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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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児童・生徒のためになる査定昇給制度に
 県教育委員会は、6月から教職員への新たな査定昇給制度の導入を目指していたが、教職員組合の抵抗もあり、「議論が十分でない」として先送りすることを決めた。
 新たな査定昇給制度は教職員だけでなく、県職員にも導入が決まっており、増田知事は「横並びで何年かごとに(給料)が上がっていくやり方は今後通用しない」と述べている。
 確かに、一所懸命仕事をしても、適当にやっても同じであるというのはおかしな話で、査定制度があっても何ら不思議はない。
 ただ、民間と同じような成果主義の採用が公務、特に教育現場に持ち込むことには、次のような問題があるように思われる。
 ?客観的な評価が難しい。
 ?いわゆる成果主義には馴染まない仕事である。
 ?個性や人間の多様性を育てる教育現場に一律の価値観を持ち込むことにならないか。
 ?管理だけが強化される結果にならないか。
 ?評価する管理者がそれにふさわしいか。
 
 客観性をある程度は高めることはできたとしても、評価はあくまで主観でしかないのだから、誰もが納得するような評価制度はそもそも無理だ。
 客観性を高めようとすれば、一定の基準を設けて、数値化して評価することになるだろう。しかし、この基準がくせ者で、物を作ったり、売ったりするのとは違って、「成果」を数値化しにくい職種だと思う。
 例えば、教えている児童・生徒の学習到達度はテストをすれば、ある程度は分かる。全員が設定した目標に到達するのは理想だが、実際の現場は生身の子どもたちを相手にしているのだから、なかなか難しい。
 全員を一定の目標まで引き上げようとすると、今の授業時間数では足りないのが実態で、補修や家庭学習で補わないと不可能だとの声も多い。授業だけで何とかしようとすると、到達度の遅い児童・生徒に合わせることになり、教科書が1年間で終われなかったり、もっと伸びられるはずの優秀な児童・生徒の足を引っ張る結果にもなりかねない。
 また、学校の規模や1クラスの児童・生徒数、そもそもペーパーテストでは評価できない芸術分野の強化など細かな補正をしないと客観性はでない。
 このような状況の中に査定制度が導入されると、さまざまな歪みを生むことになるだろう。
 もちろん、学校は勉強だけを教えるわけではないし、しつけや人格形成も担っており、これらも含めると、ますます客観性から離れていってしまいそうである。
 教師を枠にはめてしまうような評価制度が採用されれば、だんだん画一的な教育に陥り、児童や生徒の個性を伸ばそうなどということは不可能となるだろう。
 客観性を高めたとしても、評価は人間の主観に頼らざるを得ないから、評価する管理者の顔色をうかがったりすることは当然出てくる。それを逆手に管理が強化され、「改正」されようとしている教育基本法のように愛国心の強制、日の丸・君が代の押しつけなどに使われると、いかにもきな臭くなっていきそうだ。
 評価する管理者自身が評価に値するのかということは、どんな組織でも問題となる。たぶんそんなことはしないと思うが、一般の教職員が管理者としてふさわしいと評価した人物以外は評価に携わらないといった制度にしたとしても、不満は残るだろう。

 いい教師は確かにいるし、一所懸命やっている教師を正当に評価することに異論はない。単純にそういった運用がされるのであれば制度導入に賛成したいが、課題が多すぎるだけでなく、教職員を含めた公務員の削減をにらんだ地ならしの意図もありそうで、時期尚早だと思う。
 一番忘れてならないのは、児童・生徒のためになる制度にすることで、急がずに現場の教職員の声だけでなく、父母や地域の声も聞いて、ベターな制度に仕上げてから実施しても遅くはない。(Z)

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瞳をみつめて
こんにちは。
ランボルギーニ
bd4bcd07.jpg

日本が誇るスーパーカーホンダのNSX
(1200万円)なんて
メじゃないスーパーカー、
ランボルギーニ。

知り合いのお若い方が言いました。
「私も、NSXは夢でした!
今は、自分を奮い立たせるために、
ランボルギーニを目標にしてます!
むぅ、無謀。。。」

ランボルギーニは2500万円です。
夢は大きいほうがいいですね。
ランボルギーニ
確かに何か魅力のあるフォルムです。
フェラーリやBMWやジャガーには無い
形の魅力。
身震いしそうなくらい素敵。

消費者が商品に魅せられるのは
ちゃんとワケがあります。
理屈ではない、感覚。

ただ、そういう消費者心理は千差万別。
ランボルギーニの形に一切反応しないけれど
フォルクスワーゲンを見ると背筋がぞくぞくする
ってな人も
それはいるものです。

だから、お客様は
顧客
ではなくて
個客。
一人一人の好みがあります。

お客様の好みを正確に見分ける方法があります。
知っていますか?

人は、好みのものを見ると、
眼の瞳孔が
拡がるのです。

男で言えば
好みの女性が現れると、瞳孔が拡がります。

それはきっと、
もっとよく見たい、という気持ちと
手に入れるために虎視眈々と探索する
という狩猟本能に
由来すると思われます。

会社の側も同じです。
そういう消費者の動向に注意するのです。
消費者を、もっとよく見たい、という気持ちと
消費者を手に入れるために虎視眈々と探索する
という会社の狩猟本能に
由来すると思われます。
この本能が弱い会社は強くしましょう。

会社が
消費者の

動向

に注意すれば
成功します。

そして
消費者の

瞳孔

に注意すれば
もっと成功します。
<服部尚樹  ロマンチック経営>

テーマ:経済 - ジャンル:政治・経済

僕という人間―5〈環境3〉
20060530180507.jpg


 写真は我が家の室(ムロ)である。14年前この地に来た時土手を掘った。ほぼ1㎥の空間があろうか。ここに冬野菜(大根や白菜)を蓄える。大体11月の初旬にしまって、次の春3月ぐらいまで食べる。これも北国という環境で生きるための環境と共に生きる小さな建築である。

 環境環境の昨今であるが「環境」には宇宙環境から地球環境、自分の暮らす地域の環境・・・、身の回りの環境まで「多くの環境」がある。地球環境は既に危機的状況にあることはもうここでは言及すまい。
 そういう「環境」のなかで私たちが身体的に最も係わりの深いのが「住環境」だろう。しかし環境問題が取りざたされるなか、あまり真剣な議論がなされないのが「住環境」ではないだろうか。もちろん住宅メーカーなどの「環境にやさしい、人にやさしい環境住宅」というようなキャッチフレーズ、商品としての「環境」は巷に溢れているが、果たして今いうところの「環境住宅」は本当に「環境にも人間にも環境的」な住宅なのであろうか。
 まず住宅メーカーや住宅評論家(そんな言い方があるとすれば)たちが声を大にして推奨している住宅は「高気密高断熱省エネ24時間機械換気(24時間機械換気は建築基準法で定められてしまった)」そのうえ最近は「オール電化」がついてきた。多分こういう住宅が「環境にやさしく、人にも快適な住宅」といっているのだろう。
確かに隙間風が吹きぬけたり埃がまったり、科学物質が満ち溢れた(いわゆるシックハウス)住宅は問題である。しかし先にあげた「高気密・・・・オール電化住宅」すなわち「完全に機械的に快適であろう一定の環境に制御された住宅」が本当に地球環境にも身体にもやさしい住宅なのだろうか。

 55歳まで田舎と都市でほぼ半々暮らし、それなりに建築に係わってきた僕は、今最先端と言われ住宅業界も電気や電力業界、国を挙げて推奨している「高気密・・オール電化住宅」は「環境にも人間の身体にもやさしくない住宅」だと考えている。
 
まず「環境にやさしい」というのが曲者である。理論的にいうと「高気密高断熱」であることはかまわない、しかし「高気密高断熱にしたことで24時間機械換気をしなければならない」というのが気に食わない。大体住宅というかなり空間的に隔壁があり生活のための用具(家具など)がおかれた空間であり、換気が計算どうり理論的にいくはずがない。空気の流れとて物理学で言うところの流体(空気は一見さらさらしてなられやすいようだけど台風や団扇で送る風を考えてみてください。けっこう粘性があり抵抗があるものなのです。)で必ず渦ができよどみが出来る。また温度と湿度を一定に保つために24時間機械換気したうえで窓を開けるな。こんな馬鹿な不健康な暮らしがあるものか。人間は温室の熱帯植物でもビニールハウスのほうれん草や高級サクランボでもない、朝は窓を開け冷気を入れて、掃除の時や晴れた日は建物全体に風を送り込む。冬だってキリリと冷えた空気にさらされるのも気持ちいいものだ。
しかし今の制度、最先端の住宅ではそうゆう暮らしをしてはいけないという。

 数年前オフィスビル症候群(慢性的な健康不良)が問題になったが、これはビルの機械的環境管理に限界があることを示した。その後解決の道がないので話題にならず、健康食品や健康飲料でそれをごまかすブームがやってきた。個人住宅でも湿潤な日本では理屈は同じなのです。
 
省エネという面でも電気に頼らなければ快適に暮らせないなど、まったく馬鹿げている。原発が止まったらどうするんだ。原発が環境にやさしいというが、ウラン採掘(ウラン採掘現場での現地人への迫害もある)から運搬精製、発電、制御、廃棄物管理(まだ当てもない)・・まで考えた原発の全体系が環境にやさしいなどと誰がいえるのか。エネルギーは、自然エネルギーも化石燃料も、薪も、そしてローカルエネルギー(この開発を何故急がない。それは電力会社が儲からないから)も上手く混ぜて使うのが環境も人間も生き長らえる秘訣である。原発に頼るしかない住宅など環境にも人間(特に大事な未来の孫子にとっても)にもやさしい住宅であろうはずがない。
 付け加えて言えば、快適超高層マンションライフ、特に東京や大阪で、をステイタスとして最先端の「快適環境住宅」と勘違いしている方々、超高層住宅での暮らしは人間の身体(特に妊婦、幼児にとって、老人、・・)にとって最悪の環境であることが諸研究(特に超高層を作っている建設会社の研究)でも明らかで、かつ、長周期(数秒)の地震のゆれには建物も、そのなかの家具人間もどうなってしまうのか設計手法すらない・・・、ただ目をつぶって建ててしまっているだけなのです。

超高層マンションの暮らしはハリウッド映画で美男美女がグラス傾けて愛をささやく、そんな程度にしておいた方がいいのです。
 ま、僕という人間が作りたい推薦する住宅環境は「ほどほどに自然の影響を受け、ある場合は積極的に自然と対峙し、人間の感性を使って自然と共に暮らす身体的住宅」簡単にいうと「雨風を防ぎ、太陽を浴びて(もちろん庇もあるよ)、心地よい風が吹き抜ける」そんな住宅がいいと思っています。いうまでもないが個々の特性(高齢者、弱者など)には配慮した。皆さんも地球環境と共に、もっと自分の暮らす環境を考えていただきたい。そこから地球環境が逆に見えてくる。
そんなこといっているから仕事の依頼が来ないのかな・・。売れない建築屋のつぶやき。

 丸山暁(55歳・人間)

あなたはキラキラしている ?2006年05月28日
こんにちは。

紅牡丹が満開。
20060530071020.jpg

村上龍の『テニスボーイの憂鬱』

「人生はテニスのシングルスゲームと同じで、
 誰かが誰かを幸福にすることなどできない。
 他人にしてやれることなど何もない。
 他人のことをわかってやるのも無理だ。
 他人を支配するのも無理だし、
 支配されることもできない。
 ・・・・・
 もし何か他人に対してできることがあるとすれば、
 キラキラしている自分を見せてやることだけだ。」

なるほどね。(^^;)

会社も実は同じです。

会社の商品やサービスは
正確には
消費者を幸せにすることはできない。

消費者に対してできることがあるとすれば
キラキラしている自社の姿を見せてやることだけだ。

消費者は
あなたの会社の商品やサービスのそのものを
正確にはつかめないのです。
買って見なければ分からない、と
消費者自身、思っています。

それでも
消費者は、あるとき決断をするのです。

これを買おう。

なぜ、そういう決断をしたか?
あなたの会社の商品やサービスが、

いい

と思ったからではない。

いいかどうか分からない。
けれど、なんだか気になるから
そういう自分に賭ける。

そういうことです。

伝わっていますか?

一種の天の声に
消費者は身をまかせるのです。

で、次が大事なことです。

消費者は、
どうして
自分の身をまかせるような天の声を
そこで感じたか?

これこそが、商売で一番大事なことです。

消費者は
その会社の商品やサービスが
自分を幸せにすることはできないと思っているんです。

それなのに
消費者は、
自分の身をまかせるような天の声を
そこで聴いてしまった?

どうして
そんな声を聴いてしまったのか?

それは
その会社の商品やサービスを扱っていた人が

キラキラしていた

からなんです。

「キラキラしているところにお金が集まるから
だからキラキラしたものを身につけなさい。」

長者番付トップの成功者が言っていますが、
そういうことです。

キラキラしている人は成功します。

何もキラキラしたものを身に付けなくてもいい
と私は思います。
あなた自身がキラキラしているんです

服部尚樹 ロマンチック経営より>

テーマ:マーケティング - ジャンル:政治・経済

田中知事対話集会に脅迫状?本質を見据える皮膚感覚を研ぎ澄ませ?5/29
5月26日の新聞に『「小学生、園児殺す」と脅迫文、田中知事の集会中止』という記事が社会面の片隅に載った。田中長野県知事の車座集会を妨害するため「開催したら小学校・幼稚園・保育園児を1人ずつ殺す」というファックスが怪しげな政治結社と名乗るところから開催地の村役場に送りつけられ、安全を考えた結果、知事と県民の対話集会が中止された、と述べている。
私はこんな馬鹿な奴の脅かしに屈する形で対話集会が中止されことも問題であるが、この問題に対する新聞その他のマスコミの取り上げ方が小さいことの方が大いに気になった。

昨今政治や行政が市民から遠いものとなりつつあるときに、知事が直接県民と向き合って対話を行うということは、民主主義の原点とも言うべきものである。その対話集会を脅迫という卑怯な手段を用いて阻止しようとする行為は、単に知事に対する妨害ではなく、県民全てに対する妨害であり、またそれは、言うまでもなく民主主義そのものを否定することであり、社会全体に対する妨害といえるものでである。

田中知事が現在のわが国の体制側からやや外れたところにいるためか、マスコミの論調は、田中知事個人に対する嫌がらせという矮小化した捉え方をして、片隅の小さな記事としての採り上げ方になり、市民の反応もほとんど聞かれない。

この結果、こういう理不尽な脅迫した側の要求が通り集会を中止させたと言う事実と、この脅迫行為がさほど大きな社会問題として提起されないという形が残された。
脅迫した側は、社会の大きな反論を受けなかったことから、それ程大きな罪を犯したという意識を持たずに、自分の主張を通したという達成感を得たことであろうし、一方の知事や集会へ参加を予定していた県民は、正当な社会活動が不法に阻止されたにもかかわらず、社会からのバックアップが無いという状況が形として残された。

私は今回の事件は、血が流されたり何億円も損害を被った言うようなものではなかった事から簡単に見過ごされようとしているが、実は社会システムの根幹にかかわる問題であると考える。
マスコミも我々市民も目先の出来事に振り回されて、物事の本質を見据える皮膚感覚が鈍ってはいないだろうか。
ゆっくり風呂に入って皮膚に付いた垢をこすり落し、野山を訊ねて新鮮な空気を吸って、しっかりと皮膚感覚を研ぎ澄ます必要があると思う。
<疾風>

テーマ:気になるニュース - ジャンル:ニュース

山里便り?「山ウドは、ここさ、植えろ」 2006年5月28日
「ここが、いいんだ。ここさ、植えろ。」と、山ウドを3株下げて
隣のおじいちゃんがやって来た。
「1本食べていい?」と、私。
「今年は、まづ、植えておいた方がいいんだ。」と、おじいちゃん。
あれから5年。
栗林の端に植えた山ウドは、スクスクと育ち、株が広がり増えた。
塩漬けにして保存するほどの収穫はないけれど、毎日、数本ずつ収穫できる。
何本か残して株元に落ち葉を積み、山中の環境を作って来年に備える。
花を咲かせ、花も食べる。

いくら山の中に住んでいるとはいえ、畑のモノと山取りのモノでは、微妙に風味が違う。
それでも、おじいちゃんたちが、自分たちの山からセッセと掘って庭先に植えるのは、
本当に、盗掘が多いからだ。
山野草も山菜もキノコも、根こそぎ持っていく。
10日前には、ワサワサとあったシドケがない!スコップで掘り、持って行った穴がある。
品のない、そのやり方には、怒りよりも「ヤレヤレ」という気持ちの方が強い。
杉の植林で、コゴミの谷も消えてしまった。
ここらあたりのコゴミは、ただのコゴミと違う。茎が赤くて太くて、特別美味しい!
これもまた、ヤレヤレだ。

とりあえず、気を取り直して、『山ウドと大豆の木の芽味噌和え』を作った。
山ウドと大豆の山椒味噌和え

山椒の木は、西南北側に1本ずつ植えている。
南西の木が、今、最高に良い時。
子供の頃、お風呂の中で、
「1つ、2つ・・」と数えたように、
「1枚、2枚・・」と数えながら、80枚。
なんという贅沢!
味噌は、「ちいさな野菜畑」で購入した白味噌。
白味噌は、甘味料が添加されている場合が多いけれど、
これは、無添加でおいしい!

どうやら、岩手県は、環境税を導入することに決めたらしい。
山里に住み、山と共に、山を守りながら住んでいる私たちも、一律に払わなければいけないなんて、
納得できない。
「おいしいなあ」と「納得できないなあ」を繰り返しながら、食べた夕食でした。
yo


地産地消とは!
岩手日報の「いわて経済 万華鏡」に「地産地消」が二回にわたって取り上げられた。
一回目は矢巾町の学校給食に地場農産物を取り入れた現場を取材し“地産地消の拡大は、地域自給率を向上させ一次産業の経済的波及効果をもたらす。夏休み等の休日対応や、規格の問題等もあるが、市場性は残されている”と結んだ。
二回目は、盛岡市手代森の産直「花山野」を取り上げ、売り上げを伸ばしている産直と閉鎖する産直があり、淘汰の時代に入った。“年間百億円近い市場規模となり農産物の流通チャネルとして確立されネットワーク化などによる底上げも急務だ。”結んである。
 そもそも経済としての「地産地消」と言う行為は、今話題となっている公共事業の談合問題と一緒である。安い海外産や国内大産地の野菜や肉製品を押しのけて地域の業者(農協)を使うのは、「安心・安全」を隠れ蓑にした地元業者優先の談合である。そこには経済的必然性がまったくない。
そもそも「地産地消」という行為は、「身土不二」という仏教の言葉によって裏付けされた行為である。「身土不二」という言葉は、最近「地元のものを食べることが身体によい」という食哲学の言葉として一般的に理解されているが、
その言葉には「食」と言う文字はなく、「身と土は二つにあらず」と読み、「身体と風土は、二つに分けられない」と解釈される。
つまり「グローバリズム」に対する「ローカリズム」の精神である。
「行為」は「精神」に裏打ちされないと、永続性がない。
 学校給食をセンター方式で、3000人分の食事を午前中に作るためには機械化が必要だし、その機械にあわせた規格の農産物の供給が求められる。
記事中に生産者の情報が入っているとあったが、一軒の農家で大量の規格品が供給できるはずもなく、単なる農協の規格品を提供すると言う、従来の仕入れ先から農協に変更するだけの話である。
 また産直の底上げ等という発想は、一方的見方である。そもそも140万県民の胃袋の容量は決まっている。今まで市場流通で対応してきた農産物が、産直の台頭によって市場、仲卸、八百屋の流通ルートが苦境に陥っている。
岩手の旬は短い。その時だけ販売して、あとは知らない、と言うのは市民への年間食糧安定供給と言う役目を果たしていない無責任な行為である。そして、売り上げを伸ばすと言う論調は、それを助長するモノである。
 「地産地消」を経済行為として捉えてはいけない。拡大経済の中で地産地消を言うなら単なるブームで終わるだろう。
新しきコミュニティの創造、旧来のコミュニティの復活、と言う地域再生の観点で捉えなければ…。
<たこ入道>

テーマ:時事ネタ - ジャンル:ニュース

僕という人間?その4〈環境2〉
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 写真の状況がすぐに理解できる人はかなりの自然大好き派です。
 我が家の小さな池には毎年東北サンショウウオが産卵します。マガタマのような形のゼリー状のものがサンショウウオの卵です。では周りにいる数匹の黒い四足のやつは卵を守るサンショウウオの親かと思いきや、卵と孵った子供を食ってしまうイモリでした。
 サンショウウオの運命や如何に、これが「環境」というものです。
 ところで前回取り上げた写真を知ったかぶりで熊のウンコと自信を持って書きましたが、近所の人に確認したところ「熊でねくて、狸の糞だめでねか」とのことでした。訂正のうえお詫びいたします。家の庭には熊がきたようですがまだ熊には出会ってません。残念!

 さて本来「環境」とは「環境を守りましょう」「環境にやさしく」なんていってる場合ではなく、池のサンショウウオの運命のように、生命にとって厳しいものなのです。
 生命の種は地球誕生後の数十億年前灼熱地獄の大地に降り注ぐ雷雨の中で誕生したようだし(宇宙飛来説もあるが)、地上の生物はもともとCO2を摂取し(植物は今もそうですが)酸素を放出していたのに、酸素の比率が増えていくと、今度は酸素を摂取する生物が発生する・・・というように、いわゆる大きな環境変化によって進化した。人類が誕生するまでには10数回の生命にとっての危機的環境破壊があったという、哺乳類にとっての大きな環境破壊はユカタン半島チテュブルへの隕石落下による核の冬にあったという。現代人類の始まりのイブとてアフリカ大地溝帯の大変動があったからうまれた。
 いわゆる生命の進化は大きな環境破壊を乗り越え、もしくは環境破壊によって変化させられた結果といえる。
 そうであれば、人類の進化を考えれば今の環境破壊は人類にとっての飛躍的進化の契機もしくは好機とも言えるかもしれない。そうであれば「人間よ進化のためにはもっと環境を破壊せよ」いうことになる。だったら、ちまちまと「子供たちに環境教育を、リサイクルを、地球を大切に、命を尊び、」などとおせっかいを焼かずに、「食って飲んでどんちゃん騒ぎして」人間はやりたい放題今のままでいい。だから、地球規模での「環境」問題は人間があたふたする問題ではないなどとニヒルに生きようではないか。
 ただ、もちろん今の急激な環境変化に人間の進化が追いつくがどうかは知りません。それまでの環境変化は自然のなせる業だったけど、今度のは人間自らが変化させてるのだからその責任は人間にあるのだし・・・。
 ま、とにかく、今「環境環境」という人たち「政治家も教育者も環境保護屋さんも有識者という人たちも・・・」が一番大事にしなくてはならない「環境」とは何なのか。それは「地球環境」ではなく、自分自身の「日常環境」ではないでしょうか。要はたらふく食って、たらふく飲んで、快楽を享受しながら、劣悪の日常環境をあたりまえのように生きている方々、そこにこそ「環境問題」の根本があるのです。
 やっぱり、日々の「生活環境」を人間という種にとって(自分自身にとって)、身体的にも快適な環境に近づけるべきではないのでしょうか。それはやっぱり都市での行き過ぎた文明生活をシフトダウンすることだし、食べものを残さないことだし、あんまり夜まで起きて遊んだり仕事しないことだし・・・・。
 僕は銀座や神田で飲み歩くのは大好きだったが、30歳のころから「どうも東京という環境は僕が暮らしたい環境ではない」と、考え始めていた。また、どんなにがんばっても僕の手で「東京の環境」を変える力もなかった。逆に、ゼネコンにいたから環境をもっともっと悪化させる仕事をしていた。
 僕の手で環境を変えられないなら、僕が環境を求めて旅立つしかない。それが僕の今の環境である。
 もちろん「環境」とは「自然環境」だけでなく都市基盤、食料環境、社会環境・・・様々な人間を取り巻く全てが環境であり、その全てが最良の環境などありえない。しかし今僕が考える「最良の環境」は「美味しい空気ときれいなせせらぎがあり、地域で取れる新鮮な食べ物があり、自分が自分として生きていける環境」、そんな「環境」ではないだろうか。
 多分地球規模での「環境問題」の根本はそういう「環境」にあるのではないか。僕たちが良質な環境を求めるように、他者(他の国、地域、とくに搾取されている人々、低開発や発展途上国など)も良質な環境を享受できるような社会構造に向かうことが「環境問題」の解決ではないか。
でも残念ながら「CO2の排出権の売買」などと世界はますます先進国がより狂乱的な文明を享受するように動いている。
 僕という身体はきっと今の環境破壊のシナリオにはついていけず進化もしないで、きっと死んでいくだろう(あと30年いきれば十分か)。しかし生き残った子供たち次の世代とて、ここたった百年の環境変化に対応していけるのだろうか。
生命の進化は数万年、数億年単位で起こるものである。これからのたった百年では人間は進化しようがない。そうなら人間は何処に行けばいいのだろう。
 これは悲観的過ぎるシナリオでしょうか。巨大都市、特に東京で最先端の暮らしを暮らしている方々、六本木ヒルズの皆様、東京ビッグシティーにお家を買おうという方々、あなた方だけが特殊な保護された「贅沢環境」で生き続けられるわけにはいかないのですよ。少々田舎暮らしのひがみがでたかな?でも本音。
 
丸山暁(55歳・人間)


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

マスコミを信じるな!?
5/25 マスコミを信じるな!?
 「ちょい÷和尚」氏が4回にわたって論じていた岩手日報5月13日付の青森県六ケ所村の再処理工場の「広告」を新聞社のあり方という視点から考えてみたい。
 この広告はいわゆる「記事広告」といわれる類のものである。「広告」と右肩に小さく入ってはいるものの、中身はインタビュー記事の体裁となっている。自分の主義主張を広く伝えるために紙面を買って掲載したものだ。
 再処理工場の安全性に対しては、漁業関係者などを中心に岩手県内でも不安の声が上がり、県や沿岸市町村などが県内での説明会の開催を求め、いったんは拒否されたが、強い声に押されて開催されている。この経緯を考えれば「広告」の掲載の目的は明らかである。
 「広告」の中身の問題点については「ちょい÷和尚」氏が詳細に指摘しているので触れないが、掲載した側の岩手日報の姿勢にも問題があるのではないかと思う。
 県内での不安の声については同紙も報道している。県民の何割がこの問題に関心を持っているのかは世論調査をしなければ分からないが、少なくとも反対の立場の人たちがいる。
 私は新聞も含めたマスコミが標ぼうする「中立性」を信じないが、少なくとも今回の「広告」の掲載はその「中立性」からも疑問がある。
 「広告」と銘は打っているものの、記事の体裁を採っており、読者に「再処理工場は安全だ」という考え方を押しつけてしまう危険性を知りながら、広告料が入るという営利優先で掲載したというそしりは免れないだろう。
 極論すれば、金さえあれば自分の主張を「紙面を買う」という方法で広く流布できることになる。それに安易に手を貸す行為に対して同紙の社内で何も議論がないのか聞いてみたい気はする。
 立場は違っても、編集に携わった私自身の経験から考えると、営業サイドは別にしても、編集サイドからは何らかの抵抗があったのではないかと思っている。
 ほとんどのマスコミが、読者(視聴者)よりも営業優先という体質にあるのが現実であることを示した典型的な事例だということだ。
 結局、読者・市民はマスコミの報道を鵜呑みにせず、自ら判断する目を養わなければならないし、我が「市民ジャーナル」のように市民自身が情報を発信、共有する仕組みを広げていくことが必要ではないか。(Z)

五月に鷲は飛び立つ
もう夏はすぐ。
急に夏のように暑くなって
街も軽やかな足取り。

[READ MORE...]
IT革命は我々に何をもたらしたか
最近話題のインターネット関係の本、『ウェブ進化論――本当の大変化はこれから始まる』、『「へんな会社」のつくり方』、『WEB2.0への道』という本を立て続けに読んでみた。
ここに出てくる用語は、「WEB2.0」「チープ革命」「ロングテール」「ブログ」「RSS」「sns」「グーグル」「アフェリエイト」「API」等等・・・・・。
こういう用語を駆使しているネットの向こう側にいる人間は、世界は大きな革命的変化が始まろうという入り口に今立っていると叫んでいる。それはインターネットが始まった10年前からの出来事を指すのではない。10年前から始まったインターネット時代は情報革命の助走路であり、昨年あたりからいよいよ本当の大変革が始まったと説いているのだ。

いまや会社の一人一人のデスクの上には必ずインターネットに繋がったパソコンがあり、ほぼ全てのビジネスマンはパソコンのキーを叩くことが仕事になりつつある。社内の連絡は電子メールや電子掲示板、テレビ会議や電子決裁も可能な状況となってきている。
仕事上の疑問点や調べものは、インターネットにキーワードを叩き込んで検索をクリックすれば膨大な情報を何時でも何処にいても瞬時に探し出すことができる。
ひと昔前の、僅かな経験と僅かな手元にある書物と資料、そして限りある知り合いが情報源の全てであった頃から見ると、数百倍も数千倍も情報源が広がったのである。

こういう状況を指して、「机の上に博物館と図書館を備えているようなものだ」と評した人がいたが、確かにそういう見方はあながち過大だとはいえない。

それでは、そういう利便性は終局の生産物として我々に何をもたらしてくれたのだろうか?
「テレビ会議は効率的なコミュニケーション機能を発揮して離れた職場の意思疎通を向上させたか?」「パソコンとLANにより事務処理の効率化が進み残業が減ってみんなが楽になったか?」「ペーパーレスは進んだか?」「ルーチンワークから開放されてゆっくり考える時間が増えたか?」「最終的に我々の生活を豊に、幸せにしたか?」・・・・
これらの質問に対して躊躇無く“イエス”と答えられるだろうか?
仕事の過程も、結果として出される製品も、本当にIT革命の成果が実感できないのはどうしてなのだろうか。

インターネットなどのIT革命によって、マイクロソフト社のビル・ゲイツは世界一の大金持ちになり、日本でもソフトバンクやヒルズ族というIT長者を出現させた。IT革命はIT企業を潤わせたことは疑う余地は無い。しかし、ここにばかり目を奪われて、本来の目的である、“社会を豊にしたかどうか”という視点を忘れているのではないか。

産業革命は人々を重労働から解放し物質的に豊な社会をつくりあげた。
では、インターネットを始めとするIT革命はこれから我々に何をもたらしてくれるのだろうか。

『ウェブ進化論』の中で著者の梅田望夫は、グーグルは「増殖する地球上の膨大な情報をすべて整理し尽くす」という理念の基に創立されたベンチャー企業であり、「知の世界の秩序」の再編成を目論んでいる、と述べている。
シリコンバレーのオプティミズム(楽天主義)はこのことを現実にすることは不可能ではないと思わせるものがある。
では、その先にある “社会の幸せをつくり出す”ことも可能であることを、我々に現実として見せてくれることを期待したい。
<疾風>

テーマ:インターネット - ジャンル:コンピュータ

郊外大型店と中心市街地空洞化?選択肢は市民の手にある?
盛岡市郊外の盛南開発区域は、1980年代のバイパス沿いの大型店進出に次いで、第2次大型店進出ラッシュの様相を見せてきている。
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“盛南開発”は盛岡の街の南西側に市役所や県庁などの公共施設を中心とした都市機能を移転して新しい都市の核をつくり出し、これにより人口20数万人の盛岡市を50万都市に拡大発展させようと30年以上前に構想が出された。
この計画が出された当時は、全国的に新都心建設ブームで、近隣でも、秋田、山形などで実施されてきた。しかし、先行したこれらの各市では、広い道路ときれいに区画された殺風景な新官庁街の出現と、中心市街地の空洞化を招く結果を残してきた。
盛岡の盛南開発は後発であったため、オイルショックやバブル崩壊などの経済変動の影響を受けて事業が遅れ、これが幸いして、これまで中心市街地の空洞化を免れてきた。
しかし遅々としながらも進めてきたものがここに来て全体像を見せ始め、堰を切ったように、広い道路に面した広大な敷地に、大駐車場を装備した大型店が続々と開店し始めてきた。

盛岡市の50万人都市構想は、日本全体の経済も人口も右肩上がりの時代につくられたものであり、既に人口減少が始まった時代には則さないものとなってきている。このため市は既にその看板をしまいこんで、いまや“コンパクトシティー”を前面に掲げ職住混在の歴史と文化の街づくりを押し進めようとしている。
しかし、数十年単位で進めてきた盛南開発事業を今更ストップすることは出来ない。橋や道路は完成させ連結して初めて効用を発揮するが、途中で止めれば何の役にも立たない残骸となるだけであり、それまでの投資が全く無駄になる。また、開発した用地は、市役所や県庁などの公共施設の移転が財政難から既に困難な状況にあるため、勢いその買い手は大型店に期待せざるを得ない状況になっている。

このため、コンパクトシティーを掲げながら相反する郊外新都市の建設を進めざるを得ず、中心部の空洞化を懸念しながら大型店の進出も促進するという、大きなジレンマに陥っている。

「新都市建設事業は途中で止められず、早く完成させて効用を発揮させなければならない」
「新都市開発用地は大型店用地に売却せざるを得ない」
「旧市街地に残る文化や伝統を守るためには大型店の立地に歯止めをかけたい」
「コンパクトシティーの街づくりを進めたい」
こういう三飜役(サンハン)四飜役(スーハン)縛りの中でどういう街づくりを進めるべきか、大きな課題に直面しているのが盛岡の現状である。

さて、こういう問題を提示されるとすぐに、やれ行政は何をやってきたの、首長や議会は責任をとれのと言い出す輩が声を張り上げがちであるが、政治や行政を責めても何の解決策にもならない。こういう施策を進める首長や議員を選んだのは市民なのだ。市民一人一人が他人任せにせず、その責を負って解決策を模索していかなければならない。

それでは市民は解決策を出せるのか?・・・。いや、市民にしか解決策は出せないと私は思う。

唯一の解決策は、市民が何を守りたいのかを一人一人が熟考し、それを実行に移すことである。
地域の商店街を守りたいのであれば、地域の商店街で買い物をすればいいのだ。バスや歩いて買い物に行くことが少々不便でも、一ヶ所で全てが揃わなくてもいろいろなお店を回って、あるいは少々値段が高くても。
みんなが地域で買い物をすれば、地域の商店も良い品揃えができるようになる。地域でお金が使われればそのお金が地域で循環するようになる。地域にお金が循環すれば地域経済が活性化してくる。

ちょっとした便利さと、ちょっとした値段の安さに釣られて中央にお金を吸い上げられて経済的に下請けの道を選ぶのか、ちょっとした不便を受容して地域経済と地域の文化と伝統を守るのか、選択肢は市民一人一人に委ねられているのであり、その結果に対する責任も市民一人一人がとるしかないのである。
<疾風>

テーマ:時事 - ジャンル:政治・経済

山里便り? 「りんごの枝とシフォンケーキ」 2006年5月21日
りんご農家の春は早い。
早春の雪が舞う中、りんごの枝の剪定をしている光景を
しばしば見かける。
畑の端に積まれた小枝は、ちょっとした丘くらいの高さだ。

我が家では、薪ストーブの焚きつけ用に毎年もらっている。
Sun-chanが愛車で運び、私がナタで30センチに切っていく。
「軽トラを貸してあげるから、それで運べば早いよ。」と
言ってくれる人もいるが、
狭い我が家の敷地に、1度に運んでも置く所がない。

天気の良い日に、ちょこちょこと運んでくる。
「今年は、キジがよく鳴くなあ。」とか
「あれ、カッコウが、もう鳴いている。」などと
気づかなかった音が聞こえてくる。

次の冬に備え、軒下に積んでいき、
いっぱいになると、
とりあえず、ひと安心。
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お礼に、手作りケーキを持っていく。
今年は、何にしようかと考えるのも楽しい。
チョコマーブル・シフォンケーキにしようかな。
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枝をもらい始めた頃は、
小さかった3人の子どもたちも
今では、立派なお姉さんに成長している。
月日がたつのは、本当に早い。

私も彼女たちと同じように成長していると
いいのだけれど・・。
「目指せ、立派な中高年!」

yo

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

農業の二面性
小生は、農業には二面性があると思っている。
それは産業という経済活動、そして営みという側面である。
 多くの人が農業を第一次産業と位置づけ、他の産業と同一に捉えている。
農家もしかり、農業は苦しい、収入が安定しないと言い、後継者には継がせたくない。もし経済活動が資本を投下し、売り上げを上げる活動を言うなら、農業という産業は、資本投下に値しない活動である。なぜなら資本投下してもそれに見合う生産が上がると言う方程式に、あてはまらない。なぜなら自然という大きな力に左右されるからである。寒さが続けば冷害を、暑さが続けば干ばつを心配し、雨が多ければ日照不足を嘆く。そして科学で自然を克服しようと様々な技術が開発される。しかし、自然のパランスは、一方が良ければ一方が崩れるように、うまく行かない。結局、科学技術というのは、ある程度まで有効だが、万能ではない。つまり、農業生産は農家が主役ではなく、太陽光からブドウ糖を作り出す光合成の仕組みを助ける管理者である。だから工業のように、思うような生産ができない。
 人間は、食べて生きていく動物である。食べ物が無くては生きていけない。海辺の村では、海にさえ行けばある程度の食べ物が手に入る。山では森の中に行けば、何らかの食べ物が手に入る。ところが安定して食べ物を手に入れることは出来ない。より一層の安定した食べ物生産、それが営みとしての農である。
そこには、耕すという自分の腕を高める技や、植物の生長を感じ取る目を養い、結いなどのように助け合う人間関係、そして自然と共にある自分を確認する喜びもある。それを「営みとしての農」だと小生は思う。

つまり金銭を媒介する商品経済としての農業は、産業として常に不安定な仕事であるが、営みとしての側面は、素晴らしい人間本来の仕事である。
今の経済優先社会では、農業という言葉を、産業としての農業と営みとしての農を、まぜこぜにして使っている。だから齟齬をひきおこす。
農政もしかり、「水田集落ビジョン」等というモノは、WTOにて作物別補助金が禁止になったのを受けて、集落単位で補助金を出そうと考えている机上の空論である。
農産物の流通は、中央政府が政策を立てるべきだし、集落は地域の営みとして、どう取り組むかを考えるべきである。それを一方的に集落営農の計画を出さなければ補助金を出さない、等というのは、言語道断である。
<たこ入道>

「僕という人間―その3〈環境〉」
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 今僕が暮らす環境は、まさに写真のような山菜が目に前の山で取れる環境である。この季節は例年の経験と天候とを見計らって、週に2?3回は山菜採りに出かける。
僕は、この地域では新参者だが、集落のみんなが「丸山さんは何処の山でも山菜採っていいよ」と許可を得ている。僕は今そのような環境で暮らしている。ありがたいことである。

 環境という言葉は現代社会では重要なキーワードとなっている。環境破壊、環境保護、これからの地球環境如何では、人類があと1世紀持つかどうかも分からない状況にある。あと数十年で地球温暖化により気温が2?3度上昇するという。
 2?3度というと日々の体験からは「ここのとこ一寸暖かいな、今日はいつもより一寸冷え込む」程度のところだが、地球規模で考えると、海面上昇、氷河の融解、海流の停止、異常気象、砂漠化、温帯地域の熱帯化によるウイルスの拡散・・・・・が起こり、本当に人間は壊滅してしまうかも知れない。みんなあんまり慌てていないようだが、今のままなら100%確かだろう。
 地球の温暖化の原因は、地球という天体の自然のなりゆき(地球事態は今小寒期に向かいつつあるという説もある)で人智の及ばないことというニヒルな考えもあろうが、人間の文明行為が放出した温室効果ガス(CO2や代替フロンのなど)が原因と言う説が有力である。
 それなら、本当に本当に経済発展、市場開放、益々の生産拡大などと言っていられないのだが、先に進んだ国が発展途上国や、中国、インドに経済発展するなと言えるはずもなく。日本とて省エネ、環境保護と掛け声は大きいものの、実体は生産拡大、経済発展、その証拠にエネルギー消費見込みは右肩上がりである。エネルギーとて資本主義の経済活動であり増加させるしかないのかも。

 このままでは人類は、当然のこと文明を享受している日本人とてどんなに楽観的に見ても、近い将来超極悪な環境(灼熱地獄か寒冷地獄か嵐の日々・・・)を生きることになるだろう。ルネ・デュボス(仏の生物学者)が「人間の特性は環境になれることにある」といっている。これはイヌイットの暮らしも灼熱の砂漠の暮らしも、またスモッグで咳き込んでも人間は暮らしていけるということである。
 しかし人類は何処まで環境に適応できるのか、ひょっとしたら未来の人間は姿形、少なくとも内蔵機能がいまと異なった人類かもしれない。宇宙人は本当は未来の人間の姿かもしれない・・・・・・・。

 石原都知事よ「オリンピックを東京で」などとのんきなことを言ってる場合ではないぞ、東京のエネルギー消費、局所的な温暖化(ヒートアイランド)、そのうえ、関東大震災だってやって来るんだよ。これは間違いのない地球の自然現象なのだからさけられないのだよ。

 人間は幸か不幸か環境に慣れる動物である。だからこそ地球上に広がり、ある意味劣悪な環境でも生きていける。
「炭鉱のカナリア」は多分死に絶えただろう、でも人間は今だ華やかな文明を生きようとしている。

 僕は宇都宮の農場で生まれ、2歳から小学校4年まで広島の庄原市(中国山脈のど真ん中、ヒバゴン〈日本固有の猿人〉が住むという山奥、小学校5年から広島市の海っぺたで高校まで過ごし、それから東京で40歳まで暮らして今岩手県北上高地の霊峰早池峰山の麓にいる。
 僕は今、そのような環境を生きてきた。そのことと僕という人間はどんな関係にあるのだろうか。少々長くなったのでそのあたりが後日とする。

<丸山暁(55歳・人間)>

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

モノとコト4 東北原子力懇談会広告批判
再処理工場など操業しない方がよい!
 こんなヤバイコトに手を出さない方がよい!
 これが前提である。
 が、すでにアクティブ試験が始まり、実質的には操業が始まっている。
 また事故があったみたいである。
 この工場の安全性について、つまりそれぞれの放射性物質の、管理及び監視についての具体的問題点を、語ることは他の人に任せることにする。何せ!専門知識に乏しいもので。
 で、最後にこの広告の意味を問うてみたい。つまり、なぜ再処理工場は安全です、という広告をしなければならないのか?である。しかも高いお金を払って、挙げ句の果てに久保寺昭子なる学者?まで担ぎだしてである。
 それは、事業主体の見栄と当然にも利潤追求のためである。国策であれ,かね食い虫であれ始めた以上は最後までやる,という特攻精神的見栄と、核燃料サイクルという、何か新しい産業の誕生を夢見、それは将来利益を産み出すという幻想を、植え付けるための広告でもある。ある意味世界的にも最先端の科学技術と、それに伴った産業経済の発展、という甘き夢の実現に向かって邁進努力している、事業であることの宣伝でもある。
 今、私はどのような社会を生きているのであろうか?変えたくても変えられない、抜け出そうとしても抜けられない、社会である。そのような社会の象徴としての、核燃料サイクル構想である。平たくいえば、やはり生産拡大、貨幣経済の合理性、それに伴っての経済発展が、意識するしないは別として、それを是とする考え方が主流である、と思う。そのような社会を私は生きているのである。そして、その経済発展や生産拡大の恩恵も、僅かながら受けているのも事実である。しかしながら、その恩恵の背後で、漠然とした不安や不満が充満しているのも感じ取れる社会でもある。それは社会システムとそこで暮らす人々との乖離が原因であるとも思われる。システムは盤石であるのだが、その中で暮らしている人様が疲弊してゆく(JR西日本の脱線事故がそれを物語っている)。そんな社会でもある。
 特に、近代科学技術と産業経済の発展に伴う恩恵と、そのような恩恵の背後にある恐れとの、相反するコトを抱えてしまった社会でもある。そのような自己矛盾を生きている私でもある。それこそ今、私にはどのような選択肢が残されているのであろうか?難しいところでもある。少なくとも私は、二十世紀半ば頃から始まった、近代的悲劇の前で立ち止まり、考えざるを得ない。つまり、ヒロシマ・ナガサキに始まる核(放射性物質)による悲劇や、チェルノブイリ原発の巨大事故による悲劇である。特にチェルノブイリ原発の巨大事故の悲劇は、どんなに最前の知識と技術を集めても、備えきれず、あがなうことはできない悲劇は、起こりうるコトを物語っている。そのような意味で、私は危うい社会を生きているのである。その危うさに気がつき、その危うさの前に立ち止まり、私の身体で考えるコトが、私の選択肢でもある。
 現代社会で起る悲劇(非常事態)は、運命の一言で決着がつけられるものではなく。社会システムと近代合理主義や効率主義が原因の悲劇もある。巨大事故とはそのようなものである。
 今は亡き高木仁三郎は、チェルノブイリ原発事故の2年後に「巨大事故の時代」(1998年弘文堂)という著作を著わしている。その中で「現代の巨大事故が、技術の後進性や未熟性の結果ではなく、まして偶然に生じるものでもなく、むしろ現代技術システムの本質からきている。たとえば十万回に一回の事故率といわれていたスペースシャトルが二五回目の打ち上げで爆発したように、巨大技術にとって事故はもはや「ノーマル・アクシデント」(正常な事故)である。これは、現代の巨大技術が複雑な相互作用性をもち、非常に緊密に作られているために、たったひとつの要因であっても共倒れや将棋倒しを起こして巨大事故にいたる可能性が高い。巨大事故を不幸な運命と捉えて、産業側や行政当局の責任だけをとりあげるのは適切でない。そうではなくて、私たちはこれらの事故を自分たちの社会の生み出したもの、自分たちに責任あるものとしてとらえ、この『不幸』を克服するために、正面から直視していかねばならない」と述べている。
 これは、いささかきつい話であるのかもしれない。が、私にとっては心に残る文言でもある。
 
 いずれ、安全神話の背後には、非安全という悲劇が隠されている。安全であるといえばいうほど、安全であるというコトの裏が透けて見えてく。確かに絶対安全はない。それは基準や監視や管理によってコントロールできるものではない。もし安全をいうのであれば、現代社会システムからの離脱しかない。さもなくば、巨大事故は私たちの社会が生み出すものである、というハッキリした認識をするしかない。
 今回のこの広告は、悲劇(非常事態)という観点から参照すれば、あまりにも無責任なものであり、最初から事業主体の責任逃れを喧伝している、ようなものでもある。 (おわり)
<チョイ÷和尚>


テーマ:環境・資源・エネルギー - ジャンル:政治・経済

モノとコト1 東北原子力懇談会広告批判(その1?その3)
東北原子力懇談会の広告について、
2006年5月13日(土)岩手日報朝刊紙面に、東北原子力懇談会なる団体?が、専門家に聞くー「再処理工場からの放射性物質や放射線は安全ですか」というテーマで、広告を掲載した。
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テーマ:時事 - ジャンル:政治・経済

小泉内閣5年間の総括
5/19 小泉内閣5年間の総括
 テレビも新聞も小泉内閣の5年間を総括しようとしている。小泉首相の実績の評価はさておき、なぜ小泉内閣が成立し得たのか、首相在任期間が歴代3位という長期政権を維持することができたのかが、5年間を総括する重要な鍵を握っている。
 議院内閣制を採る我が国では、選挙で多数を得た政党が内閣を作る。時には連立内閣も誕生したが、政権の多くを担ってきた自民党では、派閥間の多数派工作によって首相が選ばれてきた。
 小泉内閣の特徴は、派閥間の力学によらないで成立したことだろう。「改革」を唱え、「世論」を味方に付けたこと、その「世論」を作り上げたのがマスコミであり、そのために「マスコミ」が作った内閣とさえ言われた。
 その後も、マスコミを最大限利用してきたのは周知だ。いわゆる「ぶら下がり」と言われる、取材に答える形での、ほとんど毎日の短い会見はその最たるものだ。
 自らが作り上げ、「世論の支持」が背景にあるから、マスコミが小泉内閣を批判することは、いわば自己否定みたいな形になる。そのため、首相の一挙手一投足を競い合って報じる異常な事態を生み、批判の矛先が「守旧派」に向けられ、比較で小泉首相を利することになった。
 マスコミは、自ら作り上げた「世論」の呪縛に縛られ、批判精神を失ったとも言える。
 「小泉内閣の5年間」を評価するのと並行して、マスコミ自身が、この5年間の総括をしなければならないのではないか。「ニュース23」で筑紫哲也がそのことに触れていたが、じっくりと検証すべきだろう。
 しかしながら、今も「麻垣康三」と言われる後継候補を持ち上げ、次の内閣の成立にも関与しようとしていることを危惧する。
 マスコミは「第4の権力」と言われる。この言葉はあまり好きではないが、それだけの影響力があるのは確かだ。市民自身が判断すべきことに、介入しすぎれば、報道の目的から逸脱し、国をも左右する「権力」を行使してしまうという自戒する意味で、この言葉をとらえたい。(Z)
石になってしまった私
こんにちは。
石の詩人。
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日本と近隣アジアの三国と
どうして仲良くやって行かれないのでしょうか?

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テーマ:ひとりごと - ジャンル:日記

山里便り? 「熊鈴をつけて、Sun-chanが行く」 2006年5月16日
「市民のみなさまに、お知らせします。
最近、熊の出没ニュースが寄せられています。
山へ入られる時には、十分ご注意ください。
家まわりには、残飯等を置かないように、お願いします。」
と、防災無線のお知らせが、風にのって流れてきた。
このところ、このての広報が多い。

5月といえば、山菜シーズンの最盛期。
春先に蒔いた野菜は、まだ本葉がやっと出てきたくらい。
山の恵みは、ありがたい!
「Sun-chan,。野菜がなくなったよ!」と言うと、
「おいらが、食べ過ぎるからいけないんだ。」と、おなかをひと撫でして
熊鈴を下げ、ラジオ(念のために)とハチミツ黒酢ドリンクを持ち、
チャリンチャリンと、前の山に山菜取りに出かけて行く。

シドケ&たらの芽
たらの芽は、そろそろ終わりかなあ
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というわけで、今日は、ツナとシドケのトマトソースパスタ。
トラディショナルな食べ方に飽きた時には、ピザやカレーに入れても美味しい!
我が家の前の道のワラビも、
そろそろ食べ頃に育ってきた。
山のくらしは、楽しくて美味しい。
yo

テーマ:ご飯日記(写真付き) - ジャンル:日記

「ご使用後、お持ち帰りになりませんか?」?焼肉屋さんの嬉しい一言?
先日、久しぶりに家族そろって岩手山麓にある網張温泉に入りに行ってきた。平日の夕方であったせいか、あまり混んでいなくてゆっくりお湯に浸かってきた。
考えてみればこの温泉に入るようになってもう40年以上になる。私が中学生の頃には安比スキー場も雫石スキー場もまだ無くて、盛岡近郊のスキー場といえば、この網張と竜ヶ森だけであった。当時は同級生とバスに揺られて出かけ、昼食はロッジの豚汁と持っていったおにぎり、スキーの後はこの温泉で暖まってから帰るのが定番であった。ここのお湯は白濁して硫黄の匂いが漂う、温泉らしい温泉で、アトピーなどの皮膚疾患には絶大な効果があると言われており、私自身も虫刺されの痕がなかなか消えない体質であるが、ここの温泉に入るとスーット消えてしまうことを実感している。

 さて、今日の話題は温泉の話しではなくて、その温泉の帰りに「やまなか屋」という焼肉屋さんに立ち寄った時の話である。そこで出された割り箸の袋の文字「ご使用後、お持ち帰りになりませんか?」が目に付いた。
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一瞬何のことだろうと思ってじっくり見ると、更に細かい文字で、「当店の箸は自然環境を考え若竹を使用しております。竹はイネ科の多年生常緑で、毎年大きく成長するため木製の箸から竹の箸に致しました。竹の香りは、精神安定にもつながります。一度使って捨てるのは惜しいのでご使用後にご家庭にお持ち帰りになりませんか?」と書いてある。思わず家族一同にんまりと顔を見合わせてしまった。
 実は我が家では時々外食する際に、食べ終わった後の割り箸を「もったいない」と“こっそり隠して”持ち帰ることが時々あった。一度使用した割り箸はお店でも捨てるだけなのだから、堂々と持ち帰ってもいいはずなのだが、何となくうしろめたさのようなものを感じながら、バックやポケットに忍ばせて持ち帰ってきたものであった。
 しかしこのお店では“堂々と持ち帰ることができる!”と思うと、なぜかウキウキして楽しい食事の時間となった。

 環境に優しくと “マイ箸”を持って歩くという人もいるが、私などはなかなか面倒臭くてそこまでは出来ない。でも、お店のこんなちょっとした気配りで、環境にも優しくしたような、儲かったような気分にさせられた。

 環境問題もピリピリと張りつめて考えるだけでなく、こういう身近なところで緩やかに実行してゆくことも必要ではないだろうか。

「ご使用後、お持ち帰りになりませんか?」他のお店にも広がって欲しいものだ。
<疾風>


テーマ:岩手県 - ジャンル:地域情報

牛乳廃棄と持続的食文化
 3月19日の産経新聞に「牛乳100万本廃棄 太る印象、消費者敬遠 牧草スクスク、生産過剰」の記事が掲載されている。(以下引用)

 高カロリー・高脂肪のイメージで健康ブームに乗り遅れた形の牛乳が大量に余り、廃棄処分される異例の事態になっている。「ホクレン農業協同組合連合会」では十八日から、千トン(一リットルパック百万本相当)の廃棄を始めた。昨夏の猛暑で牧草の生育が良好で生産過剰になり、飲料として余った牛乳を加工処理する工場がフル稼働しても追いつかない状況だ。さらに今後は春休みで給食がなくなり消費が激減、合計一万トン以上が廃棄処分される可能性が高い。(引用終わり)


 インターネットでは、その記事へ「もったいない精神」「政府の無策」「飽食日本の批判」「加工の提案」「飢餓国への援助」などなど、さまざまな意見が出ている。また岩手でも、酪農家に対し、今まで代用乳を与えていた子牛に、「母牛の乳を与え、いくらでも出荷を減らせ」と指示が出ていると聞く。
 しかし、根本的な問題が議論されていないように思える。
 そもそも、牛の乳を飲むという習慣は、一部の人を除いて近代に出来た習慣である。それもアメリカの余剰物資対策で、戦後の学校給食に脱脂粉乳が利用されて以来、徐々に浸透してきた。ところが日本人は、乳児の時を除いて乳糖分解酵素ラクターゼを持ち合わせていない。そのため多くの人が下痢の症状を起こしている。カルシュウムが豊富という、うたい文句であるが、含まれているカルシュウムが多くても、消化吸収できなければ、意味がない。日本人は本来、カルシュウムを豆や野菜から摂取していた。そう言う意味では、牛乳というのは不要な食文化である。
 ところが、その牛乳生産は、他産業と一緒に効率化の元に、いかに安く大量に作るかを目的とし草食動物である牛に、穀物を食べさせて大量の乳を出すようになった。そしてその穀物は、殆どが輸入穀物である。(草だけを食べさせると年間3000?4000kgの乳生産が、穀物を与えることで1トンの生産が可能になると言う)その輸入穀物生産は他国の気象に大きく左右され、穀物の価格は、これから肉食が増える中国の食糧事情により大きな変化が予想される。
 またその飼い方も舎飼いといい、牧場に放牧するのではなく動き回ってエネルギーをロスさせないように牛舎の中で飼われる。テレビコマーシャルやパッケージに牧草地に放されているシーンが、数多く見受けられるが、現場では、そのような事はほとんど無い。繋がれた牛舎で与えられた餌をモクモクと食べて、子牛を生み、乳を出し、飼料代に合わなくなった牛は屠畜される。まるで工業生産である。
 そのようにして生産された大量の牛乳は、今度は資本力の競争にさらされ、水より安く販売されている。
 不要な食文化を、無理な生産で、不本意な販売をしているというのが現実である。
 この辺で、酪農のあり方というモノを考える時期にきているのではないだろうか。
 「牛は草を食べて乳を出す」という本来の生産に戻せば、日本は牛を飼うだけの広大な草地が無いために生産量は激減する。本当の美味しい牛乳を少しだけ適正価格で飲むと言うスタイルにすれば、永続可能な新たな食文化が生まれてくるのではないか。
 安く大量に呑みたいと言う人は、輸入商品で対応すれば良いだけである。
<たこ入道>

テーマ:経済・食 - ジャンル:政治・経済

僕という人間―その2〈身体性〉
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 否が応でも目に入るだろうがまず写真を見ていただきたい。これが何の写真であるか、嫌な顔もせず好意的にすぐ見抜けた方は相当の自然派である。
 この写真は昨日(4月10日)我が家の向かいの山に山菜(タラの芽、シドケ)を採りにいき見つけたものである。最初目にしたときは「何でこんなところでウンコを」と思ったが、良く見るとウンコに木の実や種が混じっている。しかも何日か分(新鮮なものや固いのや形の崩れたものなど)のウンコがある。ここは彼(女)にとっての厠である。こんなところで何日も同じ場所にウンコをする人間がいるだろうか。しかも、ウンコの周りには紙も葉っぱも、最悪の場合のパンツ(これは経験者ならわかるだろう)も落ちていない、いわゆる拭いた形跡がない。この写真は紛れもなく熊のウンコである(僕も始めて見たので100%の自信はないが十中八九当たっているだろう)。
 
 僕が今このようなメッセージを送れるのは、僕がこのような環境、場で暮らしているからである。
 
 僕は約20数年前頃、東京銀座の東京湾が見渡せるゼネコンの高層ビルの18階にあった冷房の効いたオフィスで考えた、「僕は僕の身体をちゃんと使っているのだろうか。頭も体も感性も自分というものを十全に使って生きているのだろうか」。朝起きて電車に乗り、会社で机にへばり付いて適度に頭を使い、あわてて昼飯かっ込んでちょっとウトウトしながらもデスクワークをこなし、また電車に乗って家に帰る(たまには一杯引っかけて)。そんな生活をもう十数年繰り返している。多分これからも何十年もそんな生活なのだろう。
 
 巨大都市東京も高層ビルも億ションも経済活動の賜物であり、それらを作るために企画を立てたり計画したり図面を引いたり監督するのが僕らの仕事だった。ある意味まちを作っているのは僕たちだというプライドもあった。しかし現場に足を運ぶようになり、視点を変えてまちを見ると僕の中に疑問が湧いてきた、「本当は具体的に体を張ってまちの礎を築いているのは誰だ。それはスコップやトンカチを持った土工たち(多くは孫請け、ひ孫請けの出稼ぎ労働者、最近は外国人も多い)ではないのか」。
 彼ら土工たちと仕事の合間話をした。彼らは元々百姓だった。本当は今も百姓で暮らしたいのだが仕方なく出稼ぎにきていた。彼らは自然を読み田畑を耕し、建設現場では器用に土を動かし、大工をやり、なんでもこなした。「僕は彼らのように頭と体〈身体」を使っているのだろうか」と考えた。
 それも今僕がここで暮らしている大きな動機づけであった。

 現代社会はあまりにも脳と体が分離してしまった。心(気)、頭(脳の機能)ばかり使って、脳の中にストレスを溜め込み、体を使うことで心を開放し脳をも育てること、すなわち〈身体〉が共に生き、育つことを忘れてしまった。人間の脳は脳を使うだけでは脳が育たないということが、やっと科学的にも証明され始めた(現代という時代の大きな欠陥は科学的という神話にあるのだが)。しかし、そんなことは科学が証明しなくても分かっていたはずである。特に子供は「良く遊び(野山を駆け巡り)よく学べ」、これに尽きるのに、最近は「管理されろ、教科書を覚えろ、国を愛せ」である。これでは頭も体も、すなわち“身体”としての人間が育つはずがない。
 人間になれない。たんなる社会的自動機械(端末機)が増産されるだけである。

 僕は今畑を耕し、こうして文章を書き、たまには頭をひねって仕事して、山菜採りで「熊のウンコ」に出会い。まさに身体を駆使して暮らしている。
 また本当のところそうしないと暮らしていけない。「あんたの暮らしは楽か
い?」と問われれば、けして楽でも、楽しいだけではない。けっこうしんどい事が多いかもしれない。でも僕は自分の“身体”を使って生きているという実感を感じている。それが「僕という人間」になることだと考えている。

丸山暁 (55歳・人間)

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

旬の味!「うこぎ」と「芳梅」
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 我が家の生け垣の「うこぎ」がいま若芽を出している。この若葉を摘んでさっと茹でてクルミとみそ大根とともにきざんだものが“ホロホロ”。ごはんのふりかけとして今が旬である。
ホロホロに使うみそ大根は何でも良いかというわけではなく、ここいらでは遠野のみそ大根がホロホロには一番合うと知り合いの奥さんが言っていたそうな。
うこぎはビタミン、カルシウムの宝庫。また、生活習慣病の原因とされる「活性酸素」を消去するポリフェノールなどの抗酸化物質も多く含まれており、ホロホロは産後に食べさせるとお乳の出が良くなるとのことである。

うこぎの若芽は天ぷらにしてもなかなかいける。
昨日はうこぎと椎茸の天ぷらを肴に一杯やってしまった。
酒は、純米吟醸オリがらみ生原酒「芳梅」。滝沢村の青年農業士武田哲さんが「あい鴨農法」により農薬を一切使わず、丹精込めて作った「美山錦」を、二戸の蔵元南部美人が酒に仕込んだもの。
 盛岡桜山神社前の地酒屋芳本酒店限定販売の逸品である。
何事、旬のものの地産地消が一番である。
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<疾風>


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「僕という人間」
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 市民ジャーナルが開設された。この企てが、今後どのように育っていくのか、単なるお遊びに終わるのか、それとも、現代という時代に何らかの鉄槌を下すのか、今という時代を耕し未来を読み解く鍵を提示しうるのか、今の僕には分からない。それでも、とにかくこの新たな試みに乗っかってみるもこととする。ま、やってみない限り何も始まらない。
 このメディアが「市民ジャーナル」を名のるからには、ジャーナリズムといいながら単なるマスコミュニケーションに堕落したジャーナリズムが多い昨今、それなりに責任のある言説を述べるべきであると僕は考えている。ただ、責任あるというのは、いわゆる書く中身が真面目そうで道徳的なことを述べるというのではなく、内容が固くても柔らかくても、精錬潔癖でもとことん猥褻でも、真摯にその課題に取り組んで真面目に書くということである。哲学(ポストモダン、構造主義、ポスト構造主義)の世界でも今最も重要な課題はいわゆる「言葉」のもつ意味「言葉は本当に伝えたいことを伝えているのか、伝えうるのか」である。ルイス・キャロルの『鏡の国』のハンプティー・ダンプティーが行った「僕が言葉を使うときは、その言葉は、僕がそういう意味に使うことにした意味になる」ということであり、言葉は使う側受け手によって様々な意味を持ちうる。ある場合は反対の意味とてもちうるものである。だから言葉は注意深く使い、注意深く読み解かなければならない。滑稽な実話だが、日本国首相小泉の言った「自衛隊の行くところは非戦闘地域である」、この言葉は実に哲学的な言葉であり簡単に素通りさせてはならなかったはずなのだが、国会や政治の場では既に言葉は意味を失った。単に数合わせの猿蟹合戦、ガキたち(小泉チルドレンとやら)の遊園地となってしまった。
 インターネットが情報メディアの大きな位置を占め始めたが、「匿名」の名も元いいかげんな無責任な言説が巷に溢れ出てきた。なんでも有とは、まさに現代のインターネットの世界だろう。だからこそ、真面目に書くということが大切でありその最も基本は「誰が書いたか」ということである。「僕は僕として僕を書いていくことにする」。
 では「僕とは誰」なのか。僕は1950年宇都宮生まれ、広島の山奥の農場で幼少期を送り、原爆投下後15年経過した広島市の海ッペタで青春期を過ごし、「自然」と「反核」の思想を身に付けた。その後首都圏の大学(埼玉大学建設基礎工学科)をでて東京銀座に本社のあった、今は大阪と東京の東陽町が本社のようであるが、ゼネコン(竹中工務店)でいわゆるバブル最後の狂乱期巨大開発、都市開発に関与した。そして自分自身の考え思想と会社の仕事の間に大きな亀裂が出来て会社を辞めた。38歳の時である。そして今岩手県大迫町(不本意ながら花巻市と合併してしまった)の早池峰山のふもとの小さな谷間の集落で畑を耕しながら小さな設計事務所「丸山暁建築・空間工房」を設立し暮らしている。山奥の設計事務所であり「建築家でござい」と気取ってもおれず、僕というもの、いろんな事、物をかき集めて放出して暮らしている。
 通常個人の属性を表すには「職業」を表記することが多いが、僕はこのジャーナルの寄稿では「人間」と名乗ることとする。昔から職業で人間を規定する方法、例えば会社員、医者、建築士、画家、無職・・・、それは仕事であり個人の何者かを伝えていない、に違和感を覚えていていつの日か「人間丸山暁」と名のりたいと思っていた。僕の仕事は法的には建築士で設計事務所代表、仕事は建築設計、地域計画・・かといってそれだけで食えるわけではなく、物書き、絵書き、百性となんでもできることはやりたいと考えている。どれか一つの職業で僕を代表できるものではない。それと、僕の人生に大きな影響を与えたフランス生まれの生物学者ルネ・デュボスが「人間とは生まれた時はヒトであり、人生を重ねて人間になっていくのが人の役割である」というようなことを言っている(「人間であるために」「目覚める理性」「内なる神」など)。  僕も僕の役割はたぶんそうなのだと思っている。僕は僕という人間になるために生きているのだと。だから僕は人間丸山暁と名乗ることとする。
 これから「市民ジャーナル」に書いていく僕とはそのような人間であると、心の隅にでも置いておいて頂けたら幸いである。寄稿NO-1はさしずめ「僕という人間」ということである。<丸山>

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組織を活性化させる新戦力?ホリエモンの功績?
 今年のプロ野球は新戦力の活躍で例年になく活気を帯びている。
 巨人が久しぶりに好スタートを切っているが、その原動力は新戦力の矢野外野手である。昨年終盤に一軍に名を連ねるようになってきたが、原監督の抜擢に応えて連日大活躍でチームを引っ張っている。
 昨年も「お荷物」と言われたロッテが大方の予想を裏切って優勝し、一躍人気球団に踊り出たが、そこにも今江という新戦力の存在が大きかった。
 今年の巨人は矢野の他にも鈴木、福田などの若手の活躍や、ベテラン小坂の加入もチームの戦い方を一新させた。これらの新戦力の加入により、既存の戦力もリフレッシュされ、全く新しいチームを見るような感じさえする。

 新戦力の力とは何なのだろうか?もちろんヒットを打ち得点に絡むことも大きい。しかし、もっと大きなものは、自分を認めてもらうため一生懸命にやる、ひたむきな姿勢である。ベテランは、ややもするとレギュラーの座にあぐらをかき、先を見過ぎてあえて冒険もせず、安全策をとって、日常を“それなりに”過ごしてしまう傾向がある。そこに若手や、トレードなどで新戦力が注入され、“必死になる姿”を見せ付けられると、ベテランも、もう一度若かった “あの頃”を思い出して発奮する。それにより全体戦力の底上げが図られ、チームが活気付くのではないだろうか。

 さて、日本経済は活気がよみがえってきているが、その活気を引っ張り出した一人は“ホリエモン”であり、その功績は大きいものがある。こんなことを言うと、“えぇ!あのホリエモン?”と言う声が聞こえてきそうである。確かにホリエモンの拝金主義は社会にマイナス面をもたらしたし、それはあえて否定するつもりはない。しかしホリエモンが見せてくれた、大企業が立ちはだかる既存のシステム、大きな壁への挑戦は、難攻不落と思われていた既存経済システムが、意外に脆く、いたるところに隙間があることを明らかにしてくれた。これが、わが国に空前の“起業ブーム”をもたらし、日本経済に新戦力を投入させるきっかけになったとは言えないだろうか。

 組織は常に活性化が求められる。プロ野球でも企業でも。活性化企業の元祖と言われたソニーでさえ、安穏としていれば転落の道に入り込んでしまう。
 新戦力は受け入れる側にとっては、未知ゆえに不安である。しかし、その “危なっかしさ”を容認し、失敗も受け入れ再チャレンジさせる度量を持つことが、新戦力の挑戦を呼び込むためには不可欠であり、組織を伸ばし、大きな成功へ導く唯一の道ではないだろうか。
 この “度量”というものが、企業経営のみならず様々な面で、日本の社会全体に求められていると思うが、いかがだろうか。
<疾風>

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子猫が教えてくれたWeb2.0とネットコミュニティーの威力
 先日我が家の前に5匹の子猫が捨てられていた子猫騒動が、Web2.0とネットコミュニティーの威力を私に見せ付けてくれた。
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 猫を拾って保護したはいいが、何しろ半世紀以上生きてきたが、猫って奴は苦手な我が家では、どうしていいか途方に暮れていた。暇に任せてネットコミュニティー「mixi」の日記にこの事を書くと、友人から、NPO「動物いのちの会いわてhttp://www.h4.dion.ne.jp/~inochi/」を紹介するメールが入った。早速そのNPOに連絡をとって、メールで子猫の写真とプロフィールを送ると、里親探しのブログ掲示板に掲載してくれた。すると数日して,盛岡から40km以上離れた北上から里親の手が挙がったのである。
 一方、娘は知り合いに携帯メールで子猫の写真を送ったところ、その知り合いの紹介で、貰い手が名乗りを挙げてくれた。

 「mixi」「e-メール」「携帯メール」「携帯写真」「ブログ」、これらが子猫と、遠く離れていて全く接点のなかった里親を瞬く間に結び付けてくれたのである。

 インターネットが本格的に登場して10年。ネット社会は “Web2.0”の時代に入ったと言われている。
 これまでインターネットは“企業や団体からマスへ”の情報伝達手段であり、デジタルな乾いた繋がりをつくると考えられてきたが、携帯メールや、sns、ブログなどの登場により、「個から個へ」、必要な情報を求める個を草の根を分けて捜し出して届けられるようになり、更に、ネットコミュニティーというアナログでウェットな人間関係をもつくり出せる可能性を見せるように進化してきたのである。
 
 今回の猫騒動は、Web2.0とネットコミュニティーが子猫の命を救い、ネット社会の進化“ロングテール”を私に実感させてくれた。

 なお余談であるが、私はこういうことを教えてくれた子猫に感謝し、残りの2匹には我が家で一緒に暮らしてもらうことに決めた。<疾風>

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

総合食糧供給基地と地産地消
 昭和40年代の高度成長による工業化社会推進のため、都市へ人口が集中し、都市住民への食糧供給のために大量流通・長距離流通が発展してきました。そして、国民へ安定して食糧を供給するという、大きな枠組みの中で捉えられた農業が、個々の農家の活性化を結果的には阻害したのではないでしょうか。
 遠隔地での販売のために、多くの農産物が高品質という名目で規格化され、農家に過重労働を強い、多くのロスを生み出しました。あるJAの幹部は「農産物に価値はない。農家に支払っているのは選別の手間賃だ!」と言い放つ始末です。
 そこにおける農産物の評価は、他産地と比較しての早期出荷であり、統一された規格の外観であり、流通コスト低減のため量の確保であった。
その流通においては、よりよき農産物を生産するための個々の農家の創意工夫は、必要がなかった。規格が定められ、その規格にあった物を適期に収穫しさえすれば良かった。
与えられた肥料。与えられた品種。与えられた農薬。そして播種時期、収穫時期全て指示され、農家が選択する余地がなかった。
第2次産業における流れるような作業の工場においてでさえ、TQCと言うような従業員が効率やコストダウンや品質の改良に参画する事が出来、個々の創意工夫が生かされ、評価される。
ところが農家は、変化する自然条件の中で、誰が食べるかもわからない、そして喜んで食べてくれるとは限らない物を、自分の意志を殺し指示されるままに作り続けてきた。
産地形成のために、同一地域で同じ物が生産され大量に出荷されて行く、そして残るのは多大のロスと重労働感、そして相場による他産地とのコスト競争による価格不信だけである。
同じ市町村内と言っても、水持ちの悪い火山灰土有り、有機質に富んだ沖積土有り、地形による日射量・風向・風量等々の自然条件がさまざまに違う。
そのような中で画一的な生産による産地形成は、無理な生産を引き起こし、まして農家自身の創意工夫が生かされない生産では、農家の自身のやる気がそがれる
 農家の創意工夫が生かされ、それが正当に評価される。そこに再生産の意気込みが生まれてくるのではないだろうか。少量でも良い。自分で選んだ品種を適地・適作に生産し、本来の農産物の評価である「安全で美味しい物」を作り出した農家が、個々に適正に評価される流通は、地場流通でしかない。多くの消費者に、個々の農家が直接的に語りかけ、そして意見を求め、正当な評価がストレートに帰ってくることが農家のやる気を促し、又新しい創意工夫が生まれ、いきいきとした農業が産み出されると信じます。また生産者と消費者のコミュニケーションを深める中で、多くの人々が地域の農業への理解を深め、地域の豊かさを享受する喜びを共感しあえるのではないでしょうか。
ところが、岩手は総合食糧供給基地という産地形成を目指しながら、地産地消という相反するスローガンを掲げております。一体岩手の農政は、どこへ向かっていくのでしょうか?
<たこ入道>

テーマ:政策 - ジャンル:政治・経済

格差社会を考える
 最近、「格差の拡大」が論議を呼んでいる。小泉内閣のもとで、格差が拡大しているとの指摘があり、これに小泉首相が「格差が出ることは悪いとは思わない」と応じたことで格差の是非がにわかに論じられるようになった。
 結果に影響があったかどうかは分からないが、千葉7区の衆議院補欠選挙でも、民主党などが「格差社会の是正」を訴えて勝利したのは記憶に新しい。
 格差拡大の責任が小泉内閣にあるかどうかだが、「高齢化の進展で、所得格差の大きい高齢者の比率が高くなったためで、小泉政権とは関係ない」とする考え方もあるが、大方は小泉改革に起因するという見方をしている。
 いいか悪いかは別にして、人間が社会生活を営んでいれば、多かれ少なかれ、格差が生じるのは避けられない。問題は、格差をどこまで許容できるのかだろう。これは一定の線引きはできるかもしれないが、結局は個人が判断すべきことだと思う。

 小泉首相は、「成功者をねたんだり、能力のある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない」とも発言している。また、「どの時代にも成功する人、しない人がいる。負け組にチャンスをたくさん提供する社会が小泉改革の進む道」「今までは悪平等だった」「影ばっかりだったところにようやく光が出てきた。光が見え出すと影のことを言い出す」と格差批判に応えている。
 これらのネタ元は「競争に敗れた、いわゆる敗者については、自ら選択した結果は本人がきちんと受け止めるという自己責任原則を徹底するとともに、失敗しても再挑戦可能な社会システムとすること」という奥田経団連会長の発言だと言われている。

 前段で「一定の線引き」と書いたが、小泉首相、奥田経団連会長の発言にヒントがありそうだ。
 ?「自ら選択」した結果の格差であること
 ?再挑戦が可能かどうか

 いわゆる「勝ち組」と「負け組」というが、企業や企業経営者では「自ら選択」と言えなくもないが、往々にして大が小に勝つのは当たり前で、小資本が「勝ち組」となれたのは一部のIT企業など一握りで、しかもライブドアのようにその足元は危うさをはらんでいる。
 個人レベルでは、職業選択の自由、生存権、教育を受ける権利など、まさに憲法に保障された自由や権利に関わる。
 少なくとも、希望すれば高等教育も含めて誰もが教育を受けられる、医療も福祉も受けられる、それが保障されていること、その上で「自ら選択」した結果の格差には納得せざるを得ない。
 
 小泉内閣発足前の2000年度と2004年度を比較して、国民所得全体は不況で11兆円減った。この内訳は賃金など雇用者報酬は16兆円減り、個人企業(自営業)が1兆円減ったが、大企業など法人所得は6兆円増えているという。
 雇用も規制緩和し、企業のリストラと派遣労働が拡大したことが企業には利益をもたらし、労働者には「痛み」をもたらしたことになる。
 リストラされた中高年に再就職、フリーターに正規雇用という「再挑戦」の機会が十分に与えられているとは言えない。
 さらに追い討ちをかけるように医療費、介護の負担増大では、小泉改革に「格差」の責任を求めざるを得なくなってくる。
 これが、千葉7区の民主党勝利に結びついたのではなかろうか。

 とは言え、豊かさの物差しは個人によって多種多様。所得だけで「格差」を論じることはできないことを忘れないようにしたい。(Z)

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知事多選の是非?改革派と言われる増田知事の動向に注目?
増田岩手知事の4選出馬への去就が話題となってきている。
増田知事は改革派知事として全国に名を馳せているが、現在3期目で来年改選を迎える。
増田知事は建設省の官僚から当時新進党の小沢一郎党首(現民主党党首)が担ぎ出して、その強力なバックアップで当選してきた。
しかし民主党の小沢党首は「多選は権力の集中する知事には好ましくない。増田知事が良いとか悪いとかの問題ではなく、民主主義のルールとして、どなたであろうと連続4期は支持できない」と表明し、新たな候補を8月を目処に決める考えを明らかにしている。
これに対し自民党玉沢県連会長(衆院比例)は「党は知事の4選を認めており、そういう考にとらわれると選択の幅が狭まる」と述べている。
一方増田知事本人は「(4選不支持は)小沢さんの時論だろう。よく分からない。12月頃態度を決める」と述べている。

知事や市長など権力の集中するトップの多選には多くの弊害が指摘されてきており、各地で「多選自粛条例」が議論されてきている。
神奈川県では多選自粛条例が各党の思惑から否決されたが、松沢神奈川県知事は多選の弊害について次のように述べている。
? 政治が独裁化する
? 人事が偏向し側近政治化する
? 利益団体等との癒着が始まる

世界の政治の歴史は「権力は必ず腐敗する」ということを証明している。そのためアメリカでは大統領の3選を認めていないし、自民党も総裁を2期までとしている。

そもそも、知事や市長選挙においては、現職は圧倒的に有利な立場である。公務で行なわれる、記者会見、完成式での挨拶は選挙活動にも連動し、もっと穿った見方をすれば、行政の執行そのものも、知事や市長の業績として選挙運動にもなってしまうのである。
多選知事の常套句は「選挙で有権者の支持がある。民意を受けただけだ」という。確かにそれは正論ではある。しかし、それは世界中の独裁者が発している言い訳と同じで、元々圧倒的有利な立場での選挙では、有権者に正当な選択肢を与えているとはいえないのではないだろうか。
権力の座にいるものは、自分の置かれた立場を、歴史と正義に照らし合わせて考えなくてはならない。
改革派といわれた、北川三重県知事は2期、浅野宮城県知事は3期で自ら退いている。
改革派の旗手と言われてきた増田知事の動向は、一人岩手県の問題に止まらず、多くの首長多選のあり方に影響を与えるものとなろう。そういう意味でも大いに注目される。
<疾風 記>

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