一定の効果を上げている。

 ■現状はどうなっているか?
 談合は成立しづらくなってきていることは確かだ。それは、法令や制度改正の効果もさることながら、もっとも大きな要因は仕事量の激減にある。
 国も地方も財政状況が厳しくなり、公共工事の発注金額はピーク時の半分程度に減ってきている。
 談合が続いてきたのは、「次の仕事」を約束できたことが大きい。しかし、仕事が減ってくれば、この約束はできない。建設業界は受注できなければ干上がるから、余裕がなくなってくれば談合破りをしてでも仕事を確保しなければならない。
 詳しくは触れないが、1社でそういった会社が出てくれば、簡単に談合が崩れていく。いわゆる「たたき合い」が始まれば業界全体が疲弊していく状態に陥っていく。その過程に今はある。
 
 ■地方中小は地域密着と得意分野への特化で生き残れ!
 工事量の減少に比べ、業者数は許可業者だけでも50数万社あるのだから、はなはだしい供給過剰の状態にあるのは明らかだ。
 国交省も一所懸命減らそうとし始めているが、適正な数になるまでは「たたき合い」は続き、地方の中小業者の倒産・廃業はこれからも増えていくだろう。
 地方の中小業者が、そんな中でも生き残るには、規模を大きくすることを考えるのではなく、地域に密着し、地域に信頼され、地域に必要とされる業者となることが必要ではないか。
 もう一つは、大手のように総合建設業の看板を掲げるより、これだけは他社に負けないという得意分野を持つことではないか。一般土木というよりは、舗装、法面など専門分野に特化することも一つの方法だと思う。
 要は、談合しなくても、きちんと仕事ができる環境を地域から作り上げることではないのか。
 災害など非常時もある。安心して任せられる、顔の見える建設業者が地元にいなくなっては困るのだから。(Z)

少子化人口減少で何が問題か? ?狼少年の脅しに惑わされるな?
出生率が1.25となったことが大きな社会問題として取り上げられた。少子化の次は人口減少、高齢化社会と脅し文句が続く。
では、少子化・人口減少・高齢化社会はいったい何が問題であり、それは本当に問題なのか?
伝えられているところでは、
「少子化になると子供世代が親の世代を支えるという年金問題に大きな影響が出てくる。子供が少ないことによって、親の世代である自分たちが受け取る年金が減ってしまう」
「年金収入を見込んで設計されている高齢者医療制度や介護保険制度など他の社会保障制度にも影響を与えかねない」
「若年世代の減少は将来的な労働力不足を意味し、経済成長や企業活動に影響が出るのも必至だ。」
「人口減少により需要が減退して市場が縮小し、経済成長が維持できない」等等軽薄な議論がなされている。

 ところで、我々はいつから年金を当てにする国民になったのだろうか。
わが国の年金制度というものは、公務員の恩給制度から始まったもので、1923年(大正12年)に恩給法が制定された。その後徐々に民間にも広げ1959年(昭和34年)にほぼ現在の形である国民年金法が制定されている。
 では、なぜ公務員から始まったのだろうか。それは定年退職制度と連動していると考えられる。それまでわが国では一般労働者は働けるだけ働く、一定年齢の退職制度というものは無かった。公務員には定年退職制度を採用するため、これに連動して定年退職者への保証制度として年金制度が始まった。
現在の年金制度は、原則的に60歳で退職してしまうことを前提としている。
しかし、ここのところの前提に大きな問題が隠されている。もう一つの少子化による問題である「労働力不足」とワンセットで考えなければならない。
今時の60歳代はまだまだ体力・知力とも衰えてはおらず、就業意欲も高い。しかし、この世代は “就職難”である。今世の中が少子化で悩んでいる事柄を分解すれば、定年後の就職難と少子化による労働力不足という求人難の、相反する問題が同時に発生すると言って悩んでいるのである。そんなことは同時に起こりうることではない。この60歳代の年代を有効に活用し就業させることができれば、年金受給者層は大幅に減り、今の少子高齢化による一つの問題とされている労働力不足の解決にも寄与するのである。

また、さらに過剰な心配をしている「人口減少による経済成長が維持できない」などという考えは、きっぱりと改めるべきである。
経済成長はなぜ必要なのか?地球という有限の中に暮らす限りは、無限の経済成長は有り得ないことをそろそろ認識すべきである。また “国家の経済成長”とは何か?を突き詰めるべきである。国家経済が大きくなっても、個人の生活が豊になる事とは別なのである。
日本の総人口は、約100年前の1904年(明治37)には、4,613万人、高度成長が始まった1956(昭和31)年に、9,000万人を超えたが、この頃の「厚生白書」では、急激な人口増による「過剰人口」にどのように対応していくのか、ということを政策課題として取り上げているのだ。それが今は、「このままいけば50年後の人口は約1億人まで減少する」と脅し文句が飛び交っているのだ。
世界に存在感を示し、わが国よりも生活レベルが高いスウェーデンの人口は僅か800万人である。
人口が増えたといっては脅かし、減ったといってはまた脅かすなど、まるで狼少年である。出生率の減少や、50年後の国の人口一億人に減ることなどを、経済問題としてしか捉える事ができず、その亡霊に怯えて暮らすことなど愚の骨頂である。
年金の払込額と受取額の差額が多いの少ないのなどと、あさましい議論に神経をすり減らすより、自立と相互扶助の精神に立ち返って死ぬまで元気に働くことを考えようではないか。

「衰退のとき極まると、ターニング・ポイントに至る。・・・・・・・。古きものは去り、新しきものが入る。どちらも時とともにあり、それゆえいかなる滞りもきたさない」?R・ウィルヘルム著、易経より?
<疾風>

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山里便り? 「牛が来て、初夏!」 2006年6月4日 
牛を乗せたトラックが1台、そして、また1台と走って行くのが、台所の窓から見えた。
この谷すじの奥にある、宇瀬水牧野に運ばれていく。
青草が伸びる頃から霜の降りる頃まで、
山の中で草をはみ、のびのびと過ごし、そして、帰っていく。

ここに住み始めた頃、
若い頃から、農業指導員をやっているというユキちゃんが、
「みんな、根コブ病が出るって言うけどよ。
うちは牛フンを混ぜて堆肥作っているから、そんなものでねぇよ。」と、
自慢げに、のたまった。
どうやら『土づくり』には、牛フンが必要らしいと素直に考え、牛を探した。
まだ、知り合いも少なく、心あたりがない。
「そうだ!上の牧場に牛がいた!」と思い出し、
20キロ先の山の上の牧場まで、夫婦で拾いに出かけた。
山頂で車を降りると、牛も牛フンもいっぱいだ!
それぞれが、大きな肥料袋を持ち、
すっかり乾いてペッタンコになったソレらを、セッセと拾い集めた。
「よかったね!」、「やったね。」と言いながら、ウキウキと帰宅し、畑に花壇にと、鋤きこんだ。
堆肥と厩肥の違いも分からず、発酵させることも知らなかった。
それでも、なんだか良い土になったような気がしていた。
今では、自家製の2年ものの完熟堆肥を使っている。
惚れ惚れするような色と湿り具合。
ガーデン・レタスも、元気いっぱいに育っている。

鯵の干物とバジルソースのパスタ&レタスのシンプルサラダ
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干物を侮るなかれ。
トマトソースとも相性が良い!
シシリー島で食べた鰯のパスタは、こんな感じだった。

まわりを見ると、いつの間にか、草も伸びている。
誰かが始めると、それに合わせるかのように、どこの家でも草を刈り始める。
そして、あたりは、手入れをされた美しい田園風景に変わっていく。
我が家も、そろそろ草刈り第一弾をしなくっちゃ!
我が家の前を牛が通るたびに、懐かしく思い出す。
牛が来て、初夏。
yo

僕という人間-6(環境4)
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写真は今僕が暮らしている家の窓から見える風景である。先日まちに暮らす友人が我が家に来てとても感動していた。多分山間部の何処にでもある風景なのだろうが、四季折々朝夕改めて見つめると、見慣れた風景でもけっこう感動するものだ。それが自然というものか、自然の移り変わりが自ずと心に響いてくる。僕は今そうゆう環境に暮らしている。

 これまでつたない環境論であったが「環境」について3回書いてきた。
多くの場合環境は地球環境にしろ、地域の環境、住宅環境にしろ、自分をとりまく空間として捉えられてきた。僕もそのように書いてきた。そこには、環境とは人間が評価したり、改変したり(破壊も改変の一形態である)コントロールできる存在、すなわち自分の身体と切り離して考える姿勢があったのではないだろうか。ここまで「環境」を考えてきて、実は環境問題の根本的な間違いはそこにあったのではないかと思っている。

僕たちは多くの場合「環境」を自分自身の身体(特に心は)と切り離して考えてきたが、実は人間の身体(身も心も)は「環境」によって育まれ、作られてきているのである。確かに誕生から少年、青年と育つのは多くは通常親が子供を育てるという家族の行為であるが、その家族は多くの環境に囲まれている。それは身近には住宅環境、地域の環境(都市化や自然など形態的な環境)からひいてはその時代の地球環境まで。実は僕たち人間は、環境によって育まれ、環境の特性が僕たちの身体を形成してきたと言えるのではないか。
 
僕は14年前、青春時代と会社員として20年間暮らした東京から北上高地早池峰山の麓の小さな集落に越してきた。何故僕はそのような行動をとったかというと、やはり僕が育ってきた環境がそうさせたのではないだろうか。
 僕は広島の山と海で少年時代を過ごし、野山を駆け巡り、海に潜り魚をついた記憶が今も鮮明にある。たぶん僕の身体的な原風景がそれなのである。田舎の少年はもちろん都会に憧れた、学生青年期は都会で青春し、社会人になっても都会性格を謳歌した。しかし華やかな銀座を歩いていた時、ふと頭に(頭と言うより心だろう)浮かんだのが、池の水底で湧き水に揺れる藻の間に見え隠れするコブナの姿だった。
 そういう時「そう遠くない将来、いつか水や山がある田舎で暮らそう」と心の声が聞こえてきた。きっと、それが僕を作ってくれた「環境」のささやきだったのだろう。

 環境が自分自身にどう影響してきたのか、またこれからどういう環境で暮らしたいのか、それがもう一つの環境問題ではないだろうか。地球環境を考えることはもちろん急務であるが、その前提として身近な環境を見つめ考えることが欠如すると、単なるセンチメンタルな環境論に陥り、高度物質文明を享受しながら「劣悪化した日常環境」のなかで身体的に萎えていく、そうゆう人間像が浮かんでくる。環境問題は実は個々の生き方の問題なのではないだろうか、このことはまた時を改めて書いてみたい。

「良いモノを安く」は間違っている!
「良いモノを安く」と言う言葉が、金科玉条のごとく言われる。
この言葉は、資本主義の商品経済がすすむにつれ、徐々に大きくなっていったような気がする。
そして「良いモノが安くが、デフレ経済を助長した」と言うと、「そうですね、良いモノは高くですね」と言う。
しかし、「良いモノとは何だろう」「安くとは、何と比べて安くなのだろう」
 「人間は快適性を求めて様々な商品を開発してきた」結果として、身体を動かさなくてもいいようなモノが生み出され、そして人間が身につける技が衰え、身体で覚えると言う言葉が死語になり、身体をむしばんできた。
食べ物で言えば、「甘く・柔らかい」ものを求めて素材を加工し添加物でごまかす技術が横行し、素材そのものの味を味わう、固いモノをかむと言う習慣が消えた。その結果、味を分からない人々が増え、虫歯や唾液の分泌が減り、消化器系の病気が多くなっている。
そして今度は様々な問題が出てきた為に「安全」が良い物という基準に加わった。そもそも体内に入れる食べ物は、安全でなくてはいけない。安全でないモノが世の中に満ちあふれているから、「安全」という言葉が声高々に言われるのだろう。「安全で安い」と言う基準では海外の有機農産物を選ぶべきであろうし、現に商社が中国やその他の国の有機農産物を輸入している。
しかし、そこには「安心」がない。
「安全・安心」と二つ並べて簡単に使われているが、その言葉の意味は全く違う。モノの危険性がないことが安全であり、ヒトの信頼関係から生まれてくるのが安心である。
今、人間関係が希薄だと言われる。そこには安心の関係が作れない社会がある。
「良いモノを安く」と言う商品至上主義ではなく「安心な関係でモノが流れる仕組みづくり」が必要ではないか。安心の関係には、コストは影響を与えない。
<たこ入道>

テーマ:経済批評 - ジャンル:政治・経済



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