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岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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日本一の中津川
日本一の中津川再発見
                   都市デザイン総合研究センター理事 中澤昭典
「中津川は日本一の川である」。これは川の仕事に30年以上携わった私の見解である。
 何がナンバーワンなのか。“自然が豊か?”、“安全性が高いか?”、“水質が良いか?”そういう基準に照らせば、もっと素晴らしい川は全国各所に存在する。それでは何をもって一番なのか。中津川は「人間と川がいい按配に共存している」というところが、日本一であると私が評価する点である。都市と川が、お互いに折り合いをつけて、それぞれを尊重しながら共存共栄しているのだ。
そのポイントを具体的に述べてみよう。
1.成熟した市民の意識が生み出す秀逸な都市景観「柵の無い川岸の道路」
中津川を川留稲荷付近から下流に向かって歩くと、中の橋までの間には川沿いの道路に柵がない。川岸の石積護岸は5分という急勾配で油断していると河原に転落する危険性もあるのだが、この近くで育った私をはじめとする盛岡市民はこの景色に違和感を持たない。しかし実は都市の中心部で車も通る河岸道路では非常に珍しい風景なのだ。「子供が落ちたらどうするんだ!」などど無粋な声を上げない成熟した盛岡市民の意識が生み出した、秀逸な都市河川景観である。
2.石積護岸が繋ぐ人工物と自然の不思議な調和“日常の秀景”
 中津川の護岸は花崗岩の石積である。与ノ字橋から中の橋方向を眺めてみよう。「水の流れ、団子石、河川敷、石積護岸、河畔樹木、橋、モダンなビル群」。石積護岸は時を経て、自然と人工都市景観の間を繋いで、不思議な収まりのある河川景観を創り出している。通勤・通学や買い物など、普段の生活の中でこういう風景に接することができる“贅沢”を盛岡市民は享受しているのだがその自覚はあまりないだろう。日常の当たり前の風景だからだ。就学や就職で盛岡を離れた子供たちが帰ってきたとき「盛岡はやっぱりいいなぁ〜」とあらためて感じるのはこういう風景なのだ。もっと評価して大切にすべき“日常の秀景”である。
3.市街地の広い河川敷を守る細やかな技術
 広い河川敷を有する川は珍しくもなんともない。しかし、市役所のすぐ裏手を流れ、市街地の中心部に広い河川敷を持つ川は稀である。そして、中津川の河川敷はあまり人工の匂いを感じさせない。しかし、全く工事が為されていないかと言えばそうではない。注意してみると河川敷を保護するために低水護岸が随処に設置されている。その工法は画一的ではなく、山岸小学校裏は籠に石を詰める工法、市役所裏の矢板工法や中の橋下流左岸部の巨石積工法など、目を凝らしてみると、水生生物や景観に配慮した技術がやり過ぎることなく、さりげなく施されている。川に対する畏敬のなせる技を見て取れる。

 このように、中津川は自然が豊かというわけではなく、社会と都市の変遷につれて、むしろ人工の手が多く加えられてきた川である。しかし、そのような変化の中で、川としてのアイデンティティーを守りながら人間生活環境と河川環境の折り合いをうまくつけてきている。
日本社会が近代化してきた過程において、都市のアイデンティティー構成要素としての川の存在感が薄れてきた歴史の中で、中津川はむしろその存在感を増大させてきた。今では盛岡の都市環境、都市景観を語る上で欠かせない。
橋の上から川を眺めるとき、川面を眺めるだけでなく、ちょっと遠くに視点を移してみよう。その時、あらためて我々は中津川が流れる、良いまちに住んでいることを再発見して幸せを感じるはずである。
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道路のはなし
●みち・みず・みどり

「み」から始まるこの3つは、いずれも国土を形成する基本部品であり、我々の生活に必要不可欠なものです。

あまりに恵まれていたために3「み」の大切さを忘れてしまい、それが環境問題につながったのではないかと思います。

●これまで道路は、いかにクルマの通行をスムーズにするかという視点で作られてきました。

歩行者も自転車も道路を使うというのに、置き去りにされてきました。法律上、軽車両である自転車が、車道を走ると危ない場合は歩道を走ってもよいとされているのが、その象徴と言えます。

●道路がもっと歩きやすかったり、自転車で走りやすかったりすれば、マイカーの出番を減らせるかもしれせん。そうなればガソリン代も節約できるし、二酸化炭素の排出量も減らすことができます。

●クルマのための道路建設から、歩行者や自転車にとって優しい“みち”作りへ

交通の場合は、片道を1トリップとして数えます。自宅と会社の往復だけなら2トリップですが、どこかへ立ち寄ることが多いので、1人が1日あたり3トリップから4トリップするのが普通です。

このトリップを分析すると、交通の需要は通勤や通学、買い物における短距離トリップが圧倒的に多く、交通全体に与えるインパクトも大きいのです。環境に対しても同様ですから、短距離トリップをどうやってエコにするかが最大のテーマになります。

環境フレンドリーな交通手段は「徒歩」「自転車」「公共交通」が御三家ですから、町中でのクルマの利用を抑制し、この御三家に転換できれば、かなりの問題が解決されると思います。

東京や大阪は確かに公共交通網が発達しています。まあ、世界に誇れるレベルと言えますが、世界にはもっと面白いことにトライしている都市もあります。

代表的な事例が、フランスのパリで始まった「ベリブ」というレンタサイクルシステムですね。山手線の内側くらいのエリアに1800カ所ものステーションがあり、200メートルも歩けば、最寄りのステーションにたどり着けるようになっています。うまく使えば1日1ユーロで乗り放題という料金設定も魅力です。

こうした大胆な施策が、日本の都市交通にあるかというと、まだまだです。

スイスには会員数7万人を誇る「モビリティ」という、世界最大のカーシェアリング会社がありますが、数百メートルおきにパーキングがあって、会員カードだけで簡単に利用できます。東京や大阪では、週末に使うか使わないかのためにマイカーを持つ人がいますから、こうしたカーシェアリングシステムが発達してもいいでしょう。

国民一人ひとりの覚悟の問題だと思います。みんなで本気になって二酸化炭素排出量を減らそうと思えば、できるはずです。もちろん全員がクルマに乗るのを止められるわけではありません。公共交通網が発達していない地域もありますから、そこに暮らす方々はクルマを使うほかないでしょう。

しかし、都市部は公共交通が発達していて便利なのですから、二酸化炭素を出すクルマを持つことは諦めて、普段は御三家、クルマが必要なときはカーシェアリング、とすればいいと思います。それもハイブリッド車や電気自動車といった、環境に優しいクルマのシェアなら、なおいいですね。

それより中堅都市こそ、御三家への転換をあきらめていませんかと問いたい。最近は人口が30万人、40万人の都市でもマイカーへの依存度を高めています。欧州では同規模の都市でも、路面電車(LRT)やカーシェアリングシステムが機能しているし、歩行者専用ゾーンや自転車専用レーンの整備も進んでいます。オーストリアのウイーンは、あれだけ小さい都市なのに、自転車専用レーンが800kmもあるんです。

自転車レーン用に白線を引くことも、「ベリブ」のようなレンタサイクルステーションを作るのも、すべて道路整備の一環です。道路特定財源というと、大層な道路を作るための資金というイメージかもしれませんが、財源をもっと二酸化炭素削減に貢献できるような、そして歩行者や自転車、公共交通に優しい施策に充てればいいんです。

歩行者と自転車に優しい道路作りは、御三家への転換を促すために必要不可欠です。安全で、歩きやすくて、景色もよくて、ちょっと疲れたら木陰のベンチでひと休みできる、そんな道路なら、もっと歩きたいと思うのではないですか。
自転車にしてもそうです。いつもはクルマで移動する距離でも、自転車で気持ちよく走れる環境なら、自転車を選ぶ人が増えるかもしれませんよね。

まずは「道路整備はクルマのため」という発想を転換することだと思います。自転車専用レーンや歩行空間の確保が重要であることは、行政側も少しずつ気付いています。

道路建設は、環境アセスメントに合格した案件のみ、建設に向けてのプロジェクトが進みますから、一定レベルはクリアしています。あとは環境に配慮された計画だということを、国民の心に響く形で説明できるかどうか。

周辺住民に対する説明はこれまでの経験から、かなり進んでいます。交通事故がこのくらい減るとか、排出ガスがこのくらいになるとか、比較的身近な切り口で語られています。 しかし、道路は国土ですから、周辺住民だけではなく、せめて国民の半分から3分の1くらいは納得できる説明をすべきでしょう。

私は個々の道路の是非を問う「国民会議」みたいなものがあったらいいんじゃないかと思っています。会議には行政や道路の専門家はもちろん、全然関係のない地域に住む会社員や経営者、学校の先生、主婦……いろいろな立場の人に参加してもらうんです。そのメンバーでまずは、道路の建設予定地周辺を実際に歩く。紙の上の検討では意味がありません。道路を歩いて、地元の空気を肌で感じて、そこに住む人たちの顔を見て、話を聞いて、それを元にみんなで話し合うんです。

同じものを見ていても、それぞれに意見は違いますから、デルファイ法という予測手法のように、異なる立場の者同士で話し合っていくと妥当なところに落ち着くはずです。出来上がった建設計画の妥当性をチェックすることも重要ですが、計画策定前に話し合いのプロセスを踏めば、気持ちの上での納得度がまったく違うと思います。


〈ローカルプランナー〉




エコ・コンパクトシティ
都市政策を転換(国交省)


 都市政策の重点は郊外から中心市街地へ――。

国土交通省都市・地域整備局が8月31日に提出した2010年度予算の概算要求で、郊外で市街地開発する際の新たな土地区画整理事業に原則として補助金を交付しない方針を示した。今後は、中心市街地に都市機能を集約させる「エコ・コンパクトシティ」の推進に政策を転換する。

 2008年3月時点で、土地区画整理事業は全国の1302地区で進められている。そのうち、国庫補助金を受けているのは約400地区。同省の担当者は、継続中の事業の国庫補助を止めるものではないと述べている。

 同省が提唱するエコ・コンパクトシティは、中心市街地や交通結節点などの拠点を中心に、公共交通を軸としたネットワークを構築した、コンパクトで環境負荷の少ない集約型都市構造の概念だ。概算要求では、新規の補助事業として駅やバスターミナルなどを中心に、周辺の公共施設なども含め一体的な整備を支援する。200億円の予算を要求した。

 一方、民主党はマニフェスト(政権公約)で、国が地方に使途を特定した「ひもつき補助金」を、社会保障・義務教育関係を除いて廃止すると主張している。地方の自主財源に転換する方針だ。



無題
中心市街地に都市機能を集約させる「エコ・コンパクトシティ」の概念(資料:国交省)

〈カーペンター〉




都市計画のパラダイムシフト
これからの都市計画

 わが国都市計画法制の源流である「東京市区改正条例」(1888年)は、3つの特徴を以降の都市計画ヘビルトインしました。すなわち、対象論としては「既成,市街地における後追いインフラ建設」、方法論としては「全体プラン無しの個別事業等の決定」、体制論としては「中央集権・官僚主導型|の都市計画です。

 同条例をうけて、市街地の総体的コントロールを目ざした「1919年都市計画法」は当時.世界的にみても先進的な都市計画制度でした。しかし同法は、その後「震災復興→戦時体制→戦後復興→高度成長」という史的展開の中で「官によるインフラ事業」という基本的性格のまま「化石化」してゆきました。この点は、ほぼ同時に出発したアメリカの都市計画が、自治体の公共事業・土地利用・空問構造を切り口とする社会的コントロール・調整の政策技術へと大きく進化していったのと対照的です。
 
 戦後の高度成長期には、急激な財政膨脹の下で「都市計画事業が都市を破壊する」という事態となり、再び市街地の総体的コントロールを目ざして「1968年都市計画法」が制定されました。

 他方,戦後の自治体民主化の中から「まちづくり」が生まれました。1960年代の高度成長期には、再開発、公害反対、区画整理反対、歴史環境保存、地域住民要求などの各種の市民住民運動が全国各地で展開されました。譬喩(ひゆ)的にいえば1968年法とまちづくりとは、共に高度成長が生んだ双子の兄弟なのですが、一方は国会議事堂の赤絨毯の上で生まれ、他方は権力に後押しされない市民パワーとして生まれたのです。

 そして今このまちづくりが、市区改正以来の伝統的都市計画パラダイムへ挑戦を続けているのです。すなわち「インフラ建設から住環境整備ヘ」「個別具体の都市計画からトータル・ビジョンヘ」「集権・官中心型から分権参加型へ」等の要求なのです。

 これを敢えて、一点に集約すれば都市計画における「公(public)」の位置づけにあると思われます。つまり「公=中央政府官僚」から「公=自治体+市民社会(住民・市民・NPO等)」の都市計画へと、如何にして進化させてゆくか、という点です。

 分権の制度論のポイントは「都市計画制度の全体構造の分権化」と、「その制度内での技術・手続きの分権化」を明確に区別すべき点です。多くの既往提案は前者のみに絞られているようですが、全体構造の分権なしに真の「都市計画の分権」が可能か、が問われるべきです。

 「公としての市民社会」の重要なプレイヤーは、都市計画ブロフェッション、つまり職城を超えて職能を同一とし、都市計画技術を実質的に担う専門家集団です。日本は、確立したブロフェッション無しに都市計画を行っている世界でも特異な国なのです。これが可能なのは、都市計画が政策技術よりは工学技術」「技術よりは行政事務」の方向へと退化しているからではないでしょうか。

 このような状況の下、新鮮な観点から都市計画制度を構想し、次の百年に耐える都市計画の制度設計を研究・実践することが今,求められている社会的要請ではないでしょうか。


<都市プランナー>


テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済



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