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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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あなたの体はトウモロコシでできている
 現在、トウモロコシは小麦に次いで世界で2番目に多く収穫される穀物です。コメとともに、三大主要穀物の一角を占めます。とくに、近年は家畜の飼料として急激に普及しています。世界で6億9000万t(06年)生産され、そのうちの4割を米国が占めています。米国のトウモロコシの栽培面積は、ほぼ日本の面積に匹敵します。

 米国の生産の中心は東北部に広がるコーンベルト地帯。ハイブリッド品種(両親双方の形質を併せ持つ一代雑種)と大規模機械化による大量生産と、生産農家に対する政府の手厚い補助金がこの生産を支えています。トウモロコシ作付け面積に占める遺伝子組み換え作物の比率は、09年には過去最高の85%にもなりました。

 輸出量も米国が世界の半分を占め、次いでアルゼンチン、そして中国となります。日本は世界一のトウモロコシ輸入国で、年間約1700万tを輸入しており、世界の輸入量の2割を占めます。その9割が米国からの輸入です。日本国内のコメ生産量が年間約1000万tだから、いかに大量に輸入しているかがわかると思います。その75%までが家畜の飼料用です。

 世界中で生産されるトウモロコシの60%以上は家畜の飼料となり、人間の食用となるのは20%以下にすぎません。残りはさまざまな用途に使われます。

 用途は驚くほど広い。中南米の伝統的主食であるトルティーヤやタコス。現在はアフリカでもトウモロコシの粉を熱湯で練ったものが主食の地域が多い。発酵食品としては、バーボンウイスキー、ビールなどの酒類、ミリン、お酢の原料になります。

 ポップコーンやコーンフレークなどのスナック菓子の原料でもありmあす。トウモロコシの加工デンプンであるコーンスターチから水アメ、ブドウ糖やオリゴ糖などの糖化製品がつくられ、菓子、清涼飲料水、パン、練り製品、マヨネーズ、サラダドレッシング、ケチャップ、ウナギや焼き鳥のタレをはじめ、健康食品から医薬品などに使われています。とくに、ファーストフードのほとんどに、トウモロコシやその製品が含まれます。

 工業用途でも、コーンスターチからできる生分解性プラスチックが、自然に分解するので「地球に優しい素材」として注目されています。

そのほか、紙や衣服、紙オムツ、段ボール、シャツなどの原料にもなります。朝昼晩の衣食住、生まれてから死ぬまで、私たちはさまざまに姿を変えたトウモロコシ漬けの生活を送っているのです。



〈MBA〉
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日本の食料問題
モッタイナイ現状とは!? 


農地の1割は未使用のままです。

日本の食料自給率は40%以下です。

この数字は2006年と比べると微増したのですが、フランスの130%、アメリカの120%と比較すると、日本の海外への食料依存体質は危機的な状況にあります。

それを改善するためにはどうすればいいでしょうか?

1番手っ取り早い方法は、国内の食料生産量を上げればいいと、誰もが考えるのではないかと思います。

ところが、全国の耕作地のうち、過去1年作付けされず、今後もされる予定がない「耕作放棄地」が全農地の1割を占めているそうです。

原因は、農家の後継ぎ不足に、開発業者への土地の売却などと様々ですが、なんとも“モッタイナイ”話です。

世の中の流れを見てみれば、体験農業や地産地消といった言葉が取り上げられ、耕作放棄地を有効に活用する余地はまだまだあるのです。

ちなみに、食料品の輸入がすべて途絶え、もし国内の食料だけで日本人の食を賄うとしたら、次のような品目が食卓に上るそうです。

朝食:ご飯、ぬか漬け、粉吹きいも
昼食:焼きいも2本、ふかしいも1個、りんご4分の1かけ
夕食:ご飯、焼きいも1本、焼き魚1切れ


芋ばっかりで、まるで江戸時代にタイムスリップしたような食生活です。

ところがこれが現実で、海外からの輸入に頼らなければ、日本の伝統的な食品である、豆腐や醤油さえも口にすることができません。

日本の食料自給率の現状は、お隣りの国から仕入れたギョーザやミルクに含まれる問題よりも、さらに深刻な問題と言えるのではないでしょうか。



〈うわさの百姓より〉
食糧危機
人類と食糧危機 その1

地球温暖化と人口増


2008年に世界を襲った食料価格の高騰は、食料危機の到来を告げる警鐘だった。2005年から昨年夏にかけて、小麦とトウモロコシの国際価格は3倍、コメは5倍に上昇。

それに伴って、エジプトやバングラデシュ、中米のハイチなど世界20カ国以上で暴動が起き、7500万人が新たに貧困層に加わった。農作物の不作による短期的な値上がりは過去にも繰り返されてきたが、今回は世界の穀物生産量が史上最高に達した年に価格が跳ね上がった点が、事の重大さを物語っている。

 私たちは毎日ごく当たり前のように食卓に向かい、自然の恵みを食べている。現代社会では、多くの人々が農耕の手間から解放され、お金さえ払えば、調理の手間すらかけずに三度の食事にありつけるようになった。

食材がどこから運ばれてきたのか、どうやって育てられたのか、あまり考えることもない。価格が上がってはじめて、私たちは食べ物のありがたさに気づく。

こうした無関心のツケはあまりに大きい。

 価格高騰の背景には、慢性的な食料需給の不均衡という難題がひそんでいる。実はこの10年間、世界の食料消費量は、ほとんどの年で生産量を上回ってきた。私たちは、穀物備蓄を取り崩して食いつないできたわけだ。

  「農業生産性の成長率はせいぜい年間1〜2%程度です。これでは人口の増加と、それに伴う需要増に追いつけません」と、米国ワシントンに本拠を置く国際食料政策研究所(IFPRI)のジョアキム・ボン・ブラウン所長は指摘する。

 今回の価格高騰は、人々に行き渡るだけの食料がないことを知らせる危険信号だ。世界中で10億人にのぼる最貧層は、収入の50〜70%を食費に充てているため、価格の上昇で特に大きな打撃を受ける。

食料価格は、世界的な経済危機の影響で上昇が一段落したものの、今もまだかなり高い水準にとどまっていることは確かだ。さらに、気温の上昇や水不足の深刻化といった気候変動の影響で、世界の多くの地域で収穫量の減少が予測され、慢性的な食料不足に陥るおそれがあると、一部の専門家は警告している。

 温暖化と人口の増加が進む世界で、どうすれば飢えを減らせるのか。この問題に取り組むのが、国連と世界銀行が中心となって設立された国際農業研究協議グループ(CGAIR)だ。その傘下の研究機関は、1950年代半ばから90年代半ばにかけて、世界のトウモロコシ、コメ、小麦の平均収穫量を2倍以上増やすという偉業を成し遂げた。この驚異的な穀物生産の伸びは、「緑の革命」と呼ばれている。

 21世紀半ばには世界の人口が90億に達すると予測される中で、CGAIRの専門家チームは、2030年までに食料生産を2倍にする必要があると考えている。緑の革命を成功させるまでにかかった年月の半分で、第二の緑の革命を成し遂げなければならないわけだ。〈続く〉


〈うわさのMBA〉

農産物と市場原理
 大根・白菜がトラクターで踏みつぶす大量廃棄が、テレビで流れている。
以前も、キャベツが大量廃棄されている映像が流れたことがあった。
市場に溢れて値崩れ起こしているために、出荷調整だという。
野菜は、冷蔵設備などの保管や物流が発達したおかげで、産地がリレーで移り変わり常に日本列島に地域の旬に関係なく切れ目無く溢れるようになった。
天気がよいと、終盤の産地の収穫が続き、序盤の産地の収穫期が早まり、その結果、量があふれ値崩れを起こし、大量廃棄につながってしまう。
 また高い値段で取引されると、翌年は、その品目を多くの人が栽培するために作付け面積が多くなり、値段が下がる。
値段が安ければ、消費者が喜ぶのだから良いのではないか?と思う
しかし、値段が安ければ、農家の手間にならないと言う。
 そして「農業は生産性が上がらないから輸入しろ」と言う人が数多くいる。
十二分に量の確保が出来ているのに、競争の中で厳格な見栄えの規格を設定され、市場への出荷が押さえられるから、そのように言われるのだろう
         DSCF1001.jpg


 市場経済は、モノが溢れれば単価が下がり生産を控え、モノが無くなれば単価が上がり生産を増やす、そして需要と供給のバランスをとると言われる。
もし、自動車が市場で販売されるならどういう事になるのだろう
市場の値段が下がれば、製造を中止する。
市場の値段が上がれば、増産をすることが可能である。
そして作ってしまってから値段が下がっても、売り控える事が出来る。
生産も流通も人為適にコントロール出来るのである。
 ところが農産物は、市場の値段が高くなったからと言って増産するには期間がかかりすぎる。そして増産に取り組んでも、その結果は、天気次第である。
また売り控えると言うことは出来ない。たちまち腐ってしまう。
昔と比べて、生産・流通共に格段の技術発展を遂げたが、結局、人為的にコントロール出来ないのが農産物の生産である。

以前は、「お百姓さんが、丹誠込めて作ったのだから無駄にしてはいけない」と言われ、昨今「もったいない精神」が取りざたされ「農産物は自然の恵みだ」と言われているのに、おかしいと思わないのだろうか?
多分そういう感覚を麻痺させるのが、市場経済原理なのだろう
人間は食べて生きると言うよりも、金さえあれば生きていけると言う拝金主義に陥る仕組みが、市場経済原理なのだろう。
農産物が市場経済原理から逃れる方法は無いのだろうか?

食糧自給率と地域自給
以前、フィリッピンから看護師を導入するというニュースが有った。
国内では、ニートやフリーターが、多く発生し、失業率が上がる中、
外国から言葉が不自由な看護師を、なぜ入れないといけないのか?
国内で、もっと看護師を増やす努力をしないのか?
雇用を増やすことが、国内の急務ではないのか?と疑問を持った。
多分、安い労働力と言うことが、最大の目的ではなかったのか?
 ところが最近の海外情報で、生活改善の為に高給を求めて医者や看護師が流出することで、フィリッピンの子ども達の健康が危機にさらされている。と言う記事を読んだ。
フィリッピンの子ども達の健康まで犠牲にして、導入することなのか?
国内事情だけを考えていると、その本質が見えてこないと思った。

高品質のコーヒーは日除け栽培され、安価なコーヒーは日当たりの良い場所で栽培されると言う。
先進国の人々が安物を求めるために、途上国のコーヒー農家は栽培面積を広げ、日除けの森林がドンドン破壊され生態系に影響を与えていると言う記事もあった。
途上国の生態系を破壊してまで、安いコーヒーを求めるのか?
途上国から輸入すれば、その国の人々が豊かになると思ったが、思わぬ影響を与えるモノだ。

地球全体で考えれば、海外との取引は、足りないモノを補充し、あまりを輸出するというようなことなら大歓迎だが、
ひょっとして、そんな取引から逸脱しているのではないだろうか?
モノや人は、余っているところから、足りないところへ流れると思っていたが、現実は、安いところから、高いところへ流れているようだ。
このままでは、途上国はますます貧困に、先進国はますます富む形になるだろう。
しかし、国家間だけでなく、日本という国の中でも、都市と地方の格差が広がっていると報道されている。

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地方で生産された農産物を、都市へと出荷される構造を指定産地制度や物流などを日本の農政は作ってきた。
それが、都市と地方の格差を広げてきたのではないだろうか?
都市へモノや人が多く流れ、都市の人は旬を忘れ、農作物を作っている人を忘れ、単なる商品ということでしか考えなくなった。
多くの人は安いモノを求めて、国産ということよりも、安ければ良いという発想になり、食糧自給率は落ちた。
食糧自給率は、市場経済のなかで考えれば、上がることはない。
なぜなら、品目横断や水田集落ビジョンなどで大規模栽培や、大規模の担い手を作ろうとしているが、それで出来た麦や大豆は、多くが味噌や醤油、製パン業者の原材料であり、安ければ良いという市場経済原理から抜けられない。

「自給率を上げる」それは地域自給率をあげることで、国の自給率が上がると言う発想を持たないといけないのではないだろうか?
そのためには、切り捨てられる中小農家は、地域のために農産物を作るということを目的にするべきであり、地方農政は、地域の中小の農家を支援するべきであると思うのだが…。

農業と補助金
 以前、ある直売所の会議で、「野菜の作り方」という講座があったと聞く。
講師は、県の農業改良普及員。
オブザーバーとして自治体の農林課の人間が出席していたらしい。
講座が終わって、講師の普及員が本を取り出し、紹介した。
「この本一冊有れば、どんな野菜でも作り方が書いています。価格は千円」
「欲しい人は?」と聞いたところ、パラパラと2?3人の手が挙がった。
そのうちに参加者の一人が「補助金は、出ないのですか?」と聞いたところ
農林課の人間が「じゃぁ?補助金出しましょう」と言ったとたん、
殆どの人が、続けて手を挙げたらしい。

 農業と補助金の関係が、取りざたされて久しい。
補助金は分配する方にとっては、権力の象徴である。
そして農家は、役人にこびているようなふりをして、金にこびる。
いつから、そんな乞食根性になったのだろう。
 役人と親しくなり、補助金を貰う仕組みを熟知している農家もいる。
さまざま補助金を利用して規模拡大し、挙げ句の果てに大きな賞を受賞した。
本来なら税金を使用しないで頑張っている人を、褒めないといけないのではないだろうか?

農業は、自立出来る唯一の仕事である。
何て言ったって、自分の食べ物を生み出す技を持っているのだから。
だれにもこびを売ることなく、どうどうと生きていける職業である。
それが、補助金を貰うために役人にこびを売り、その仕組みを利用する
「制度だから当然」「利用しない手はない」と言うが、補助金のために制度にそった仕事になり、本来の自立を失う。
農は、自然にしか支配されない。
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ある農家が言っていた、「はした金で、補助金漬けと呼ばれたくない」
こんなポリシーを持って欲しい。と思うのだが

食糧自給率向上の秘策
食糧自給率の向上が言われて久しい。なかなか向上しないでいる。
その対策として、小麦や大豆の栽培を補助金付きで行う政策が取られている。
しかし、おかしな話だ。
小麦や大豆を使用するのは、業者である。
小麦は、製パン業者、製麺業者、大豆は、味噌製造、醤油製造、豆腐・納豆などのメーカーである。
一円でも安く、原価を下げたいと言う業者が一番大量に使用している。
そこへ中国産やアメリカ産などの海外産と格段の値段の違いがある小麦や大豆を作らせ、自給率向上の作物として指定するのは、補助金を出して作らせ、補助金を付けて保管し、買わせるという昔の食管法のような物である。
食管法の廃止で、一体、何を学習したのだろうか?

物を作らせるのではなく、日本人の食生活を変えないと食糧自給率は、上がらない。洋食を止め、和食中心の食生活にすることである。
そのような意識の高い人々が増えることによって、小麦の使用量は、大分減る。
そして、大豆は、自家生産させることである。
大豆で自分の家の味噌を造り、醤油を作り、豆腐や納豆を作らせる。
作れなかったら、地域の大豆をまとめてメーカーに依頼することである。
だいたい、小麦や大豆を作る労働よりも、買った方が安い、と言う発想から輸入が増えてきたのである。生業として大豆の生産をさせることである。
そして輸入飼料で生産されている畜産である。
飼料の輸入を全面的にストップすれば、一挙に畜産は崩れる。
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ところが洋食を和食にというのは個人の嗜好の問題である。
また大豆を生産しろというのも、経済的メリットがないと個人は選択しない
そして飼料の輸入ストップは、他国や畜産業界の反対で困難である。
と言うことは、食糧自給率を上げると言うことは、無理と言うことである。

ところが、ここに一つの方法がある。
ちいさな単位での自給を目指すことである。
一つの集落で自給出来るくらいの米・小麦・大豆を作ることである。
余った耕作地に、鶏を放し、豚を飼い、牛を放牧することである。
あまった作物を鶏に豚に牛に食べさせることである。
一つの自給圏を作る。「どんなことがあっても、食べものに困らない自給圏を作ろう」と言う強い共通の意志が有れば、食生活を変えることは可能である。
そのような自給圏を、幾つも幾つも作ることである。
そして 自給圏の余剰の農産物は、農地を持たない都市へ供給することである。
都市は、足りない分を輸入に頼らざるを得ない。
しかし、それがイヤな人々は、田舎に移り住むことになるだろう。
都市への一局集中を防ぎ、豊かな食文化の地方を作り出す。
これは絵空事なのだろうか?(入道)

豊かさとは…
「豊かさとは何か?」と、ここ10年ぐらい問い直す声が多い。
貧しい戦後から、高度成長期、そしてバブルと続き、経済成長に重きを置いた社会が破綻し、その不良債権を処理して、再び経済成長を求めている。
経済は、限りなく成長するのであろうか?
経済とは、「物を生産し、流通させ、貨幣と交換し、消費する、一連の流れ」のことを言うらしい。
経済が成長をすると言うことは、生産量が増大し、流通量が拡大し、貨幣が大量に動き、消費量が増えることを意味する。
ところが一人の人間が消費する量は、限界がある。と言うことは、人間が増えていかないと経済の成長は、あり得ない。
現在、発展途上国は、人間が増えているが、先進国は頭打ちである。
つまり先進国は発展途上国に輸出することで経済成長を続けているのではないだろうか?
発展途上国に購買力をつけさせるために、さまざまな援助が行われ、国民生活のレベルアップという名の下に、先進国の文化を押しつけ物を豊富にしている。
しかし、その国の人々も物が豊富になったら、次はどこへ行くのだろうか?
結局どこか破綻させて、復興させるということなのではないだろうか
つまり戦争によって壊滅的打撃を与え、それを再建するというスクラップビルドでしか、経済成長は続いていかないと考えるのは考えすぎか?
経済成長を求める限り、争いは続くというのは素人の考えだろうか?
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最近、ネットワークビジネスというマルチ商法まがいの商法が人知れず、流行している。都会が終わって、地方都市にまでやってきた。限られた人口の中で、会員を増やすと言う商法はいずれその人口の壁に突き当たる。
先に飛びついた会員は収益が上がるが、その影で末端の会員は、在庫を負担し、借金を抱えて悲劇を増幅している。
まさに経済成長を求めることは、マルチ商法に似ている。
先進国だけ経済利益を得て、遅れてきた国は、草刈場になっていく。
経済とは、世の中を納め人民を救う「経世済民」というのが原語だというが、
常に成長を求める続ける経済は、多くの人々を救うことが出来るのであろうか
そろそろ「経済成長を求めない仕組み」を考えないといけない時期に来ているのかも知れない。
それは右肩上がりの直線を求めるものではなく、回る循環を基本にした考え方ではないのだろうか。「循環」それは地球と言う限られた世界の中で、えいえいと昔から営まれてきた仕組みである。
多くの人は、「いまさら昔に戻れない」と言うが、もはや戻らざるを得ない時が来ているような気がする。
そして伸びることではなく、「回る豊かさ」それは自然の循環を基本にした「農を中心とした営み」の中にこそ、有るのではないかと思う。(入道)

生きていくための基盤整備
 税金を使って道路をつくり、橋をかけることを、「基盤整備」と言う。
社会の中で、経済が発展するために工事をすることらしい。
それ以前の問題として、社会で人間が生きていくための基盤整備が必要ではないかと思う。
人間が生きていくために必要なものは、空気(酸素)であり、水であり、食糧である。
酸素を生み出す森林、水を循環させる川や海、食糧を得るための農。
これらを、まず最初に整備することを、ないがしろにしているのではないか。
自動車産業だって、人が働かないと産業として成り立たない。
流通産業だって、人が作る、買うと言う行動を起こさないと成り立たない。
IT産業だって、人がキーボードを叩かないと成り立たない。
それを第一次産業・第二次産業・第三次産業などと、農林水産業を並列に語ることは、まず最初に産業ありきで、人間が働いてこそ産業がおきる、と言う基本を忘れている。
たぶん経済優先社会の中で、本来交換するための道具だった貨幣が価値を持ち、
その貨幣を稼ぎ、貯めることが人間の生き方になってしまったからであろう。

山村に住む友人が、言っていた
「ほんの40年前。村にトラックで魚や肉を、売りに来て、米で支払った」
物々交換である。
多分全国的に貨幣が使用されて流通し始めたのは、ここ100年でないか?
それ以前は、「貨幣」と「物々交換」が混在していたのではないか。
山村や農村では、それで生きていくことができた。
ところが科学技術の発展によって工業が発達し、人口が集中する場所ができた。
この人口空間は、森林や川や海・農を忘れ、貨幣を持たないと生きていけない都会を産みだし、貨幣に絶対的価値を与えた。そして農山村もまたそれに引きづられていった。
そして人間は、“自然の仕組みの中で、生かされている“ことを忘れた。
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「貨幣が有れば、何でも交換出来る」と思っている人が大部分であろう。
農産物も、水産物も。食糧は貨幣で交換出来る。
ところが地球という星は、限られた水や土地である。
生きるための食糧を、効率よく生産しても、限られた量しかできない。
だが貨幣は、いくらでも生産でき、いつまでも保存することが可能である。
限られた農産物・水産物を、貨幣の多寡で奪い合う。そして戦いになる。

我々の住んでいる国は、他国の水産物や農産物を奪うほど、自給率が低い。
そして国内では、生活保護世帯の急増、フリーター等のワーキングプアーをどんどん産みだし、不安を抱え明日の食事もままならない人間を作り出している。
「明日も、食べるものがある。生きることが出来る」と言う
人間の命の糧をつくる仕事を大事にしなければ…
それを国が、一番やらないといけない基盤整備では、ないだろうか?(入道)

山羊が消えた日
 10月7日8日と、岩手県岩泉町で全国から山羊の研究者や生産者、100名余の人数を集め「第9回全国山羊サミット?山羊と共に暮らす豊かな食と農へのチャレンジ!」が開催された。
山羊飼育の多面的な機能を中心に研究報告がなされ、減少している山羊飼育の見直しを考えさせられた大会であった。
山羊は、“舌刈り“と言われるほど、草を何でも食べ、(毒草まで食べる)耕作放棄地の雑草や、土手ののり面などの傾斜地も気にせず、景観を保全する。
また、その乳は、牛乳アレルギーの人々でも飲用出来ると言う。
高齢化した農村の中山間地でも扱いがやさしく、活躍が期待出来る。
そのようなメリットがありながら、だんだん飼養頭数は減少している。
岩手県での山羊の飼養頭数は、戦後の昭和21年に7000頭余をかぞえ、最近では500頭を割って10分の一以下である。
その殆どが、乳を搾る乳用山羊である。配合飼料等の濃厚飼料を与えるために、本来の未利用草資源を殆ど給餌していない舎飼いである。
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そんなに年数を数えない昔。山羊はどこでも見られた。
学校帰りの道ばたで山羊は草を咀嚼し、田んぼの土手には、繋がれた山羊が畦草(あぜくさ)を食べていた。
そのまわりでは子ども達が遊び、夕方になるとお年寄りが連れて家に戻った。
そんな風景が、いつの間にか無くなった。
変わって現れたのは、畦畔をエンジンの音を立てて草刈機で刈る農民である。
農業を効率化しようと、大規模化を進めておきながら、石油資源の燃料を使い、農民の手を患わす機械を購入して操作する。
そして何もしなくても、綺麗に雑草を食べてくれる山羊が駆逐された。
これが効率化であろうか?農業の近代化であろうか?
いったい日本の農業は、いつからこのような事態を引き起こすように、なったのであろうか?

昭和36年農業基本法ができ、「サラリーマン並の所得を!」を合い言葉に今まで有畜複合経営であっった農業が、単一大規模栽培に変わっていった。
稲作は、稲作だけ。野菜は特定品種だけ。そして畜産は、畜産専業農家が誕生した。そして効率化・合理化・機械化のかけ声と共に、金のかかる農業へとシフトしていった。
以前は、稲作から出てきたワラは動物の敷きワラに、籾殻は餌と混ぜたり燻炭にしたり、野菜屑は鶏の餌に、そして牛馬や鶏の糞は田んぼや畑にと肥料になった。まさに一軒農家で循環していたのである。
そのバランスが崩れている農家でも、部落内で処理されていた。
 近代農業になってから、畜糞は産業廃棄物として処理され、稲ワラは切り刻まれて水田に鋤混まれたために、敷き料が足りなくなった畜産農家は、海外から輸入し、単一の野菜屑は積み上げられて放置して土に鋤混み、新たな病原菌の巣となった。
これを進歩と言うのであろうか?近代化と言うのであろうか?
山羊が農村から消えた時に、農業は豊かさを失ったのでは無いだろうか?

主役は農林水産業だ!
 ここ10年、アチコチで「地産地消」や「身土不二」「地元学」等々の言葉が多く聞かれるようになりました。まさに、グロバリゼーションとは、反対の言葉でローカリズムを表す言葉として使われております。
その背景には、今までの拡大経済社会が、「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」を生み出し、環境汚染の元凶という反省がなされ、「次は、循環型社会だ」という認識の現れだと思います。
 ところが多くの人の言う循環型社会は、資源循環型社会(リサイクル)の事を言っております。鉄などの金属、プラスチックや紙等の資源を、再利用しようと言う試みや「もったいない精神」が取りざたされております。
ところがその傍ら、経済成長率のアップし景気の回復を願う、社会が有ります。
そこで資源をリサイクルしながら、経済を成長させると言う発想なのです。
 今の社会の制度は、経済が成長しなければ成り立たないシステムになっております。利益を上げ、その利益を投資し、人を雇い、売上を上げ、そして利益を拡大し、再投資する。その中で出来た制度で典型的なのが年金制度でしょう。
団塊の世代が、稼いでいたときには多くの人員で老人を支えてきましたが、この段階の世代が退職すると、少ない人員で多くの老人を支えるということになり、経済成長が強く言われ、それが望めないと税収のアップが叫ばれてます。
ところが、経済が拡大して行くと言うことは、商品を拡大生産し、売れると言うことであり、その生産・販売ロスが多大にふくらみ、資源が循環しても、雪だるま的に、余剰廃棄物は増大します。
つまり循環型社会とは、“資源が循環し、経済が拡大しない”と言う「生産量が増大しない社会」でないと成り立ちません。
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 今、江戸時代が見直されておりますが、江戸時代は、まさに循環型社会でした。
従来の歴史認識では、封建時代で重税に悩む農家というイメージでしたが、江戸時代の税率は、5公5民とか言われておりましたが、その時に設定された取れ高は江戸初期の取れ高を基準にしており、相当余分に残ったと考えられ、また野菜は町に売りに出かけ現金収入となり、結構裕福な生活をしていたと言うに最近は見直されておりま
す。また世界で一番清潔な都市とも言われ、見事なリサイクル社会であり、教育も寺子屋などで高水準に有ったと言われております。
その循環型社会の江戸時代の主力産業が、農林水産業だったのです。

現代でも農林水産業は、新規就農の20歳の人が作っても農業歴40年の人が作っても、生産量がほとんど変わりませんし、売上額も変わりません。だから拡大経済社会では評価されません。
 ところが現代社会は環境問題や、経済の停滞で行きつまりを見せ始めました。つまり拡大しきった社会は、パイの奪い合いになってしまったのです。
循環型社会を目指すなら、主役は農林水産業である。と思うのだが…

安い米のからくり
そろそろ水稲の作況指数が、発表される時期になってきた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋すると(以下抜粋引用)

作況指数とは、10a(アール)当たりの平年収量(平年値)を100として、当該年度産の収量を表す 指数である。作況指数は、10a当たり収量/10a当たり平均収量_100 という計算式によって求める。
収穫時期に達した標本筆においては、標本株を収穫して、脱穀・乾燥後、籾摺りによって得られた玄米から、ふるい分けによって未熟な粒、小さい粒を除いて重量を測定し、その結果から平均的な10a当たり収量を推定する。 ふるい分けに用いるふるい目幅は、粒厚(米粒の短辺の直径)1.70mmを基準としている。(引用終わり)
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ところが発表された作況指数にいつも農家は実感がない。
それどころか「作為が有ってこんな数値を発表しているのではないか?」と疑問を持っている。
要は、「高い数値を発表して豊作だからと米価を下げる」という誘導をしているのではないか?
それに対して農水省は「“飯米として流通している実態を把握する“ための作況指数である」
と説明している。
この相違は年々ひどくなっている。
つまり、農水省は1.70mmのふるいで計測しているが、農家は農協の指示により1.90~1.95mmのふるいを使用している。その差が相違として農家に不信感を持たせている。
農協は、他産地との違いを出すために品質という意味で「粒揃いの良い、大粒の米」を出荷するために大きいふるいの使用を義務づけている。そのためにふるいに引っかからない大量の小米(屑米)が発生する。その屑米は、岩手県北部の場合、以前は“青森農協“と呼ばれた青森の業者が買い集めに回っていた。青森は以前政府米の産地である。つまり美味しくはないが大量に採れる産地であった。そのために混米用の米が各地の精米業者から引き合いがきて、そう言う業者が増えたのであろうと思われる。
ところがその屑米を農協も集め始めた。正規米の他に屑米も抱き合わせで注文が来るからである。農家には「屑米は業者にだすな。農協が買い上げる」という指示が出ていると聞く。
屑米は以前10円/kg程度の相場だったが、現在は100円近くで取引されているという。
その屑米は何に利用されるかというと、業務用や学校給食というのが噂だった。
ところが昨今の市販の米が異常に安い。東京付近では白米で2000円/10kgと言う値段も出ているという。(白米2000円/10kgという事は玄米で13500円/60kg程度である、生産者米価が12000?13000円/60kg円程度なのだが…)
そのからくりが、多分屑米に有るのではないか?と予測される。
以前、屑米だらけの米が販売されているのを目にしたことがある。(2980円/10kgだった)
農家には「品質を高めて他産地に勝つ」という目的を掲げながら、消費者には屑米を混米して安く売る。消費者も勉強をしないと騙される。

農林省はいらない!
Mixiに下記のような書き込みがあった。以下引用
 “日本全国に農家は約196万戸、7割以上が兼業農家。専業農家はわずか44万戸。
  面積的にみても経営耕地面積が3ヘクタール以上の農家はわずか19万戸。
  逆に1ヘクタール以下の農家は110万戸。“
そして9月1日の岩手日報に下記記事があった。以下引用
“新農業対策きょう始動
 政府が2007年度から農家に実施する新たな経営安定対策の加入申請受付が、1日から
 全国で始まる。すべての農家に対し補助金を一律にばらまく従来の仕組みを見直し、一定規 
 模以上の農業の「担い手」に支援を集中。零細農家が多い国内農業の集約化を促し、農産物 
 の国際競争力強化を目指す。
とある。その内容は、4ヘクタール以上の農家を「担い手」と認め、中小農家は地域内で20ヘクタール以上の単位の農家団体を「担い手」として認定し、補助金の対象とする。
そして、その農家団体の「担い手」には、法人化や経理の一元化を求め、対象作物(米・麦・大豆・テンサイ・原料用馬鈴薯)の輸入格差や減収差額を補助金で補填する。と言う。
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おかしな話である。
国内の6割が零細農家であり、それを集約させて国際競争力がつくのだろうか?
日本の田んぼや畑は、大変狭く個々の条件が多様である。
アメリカやカナダのように、広い圃場の単一条件で機械化が出来る体制ではない。
まして中国のように、人件費が安いわけではない。
完全に零細農家つぶしである。
零細農家は、自給的な要素と、地域環境を守ると言う側面も持っており、これらの農家が農業を辞めざるを得ない状況を作ると言うことは、地域環境に大きな影響を及ぼす。
耕作放棄地が増え、大規模農家への水路の確保が困難になり、耕作から生まれる景観が壊れ、また地域への食糧供給が単一化し、多様な食糧の供給が難しくなる。
その零細農家対策を「20ヘクタールの集約化」と言うことでごまかそうとしているが、集約化は殆ど進んでいないし、集約化したところで、若手担い手は、殆どいないし、作物も単一化する。
 そして「担い手」として認定された大型専業農家や法人化した経営団体が生産する農産物は、世界の農産物と競争させられ、効率と合理化の中で多大な機械化の借金を背負わされる。
いずれにせよ、この新農業対策では、これから農業は破綻するであろう。

「日本は農業を捨てた。」と言っても過言ではない。
この新農業対策を推進するなら、農林水産省はいらない。
なぜなら、「担い手」と呼ばれる農家や農業団体は、グローバル経済の中で競争させられるのだから「経済産業省」の管轄でよい。
そして零細農家は、地域の食糧を守り、地域の人々の健康を守るという意味で、「厚生労働省」管轄、地方行政の窓口にすればよい。
そして農業予算の大半を占める農業土木は、「国土交通省」に移管すれば良いだけである。
農林水産省は、もう役目を終えた。

農業と競争原理
「有る程度の競争は、必要だよ」とよく言われる
 スポーツならば、一定のルールの上に立ち、勝ち負けを競い合う。
ボクシングやレスリング・柔道は、体重別制限がある
(もっとも“小よく大を制す“のが醍醐味だ。と言われるが、総じて体格のいい人が勝つことが多い)また団体球技は、人数の制限がある。(サッカー11人・野球9人等々)
 工業なら、その製品の性能の優劣、デザインの好悪で競い合う
生産量が小規模でも、その機能や独自の意匠で勝つことが可能である。
 商業ならば、販売手法による売上の多寡や利益の多さで競う。
小規模でも地域密着の販売や、独自の品揃えなどで特徴を出し、勝たないまでも継続することができる。

しかし、農業に競争はあり得るのだろうか?
 地球という小さな星に、太陽が降り注ぎ、光合成という仕組みで植物が生産され、それを動物(人間も)が食べて、寿命がきて、星(土)に帰る。
その循環という枠組みの仲で、我々は生かされている。
 そして江戸時代の3000万人から近年の1億2000万を超える人口増により、植物の収量を高める。動物の増体重を求める、などという品種改良や、栽培方法の開発で、食糧の増産をおこなってきたが、ここ50年は科学技術を駆使した、さまざまな手法が取られ始めている。
ところが遺伝子組み換えやクローン技術などの科学技術で生産された物が、同じ組成だと言っても、食べ続けることにより子や孫に、どんな症状が現れてくるのか、疑問である。
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 そして単位面積当たりの日射量は、一定であり、土も栽培に要した養分を再度補充しないと前年並みの収穫量を上げることは出来ない。
稲作など、理論的には一反分(300平米)で最高24俵の収穫が可能であるという。
ところがその翌年は、土壌養分の収奪量が多いため、土が再生できず、収穫量は皆無に等しいと言われる。
人間は、「今年は豊作だから腹一杯食べて、来年は食べなくても良い」と言うわけにはいかない。まして気象条件が毎年違い、土壌条件が地域によって違う。
そこで生産された農産物は、「安定生産」と言うことが一番に評価されないといけないはずである。
 そこへ安さ、量。美味しさ、鮮度等の競争原理を持ってくると、人件費の安いところへ流れて農を見失い、大量生産のための機械化で化学肥料や農薬の多投により土を壊し、美味しさを求めて栄養のバランスを崩し、鮮度を求めて大量のロスを生み出す。
 自然の恵みと言われる農産物を、さまざまな工夫をして調理し、余すことなく食べるという生き方を、何万年も続けてきたからこそ、今日がある。

自然に謙虚さを!
 今年の稲作は、前半低温長雨で日照不足という冷害の様相で推移した。
ようやく8月になり高温と好天気に恵まれ、やや回復してきたように思われる。
岩手の場合、6月7月の天気は、稲穂を作る時期で、その穂数が多いか少ないか?
また8月9月の天気は、出来た稲穂に十分にタンパク質が溜まるかどうか?に影響を与える。
そして、いつも7月後半に低温がやってくるが、この低温は、出来た幼穂に影響を与え、受粉できない稲穂を形成する。(“はくふ”と呼ばれる)
 岩手の稲作は、7月後半の低温をいかに避けるか?そして8月9月の稲穂の充実期の温度を確保するために、いかに出穂をお盆の前後に持ってくるか?が重要な稲作技術だった。
 そう言う意味で今年、県北部は7月後半の低温でやや“はくふ”が見られるが、これから8月後半、9月の天気で持ち直すと推測する。
ただ9月の台風で、稲穂が充実し首をかしげた状態で強風や水害で倒伏するとまた、穂発芽と言い、品質の悪い米が出来る可能性もあるが…。
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 15年ほど前であろうか?小生が農業の世界に入ったときに、岩手県北部は気象条件が悪く銘柄米が作れなくて、ほとんど政府米のお米ばかり作っていた。
当時、県南部の銘柄米(ささきにしき・あきたこまち)は高い値段で取引され、県北部は、政府米(いわて21・たかねみのり)を多収量で、収入を確保していた。県北部でも農家は、自家飯米ということで銘柄米と作っていたが…。
また当時は、早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)と、3種類の品種と作って冷害に備えた物であった。
農家も、前年度米を自家飯米として保管し、8月になりようやく今年度の収穫の見込みが立ったときに、新米を食べた習慣をもっていた農家がある。

ところが平成5年の大冷害の時に、あちこちから
「生まれて初めて、米を買って食べた」という農家の言葉が聞こえた。
当時は、様々な問題もあったタイ米の輸入や、政府備蓄米の放出で切り抜け、翌年度の豊作で、冷害の米不足も過去の記憶と消えてしまった。
しかし、その時の検証をすると、ほとんど農家は銘柄米の1種類の生産に走っていた。つまり銘柄米が冷害に遭うと、全滅という状況にあった。
翌年また冷害にあえば、もう食べるものが無いという状況に遭遇しただろう。
(冷害は2?3年続く、というのが定説である)

もう一度、多様な品種を栽培し、冷害に備えるという謙虚さが必要ではないかと思う。お金は食べることが出来ない。単なる交換するための道具である。
農家自身が、自然に謙虚に向き合うと言う以前の稲作を見直すことは、市民に食べ物に対して謙虚な姿勢をもたらす事になるのではないかと思う。

誰が青果物の供給に責任を持つのか?
市場が、赤字に悩んでいるという。
「取扱数量は変わらないが、売上金額が減少している。」らしい。
青果物流通における卸売市場は、当初(昭和40年代前半)、地域の八百屋を対象に考えられてきたが、その後、中央資本の大手量販店・地元量販店など小売業の多岐の変化によって、その取引内容も大きく変化している。
特に、量の確保や、質の安定を求める大規模量販店の影響で相対取引や、市場外流通が増え、その市場の取引は形骸化している。
また、農家が直接消費者に売る郊外型直売所などが近年特に増え、規格外品が格安に流通するために、それに引きづられて市場も値段が低下し、売上金額の減少に繋がっているものと思われる。
その対策として農林省は、8.5%の手数料率の規制緩和などの手を打っているが、どこまで有効か?不明である。

本来、青果物は、日々利用する物であり、それが途切れることは市民生活に大きな影響を及ぼす。中央大規模量販店が地方に進出し、中央から青果物が運び込まれているが、結局採算が合わなければ、また競争に敗れれば撤去せざるを得ない。また、その競争の狭間で地方量販店も、大きな打撃を受け、閉店においこまれている店舗も数多く見受けられる。
と言って、ある時だけ商品を並べる郊外型直売所が、市民への青果物供給に責任を持って行うような取り組みをしているところは無いに等しい。
 市民への青果物の安定供給を、いったい誰が責任を持って行うのか?
海外では「青果物は歩いて買い物に行けるところに」と言う取り決めがある国が有ると聞く。これからの高齢化社会に、お年寄りなどの生活弱者でも、歩いて買いものに行けるところに販売されていなければ、いくら年金制度が充実していても、命の糧である食糧を手に入れることは難しい。
 また農産物を生産する農家でも、生産された物を全てお金に換えることが出来る市場は優れたシステムである。少しでも高くということで量販店と契約栽培をしている農家もあるが、その商品率は50%いくだろうか?腐れや虫食いは当然のことのようにはねられ、規格外のサイズは引き取りが断られる。
また直売所でも、どんなサイズでも出荷できるとはいえ、天候で客数が少ない、客数より量が多いなど販売できなければ、全て商品ロスとなる、
青果物は、収穫したときから劣化が始まる。流通は劣化との競争である。

結局、農産物は自然の恵みと言うが、その恩恵をすべて集め安定して配分すると言う機能の中心は、地域の市場でしかない。
そして、その市場から流れる八百屋・魚屋の零細小売業が、地域の人々の暮らしを守るのではないだろうか?
 むかし、関西の衛星都市に住んだことがある。そこには中心部に“いちば“があり、野菜・魚・肉何でも揃っていた。そこで客は、店主と話をしながら、また隣り合わせた客と分け合いながら、食材を調達していた。
そして、その周辺にある量販店には、食品売場が設置されていなかった。
もう一度、近所の八百屋・魚屋を、単なる商売ではなく、コミュニケーションの場としても考えて見ることが必要であろう。
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舌を研ぎ澄ませ?口うるさい消費者となって農業を守ろう?
鉄鋼業界が空前の好景気に沸いている。
東レ経営研究所の永井知美氏のレポート(2006.2.16)によれば、「内需不振・輸出の頭打ち・市況低迷の三重苦にあえいで斜陽産業と揶揄されてきた鉄鋼業界が、劇的に復活してきた。その要因の一つに、『国内の口うるさいユーザーに鍛えられた技術力の高さ』がある。例えば、『加工するときは柔らかく塗装後の焼付け処理で硬くなる鋼板』『自動車が衝突した際、衝撃を吸収しながらつぶれるので乗員への衝撃を和らげることができるような、エネルギー吸収性に優れる鋼材』の開発など、ユーザーの代表格である自動車産業と対話を重ねながら、高い要求に応える技術開発を進めてきた結果である。」と述べている。

さて、長期低迷斜陽産業といわれる代表格に農業がある。産業という言い方が適当でないかもしれないが、鉄鋼業界と同様に、中国や東南アジアの野菜やアメリカ牛肉などの、大量生産の低価格品に押されて、衰退の一途を辿ってきている。
海外の大量生産低価格品に席巻され国内の農業が衰退していく現状に対する危惧は、食糧安保論を待つまでも無く、もっと身近な食品安全の面からも指摘されて来ているが、有効な対応策を見出せないでいるのが現状である。

ところで私は、昨年地方の町に転勤して自炊生活を行ったが、ニンジンの味の違いが素材から来ることを初めて知った。ニンジンは赤い色をしていれば、どこで作られようと差異は無く、味の違いは調理の味付けで決まるものだと思っていた。しかし自分の手で店の棚から買ってきて、産直の収穫したての土つきニンジンと、スーパーの綺麗にラッピングされているニンジンを食べ較べてみて初めて味の違いが実感できたのである。取れたての地場のニンジンは味が濃くて美味しいのだ。
私は不覚にも本物の味を忘れていたのか、あるいは最初から本物の味を知らなかったのかもしれない。
本物の味がわからない消費者を相手にしている生産者は不幸である。いくら良いものを生産してもそれを評価してくれる人がいないのだから。
日本の農業の衰退に対して、農政の失敗だとか、外圧に負けて輸入自由化に踏み切った政策を非難する声は多いが、実はもっと根本的なところで、我々市民・消費者が本物を見分ける舌をお持ち合わせていなかったことが大きいのではないだろうか。そういう消費者のもとには大量生産の安物が広がっていっても不思議は無い。そしてそれが、身近で本物を作ってきた農業を衰退に追いやってきたという可能性は大きい。

世界一厳しい排ガス基準と低燃費への要求が世界有数の自動車産業を育て、自動車メーカーの厳しい要求が鉄鋼業界の技術力を高め斜陽産業を復活させたと言われる。それでは、我々消費者は農業に対しても高い要求を出してそれをしっかり評価してきたのだろうか。
命を育み日常活動の源となる食料に対して、我々はもっと口うるさく高いレベルの要求を出すべきだったのかもしれない。日本の農業はそれに応えられる“奥深い技”を持っているはずなのだから。
その隠れた農業の“技”を引き出させるような舌の肥えた我儘な消費者こそが日本の農業を鍛え、海外の安物が追随できないような安全で高品質な農作物を生産する技術力を高めていくことができる。
そのためには、口うるさい消費者と、対話をしながらその要求に応える“技”を磨く生産者との、好循環を作り出すことが必要である。

舌を研ぎ澄まし、口うるさい消費者となって日本の農業を守ろう!
<疾風>

テーマ:経済・食 - ジャンル:政治・経済

産地とはなにか?
先日、岩手日報に、「盛り返せ老舗産地?伸び悩み八幡平市のホウレンソウ?」と言う記事が掲載された。
全国有数のホウレンソウの産地と位置づけられていたが、価格低迷・高齢化による生産者数の減少で販売金額が伸び悩み、技術力とシステム確立による安定生産を目指すという内容の記事だった。
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 そもそも産地とは、何だろう?
まず産地ありきで、議論が進められてきているが、まず前提をもう一度考えることが必要ではないか?
昭和36年に農業基本法が制定され、「他産業並みの所得を」を合い言葉に農業も複合経営から効率的な単作型経営に変わっていった。
そして、機械化による農業の余剰人員が地方から、経済成長の激しい都市への移動が起こった結果、人工集中が進んだ。同時に貨車運送からトラック運送へと物流システムが変化し、容易に畑から直接運送が可能になった。
そのことにより、昭和40年代初めに野菜生産出荷安定法が施行され、指定産地が制度化された。『野菜農業の健全な発展と国民消費生活の安定のため』と言う目的で制度化された指定産地は、リレー出荷となり、全国各地で同じ作物が一年中、生産される体制を作り上げた。

このシステムによる問題は、大きい。
まず都市住民が農と切り離されたことによって食べ物を単なる商品となった。農が命の糧の生産から、商品となり単なる金儲けの産業となったこと。
年中同じ野菜が出回ることにより、季節感を奪ったこと。
売れる農産物を作るために、地場野菜などの食文化を失ったこと。
 そして一番の問題は、農業に競争原理を持ち込んだことである。
産地間競争などといい、農産物の規格が厳しくなり、曲がったきうりや、過熟のトマト、二股の人参・大根など捨てられる野菜が多くなった。
単作経営により輪作で対処してきた土作りができず、連作障害で土が壊れる事態が頻発するようになった。大規模機械化がすすみ、きめ細やかな管理が出来ず、農薬や化学肥料を多投せざるを得なくなった。
農業の基本である土を破壊し、食の安全性を脅かし、自然の恵みと言いながら、大量の廃棄処分を出していく。それが競争原理を持ち込んだ結果である。

農業に競争原理を持ち込むことが良いことだったのだろうか?
そして産地をつくることは何のためだったのだろうか?
それを十分に議論しなければ、産地化を推進していくことに疑念を感じる。(入道殿)

産直はブームか?
 産地直売所が、岩手では大流行である。そして「淘汰の時代に入ってきた」とも言われ始めている。産地直売所はブームだったのだろうか?それを考えてみたい。(産地直売所、以下産直と略す)
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 岩手の産直は、りんご等の果樹から始まった。農協や市場に出せない規格外品の販売や、個々の農家で対応してきた近隣の贈答用を共同で販売するために、20年ぐらいの歴史があると思う。それが10数年前から野菜を販売する産直が徐々に増えてきた。そして今県内に有人産直が300近くを数えている。
多分東北では一番ではないかと思う。
その経営形態は様々であるが、一番多いのは地域の農家が集まって組合を作り、販売しているタイプである。(建物は補助金を利用する、JAが建てて貸与する、第三セクターで貸与する、等々がある)
新鮮・安価・顔の見える関係というのが、産直の売りであるが、こんどは流通業者が産直コーナーと名付けて店内に作り始めた。しかしこれは産直を全面に出して、客集めをして他の商品も売るという戦略か、自社も地域の農業経済に協力していると言うポーズでしかないし、農家がそれに利用されているだけである。それは売り場面積から想像できる。
そして市場流通では対応できない「新鮮」というメリットは、朝どりした農産物を店に出し、夜に下げる、また翌日には値引きすると言う過剰鮮度競争を生み出し、「安価」は、出荷者の店内競争や市内の八百屋の単価へ影響を与え、市場へ出荷している農家も低単価にあえいでいる。
また「顔の見える関係」と言いながら、顔写真を店内に張る、そして当番で交替で店に出るというだけの対応をしている産直が多いが、それも流通業者にマネをされ新鮮みが無くなってきた。
そして、他産直や業者との違いを打ち出すために、特徴有る商品をといい、新品種の導入や加工を手がけ始めているが、しょせん気候が似たような地域に何軒もあるために、似たような農産物しか並ばないし、また競争になる。
 結局、経済というモノに翻弄されて、競争させられ、徐々に衰退していく運命にあるのではないだろうか。そして生き残るのは、資本力の大きな産直であり、そしてそれはまた、単なる大規模小売業と何ら変わらないモノになってしまい、今度は流通業者との競争の中で消えていく。消えていかなくても、農家が得る金銭的メリットは、以前と一緒になってしまう
やはり経済の中の流通形態の一つとして考えていくことはブームでしかない。
産直は「物を売る」と言う土俵にのってはいけない。
様々な地域事情があるところで、その地域の人々と一緒になって、地域を作ると言う場所の提供が、他者との違いを作り出すことになるのではないか?
市民に地域農業への理解を深め、農業の難しさ楽しさを語り合い、農業は地域と共にあることを伝え、そして市民の食と健康を想い、一人一人の関係性を作り出す、そんな関係性の拠点としてあることが目指す方向ではないか。(入道殿)

有機農業は、付加価値なのか?
 有機認証を受けたある農家は「何故JASの有機認証を取らないのだ。色々なところから引き合いがあり、高く売れる。」
またある農家は「有機栽培だから高い値段を付けても売れるでしょう。色々な手間がかかっているのだから。」
『有機農産物は高価格』と言うのが、一般的常識である。
実際に有機栽培に取り組む農家の労働は、大変である。自家配合のボカシ肥料を手づくりし、又は高価な有機質肥料を購入し、挙げ句の果てに虫に喰われて商品にならないロスも大量に出てくる。そして、あまり効果のない虫の天然忌避剤を何回も散布し、雑草に負けないように、人力で草取りをする。
今の社会では、労働時間と賃金が比例するようになっているが、それならば、当然有機農産物は、高くても良いはずである。いや高く売れるから取り組んでいる農家も多い。結局、有機農産物は。“有機農産物が美味しい”と思っている一部の金持ちの為の物になっている。
 しかし、本当に有機農産物を欲しがっている人は、子ども達のアトピーや病気に悩んでいる、若い年収の低い夫婦である。
以前、病気の子供を持った若いお客さんが「通販で有機農産物を買うとめちゃくちゃ高い。」と言い。また東京へ出かけたときに、ある自然食品チェーン店で、しなびたちいさな大根が「有機栽培400円」と付いていたことに、驚いた。
合鴨水稲


 農業が産業なら、当然その労働に値する収入を求めなければならないのだろう。そして倍する手間をかける有機農業は、高収入が当然である。ところが「命は、地球よりも重い」と言いながら、命の糧をつくる農業は、あまりにも重労働で低収入である。
ある国家公務員は「残念ながら農業は産業として確立出来なかった」と言いきった。小生は「農業を産業として国が引っ張ってきたのではないか?」と抗議したが、彼は「だから残念ながら、なのです」と言った。
農業とは、一体何なのだろう?農業を産業として捉えて良いのだろうか?
そして、有機農業を付加価値の対照として、捉えて良いのだろうか?(入道殿)

南部短角牛を守れ!
最近、南部短角牛がもてはやされている。(スローフード協会の「味の方舟」プロジェクト認定、雑誌「食楽」における人気ブランド牛1位などなど)
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南部短角牛は、明治初期に役用牛だった南部牛に、輸入した肉用牛を交配したものである。通常の肉牛は殆ど舎飼いだが、南部短角牛は夏は山へ放牧し冬は牛舎で飼う、夏山冬里方式と言われる放牧主体の飼い方である。
岩手は山間地が多く放牧に適した地形が多い。その放牧地で自然交配をして秋には山から子牛を連れてくる(他の肉牛は、親牛の乳が出にくいため子育てに労力を要する)また放牧中は山の草を食べるために飼料代がいらず、荒れ果てた地域の草資源を利用でき自給率に大きな貢献をし、その放牧地は素晴らしい景観を作り出す。そして農家は、放牧中の5月から10月までは、他の仕事が出来る。
そして他の牛より飼料効率がよく、体重が増えやすく、本来の草資源主体のため内蔵に無理がかからず、内蔵廃棄がすくない。(肉牛の黒毛和牛や乳用牛のホルスタインなどは半分廃棄となるが、南部短角牛は2割である。そして内蔵はことのほか旨い)黒毛和牛の霜降り肉は交雑している脂肪の美味しさであるが、その南部短角牛の赤身肉は、肉本来の美味しさを持っており、最近の健康志向と相まって高く評価されている。
このように良いところばかりだが、なぜか飼育頭数が減少し歯止めがかからない。
その一番の原因は、低価格である。赤身肉というだけで平成3年の輸入解禁と同時にアメリカなどの大規模畜産の牛の肉と同じ評価がなされてきた。
 そもそも南部短角牛は、有畜複合農業の要であった。南部曲がり家という建物は、馬や牛の役畜と一緒に住む為の家で、大量に飼育する方式ではなく、各農家で数頭づつ飼っていた物を博労が買い集めて市場に出していた。ところが昭和36年に農業基本法ができ「他産業並みの所得を!」を合い言葉に、単一作物に移行し、お金に換えやすい農作物・畜産に規模拡大してきた。そして肥育頭数はどんどん増えたが、結果としてグローバル経済による輸入解禁によって競争にさらされることになった。
それに追い打ちをかけるように、霜降り肉信仰・外食産業の隆盛により量の確保・良い物を安くというデフレ経済等が、低価格の原因となった。
肉質や飼育方式で高い評価を得ているが、低価格という経済的矛盾。これを解決するために、様々な手法が取られているが、経済で考えるのではなく、文化として守ることを考えてゆかざるを得ないのではないか?
いずれにせよ、畜産は破綻する。中国の肉食が増え、原油の高騰によって運賃が上がり、代替燃料として飼料からエタノールを採ることが検討され、飼料の流通に赤信号がともされている。
 春、行列を組んで山に上げ、素晴らしい景観を保ち、そして人間に利用できない草資源をタンパク質に替える。その恩恵にあずかる人たち、その文化的価値を理解できる人たちだけで支えて行かざるをえないだろう。
評価と価値が一緒になるまで…(入道殿)

「良いモノを安く」は間違っている!
「良いモノを安く」と言う言葉が、金科玉条のごとく言われる。
この言葉は、資本主義の商品経済がすすむにつれ、徐々に大きくなっていったような気がする。
そして「良いモノが安くが、デフレ経済を助長した」と言うと、「そうですね、良いモノは高くですね」と言う。
しかし、「良いモノとは何だろう」「安くとは、何と比べて安くなのだろう」
 「人間は快適性を求めて様々な商品を開発してきた」結果として、身体を動かさなくてもいいようなモノが生み出され、そして人間が身につける技が衰え、身体で覚えると言う言葉が死語になり、身体をむしばんできた。
食べ物で言えば、「甘く・柔らかい」ものを求めて素材を加工し添加物でごまかす技術が横行し、素材そのものの味を味わう、固いモノをかむと言う習慣が消えた。その結果、味を分からない人々が増え、虫歯や唾液の分泌が減り、消化器系の病気が多くなっている。
そして今度は様々な問題が出てきた為に「安全」が良い物という基準に加わった。そもそも体内に入れる食べ物は、安全でなくてはいけない。安全でないモノが世の中に満ちあふれているから、「安全」という言葉が声高々に言われるのだろう。「安全で安い」と言う基準では海外の有機農産物を選ぶべきであろうし、現に商社が中国やその他の国の有機農産物を輸入している。
しかし、そこには「安心」がない。
「安全・安心」と二つ並べて簡単に使われているが、その言葉の意味は全く違う。モノの危険性がないことが安全であり、ヒトの信頼関係から生まれてくるのが安心である。
今、人間関係が希薄だと言われる。そこには安心の関係が作れない社会がある。
「良いモノを安く」と言う商品至上主義ではなく「安心な関係でモノが流れる仕組みづくり」が必要ではないか。安心の関係には、コストは影響を与えない。
<たこ入道>

テーマ:経済批評 - ジャンル:政治・経済

地産地消とは!
岩手日報の「いわて経済 万華鏡」に「地産地消」が二回にわたって取り上げられた。
一回目は矢巾町の学校給食に地場農産物を取り入れた現場を取材し“地産地消の拡大は、地域自給率を向上させ一次産業の経済的波及効果をもたらす。夏休み等の休日対応や、規格の問題等もあるが、市場性は残されている”と結んだ。
二回目は、盛岡市手代森の産直「花山野」を取り上げ、売り上げを伸ばしている産直と閉鎖する産直があり、淘汰の時代に入った。“年間百億円近い市場規模となり農産物の流通チャネルとして確立されネットワーク化などによる底上げも急務だ。”結んである。
 そもそも経済としての「地産地消」と言う行為は、今話題となっている公共事業の談合問題と一緒である。安い海外産や国内大産地の野菜や肉製品を押しのけて地域の業者(農協)を使うのは、「安心・安全」を隠れ蓑にした地元業者優先の談合である。そこには経済的必然性がまったくない。
そもそも「地産地消」という行為は、「身土不二」という仏教の言葉によって裏付けされた行為である。「身土不二」という言葉は、最近「地元のものを食べることが身体によい」という食哲学の言葉として一般的に理解されているが、
その言葉には「食」と言う文字はなく、「身と土は二つにあらず」と読み、「身体と風土は、二つに分けられない」と解釈される。
つまり「グローバリズム」に対する「ローカリズム」の精神である。
「行為」は「精神」に裏打ちされないと、永続性がない。
 学校給食をセンター方式で、3000人分の食事を午前中に作るためには機械化が必要だし、その機械にあわせた規格の農産物の供給が求められる。
記事中に生産者の情報が入っているとあったが、一軒の農家で大量の規格品が供給できるはずもなく、単なる農協の規格品を提供すると言う、従来の仕入れ先から農協に変更するだけの話である。
 また産直の底上げ等という発想は、一方的見方である。そもそも140万県民の胃袋の容量は決まっている。今まで市場流通で対応してきた農産物が、産直の台頭によって市場、仲卸、八百屋の流通ルートが苦境に陥っている。
岩手の旬は短い。その時だけ販売して、あとは知らない、と言うのは市民への年間食糧安定供給と言う役目を果たしていない無責任な行為である。そして、売り上げを伸ばすと言う論調は、それを助長するモノである。
 「地産地消」を経済行為として捉えてはいけない。拡大経済の中で地産地消を言うなら単なるブームで終わるだろう。
新しきコミュニティの創造、旧来のコミュニティの復活、と言う地域再生の観点で捉えなければ…。
<たこ入道>

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「ご使用後、お持ち帰りになりませんか?」?焼肉屋さんの嬉しい一言?
先日、久しぶりに家族そろって岩手山麓にある網張温泉に入りに行ってきた。平日の夕方であったせいか、あまり混んでいなくてゆっくりお湯に浸かってきた。
考えてみればこの温泉に入るようになってもう40年以上になる。私が中学生の頃には安比スキー場も雫石スキー場もまだ無くて、盛岡近郊のスキー場といえば、この網張と竜ヶ森だけであった。当時は同級生とバスに揺られて出かけ、昼食はロッジの豚汁と持っていったおにぎり、スキーの後はこの温泉で暖まってから帰るのが定番であった。ここのお湯は白濁して硫黄の匂いが漂う、温泉らしい温泉で、アトピーなどの皮膚疾患には絶大な効果があると言われており、私自身も虫刺されの痕がなかなか消えない体質であるが、ここの温泉に入るとスーット消えてしまうことを実感している。

 さて、今日の話題は温泉の話しではなくて、その温泉の帰りに「やまなか屋」という焼肉屋さんに立ち寄った時の話である。そこで出された割り箸の袋の文字「ご使用後、お持ち帰りになりませんか?」が目に付いた。
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一瞬何のことだろうと思ってじっくり見ると、更に細かい文字で、「当店の箸は自然環境を考え若竹を使用しております。竹はイネ科の多年生常緑で、毎年大きく成長するため木製の箸から竹の箸に致しました。竹の香りは、精神安定にもつながります。一度使って捨てるのは惜しいのでご使用後にご家庭にお持ち帰りになりませんか?」と書いてある。思わず家族一同にんまりと顔を見合わせてしまった。
 実は我が家では時々外食する際に、食べ終わった後の割り箸を「もったいない」と“こっそり隠して”持ち帰ることが時々あった。一度使用した割り箸はお店でも捨てるだけなのだから、堂々と持ち帰ってもいいはずなのだが、何となくうしろめたさのようなものを感じながら、バックやポケットに忍ばせて持ち帰ってきたものであった。
 しかしこのお店では“堂々と持ち帰ることができる!”と思うと、なぜかウキウキして楽しい食事の時間となった。

 環境に優しくと “マイ箸”を持って歩くという人もいるが、私などはなかなか面倒臭くてそこまでは出来ない。でも、お店のこんなちょっとした気配りで、環境にも優しくしたような、儲かったような気分にさせられた。

 環境問題もピリピリと張りつめて考えるだけでなく、こういう身近なところで緩やかに実行してゆくことも必要ではないだろうか。

「ご使用後、お持ち帰りになりませんか?」他のお店にも広がって欲しいものだ。
<疾風>


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牛乳廃棄と持続的食文化
 3月19日の産経新聞に「牛乳100万本廃棄 太る印象、消費者敬遠 牧草スクスク、生産過剰」の記事が掲載されている。(以下引用)

 高カロリー・高脂肪のイメージで健康ブームに乗り遅れた形の牛乳が大量に余り、廃棄処分される異例の事態になっている。「ホクレン農業協同組合連合会」では十八日から、千トン(一リットルパック百万本相当)の廃棄を始めた。昨夏の猛暑で牧草の生育が良好で生産過剰になり、飲料として余った牛乳を加工処理する工場がフル稼働しても追いつかない状況だ。さらに今後は春休みで給食がなくなり消費が激減、合計一万トン以上が廃棄処分される可能性が高い。(引用終わり)


 インターネットでは、その記事へ「もったいない精神」「政府の無策」「飽食日本の批判」「加工の提案」「飢餓国への援助」などなど、さまざまな意見が出ている。また岩手でも、酪農家に対し、今まで代用乳を与えていた子牛に、「母牛の乳を与え、いくらでも出荷を減らせ」と指示が出ていると聞く。
 しかし、根本的な問題が議論されていないように思える。
 そもそも、牛の乳を飲むという習慣は、一部の人を除いて近代に出来た習慣である。それもアメリカの余剰物資対策で、戦後の学校給食に脱脂粉乳が利用されて以来、徐々に浸透してきた。ところが日本人は、乳児の時を除いて乳糖分解酵素ラクターゼを持ち合わせていない。そのため多くの人が下痢の症状を起こしている。カルシュウムが豊富という、うたい文句であるが、含まれているカルシュウムが多くても、消化吸収できなければ、意味がない。日本人は本来、カルシュウムを豆や野菜から摂取していた。そう言う意味では、牛乳というのは不要な食文化である。
 ところが、その牛乳生産は、他産業と一緒に効率化の元に、いかに安く大量に作るかを目的とし草食動物である牛に、穀物を食べさせて大量の乳を出すようになった。そしてその穀物は、殆どが輸入穀物である。(草だけを食べさせると年間3000?4000kgの乳生産が、穀物を与えることで1トンの生産が可能になると言う)その輸入穀物生産は他国の気象に大きく左右され、穀物の価格は、これから肉食が増える中国の食糧事情により大きな変化が予想される。
 またその飼い方も舎飼いといい、牧場に放牧するのではなく動き回ってエネルギーをロスさせないように牛舎の中で飼われる。テレビコマーシャルやパッケージに牧草地に放されているシーンが、数多く見受けられるが、現場では、そのような事はほとんど無い。繋がれた牛舎で与えられた餌をモクモクと食べて、子牛を生み、乳を出し、飼料代に合わなくなった牛は屠畜される。まるで工業生産である。
 そのようにして生産された大量の牛乳は、今度は資本力の競争にさらされ、水より安く販売されている。
 不要な食文化を、無理な生産で、不本意な販売をしているというのが現実である。
 この辺で、酪農のあり方というモノを考える時期にきているのではないだろうか。
 「牛は草を食べて乳を出す」という本来の生産に戻せば、日本は牛を飼うだけの広大な草地が無いために生産量は激減する。本当の美味しい牛乳を少しだけ適正価格で飲むと言うスタイルにすれば、永続可能な新たな食文化が生まれてくるのではないか。
 安く大量に呑みたいと言う人は、輸入商品で対応すれば良いだけである。
<たこ入道>

テーマ:経済・食 - ジャンル:政治・経済

僕という人間―その2〈身体性〉
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 否が応でも目に入るだろうがまず写真を見ていただきたい。これが何の写真であるか、嫌な顔もせず好意的にすぐ見抜けた方は相当の自然派である。
 この写真は昨日(4月10日)我が家の向かいの山に山菜(タラの芽、シドケ)を採りにいき見つけたものである。最初目にしたときは「何でこんなところでウンコを」と思ったが、良く見るとウンコに木の実や種が混じっている。しかも何日か分(新鮮なものや固いのや形の崩れたものなど)のウンコがある。ここは彼(女)にとっての厠である。こんなところで何日も同じ場所にウンコをする人間がいるだろうか。しかも、ウンコの周りには紙も葉っぱも、最悪の場合のパンツ(これは経験者ならわかるだろう)も落ちていない、いわゆる拭いた形跡がない。この写真は紛れもなく熊のウンコである(僕も始めて見たので100%の自信はないが十中八九当たっているだろう)。
 
 僕が今このようなメッセージを送れるのは、僕がこのような環境、場で暮らしているからである。
 
 僕は約20数年前頃、東京銀座の東京湾が見渡せるゼネコンの高層ビルの18階にあった冷房の効いたオフィスで考えた、「僕は僕の身体をちゃんと使っているのだろうか。頭も体も感性も自分というものを十全に使って生きているのだろうか」。朝起きて電車に乗り、会社で机にへばり付いて適度に頭を使い、あわてて昼飯かっ込んでちょっとウトウトしながらもデスクワークをこなし、また電車に乗って家に帰る(たまには一杯引っかけて)。そんな生活をもう十数年繰り返している。多分これからも何十年もそんな生活なのだろう。
 
 巨大都市東京も高層ビルも億ションも経済活動の賜物であり、それらを作るために企画を立てたり計画したり図面を引いたり監督するのが僕らの仕事だった。ある意味まちを作っているのは僕たちだというプライドもあった。しかし現場に足を運ぶようになり、視点を変えてまちを見ると僕の中に疑問が湧いてきた、「本当は具体的に体を張ってまちの礎を築いているのは誰だ。それはスコップやトンカチを持った土工たち(多くは孫請け、ひ孫請けの出稼ぎ労働者、最近は外国人も多い)ではないのか」。
 彼ら土工たちと仕事の合間話をした。彼らは元々百姓だった。本当は今も百姓で暮らしたいのだが仕方なく出稼ぎにきていた。彼らは自然を読み田畑を耕し、建設現場では器用に土を動かし、大工をやり、なんでもこなした。「僕は彼らのように頭と体〈身体」を使っているのだろうか」と考えた。
 それも今僕がここで暮らしている大きな動機づけであった。

 現代社会はあまりにも脳と体が分離してしまった。心(気)、頭(脳の機能)ばかり使って、脳の中にストレスを溜め込み、体を使うことで心を開放し脳をも育てること、すなわち〈身体〉が共に生き、育つことを忘れてしまった。人間の脳は脳を使うだけでは脳が育たないということが、やっと科学的にも証明され始めた(現代という時代の大きな欠陥は科学的という神話にあるのだが)。しかし、そんなことは科学が証明しなくても分かっていたはずである。特に子供は「良く遊び(野山を駆け巡り)よく学べ」、これに尽きるのに、最近は「管理されろ、教科書を覚えろ、国を愛せ」である。これでは頭も体も、すなわち“身体”としての人間が育つはずがない。
 人間になれない。たんなる社会的自動機械(端末機)が増産されるだけである。

 僕は今畑を耕し、こうして文章を書き、たまには頭をひねって仕事して、山菜採りで「熊のウンコ」に出会い。まさに身体を駆使して暮らしている。
 また本当のところそうしないと暮らしていけない。「あんたの暮らしは楽か
い?」と問われれば、けして楽でも、楽しいだけではない。けっこうしんどい事が多いかもしれない。でも僕は自分の“身体”を使って生きているという実感を感じている。それが「僕という人間」になることだと考えている。

丸山暁 (55歳・人間)

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旬の味!「うこぎ」と「芳梅」
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 我が家の生け垣の「うこぎ」がいま若芽を出している。この若葉を摘んでさっと茹でてクルミとみそ大根とともにきざんだものが“ホロホロ”。ごはんのふりかけとして今が旬である。
ホロホロに使うみそ大根は何でも良いかというわけではなく、ここいらでは遠野のみそ大根がホロホロには一番合うと知り合いの奥さんが言っていたそうな。
うこぎはビタミン、カルシウムの宝庫。また、生活習慣病の原因とされる「活性酸素」を消去するポリフェノールなどの抗酸化物質も多く含まれており、ホロホロは産後に食べさせるとお乳の出が良くなるとのことである。

うこぎの若芽は天ぷらにしてもなかなかいける。
昨日はうこぎと椎茸の天ぷらを肴に一杯やってしまった。
酒は、純米吟醸オリがらみ生原酒「芳梅」。滝沢村の青年農業士武田哲さんが「あい鴨農法」により農薬を一切使わず、丹精込めて作った「美山錦」を、二戸の蔵元南部美人が酒に仕込んだもの。
 盛岡桜山神社前の地酒屋芳本酒店限定販売の逸品である。
何事、旬のものの地産地消が一番である。
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<疾風>


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