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Author:疾風
岩手県盛岡から発信、ローカルな足場からグローバルな普遍性を論じる
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ブログ新聞 『市民ジャーナル』
市民ジャーナルは、ローカルな現場の当事者の視点からグローバルな普遍性を論じようとするものです。皆さんの投稿をお待ちしています。 sj17417@yahoo.co.jp
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STAP細胞 ・小保方晴子
STAP細胞発見者の小保方氏へのバッシングが始まった。
「写真が他の論文と同じ」「貼り合わせ写真」「論文のコピペ」等等。
これをネタに大バッシングの嵐が吹き荒れている。世紀の発見者が、小保方晴子という可愛らしいひ弱な女性であるという話題性の反動で、マスコミが興味を引くための過激報道をはじめようとしている。
さて、事の本質はなんだろう?
それは、STAP細胞が本当に存在するのかどうかなのだ。
論文の体裁や、写真の張り合わせなどは取るに足らない些細な問題である。
疑問があるのなら、STAP細胞の実在の追加検証に対する報道こそマスコミのなすべき仕事である。
論文などというものは科学の真実に比べてば飾り物でしかない。飾り物の評価にエネルギーを費やして、中身を論じないのはバカ丸出しだ。
科学的真実は証明されるまで紆余曲折を経るのは科学の常識だ。
地動説などはアリスタルコスが唱えてからコペルニクスが証明するまで2000年もかかっている。
STAP細胞が発見から数ヶ月間で簡単に再現できないからといって、それが実在しないと結論するのは早すぎる。
大発見はたまたまの偶然から始まり、長い年月を経てやっと普遍に至るが常だ。
諦めずに偶然の再現に力を注いでもらいたい。それが人類の限りない幸せにつながるかも知れないのだから。
<ハヤテ>
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テーマ:社会ニュース - ジャンル:ニュース

“菅首相やめろ!”の大合唱の異様
「菅首相辞めろ!」の大合唱。
私は自分の立場をはっきりさせておくが、菅総理支持ではない。その発言を聞くかぎりにおいて、他人を攻撃する以外に政策的な信念が感じられないことに首相としての存在に不満が多い。
しかしいま政界やマスコミこぞっての「菅辞めろ!」大合唱に対してはもっと違和感を感じる。
この国難の時に、自民党の石原伸晃幹事長は「菅首相が辞めない限り国会の会期延長には応じられない」などとたわごとをわめいているが、自民党は自身が出した首相不信任案が大差で否決されたという事実を忘れてしまったのか?。さらに、今日の朝日新聞には森喜郎元首相が「谷垣自民党総裁を首相にする連立を」などと述べている。だいたい、森喜郎と言う人物は国民から愛想をつかされて総理の座を追われた人ではなかったか。そういう人物の発言をわざわざ取り上げて掲載する朝日新聞の見識にも呆れる。

菅首相が辞める辞めないの発言をしたのは、民主党代議士会の場である。一政党内部の会合での発言である。これを基に自民党と同様にマスコミも、「菅辞めろ!」の大合唱を煽っているのは何とも異常であることに、マスコミも国民も気付かないのだろうか。

さて、冷静に今回の騒動を俯瞰して観ると、
1. 衆院での内閣不信任案は大差で否決された。すなわち衆院は菅内閣を大差で信任した。
2. 菅首相が退陣をにおわせたのは、一政党内の会合の場である。
3. 民主党の一部(多数?)は菅首相の退陣をにおわす発言を聞いて、本当は首相として相応しくないと思っている菅首相に対して信任に投票を行った。

事実は以上の3点である。
問題は何か!。
菅首相に昨日は信任票を入れた民主党内から今日は「菅辞めろ!」という声が上がっていることだ。
彼らは菅首相がそのうちに退陣するという発言と取引に、不信任案に対して反対票を投じたのである。
国会の議決よりも党内の会合での発言を重視しているのだ。もっとはっきり言えば、国会以外の場(民主党代議士会)で裏取引をし、国会では偽りの議決をしておいて、いま裏取引の内容を実行しろと迫っているのだ。
マスコミもこぞって国会の決議よりその裏取引を容認してこれを煽っているが、自らのその異常さに気が付いていないことに唖然とする。この程度のマスコミに世論が誘導される現状は原発事故よりも危険である。
こうなれば菅首相はもっと粘って、この異常事態の経緯の異様さを露わにすることがその責務かもしれない。
<疾風>
多神教の心象
日本の多神教の心象

日本では神道系の信仰を持つ人々が約1億600万人。仏教系が約9600万人。キリスト教系が約200万人。その他が約1100万人。合計すると2億1500万人となり,なんと日本の総人口の2倍となってしまう。話を単純にすると,1人あたり2宗教かそれ以上。ゆえに通説では,日本は多神教の国であると言われています。

 しかし,一神教と二項対置させ多神教をとらえるのは,元来,一神教側からの見方だ。安直に日本を多神教の国と見るのはいかがなものか。

 多神的であると同時に,歴史を通して幾重にも宗教的なるものが埋め込まれ,積み重なり多層的な姿を形成している。すなわち,日本の宗教的な風景は多層・多神教的な姿の上に立っているのです。

 プロテスタント,カソリック,その他の会派を含めても,日本のキリスト教の信徒は全人口の0.8%で少数派。日本ではキリスト教はマイノリティ,そしてミトラ教はさらに歴史の陰に隠れた微細な存在である。たぶん,読者にとってもミトラ教について読んだり聞いたりしたことのある方々は至極限られていることでしょう。

 しかしながら,諜報謀略講座ではマイノリティ,歴史の隅に追いやられた存在,文明の縁にかろうじて痕跡をとどめるような密やかな存在に注目する。そうした陰に隠れたような存在から大勢,主流を逆照射することによって,通常では見えないものが立ち現れてくるからです。

 年末年始の風景。クリスマス・イブの12月24日になれば,街にはクリスマス・ツリーが立ち,ジングルベルの歌が響き,商店街やレストランは人で溢れる。大晦日には除夜の鐘を神妙に聞いて新年を迎える。

 一週間くらいして年があけると,クリスマスを祝っていた人々はこつぜんと神社仏閣に馳せ参じ初詣をする。

 年末年始の一週間の国民的風景には,日本の姿が凝縮されているのです。



<カーペンター>
日本的経営の再検証
いまあらためて「軽薄短小」を目指せ

全地球的な課題として叫ばれているのが、二酸化炭素(CO2)の削減です。CO2排出量が少ない低炭素社会の実現を目指して、自動車、家電、情報など各業界のどの企業も、新環境技術の開発に懸命に取り組んでいます。

 ところが現実には、CO2排出量は世界レベルで増大の一途をたどっています。そこでこの問題に対して、まずは手の届く実効性のあるところから取り組もうというのが、今回のテーマです。

 振り返ると、1970年代と80年代の2度のオイルショックの際に、製造業は省資源、省エネルギーを掲げ、「重厚長大」から「軽薄短小」へと大きく舵を切りました。コンピュータの世界でも「ダウンサイジング」を合言葉に、小型化と分散化へと進みました。

 21世紀のいま、改めてこの軽薄短小とダウンサイジングのコンセプトの基に、企業はそれぞれの立場から新しい角度で省エネルギーと省資源に再挑戦すべきではないでしょうか。これが結果として、CO2の排出量を減らしていくことにつながってきます。
 かつて日本企業の得意技として注目されたのが、「軽薄短小」のモノづくりです。戦後にソニーが生み出したトランジスタラジオやウォークマンに代表されるように、小型で薄くて軽い日本製品は、世界で高く評価され、市場を席巻しました。

 最も分かりやすいのは、やはりモノづくり(製造業)です。製品を小さく薄く軽くすれば原材料は減りますし、包装・梱包材も少なくて済みます。当然、ゴミの量も減るので処理の際に発生するCO2も減らせます。

CO2削減の波及効果は多大

しかも、波及効果はメーカーだけにとどまりません。仮に製品を収めた箱の大きさ(容積)が半分になれば、一度に運搬できる製品の数は2倍に増えます。同じ数の製品を運ぶ際に必要なトラックの台数は半分で済みますし、製品が以前より軽ければトラックが消費する燃料も削減できます。

 そして交通量が減れば渋滞も少なくなり、物流そのものがスムーズになります。最終的なCO2の削減量は多大なものになるはずです。しかも小売店の陳列棚のスペースが減り、店員の作業の負担も軽くなる…といった具合に、波及効果は連鎖的に広がっていきます。

CO2削減効果があるのは、家電製品のような消費者向けのものに限りません。先日、ある新聞で大手ITメーカーの携帯電話基地局の開発記事が目にとまりました。この基地局の大きさは従来の半分で、ノートパソコンと同じくらいにまで小型化されています。しかも、電力消費量は従来の6分の1で、性能は従来のものを超えています。

 携帯電話の基地局は全国の隅々にまで設置され、24時間365日動き続けています。それを考えれば、消費電力の削減量は多大です。これは携帯電話関連のビジネスが国内にとどまっている中で、海外市場に打って出る大きなチャンスにもなります。

 軽薄短小というと製造業だけの問題だと思われるかもしれませんが、どんな業界でもできることがあります。例えば物流業であれば、梱包を簡素化して小さく軽くする。小売業であれば、夜間の営業時間を短縮したりできるはずです。

 消費者も生活の様式や価値観の見直しが求められます。贈答品など過剰とも言える華美な包装にどれだけ意味があるのか、製品の見た目が豪華であることが本当に付加価値なのか…。下手に凝ったものよりも、シンプルで見映えがするデザイン、心のこもった簡素な包装など、工夫の余地はいくらでもあります。

 このように常識を「疑う」ことで世の中の流れが変わり、一気に価値観が変わっていく可能性があります。そうなれば、CO2の削減に向けた動きは加速度的に進んでいきます。

「盆栽」を生んだ文化は日本企業の強み

軽薄短小の取り組みは、そもそも日本人に向いています。自然の一部を切り取って小さく凝縮した石庭や、木や森を家の中に持ち込んだ盆栽、四季折々の御膳を1つに収めた幕の内弁当、団扇(うちわ)を折り畳んだ扇子(せんす)など、モノを小さくする発想が古くから文化として根付いています。韓国の日本研究家・李御寧さんは、この文化について著書で「日本人の『縮み』志向」(※)と述べていますが、もっと前向きな言葉で表現して「小型化」志向と呼びたいのです。

 冒頭で触れたトランジスタラジオやウォークマンも、ソニーは当時としては驚くほど小さな製品に作り上げました。日本車が1980年代以降に世界市場を制覇していったのも、性能がいい軽量・小型車が評価されたからです。ここで見逃してはならないのは、小ささだけではなく、そこに従来にない新しい性能や価値を付加することを忘れなかったことです。

 こういった日本のお家芸は、現在の省エネルギー・省資源の時代、そして低炭素社会を目指す今という時代にこそ、再び求められています。この日本独特の「軽薄短小」の文化を我々は自信を持ってモノづくりに生かし、上手に経営に織り込んでいけば、新ビジネスの開発や新市場の開拓につながります。その時期が、今まさに到来しているのです。



〈うわさのMBA〉
小さ過ぎるかな?
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これからの都市計画
「都市計画」から「まちづくり」へのパラダイムシフト


わが国都市計画法制の源流である「東京市区改正条例」(1888)は、三つの特徴を都市計画ヘビルトインした。
すなわち、対象論としては「既成市街地における後追いインフラ建設」、方法論としては「全体プラン無しの個別事業等の決定」、体制論としては「中央集権・官僚主導型の都市計画だ。

 同条例をうけて、市街地の総体的コントロールを目ざした「都市計画法」(1919)は当時、世界的にみても先進的な都市計画制度だった。
しかし同法は、その後「震災復興→戦時体制→戦後復興→高度成長」という時代の変化の中で「官によるインフラ事業」という性格のまま化石化していった。
ほぼ同時に出発したアメリカの都市計画が、自治体の公共事業・土地利用・空問構造を切り口とする社会的コントロール・調整の政策技術へと大きく進化したのと対照的である。


戦後の高度成長期には、急激な財政膨脹の下で「都市計画が都市を破壊する」という事態となり、再び市街地の総体的コントロールを目ざして「都市計画法」(1968)が改定された。


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 他方、戦後の自治体民主化の中から「まちづくり」が生まれた。六〇年代の高度成長期には、再開発、公害反対、区画整理反対、歴史環境保存、地域住民要求などの各種の市民住民運動が全国各地で展開された。
譬喩的にいえば六八年法とまちづくりとは、共に高度成長が生んだ双子の兄弟なのだが、一方は国会の赤絨毯で生まれ、他方は全国各地でホームレスとして生まれた。

 そして今、このまちづくりは市区改正条例以来の都市計画のパラダイムシフトに挑戦を続けている。流れは「インフラ建設から住環境整備ヘ」「個別具体の都市計画からトータル・ビジョンヘ」「集権・官中心型から分権参加型へ」等である。

 問題を一点に集約すれば都市計画における「公(public)」の位置づけにある。つまり「公=中央政府」から「公=自治体+市民社会(住民・NPO等)」の都市計画へ如何にして進化させるかという点になる。

 分権の制度論のポイントは「都市計画制度の全体構造の分権化」と、「その制度内での技術・手続きの分権化」を明確に区別すべき点だ。
多くの提案は後者のみに絞られているようだが、全体の分権なしに真の「都市計画の分権」は実現できない。

 「公としての市民社会」の重要なキーマンは、都市計画ブロフェッション、つまり職城を超えて職能を同一とし、都市計画技術を実質的に担う専門家集団の存在が重要になる。

わが国は、確立したブロフェッション無しに都市計画を行っている世界でも特異な国だ。
これが可能なのは、都市計画が空間技術よりは「工学技術」「技術よりは行政事務」の方向へと退化しているからだ。

 このような状況の下、市民の視点から都市計画制度を構想し、次の一〇〇年に耐える市民主体の都市計画制度への変換が,今社会的に求められている。

(うわさのMBA)





危ない兆候
恐怖のデフレスパイラル


 大手スーパーが激しい値下げ戦争を繰り広げています。

 まさに、値下げ競争の消耗戦です。もちろん、消費者にとって、こうしたスーパーの価格戦争は歓迎すべき動きですが、その事情を詳しく見ていくと、けっして手放しでは喜べないことに気づきます。

 スーパーの価格競争は、原油や穀物の国際相場急落を受けて、それを消費者に還元しようとして始められたと言います。しかし、国際相場が下落したからといって、すぐに原材料価格や卸値が下がるわけではありません。そこにはタイムラグがあります。まだまだ卸値は下がりきっていないのですが、それでもスーパーは先取りして値下げを実施しました。

 消費者の所得が低迷しているため、値下げをしないとモノが売れないからです。そして、値下げによって少しでも小売業界のシェアを奪っていこうという戦略なのです。

 当然のことながら、スーパーの粗利は減っていきますが、その分をスーパーがすべてかぶっているわけではありません。値下げのしわ寄せはメーカーにもいきます。大手スーパーが卸値の値下げを要求すれば、メーカーがそれを拒否するのは難しいからです。

 結局、メーカーは原材料の価格が下がりきらないうちに卸値を切られていきます。スーパーの粗利が減るだけでなく、メーカーの粗利も減っていくわけです。

 そこで何が起きるか。ない袖は振れないから、スーパーもメーカーも従業員の賃金を減らします。従業員も消費者ですから、賃下げによって消費者の購買力がまた落ちて、さらなる値下げが避けられなくなります。

 かくして、商品の価格と賃金が下落する悪循環に陥っていく。まさにデフレスパイラルへ突入していくのです。
そんな中、麻生総理は消費税率の3年後の引き上げにこだわっています。デフレスパイラルへ追い討ちをかける悪策としか言いようがありません。
これに追い討ちをかけるように、産業界は雇用確保のための手段としてワークシェアリングを検討しています。実施されれば、消費者所得が減少して購買力はさらに落ち込みます。

 現在の日本の不況について、米国経済がダメになったから日本もその影響で落ち込んだという議論がありますが、必ずしもそればかりが原因ではないのです。 昨年10月の貿易統計を見ても、米国への輸出額は全体の17.5%です。全輸出額の6分の1です。もちろん影響は少なくないものの、だからといって「米国がクシャミをしたから日本が風邪を引く」という時代ではもはやありません。

 最大の問題は、国内政策がまったく進んでいないことにあります。このまま、解散・総選挙をにらみながら与野党が足の引っ張りあいを続けて、効果的な財政政策が下せないようならば、日本経済は間違いなくデフレに陥いります。おそらく今年の春には、消費者物価指数の上昇率がマイナスに落ち込むと思います。

 原油や穀物の国際価格暴落という追い風を受けて、今年の春先には日本の景気は戻っていくと、最近まで考えていました。

 原材料価格の下落は、企業の粗利を増やすことで業績を回復させると同時に、消費者物価を引き下げることで実質購買力を引き上げますから、景気回復につながると考えていました。

 ところが、このせっかくの追い風は景気回復に生かされそうがありません。政府・日銀の無策によって、原材料価格の下落が景気回復の方向ではなく、デフレスパイラル促進に向かいつつあるからです。

 日本以外の先進諸国はデフレを止めようと懸命になっていますが、わが国では政治の混迷、金融不況の中で、たいした対策も講じられないままに、民間の値下げ戦争だけが進展して消耗戦と化しています。これは経済がどんどん縮小する、非常に危険な兆候だと思うのです。


〈うわさのMBA〉

不景気対策
金持ちは今こそお金を使え!

 最近、不景気ですね。
 
 定額給付金の詳細が総務省より発表されましたが、これって景気対策でしたよね・・?

 総務省は20日、追加経済対策の目玉である定額給付金について、地方自治体に配布方法の詳細を通知した。年齢や住所の基準日は2009年2月1日と設定したほか、短期滞在などを除く外国人にも支給することにした。

 景気を上げる為には世の中を必要以上に消費に回す気分にする事が大切だと思うのですが、今回の給付金はとりあえず現状の苦しい生活の足しにしてくださいという感じで、特に景気と言うよりも選挙目当ての合法的な買収に近い気がします。

金持ちは貯金が大好き
 
 お金持ちの貯蓄率は高いそうですが、彼らのお金を国内で使ってもらうと、多くの産業が潤いそうです。逆に海外で使われると余り意味がありません。
 そこで、今回の給付金はいっそのことお金持ちにも大いに使ってもらう方式にした方が良かったと思います。
 
 低所得者層への支援だけでは景気は回復せず抜本的な解決にはなりません。例えば、10万円の国内消費に対して2万円を補助とか少し日常品とは異なる消費刺激策も無いといけない気がします。
 安い商品が売れると景気がますます悪くなります。

 お金がある人たちまで、景気が悪いからという理由で消費を遠慮している状況こそが問題です。日本の得意な付加価値商品の販売不振を招き、海外の安い商品の消費を増やしてしまう悪循環を生んでしまうからです。

 景気対策の本質は付加価値のある国内生産の商品を流通させて国内における貨幣循環を活発化させることなのでは無いでしょうか?

 このままでは、せっかくの給付金も借金(カード払い)の返済と安い外国産商品の購入に充てられるだけです。(かといって円安だからと海外の高級ブランドを買われ ても困りますけど。。)

麻生総理よ、もっと知恵を使え。

 給付金の使い方をもっと上手に考えればもっと景気は早く回復するはずなのに、タダお金を配って終わりなどと言う発想はどうしようもない愚策ですね。

 「迅速な対応」と「あわてた対応」は違います。

 目的は何で、今回の給付金は何の役に立つかどうかを今一度冷静に考えて欲しいモノです。

 だから、麻生総理は必死になって(漫画はしばらく見ないで)国民目線の視力を高める必要があるのです。
 先般、口の悪い知人が、阿呆太郎と言ってました。
 
 私も悪舌の方ですが、これには脱帽しました。

〈うわさのMBA〉

テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

役人論
この国の「役人」は「厄人」か?

日本語を素直に読むと、役人は(国民のために)役に立つ人と読めます。私たちは長い間、税金を納めながら、そう思ってきました。ところがどうでしょう。

最近(昔からかも知れませんが)の公務員の不祥事は、公務員が何のために存在するのか疑問に思えてなりません。

役人ではなく、厄人(やくにん)(国民に災いをもたらす人)としか思えません。

先般、ある保険会社の川柳募集に応募しました。


「役人は 厄人なのか この国は」

それでも納得できず、四文字熟語募集に応募しました。

「厄人天国」

元の四文字熟語は「役人天国」です。どちらも似たような熟語ですが、応募作品の方が名(迷)熟語だと思っています。

社会保険庁、国交省、防衛省、農水省、大分県教委等々、国から地方まで毎日のようにメディアに公務員不祥事が話題にならない日はありません。俗に、税金を納めるのが、馬鹿馬鹿しくなります。税金同様の諸々の公共保険料も同様です。

一般社会なら完全な犯罪行為も、組織の中で完全にぼけて、不正行為者を特定できない仕組みに守られています。自分たちの存在を守るのが第一で、本来の使命である公僕意識はどこへやら、怒ったり、呆れたりしますが、よくよく考えれば、最終的には国民生活に厄災をもたらすのです。

国は国民がいるから存在するのです。無人のところには役所は必要ないのです。

以前、ある仕事で顧客を侮辱した市の担当者に言ったことがあります。

「あのね、市役所があるから市民が居るのでなく、市民が居るから市役所があるんでしょう」と。相手はその意味が解ったかどうか判りませんでしたが、きょとんとしていました。国民・市民が税金を払って生活を保証するシステムに居る人間が、そのシステムを支えている人間より上位に居るという錯覚・感覚が問題なのです。

国民は無償奉仕(ボランティア)を要求していません。与えられた使命を果たして欲しいだけなのです。


〈気になるあいつ〉

テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

宇宙のチリたる僕なれど
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特に意味はなく、今は秋。
今日は週末なので、上サンが我が家のビデオをDVDにダビングしてくれるのを、ボーット見ていたのだが、その中に、10年ぐらい前、地元TVの朝まで4時間討論番組に出たものがあった。テーマは「このままではどうなる日本」という、政治討論番組だが、そこで議論していることは、政治と金、官僚腐敗、行財政改革、選挙制度などで、今問題になって         いる政治状況と全く同じテーマだった。
そこには、自民党、新進党(現民主党)の国会議員、社民、共産の県議クラスの政治家が出ていたが、特に自民党の前農水大臣玉沢徳一郎が「政治改革、財政改革、今すぐやります」といっていた。さてさて、あんたはあれから10年、今になって、政治資金管理で、同じ領収書を4重コピーして、自民党すら逃げ出してしまった。さてさて、政治家とは情けなき生き物なり。
実は、今日は、話題の新聞、TVのニュース、亀田兄弟、厚生省の悪魔的無関心体質、守屋元事務次官のたかり人生、比内地鶏、赤福、イラク、給油・・・はもう書く気がなかったので、新聞の片隅に出ていた、ニュートリノの重力を確認する実験が、ジュネーブで打ち込んだニュートリノをイタリアで受けるという、壮大な、超超微小な実験をやるとでていたので、そのことを書こうと思っていたのだが、もう一杯引っかけたので今日は辞めにする。
ニュートリノは針の先よりも小さな、宇宙の元=存在が一瞬にして爆発した3秒後ぐらい(今の宇宙とほぼ同じ状況)のときに発生した何がし、物質らしいが、それが何だかまだ分かってなく、それが分かったら、少し宇宙のことが見えてくるというのだが、きっと、それが分かってもニュートリノより小さなものがあるから、きっと永遠に宇宙はわからず、ということは人間もわからず。
ただ、人間は、何処から来て何処に行くのか、僕は・・・・、そんなことを考えれば、なるべく清らかに流れて消滅したいものだ。そして、宇宙のチリとなる。〈田舎人〉

むなしいこの国の農業政策
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最近雑穀をつくる農家が少しずつだが増えてきた。以前は、ほとんど田んぼだったものが減反で、転作作物として、雑穀をつくるようになった。この写真のとんがり帽子は多分キビの柄だろう。

日本の農作物の自給率が40%を切ったという。これは無策(政府が何もしない)の状況ではなく、それなりに自給率を上げましょうと掛け声をかけたり、なんらかの背策はとっているのだが、このざまである。それでも政府は「自給率を上げることは急務」と掛け声だけは、かけている。
ただ、昨日の国会でもやりとりを聞いていても「農業も自由化に向かい、かつ、自給率をあげる」などとのたまっている。そんな手品のようなことが出来るなら、お手並み拝見したいのだが、手品とてネタがありインチキなこと。

政府の政策は、とにかく大規模農業で輸入作物に対抗する、などといっているが、現実に大規模化をしてきた農家は、現在存続すら危ぶまれる状態にある。日本で最も大規模化が進んでいる八郎潟の農家の米60kの実利益が650円だという。我々が家庭で買う10kの米の儲けが百円程度である。こんなことでやっていけるはずがない。
自由化した途端、この国の農業は崩壊する。そんな簡単なことが役人や政治家には分かっていない。

日本の農業を救うのは大規化と言いながら、日本農業の40%を支えているのは、冒頭の写真にあるような、僕が暮らす村のような、大規模化が不可能な農業地帯である。僕の暮らす村とて、あと10年農業が続くとは考えにくい。多分、あと4?5年がいいところだろう。さて、その時日本は、食糧を抑えられ、何処かの属国に成り下がっているのだろうか。それはアメリカか、ひょっとしたら中国の2級品をあてがわれて、体調不良を起こしているかもしれない。
要するに、現代の農業政策は農業政策といいながら、全く、無策か農業をかえって後退させているのである。
日本の為政者は多分、それを知ってやっているのだろう。自動車や家電が海外で売れて、それに伴うIT関係や大企業だけが繁栄して、農業従事者や農村部、都市部の若年層は、海外(東南アジアや中国)の労働者と対抗するための低賃金労働者に仕立てていく。これが日本のグローバル経済戦略である。

大企業の社員とて、多くは6?700万円程度の年収で四苦八苦しているのが現状ではないだろうか。それを、企業のビルや都市の虚飾がカモフラージュして、あたかも自分自身が輝いているかのように錯覚している。
竹中平蔵などがいつも言っている日本のグローバル経済政策は、こんなものである。
日本人は、いつまで、そんなおとなしい働き蜂を演じ続けるのだろうか。
ノーベル平和賞に『不都合な真実』のゴアとIPPCが受賞することになった。これは、世界にとって喜ばしいことであると共に、人間にとっての環境破壊の現実を認めたことである。だからといって、世界の環境政策が加速化するかといえば、そんなこともない。ここが問題なのである。
植木等の「わかっちゃいるけど止められない」というのは、日本人のいい加減さかと思いきや、これは世界に通じる、人間の行動形態だったようだ。

これからの文明、思想は、如何に亡んでいくか、ここに掛かっているようだ。地球環境しかり、我が村しかり。
丸山暁〈56歳・人間・田舎人〉

バブル狂乱と小学生のうつ
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天を突き上げるがごとき真っ赤なケイトウの花。こいつ等は、何年か前に種を蒔き、苗を育て、花壇にちゃんと丁寧にお花らしく植えてやったヤツラが、そのときはこじんまりと咲いていたのに、今では、その子孫どもが勝手気ままに咲きたいところで咲いている。中には畑のじゃまになり、ひっこ抜く奴もあるが、大体は好き勝ってにさせておく。そうすると、こんなに屈託なく元気に育つ。

人間は、何故、もっと、自然を見習わないのだろうか。
今朝、みのもんたのアサズバを見ていたら、「中学生1年生の1割がうつ病(北海道大教授報告)」とあった。以前から、子どもたちのうつ病の問題は報告されていたが、データーに基づいた調査は今度が始めてだと言う。中学校の1年生が「うつ」ということは、小学校のときに既に精神的にダメージを積み重ねてきているのだろう。もしくは、ダメージに抵抗できる精神構造を培えなかったのだろう。

いずれにしても、小学校、中学校共に、本来最も子どもらしく社会生活を楽しみながら学べる時期が、子どもたちにとって、最も希望のない抑圧された時期だとすれば、これは、子どもにとっては勿論であるが、社会としても危機的状況にある。
最近、20年ほど前のような学校での暴力事件は減ってきたようだが、ここに来て陰湿ないじめが増えてきているようだ。
また、携帯の普及で、オープンな人間的な実態のある接触(会話や身体的触れ合い)ではなく、携帯と言う情報端末機に伝達される情報をも意識しながら(怯えながら)暮らさなければならない。
このことは、様々な場で、子供社会の2重構造(表向きと携帯社会の使い分け)として報告されている。子どもたちは、現実とバーチャル(携帯は既にバーチャルではなく、もう一つの現実として作用している)の2重の抑圧を受けている。

彼等が、まともな感性をもち続けようとしたら、現実逃避か、自己崩壊しかない。

今年のクリスマスや年末年始のホテルの予約は、バブル期を越えた盛況ぶりという。1泊30万円?130万円の部屋が既に予約で埋まったとか。経済的な勝者は浮かれ、最も、この国の大切な宝物である子どもたちは、抑圧されていく。とんでもない世の中になったものだ。
今の日本で最も下品に目立っている一人、神田うのが結婚をしたとか、豪華な結婚式を上げたとか。今日は、そんなニュースがお茶の間を賑わすのだろうが、この国は、そんなことでいいのだろうか。これも、単に経済発展のための宣伝行為なのだろうが。

子どもたちを救えない限り、この国に未来はない。

子どもたちは、冒頭に上げた、ケイトウのように育てるのが一番いいのだが、子どもを教育する教師が抑圧され、大人が大人に成長できず、政治かはちゃらんぽらんで、子どもたちは怯えている。

今『生物と無生物の間』福岡伸一著がベストセラーでという。あまり売れている本は読みたくないのだが、「人間も生物も鉱物も空気もそれを構成している分子は縦貫している」旨のことが書いてあると言う。生命の面白さ、人間は、もっとおおらかにならなければ・・・というところが書いてあるようでぜひ読んでみたい。
丸山暁〈56歳・人間・田舎人〉

成熟した民主主義国家日本
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なんだか、久しぶりに穏やかな気候を感じている。今年を振り返るには、まだまだ早いが、今年の気候は大雨、高温、嵐と、温暖化による気候激変を予兆させる天気が多かった。しまし、ここ数日は、まだまだ、自然のサイクルは、そう簡単には壊れませんよ、と言っているように穏やかな秋空が続いている。いつものように赤とんぼが上空を舞い、栗の実も落ちてきた。今、毎朝の仕事は栗拾いです。

福田新内閣になって、日本の政治もこの秋空のように晴れ晴れしてきた。その証拠に、内閣支持率は60%に回復したようだ。めでたしめでたし。ただ、それでも、60%程度の有権者は半年か1年以内に解散総選挙すべきと言うのだから、この支持率は「福田さん、貴方に期待しているわけではないが、せめて、しばらくは政治空白をつくらないで、すこしは国民のこと世界のことを考えてよ」という悲壮感漂う国民の祈りである。

それにしても、日本の政治は民主主義の最高の姿に達したのかもしれない。この間まで「構造改革、民営化、愛国心、憲法改正、格差は景気回復とともに解消される」といっていた自民党政治家たちが、参院選で大敗して福田内閣の国民に甘い所信 表明演説を聞いた途端、今度は「国民の暮らしのため、格差是正」と言い始めた。まさにたった一回の選挙で政治が国民の方を向いてきた。ついこの間まで「沖縄の集団自決に軍は関与していなかった」と教科書からその言葉を削除しておいて、今度は、沖縄で11万人の「教科書検定の撤回集会」があった途端、集団自決に対する軍の関与を再検討するという。小泉、安倍政権下では、ここまで早い対応にはならなかったろう。
これも、参院選挙の大敗で自民党が弱気(国民の声を聞くようになった)になっている証だろう。

要は、政治家なんて、とりあえず自民党の(民主党も政権をとればどうなるかは割らしてみないと分からないが)、票欲しさ、国会議員のバッジほしさに息をしているようなもの、ちょっと選挙で危うくなれば、ころっと考えを変えてしまう人種のようだ。なんと分かりやすい連中だろうか。
まさに、この国の政治は完全に選挙民の手の内にあることが証明された。これは、ちゃかしなしで素晴らしいことである。
この際、次ぎの衆院選挙に向けて、国民が求める政治をたくさん要求しておけば、今なら自民党政治化はなんでも聞いてくれるかもしれない。

政治資金の問題だが、これだけ批判され、身内からぼろが出て自殺する大臣まで出しているのに、自民党は政治資金を全て領収書をつけて公開するのではなく、領収書を管理する第3者委員会のようなものを作るといいだした。
これも、その程度の政治資金規制法改正なら「だれも自民党には投票しませよ」と、みんなで自民党さんに伝えましょう。あわてて、反省をするかもしれないよ。

政治家を育てるも、堕落させるも、国民次第ですね。子どもを見れば親が分かるように、政治家を見れば国民が分かる。
僕の考えるブログと同じです。丸山暁〈56歳・人間・田舎人〉

ミャンマーから考える
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ミャンマーの軍事政権がとうとう市民弾圧のための武力行使に出た。軍事政権側の発表で4人死亡、十数人負傷とあったが、死傷者は実際数倍あるのだろう。その情景の中で、1人の日本人カメラマンの死が映像で伝えられた。それは、若い兵士に至近距離から撃たれ倒れ、死にゆく姿だった。彼は最後までカメラを逃げ惑う群集に向けようとしていた。まずは長井健司さんの御冥福をお祈りする。                
従軍兵士や戦場カメラマン(そう呼んで良いのかどうかは分からないが)の死は、いつの時代もどの戦争・紛争でも起こりうることだが、彼等の死は、兵士や民衆の死とは別の感慨を持つ。彼等は敢えて戦場に赴くのである。それは多分いつも死を覚悟してのことだろう。
戦場ジャーナリストの死はピューリツァー賞を取ったベトナム戦争で沢田恭一、ベトナム戦争のカンボジア戦線で死んだ中島照男、そして今度はミャンマーで長井健司が死んだ。
彼等は、僕たちが安全な日本でぬくぬくしている間も戦場を駆け巡り、僕たちに戦場の理不尽さを伝えてくれた。
ベトナム戦争はアメリカが反共のためと、わざわざインドシナに軍隊をおくり400万人近いインドシナの人々を殺しアメリカの兵士の5万人程度死んだ。今アメリカは対テロ戦争とイラクやアフガニスタンに兵士を送り殺戮を続けている。そして日本政府はそれを積極的に支援してきた。さて、テロ特措法はどうなるや。自民も民主もただ正統的な対立ではなく「テロとの戦い」とは何なのかを見据えて議論して欲しいものだ。
ミャンマーの軍事政権の最高責任者タン・シュエは「国家平和発展評議会議長」の立場にある。ここで書かれた「国家平和発展」とは如何なる意味なのか。この国の平和と発展は単に権力を握っている軍人の安泰と贅沢のためらしい。このことは、金正日の朝鮮民主主義人民共和国に通じる。誰のための人民共和国なのか。
日本はただの日本でよかった。変な修飾語がついて国民や世界を欺く国ではなくて。ただ、日本の平和と安定とは、日本国の経済発展の影で増え続ける低所得者(年収200万円以下が1,000万人に増えた)は、国家の安定ためには仕方がないとするなら、この国も国家と国民の関係を疑ってみなければならない。
もし、人間は、個人の意志と戦いによる寂肉強食の社会なら国家すらいらないはずだ。
〈田舎人〉

人類絶滅と懲りない日本人
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昨夜遅くなって、やっと中秋の名月が顔をだしてくれた。月に人が降り立とうが、日本のつき観測衛星の「かぐや」が月の表面を覗こうが、月は月、いつまでも輝いていて欲しいものだ。目を凝らして見ていただくと、右下に山の端が見えるはずです。

スペースシャトルだったか宇宙ステーションでの実験だったか、記憶していないが、宇宙空間では猛毒のサルモネラ菌の毒性を増すという報告があった。地球上で生まれた生物の遺伝子は宇宙空間では突然変異することが証明されたようだ。
そうであれば、いわゆるSF映画に出てくるようなミュータント(宇宙人)は、ひょっとしたら、宇宙に放出された人類が、何千年も変異して変異したなれの果てかもしれない。

人類がいつ生まれたのかということは、おおよそアフリカの大地溝帯で200万年前に生まれたとされているが、実はもっと前の400?500万年前という説も出てきた。いわゆる、我々現世人類に通じるホモサピエンスが生まれたのはアフリカの小集団での突然変異から生まれたイブただ1人からだという。
それら人類の歴史を、科学的な真実だと思いたいが、実は、それとて、現代と言う時代に発見された化石によって証明されてきているのであり、本当のところは人類はいつ生まれたのかは今だ誰にも分からない、というのが真実である。

45億年の地球の歴史の中で、人類の話が出てくるのはせいぜい数百万年であり、今、我々が生きている文明が人類史的に最も新しいと思われているが、実はこの人類進化とて、現在地上(せいぜい地下数m、多くて数十m?百m)でかろうじて発見される遺物によって解き明かされているものだけである。
しかも、人類の歴史は、アウストラロピテクス猿人からエレジュトス原人ネアンデルタール人、そして我々のホモサピエンスとリニアーに遺伝子がつながっていないと言う。要は生物的には、夫々が絶滅しながら進化しているという。

例えば、日本人は縄文人がいてその後弥生人が縄文人を駆逐しながら混血して現代の日本人が出来たようだが、人類は、それぞれの猿、類人猿、猿人、原人、現世人、現代人とそれぞれの種は隔絶しながら(以前の種は絶滅しながら)進化してきたと言う。
さてさて、話が飛んでしまったが、ここで言いたいのは人類進化の話ではないし、僕の人類進化の解釈は間違っているかもしれないので、本題に戻ろう。

僕が言いたいのは、今の人類の、今、科学が解明した高々数百万年の人類史では解き明かされない別の人類の歴史があるかもしれないと言うことです。これまで、我々が掘り起こした地層からは見つけ出せない、ひょっとしたら、今と異なる人類の別の数千年の歴史が、地球の何処かに埋まっているかもしれない。要は、人類はこれまでに何度の何度も、進化と絶滅を繰り返してきたのかもしれない。

そう考えれば、インカ帝国の物語にある光を発し空飛ぶ舟や、インドのマハーバーラタにある空飛ぶ馬車も日本の異形の遮光土器の説明のつく。人類は幾度も繁栄と絶滅を繰り返してきたのかもしれない。
宇宙人は、数億年前に彼等高度な先史文明が亡ぶ時、地球から脱出した人類の末裔かもしれない。

早晩、あと数十年、長くても百年程度で人類は一回(先の論で言えば何回か)絶滅に近い状況を経験するだろう。それが温暖化ならジワジワと、核戦争なら一気に。確率的には温暖化99%、核戦争50%というとこか。国連でも、市場経済の拡大による温暖化も世界各国の核保有も止められない。

今、最もこの日本で絶滅して欲しかったのが、自民党政治だったのだが、なんだか、福田内閣の支持率は56%だとか。この国は、この国の政治に問題があったのではなく、やっぱりこの国の国民に問題があったようだ。
この国の政治にどんな不正があろうが、情けない政治体制であろうが、政治と金が渦巻こうが(何らかの資金管理改革派あるだろうが、歴史的に政治が奇麗になるはずがない)、どんなに管理化強化の不安社会になろうと、この国の国民は、なあなあで、何とかちょっとでも景気が回復して、ちょっとでも贅沢をして暮らしていければ良いようだ。
丸山暁〈56歳・人間・田舎人〉
僕の考えるブログも同じです。
中秋の名月と核
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今日は中秋の名月、本来ならぽっかり浮かんだ満月をお見せしたかったのだが、あいにく雲が出てしまった。その代わり、我が家の外灯で我慢してください。
月に人が行き、また日本でも「かぐや」を打ち上げて月の探査をするという。先端科学者は、本気で地球脱出を考えているのかもしれない。核戦争で廃虚になった地球を後にして。
そんな未来が、核兵器がある限り、人類の未来として実現性が高い。そのことに多くの市民は気づきながら、知らないふりをして生きるしかない。そこに現代の人類的パラノイアがある。今日は、疲れたのでこの辺で。
〈田舎人〉

醜悪コマーシャル・商品3態
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暑い暑いと言っていても、季節は巡ってくるもの。今年も栗が落ちてきた。これから数日栗拾いが朝の日課となる。この栗の木は、15年前この土地を買ったときに植えてあったものである。その時は、まだ背丈ほどの栗の木だったが、今は根元が30cm程の大木(我が家の土地にしては大木)になり、毎年食べきれないほどの栗を実らせてくれる。自然とは偉大である。元々ほっといても(勿論少々人為はあるのだろうが)毎年豊かな実りを生んでくれる。
栗は、縄文時代(約6千年前)から栽培がはじまり、日本人にとってはなくてはならない木だったのだろうが、今は栗は焼き栗か、マロングラッセやモンブランの材料で、特になくてもいい木かもしれないが、自然にとっては大切のもの、リスも我が家の栗を食べに来る。

このように以前は人間にとって、かけがえのないものが消えていく、もしくは大して必要とされなくなるものがある反面、何でこんなものがと疑いたくなるものが開発され、もてはやされ、生活の中に入ってくる。それを文明の進歩と人はいう。

最近のTVのコマーシャルからそれをあげると、第一に「匂いも消せるレノア」である。これは、人間の体臭やタバコの匂いがつかない洗剤だとか、この宣伝はまず下品である。動物の形を借りたおばさんが、亭主やオバサン同士の匂いをかいで臭いとか匂うとかけなしあって、「レノアだとにおわない」と、相手を脅すし、レノアを使うことを強要するような宣伝である。このコマーシャルの手法は正にいじめの原点である。
「相手を臭いといい、これを使えば臭くない、仲間になれる」この構造がいじめであることを、レノアのメーカーも、何処が作ったか知らないが最先端企業と言われる宣伝会社も気がつかないのだろうか。多分知って効果を狙っているのだろうから、この国は救われないのである。物を売るためなら、儲けるためには、人間を、子どもを陥れ、犠牲にしていいのである。

だいたい、相手の臭いをくんくん嗅ぐような行為は、臭いを発してる人以上に、嗅いでいる方が下品である。だから動物のキャラクターにやらせているのかもしれないが、動物は臭いをもっと大切にしている。食べ物や毒を見分けるのも、恋人を探すのも匂いである。あの、キャラクターの態度は、動物の品性(最近動物の方が品性があると思えてならない)や神聖な行為に対して失礼である。

次に、「シュシュットとしとけば奇麗なまんま」がうたい文句の、臭い消しのスプレーである。これも、家庭で発生する臭い(台所や暮らしのなかから生まれる生活臭)や外から帰ってきた亭主の臭いを玄関で消すなど、とんでもないことである。
まず、そのスプレーの効果は、空中に飛散しているチリ(ゴミやダニが死んで乾燥してバラバラになって飛散したものもあるだろう)や臭い物質を噴射した霧状の水分で床に落とすだけで、要はゴミや臭い物質を床にびっしりと付着させて溜め込んでいるようなものである。勿論噴射剤の中には除菌や消臭物質が入っているのだろうが、そんなことを続けるということは、糞の臭いを防ぐためにシャネル5番でも毎日バケツで肥溜めに放り込んでいるようなものである。そして、肥溜めの中清潔に暮らしましょうといっているようなもの、そんなことできるか。

もう一つ、中国人であろう数人が出てきて、飽食を尽くし、これを飲めば大丈夫という、「黒烏龍茶」のコマーシャル。
結局この国が、この世界がどんなに環境問題、世界の平和(南北問題、拡大し続ける飢餓問題)を口では叫ぼうが、「どんなに食っても黒烏龍茶を飲めばもっと食える」と、はやし立てているようでは、この世は終わりである。しかも、そんなものが国が認定した健康食品と言うのだから笑ってしまう。この国も文明の行くつくところがここである。TVで大食いのギャル曽根だとかを囃したてているのと同じで、こんなコマーシャルやTVは現代的には極悪人である。

あげたらきりがないのでこの辺にしておくが、ついでに美女たちの「プラズマにいらっしゃい(小雪)」や「自然の色がなんとか・・・(吉永小百合)」の大型液晶TVやプラズマTVは省エネの名の元に、どれだけ電力消費を拡大しているか何も行っていない。これなど、詐欺に近い。
まあ、これは、山奥で、わざわざ現代的には食べる必要もないで栗を拾っている、大型ハイビジョンTVなど買えない貧乏人のひがみに聞こえるのでしょうか。

なりふり構わず消費を拡大し続けなければ成り立たない社会、これが本当に人間が目指している社会なのだろうか。
丸山暁〈人間・56歳・田舎人〉

お粗末な国の立派で真面目な国民
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誰もUPしていないので、「僕の考えるブログ」と同じですが入れておきます。僕は、「僕の考えるブログ」に徐々にシフトしていきます。
嵐が去って、清らかな流れが帰ってきた。
今回の豪雨では北東北が被害を受けた。昔なら嵐はじっとしていればいつかは治まると諦めもついたが、温暖化により、巨大化し回数も増えるという嵐にどう対処したら良いのだろうか。
もう、温暖化を止めることは不可能だし、地球の寒冷期の時期が一気に早まればいいのだが、ここ数年で1万年分の気候変動が起こることなど、天地がひっくり返らなければ起こらないだろうし、もし、天地がひっくり返っても地動説の現代では、天と地がひっくり返ると言うことは、単に昼と夜が逆転するぐらいで、もうお手上げである。
安倍総理の「美しい星50」だったかは、安倍総理亡き後(政治生命という意味で)、もう永遠に忘れ去られるだろうし、もともと単なる思い付きだったのだから、忘れ去られても同じだが、地球規模でも、現経済体制(市場主義のグローバルな経済体制こそ最終的に世界が安定すると言う思想)が続く限り温暖化を食い止めることは不可能だろう。
話変わって、今日の朝日新聞に「教育予算比率低い日本OECD下から2番目」と出ていた。要は経済協力開発機構の調査で調査可能な26ヶ国の中で、公的教育費は25番目(GDP比率)だったという。1位アイルランド2位米国3位韓国4位フィンランド5位フランス・・
25位日本26位ギリシャ
どんなにお上に虐げられ、薄給、過剰労働の家族でも、教育費をケチられても子どもたちはよく学び、日本という国の政治はひどいものだが、日本人はたいしたものである。
日本人は、ちょっといい人間すぎるのかもしれない。もっと、権力に抵抗して、もっと自己主張する人間性が必要なのではないか。
最近、市民自治とか市民と行政の協働などという裏には、どうも政治や行政の責任放棄がちらほら見えてくる。政治家や官僚・行政はだらしないが、市民は自分のことをちゃんとやって、そのうえ行政サービスに積極的に参加してくださいとは、どうも解せない。
〈田舎人〉

「混在する現実とバーチャル」?僕の考える
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白壁の小さな建物は、近所の農家の厠です。集落で僕が気に入っている小さな構造物の一つです。この厠を、こうして農の風景として見ると、風情のある建物だけど、昔この厠しかなかった時代(最近は多くの家でトイレは母屋の中に作っている)、吹雪の日などどうしたのだろうと考えると、なんと不合理なつくりかと考えてしまう。でも何故、こんなに離す必要があったのだろうか。匂いか、それとも肥え桶への汲み取りの都合か。
以前は、全ての建物が汲み取りの時代、都市部の便所は家の中に作ったのだし、農村部では当たり前のこの構造が僕にはいまいち理解できていない。実際にそういう生活をしてみてはじめて分かるものかもしれないが。少なくとも、想像の世界では現実的には使いたくないトイレである。

この世のことは、自分の実体験だけで理解できるものではない。
生まれてこの方、高々56年で体験できることなど、世界の森羅万象を考えれば、無限小に近い。しかし、僕達人間は、他者が体験したこと(過去の歴史でも、現代の最先端の研究でも、他者が創造したことでも)を言葉や画像として受け取り(それが言語として聞こうが、文章として読もうが、映像や画面で見ようが)、ある種の経験(何かを感じて記憶に残すこと)として体験することが出来る。

安倍政権の改造内閣でまたまた遠藤農水大臣の金の問題が出てきたとき、与謝野官房長官だったかが「大臣候補の森羅万象を調べるわけにはいかない」などといっていたが、なにも大臣候補のほんの一部である政治資金の問題を調べろと言っているのであって、森羅万象などたかが大臣に使う言葉ではない。それだけでも政治家の思い上がりが良く分かる。今度の内閣は、お金の問題もさることながら、そのような古い体質の政治家の言動が問題になるような気がする。

ところで最近、これまでの社会通念では考えにくい事件、少年少女の暴力事件、性犯罪、大人のハレンチ、猟奇的犯罪が増えてきた。
確かに、昔から異常な犯罪はあったが、それらの犯罪はいわゆる日常の行動も異常と思える(日ごろの言動とか、立ち振る舞い)人たちによって引き起こされることが多かった。それが近年は、いわゆる普通の子供、普通、もしくはそれなりの立場(大学教授でも警察官でも教師でも)の大人が突然異常な行動に出ることが多くなった。その原因はなんなのだろうか。今の社会には、それを単なる個人的な道徳の欠如や人間性の欠如では済まされないものがあるのではないだろうか。

僕は、その現代的要因はバーチャルが単なるバーチャルではなく、人間の現実社会にもバーチャルが現実として混在し始めたのではないだろうか。人間がバーチャルと現実の境界を認知できなくなってきたことにあると確信している。

バーチャルと言えば「仮想」のことで現実とは異なるものと考えられていた。勿論語彙的にバーチャル社会と言えば現実にはない社会であったり、バーチャル映像といえば、創造的な映像を言って、現実とは分けて考えていた。
だから、例えそういうバーチャル世界が少々過激であったり、残虐あったり、エロであっても、現実とは分離して考える理性も働いていた。しかし、最近の人は(人と言うのは子供だけでなく大人もという意味で人と総称しておく)は、現実とバーチャルの境界を認識できなくなってきたのではないだろうか。

昔、ヤクザ映画が流行った時は、映画館から出てきた男どもは「みんな建さんや鶴田浩二のように方をいからせていた」と言うが、それもある種バーチャルナな社会への自己の投影であり、軽い現実とバーチャルの混同だろう。しかし、しばらくすれば皆また普通の男に戻っていった。サラリーマンはサラリーマンに八百屋さんは八百屋さんに。
多分映画と言うバーチャルナ社会を経験するのは年に何回か、映画ファンでも週に一回とか、日常においては特異な時間だったので、それが人間の感性を刺激して経験として脳に刷り込まれるまでは体験していなかったのではないか。

それが今は、個人的な場で、ビデオやDVDを通して、非人間的な暴力、殺人であろうとエロであろうと過激な映像であろうと、気のむくまま好きなだけ体験できるようになってきた。自分では見ない、汚らわしいと考えている紳士淑女も一度レンタルビデオ・DVD屋さんを除いてご覧なさい。法的に認知されている範囲でも、とんでもないものがあるし、インターネット社会ではとんでもないものも流出しているようだ。そんなものを、人(大人も子供も)によると毎日数時間見ているのだろう。
そおいう状況下の彼等の意識は、意識せずとも、脳の中では、バーチャルなけ経験を繰り返すことで、実体験と同等の重み、ある場合は現実以上の衝撃となって、記憶されていくのではないか。

そういう人にとっては、既に、現実とバーチャルの境界は無くなり、自分自身がどちら側にいるのかさえ分からなくなる、すなわち現実の世界よりバーチャルな世界を生きようとする人が出てきてもおかしくはないのではないか。

バーチャルはけっしてバーチャルではない、現実より薄い経験(マンガや映像や夢)でも、何度も経験するうちに、それは現実の体験と同じように脳に刷り込まれてくるのではないか。果たして脳は、それを現実と空想・仮想特別できなくなるのではないか。特に経験浅い子供がDVDやインターネットを通して凶悪映像に慣れてしまうことは、実体験以上に脳に刷り込まれるのではないか。

僕は、本来性善説をとり表現の自由を重んじる人間ではあるが、表現の自由は人間性というものに裏打ちされての表現だろうと考えている。では人間性に含まれる悪魔性はどうするのか、という議論まではここでは立ち入らないが、少なくとも、社会全体に悪影響を与えるような表現の自由は規制すべきだと考えている。

現在の残虐エロ映像を作り、販売し、垂れ流すものたち(特に今最先端企業、ベンチャー企業ともてはやされているインターネット関連企業)とは、「表現の自由」を標榜しているが、彼等のやっていることは「表現の自由」ではなく、「金儲けのためなら何をやってもいい自由」である。勿論、個人的空間で他者に関係なければ、何を考え何をやっても自由だが。
またまた久々に長くなりそうなので、続きは後ほど。多分、僕の考えるブログでもこのテーマは継続しますので、そちらもよろしく。丸山暁〈56歳・人間〉

バーチャルな社会の見えない都市の貧困
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百日草の先に見える小さな青い芽は、一週間前に蒔いた大根です。一箇所に数個出た新芽だけど、もうしばらくすると元気な奴一本だけを残して摘んでしまう。つまれた連中が出来損ないと言うわけでも、彼等に何か落ち度があったわけではないが、これも大根の宿命です。多分蒔いた種から一本の立派な大根に育つのは5分の1ぐらいだろうか。

さて、人間は種(精子や卵子)から考えると大変なことになるから、生まれてから考えると、どのくらいの比率の人間が元気に生まれて大きな病気も無く育ち、元気に老衰で死んでいくのだろうか。元気で老衰というのも変な表現だが、特別の病気も無く天寿を全うしたとすれば、元気にあの世に旅立ったといってもいいだろう。
社会や身の回りを見れば皆元気に見えて、病気がちであったり、どこか障害があるのは自分だけ、もしくは少数者と考えがちだろうが、果たして、本当に健康で生まれて死んでいける者はどの程度か考えてみると、そんなに多くないのではないだろうか。

例えば糖尿病は1,000万人、HIV感染者は数万人エイズ発症者は1万数千人、具体的な数字は把握していないが癌による死亡者は数十万人?百万単位でいるだろうから、癌で闘病中の方々はその数倍はあり数百万人単位ではないだろうか。心臓病や呼吸器障害などは数百万人あるのではないか。水俣病患者数万人(認定、非認定を考えると)、原爆症数万人(認定、非認定を考えると)、リュウマチ患者数数百万人、キンジストロィフーなど難病患者でさえ数万人単位の患者がある。
統合失調症の方も多分数十万人、最近増えてきたうつ病などは予備軍も考えれば千万人単位かもしれない。知識不足で把握できていないが、目の見えない方、耳の聞こえない方、手足の不自由な方々は、それぞれ数万人、数十万人といらっしゃるのではないだろうか。
僕の無知により、ここに挙げきれていない病気や障害の方ももっと在るだろうから、まだまだ数千人、数万人、数十万人、数百万人、千人単位の病症者があるだろう。
中には生まれてから名も無き難病もあり老いて、最近は若年でも痴呆症が起こり、その数も数十万か百万人単位に登るのではないだろうか。

このような人々を集計すれば、日本国民の相当数、数千万人、半数以上の国民が、何らかの病気や障害をもって今この国で暮らしているのではないだろうか。

それでも、この国は世界最高の繁栄を享受して、華やかに物溢れる豊かさにみちた国に見える。TVのドラマやドタバタ芸能や新聞の広告や雑誌やインターネットでの華やいだ世界は、決して、この国に多くの病気や障害者があることが表に現れては来ない。
勿論最近の健康ブームとやらで、病気発見番組や健康番組も多くあるが、それらは、病気や障害の悲惨さ負の要素を社会的問題として提示するのではなく、病気というテーマと芸人の演技を見世物として恐怖心をくすぐる娯楽番組が多い。
要するに、この国を概観した時に表層に現れてくるのは、多くの国民が抱えている個々の苦悩ではなく、総体的に華やいだ豊か世界なのである。それは、社会としては当たり前かもしれない、いつも負の部分をしょっては人間は生きてはいけない。

少し視点を変えて見てみよう。数日前にネットカフェ難民が厚労省の調査で5,400人あると報じていた。内20代が26%、50代が23%だという。僕も50代だが、毎夜帰る家が無く、ネットカフェで暮らすのであったらとぞっとするが、今の世の中、いつ誰がそのような境遇になっても可笑しくないようだ。今、年収200万円以下が30%、毎日働いても100万円ちょっとの人が仕事を失ったら、誰かに頼るか、ネットカフェ難民のようなものになるしかないだろう。

昔は、生活困窮者は身なり態度なり、それなりの風采であった。数十年前、日本中がまだ貧しかったけど何処と無く違いがあった。最近使わないが言葉だが、物乞い、乞食(乞食というのは差別用語だというが、さて、なんて呼べば良いのだろうか、路上生活者?)なども見るからにそれらしい格好をしていたのだが、今は、彼等とて、身なりが良く銀座などでは下手したら僕なんかよりいい服着てる連中もある。

しばらく前だが、アメリカの経済学者が「アメリカの貧困の問題は貧困が表に見えてこないことである。貧しい人がスーパーでレジを打ち、飲食店で働いていても彼等が生活に困っているようには見えない(これはスーパーのレジ打ちや飲食店の店員が貧困だというのではない)」と言っていたが、日本でも同じことが言えるのではないだろうか。それでもアメリカは最低賃金が1,000円を越して日本は今年10数円上がってやっと700?800円程度だろう。そい言う意味では日本はアメリカより条件が悪い。

日本という国は間違いなく世界一豊かな国(貿易黒字は最高、大手企業利益も上がりっぱなし)である。東京を中心とした巨大な建築群、商業享楽施設を見れば、これ以上の豊かさは邪悪とも思えるが、その影にはこの国の国民の多くの病苦、障害が隠されている。多くの国民が病苦、障害を抱えながらこの国の豊かさを支えている。
奈良県で、妊婦が10数箇所の病院を拒否され、救急車が事故を起こし胎児が死亡した。以前も同じ様なことで、妊婦が死んだ。この傾向は、全国に広がっている。

日本という国が豊かに見えるのは、数10%、ひょっとしたら数%の享楽的贅沢が映し出されるバーチャルな世界をみて、自分たちもそこに生きているという共同幻想によるのではないか。都会の暮らしを断片的に描けば、例えそれがインターネットカフェ難民と呼ばれようと、田舎の、僕の暮らす谷間の暮らしより、豊かに華やかに見えるものである。

現代文明、特に都会の暮らしというものは、そのようなバーチャルな病理を有しているものである。ひょっとしたら、そうゆうバーチャルな虚像を描きながら、この国は動いているのかもしれない。
30年確立で、関東大震災や東海、南海、宮城沖地震は30?90%おこるという今も、巨大都市は拡大し続けている。最近被害予測が頻繁に映像化されているが、バーチャルに慣れた思考回路はそれをも単なるバーチャルと受け止めて、娯楽映像としか見ていないのではないだろうか。
丸山 暁〈56歳・人間・田舎人〉

さよなら内弁慶内閣
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8月も下旬に入り、残暑で昼間は30℃になるが、日が落ちるとさすがに涼しくなってくる。これが自然の大地のなせる業なのだろう。ここにはヒートアイランドがなく、そろそろ秋の気配がやって来る。
秋の気配がずっと続いているのに、なかなか冬が来ないのが安倍内閣である。本当は、政界も国民も寒々しているのだが、「さすがKY(KYとは空気が読めないの略号だそうです)」安部さん、来週には組閣だとか、さてさて、何日持つことやら。

それにしても、政治とは本当に馬鹿馬鹿しくなってしまった。せっかく民主党が参議院を奪回したのに、さっそくサクラパパとかが賭けゴルフだか浮気スキャンダルで叩かれ始めた。民主党の選対さんや勿論小沢さんも、ちゃんと人を見る目が無いのですね、誰が見たって、サクラパパが清く正しそうには見えないでしょう。ちょっと選挙前に調べれば分かること。というよりか、勿論誰が議員に立候補してもいいのだが、どこか「品」がやっぱり欲しいよね。

さて、安部さんも最後のお勤めで、外遊に出たが、インドで東京裁判のパール判事の遺族を訪問して「日本人はパール判事にこ好意を持っている」とわざわざ言い行ったようだ。これが彼の戦後レジームなのだろうか。こんな気づかいが出来るなら、日本人の悲願核廃絶、「インドの核兵器保有を日本としては認めない」、とちゃんと言えればいいのだが、そんなことには気づかないのだろうか。情けない。
彼は、国民の声には耳を傾けようとせず、外国では愛嬌を振りまく「内弁慶さん」でした。
それに、インドに感謝するなら、日本人の国民食となったカレーを日本に伝えた、インド人革命家チャンドラボースにこそ感謝すべきでしょう。

もう一つ、どうせもう終わる内閣だからどうでもいいが、小池百合子防衛大臣が「次はやらないといってるでしょう、イージス艦秘密漏洩の責任を誰も取らないじゃない。私が責任をとるわよ」と記者たちに啖呵を切っていた。まあ、日本の防衛問題をどの程度考えていたのかは別にした、最近の大臣の中では、潔くてあっぱれ?と言っておこう。いずれにしても、守屋事務次官問題で継続は無理と読んでの事だろうが。あっさりしたものよ。そんな政治で、この国は守られている。
丸山暁〈人間・56歳〉

続々この国をだめにする・・・
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前回のこの欄で「この国をだめにする女性政治家」を書いたら、「?何故女性に限って批判するのか、?女性に嫉妬しているのでは??貴方がやれば清く正しく出来るのか??貴方が立候補したら」旨の批判的なコメントを頂いた。まず、記事にお怒りでも、感心を寄せていただいたことに感謝いたします。
さてコメントにお答えしておきます。?ですが、僕は女性政治家に限って批判しているわけではありません。以前「この国をだめにする政治家」として、平沼勝栄、松岡元農水大臣、同赤城・・安倍首相、山本一太あたりをとり上げたことがあります。?ですが、女性に嫉妬しているのではなく、女性に期待しているから批判的にも見るのです。ぼくは女性の女性性を否定してはいません。ジェンダーによる性差を全て否定するものでもありません。かえって、女性であるが故の政治を期待するあまり、より権力志向の女性に少々反発するのです。?以前若い頃、村長になりたかったこともありましたが・・けっこう清く正しく生きている方だと思います。?政治を含め権力を批判したからと言って、「なら、貴方がやってみたら」と言われたのでは、何もいえなくなります。悪しからず。

先の女性政治家批判で自民党だけでなく、社会党の土井たか子さん、社民の福島瑞穂さんを批判したのは、土井さんが党首になった当初はけっこう社会党も人気があって、日本の政治に変化が現れるかとも思われたが、結局彼女も、辻本清美の事務所費問題あたりで、結局自民党と同じような組織論でうやむやにして、辻本清美を追い込んだ。アレにはがっかりさせられた。土井たか子が政治的に社会主義路線(社会主義国家ではなく社会主義的政策)の勇であれば、女であれ、お化粧が濃くなっても応援したのだが。僕は、20で選挙権を持って以来東京ではほとんど共産党か社会党に投票していました(以前都市部では社共はけっこう人気があったのです)。

現在の社民党首福島瑞穂さんを批判するのは、今この国にも、世界的にも必要な政治勢力は、グローバリズム、市場経済、民営化すすめるサッチャーリズムでもレーガノミックスでもなく、ヨーロッパ型の社会主義的政治勢力なのだが、現社民党は、自民党反対だけの論陣で、環境、社会福祉、世界平和を論理的に探求し、政治の場に提示する姿勢が見えない。
僕は、本当は社民にも期待したいのです。要は、彼女たちを批判するのは、アンビバレントな思いからかもしれません。

今度又、男女混合で、この国をダメにする政治家か、この国を良くする政治家を書いてみたいと思います。今一番この国をダメにしている露出度の高い政治家は、安倍首相と枡添要一かな。公明党はほとんどダメだが、記憶に残らないから名前が浮かばない。

今日は言い分け的ブログになってしまいました。
今一番気になること、北極海の氷の融解が加速化していること(予想より30?40年早い)と、千葉県の連続地震。あのあたりの海底には地震の巣があり、活動期に入ってくる。そういう地震が連続すると、東京直下型地震を誘発する。
僕は、東京からこの山奥にやってきたが、東京も嫌いな訳ではない。東京も僕にとってはアンビバレントな世界かもしれない。だから、東京も乱開発ではなく、着実な防災体制、首都移転などを真剣に考えて欲しいのだが。どうも、政治は事が起こるまで動かない。やっぱりいつか、東京を壊滅させる政治家たちを書かねばなるまい。
まず第一に、石原慎太郎。
丸山暁〈56歳・人間〉


「この国をだめにする女政治家(2)」?僕の考える
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ちょうどこの田んぼのあたり(岩手県大迫町(現花巻市)外川目24)が、岩手県で最も夏場に高温になる地帯だそうだ。多分今36℃ぐらいあるのではないか。このことを数年前に今は無き地元のマッチャンが教えてくれた。マッチャンは、名杜氏で全国引っ張りだこで、天皇が「美味い」と言ったというお酒を造ったと自慢していた。生前、冬場の杜氏の出稼ぎを終えて、春先、美味しい新酒を何本も持ってきてくれた。僕は、天皇と同じお酒を飲んでいた。だから何だってんだって?
地球温暖化で、日本も関東以南は熱帯化して、まともに暮らせるのは北東北ぐらいだろうなどと考えていたら、とんでもない、ここのところ、北東北が関西や東京よりも熱いときた。何たることか。とんでもないことだが、どうしようもない。

そんな糞暑い時に、これまた暑苦しいオバサンがTVに出ていた。それは防衛大臣小池百合子です。九間防衛大臣が「原爆仕方が無い発言」で辞任して、小池百合子がなって面白かったのが、就任当日三回御召しかえをしたことで、どうせ短命内閣の見世物大臣だから得意げに、ニコニコ笑って去っていって欲しいと思っていたら、さすが負けん気が強いおばさん、さっそくアメリカに行って「テロ特措法継続」や「ライスさんと私はジャパニーズライスと姉妹宣言」するやらあげくの果てに人事で空騒ぎしてみたり、よくも短期間にはしゃいで見せてくれたことか。

どうも最近の政治家は、政治が目的ではなく、大臣になってはしゃいで見せるか、一寸どじをやって目立つか、TVに出てお笑い芸人にもて遊ばれることを快感とする、幼稚な族が多いようである。なにか、国民が期待していた以上の、政治的仕事をするものは皆無である。特に、最近、女性政治家が表舞台に出てくると、どうも政治ではなく女を売り物にしているようで気に入らない。小池百合子、野田聖子、片山さつき、丸川珠代、福島瑞穂しかり。
やっぱり、政治家はオバサンであっても政治的なセンスを持っていて欲しい。嘘でもいいから。それが涙かおしゃれかお飾りかで、どれもこれも信頼できない。
小池百合子が日本の女性首相第一号などと、もてはやしている族もあるが、とんでもない話で、今度の防衛大臣での浮かれようで馬脚が見えたでしょう。これで、彼女が総理大臣の器ではないことがはっきりしてよかったです。彼女が総理大臣になったらきっと「私は日本のサッチャー」といいながら非常な政治を行うことでしょう。
レーガンとサッチャーの推し進めた市場経済、なんでも民営化策は、世界経済のために本当に貢献したのでしょうか。その検証はできているのでしょうか。

僕は決して、男尊女卑ではありませんが、男でも女での、政治家が大臣になったりTVに出たりで軽率に芸人並にはしゃいでいる姿を見たくないのです。どうも、この国は芸人の国になりそうです。
女性政治かも市川房江さんあたりがやっぱりいいですね、どうも土井たか子さんの化粧が濃くなってきた辺りからこの国も女政治家が女々しくなっていたようだ。安部さんような女々しい男政治家は早く止めてもらわなくてはならないが、女々しい女性政治家に、貴女は女らしいからやめてくださいといえないとこが女性政治家は厄介である。そんなこと言えばセクシャルハラスメントとやらになってしまうのでしょうか。

もう夕方6:00なのにまだ部屋が35℃あり、どうも暑くて頭も回らないので今日は終わりにします。
僕の考えるブログも同じにします。悪しからず。
丸山暁〈56歳・人間〉〈田舎人〉

対話のしかた「コンセンサス会議」
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あまり奇麗な写真ではないが、我が家自慢のハーブの一つバジルです。我が家には数十種のハーブがあるが、バジルだけでも5種類ある。毎年種を蒔き、苗を育て、ハーブティーで飲んで(これがまた甘い香りがして滑らかないい味がするのです)、ここまで大きくなると、そろそろ刈り取ってピイストゥー(ニンニクや松の実を混ぜた保存食)にしたり、乾燥してハーブティーとして保存するのです

当所14年前、この地に来た頃は、まあ、畑に時間がかかったこと、ある時期は毎日朝から夕方までやっても、なんだか、進まず、かなりしんどかったのだが、しばらくして、特にここ数年は、畑の労働が、数分の1に減ったような気がする。
それは、畑の作業に慣れてきたこともあるが、僕と我が菜園の園長である上さんとのコンセンサスが得やすくなったことである。最近はツウカーでほとんど、もめることなく作業が進んでいくが、以前は、どれを何処に植える、いつ植える、今何をするで、一々意見が食い違ったり、反論したり、あげくに喧嘩になって作業が中断したりで、無駄な時間が多かったようです。

それが今は、様々な経験や、情報を共有したり、相手を信頼することで、ほとんどもめることなく事が進んでいきます。やはり、ここまで来るには、幾つもの意見の対立や、失敗や、協調や、すなわち「対話」を重ねてきた結果です。それでようやく、畑に関してのコンセンサス(意見の一致)がえやすくなったのです。たとえ、その関係が社会の最小単位2人でも、けっこう時間がかかるのものです。

数日前の新聞に「長野県の公共工事評価委員会のダム反対派(田中前知事が推薦した)の委員、金子勝(慶大教授)と保母武彦(島根大教授)を長野県の土木部長が丁重に辞めさせた」という小さな記事がでていた。
ここ数回の市民ジャーナルに、柏崎刈羽原発の震災事故を契機に、この国の大規模建設事業のあり方を批判的に書いてきたが、僕は、単に大技術や大規模公共工事、原発を否定するのではない。僕が問題にしているのは、事業の意思決定、疑問、問題が起こった時の判断の仕組みを問題にしているのである。
要は、先の記事に象徴されるように、国や県の重要課題、特に巨大公共事業や電力など国家プロジェクトが、事業者(国や行政、国策会社)に都合がいいように、技術的、科学的にではなく、政治的(経済的)判断によってに決められていくことである。

その構造を簡単にまとめれは、経済団体が政治家を動かし、もしくは官僚が政治的に、大規模公共事業を発意し、それを官民が一体となってっ推進、研究開発し、その裏づけに東大に代表される御用学者(巨大都市の乱開発は早稲田も尾島教授だったり、制度的なものは国士舘や国学院や右翼的な大学であるが)がお墨付きを与える。
そこには端から、中立な立場で、そのプロジェクトを政策的にも技術的にも評価できるものが介在していない。国がやると決めたらやるのである。この構造が今の日本を作ってきたのであり、その構造が国の隅々末端部の県市町村レベルまで行きわたっているのである。

国の政策、予算配分を地方がそのまま受け取り、省庁よりは小規模の公共事業を地方議会や民間企業が画策し、それ裏づけを地方国立大学先生方が受け持つ。皆さんの、それぞれの地域の何々委員会(最近流行っている政策評価や公共工事評価など)のメンバーの発言を注意していれば、彼等は評論家的批評はするが、面と向かって批判したり反対意見を述べる委員はほとんどいないはずです。

また、近年盛んに言われる「市民参加(最近は参画と言葉遊びが流行っているが)」だが、広く市民の意見を聞くという形はまあまあ整ってきたのだが、市民の反対意見で政策、特に決定した事業を中止したり、修正することはまずありえない。通常市民には、どんな正しい判断でも、それを裏付けるだけの調査能力も資金も無い。結局、国や行政が雇った「お抱えコンサルのデーター」を駆逐するだけの論陣を張ることは不可能である。それは当たり前のことである。

これではいつまで経っても、この国に、市民参加、もしくは国民の声を聞いて政策を進めたり、事業の可否を決定する仕組みが出来上がらず、結局お上のいうとうりになってしまう。市民が原発建設の危険性、疑問をいくら提示しても、それを、データーとしては提示できないのである。まちろん高木仁三郎さんのような研究者はいたが、それでも資金的にもスタッフも微弱であった。

しかし、世の中には、そういう国家主導プロジェクトを改変する素晴らしい制度、仕組みがある。それが、デンマーク(多分デンマークだったと思うが北欧だったと記憶している)あたりで始まった「コンセンサス会議」である・・「またまた欧米か」。
「コンセンサス会議」とは、国家的プロジェクトに対して、市民を交えた会議体をつくり、事業者が出した計画に市民から疑問が投げかけられた場合、事業者は、中立な研究機関、技術者を通してその疑問に答える義務があるのである。そこでは、当然事業者に不利な発言、データーが出てくることもある。事業者がそれを覆せなければ、その事業は進められないのである。市民もただ感情論を押し通すのではなく、理論的に納得すれば了解のうえ推進するのである。
日本でも、2,3年前農水省が「コンセンサス会議」を導入するといっていたが、今どうなっていることやら。

今この国に必要なのは、全ての政治(国から地方まで)の場で、正にこのような対話の仕組みでが生まれることである。そのためには、国も市民もかしこくならなければならないが、「私の進める改革路線が否定されたわけではないので、改革を進めるために辞めません」と言ってのけるような総理大臣が早く辞めなければ、そんな体制も無理でしょう。民意により、保革逆転した参院、そういう政治状況が対話の政治が生むのだろうか。
丸山 暁〈人間・56歳〉


原発再考
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今日は特別な写真もないので、一昨日の暑かった池袋の風景を載せておきます。とにかく暑かったこと。そんな暑い中何故池袋まで出かけたかというと(行った場所は練馬)、池袋のタワーレコードでは、10枚入り1,780円(ついこの間までは1,450円だったのに、人気が出てきたので値が上がってしまった。この間など、丸の内のブックセンターでも山積になっていた)のJazzCDと4枚入り990円(これまたこないだまでは1,450円が、人気がないせいか値下がりしていたが、まあまあのディスコグラフィーもあり(たまに間違っているが)歴史的な録音)を買いに行ったのである。今の僕の東京の必要性は、安くて面白いJazzのCDを探すことぐらいか、以前はかならず本屋巡りをしていたのだが、最近盛岡にも、ジュンク堂ができて、これがなかなかの本屋サンなのです、本屋も地元で片付くようになってきた。僕の本『西欧「偶景」今昔話』も置いてくれているし。

さて、参院選挙は久々に面白かったですね。清き1票がここまで、政治家をあたふたさせるとは。以前、吉本隆明とボードリアールの対談で、吉本が「日本の政治は民主主義のいい状態にある、政治家は選挙が気になって仕方ないから民意が反映されやすい(だいたいそんなこと)」と言っていたが、まさに、今度の選挙がそれである。自民党ボロ負けでも安部さん続投でビックリしたが、その代わり「被爆者救済の被爆者認定を緩和の方向」や、こないだ決めたばかりの「政治資金規正法の領収書を1円以上」などと突然言い出して、まあ、分かりやすい連中だこと。日本の選挙は衆議院4年や参議院6年ごとではなく、毎年やったら、ひょっとして民意が反映したいい国になるかもしれない。
ただ、長い間の民意が、今の自民党を作ってきたのであり、それも愚集政治となるかもしれませんね。その国の政治の責任は国民の総意にあり。

さて、先のblogでは、関西空港と原発のことを書きますと予告しておきましたが、一昨日の新聞に恐ろしい記事が出ていた「中越沖地震「貴重な実験」座長の教授が実験」(原発の安全管理の座長の宮健三法大大学院客員教授が、中越地震で被災した柏崎刈羽原発の事故を「貴重な実験だった」と発言して、辞任したという。
この発言は、技術者(科学者or御用学者)としては本音だろうが、原子力政策を考える中枢にいる人間としては、言ってはならないことだろう。以前から書いているように、原子力施設は単なる、建設事業の延長線上の施設ではないのである。一端事故が起これば、多くの死者、被爆者を出し、周辺数十キロの土地では人間が暮らせなくなるのである。

確かに、科学技術や建設技術は、安全を図りながらも常に危険や事故を伴ってきた。石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」でも、ダム現場での悲惨な事故がテーマにもなっていた。大きなダムやトンネルが完成するには多くの人命が失われてきた。
僕が土木系の学生の頃はトンネル屋は「2?3人現場で人を殺さなければ一人前の技術者にはなれない」という風潮にあった。

これは、一般的にはあってはならない傲慢で、不遜な考え方と批判もあろうが、現実問題として、建設技術、特に大規模な未知の世界に挑戦する建設技術は、何が起こるか分からないのも事実なのです。どんなに、周到に調査をして計画しても、予測不能なことが起きるものなのです。
地球の表面は、数m程度ならわかっているが、数十メートルの深さになると、どういう状況か正確には分からないのです。全ての大規模建設物(原発とて特別ではない)そういう状況にあるのです。実は、難しそうな宇宙の方が数万キロまで良く分かっているのです。もう宇宙の果てまで研究対象になっています。

先の座長宮健三法政大客員教授(きっと東大か京大を退官して数年経っているだろうから)は当たり前の古いタイプの研究者なのではないだろうか。多分、原発であっても、同じような感覚で「大きな建設事業は実践における失敗(実験)」を繰り返しながら完成する」ということを言ってしまったのだろう。

安全に見える多くの大規模建設構造物は、完成された技術の裏づけの上に成り立っているわけではない。研究者の日夜続く努力と技術者の身を呈した仕事によって支えられているが、それを、判断する視点は、多分に経済的、政治的なものなのである。

数日前に関西新空港の第2滑走路が完成したが、1.5兆円の赤字であると出ていた。そんなに赤字なのに何故、2本目をとお思いだろうが、本来この規模の空港は2本に滑走路が必要なのだが、当所2本で2兆円の建設費が、1本目で2兆円近く掛かってしまい、1本でオープンしたが、地盤沈下が予想どうり進んでいるのだろう。
関西空港は、改定20メートルのヘドロ層20?30メートルを埋め立てて作っているので、そろそろ地盤沈下が進んで、滑走路の改修が必要になってきたのだろう。これは、羽田空港も同じことで、両空港とも沈下分を嵩上げしたりジャックアップしたり破壊との戦いなかでやっと運用しているのである。これも技術である。関西空港は浮体構造(大きな船)で作る案もあったが、今にすれば、その方が良かったのかもしれない。ただその時も、ゼネコンの力が強く、実績主義強かった。

今日言いたかったことは、建設技術、特に多くの巨大技術はほとんどのものが完成されているとは言い難く、破損したり事故が起こったら、修理して、技術を駆使して運用している。それが技術というものである。
しかし果たして、原子力発電所もそれでいいのか。建設技術は、原発とは、そのようなものなのでと言うことを、国民、市民の目でもう一度考え直して、本当に必要なら、消費地の近傍東京湾の海上に浮かべ、低レベル放射能廃棄物は皇居のお堀に沈めればいい(勿論それなりの対処をして)。
昨日は広島原爆の日であった。僕の少年期の広島体験を思い出す。このことは『西欧「偶景」今昔話』にも書いておいた。
丸山暁〈56歳・人間〉

今一番書きたいこと
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今日は半日、隣の牧草地から草を集め、仕事を少々して、明日早くに一番の新幹線で東京に行くので、土曜日の「市民ジャーナル」「僕の考えるブログ」今日書こうと思ったにだが、32℃のなごりで、さすがの北国もまだ暑く、今日はもう辞めにします。

ただ、今一番書きたいことは、職業柄、やっぱりこの国の建設業のあり方です。今朝のNHKTVで「関西空港の赤字が1.2兆円なのに、第二滑走路を作ろうとしている」と報じていた。関西空港の話は、ぜひ書いておきたいことがあるし、勿論原発も。要するに、この国の将来は、大規模国家プロジェクトに現れている、ということ。

関西空港の仕事に最初からかかわった男がゼネコン辞めて、何故、今日糞暑い中、汗糞たらして草をかき集めて、堆肥にするのか。
そのあたりをちゃんと書いておかないと、これじゃ、たんなる、露出狂になってしまうので、帰ってきたら、ちゃんと書きます。
とにかく今日は暑い。書き忘れたが、僕の左手の草の山が、僕の右手ぐらいの堆肥になる。自然と生きるとは、そのようなもの。
丸山暁〈56歳・人間〉S Sun Maruyama 田舎人

イモ堀とこれからの日本
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今朝一番でジャガイモを掘った。小さな種イモを4月頃植えておくと、何もしないでこの時期20倍ぐらいのジャガイモが育つ。自然の恵みとはありがたいことである。今年は豊作、これで来年の3月ぐらいまで持つ。
参議院選挙が終わり、大方の予想通りの結果となった。これでこの国が変わるかと言えば、そんなには変わらないだろう。ただ、政治的不正や金権政治に歯止めがかかれば、まずは、それだけで立派なものである。まだ、民主が政権を取ったわけではないが、民主が目立てば、民主の政治的負の部分を暴くものが出てくる。ちゃんと身辺整理や領収書を揃えておかないとね、民主党の皆さん。彼方たちも自民党と同じ穴のムジナなら、この国はもう終わったも同然。

さて、この国は、何処に行けばいいのだろうか。
僕の考える理想の国は、一個のジャガイモを植えればそれが20倍の実りを与えてくれる。ただし、そのためには、畑を耕し、堆肥をすき込み、種イモを植えて掘るという数時間(トータルで6時間ぐらいだろうか)の労働があるが。
要は程ほどの労働と、自然の恵みから、暮らしが成り立つ社会。じゃあ、電気は車はTVは、お前が今打っているパソコンはどうする・・・。

芋掘りで少々疲れてしまって、頭が回らない。午後からは「まちづくり条例」市民会議の議長役が待っているので、今日はここで辞めておく。

ただ最後に一つ。原発をどうするかにこの国の将来がかかっているのではないか。巨大地震が必ず来るこの国で、完全な安全などありえない原発を懐に抱えて、怯えながら高度な文明を享受し、いずれ、日本自体の崩壊に立ち会うか。
それとも。徐々に文明を逆方向にシフトして、日本という大地の上で、持続的な社会を模索するのか。ただ、いまの世界状況は、日本だけが日本独自の道を歩める時代でもないが、日本という国が、ある、理想郷を目指す方向性ぐらいは示せるのではないか。そんな、ことを真剣に考える政党があれは、この国も随分変わるのだろう。
黒川紀章や若尾文子の共生党にも期待できないし。
丸山 暁〈56歳・人間〉

核・神への挑戦
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紫陽花の花の真ん中に一輪の向日葵 。まるで、まさに、宇宙に誕生した一つの太陽である。
人間は今太陽を手に入れようとしている。

太陽は、130億年前(まだはっきりはしていないようだが100臆年から200億年の間)ビッグバン宇宙誕生後、核融合を続けて今に至っている。永遠不滅に見えた宇宙、この世だが、人間とて少なくとも200万年以上前は存在しなかったのだし、太陽とて将来数十億年後(50だか80億年だったと思うが)には核融合も最終段階となり爆発して超新星になるという。その時は人間とて、太陽系には生きられず、まさか、太陽系以外の惑星にいけるはずも無く、住めるはずもなく、人類は全て亡びてしまうだろう。要は、人類は不滅ではなくもともと有限な生き物なのである。

それなのに、最近江原啓之や三輪アキヒロあたりが「彼方の前世はお姫様です」などと、他者を脅し、からかって大金をせしめているが、現在の我々人間の祖先はアフリカ大地溝帯でたった1人のイブから始まったと言うのに、今50臆人近い世界の人間の前世は、一体いつ突然に増えたのだろうか。これも、どこかで人類ビッグバンでもあったのだろうか。

人間は、直立歩行、言語を生み出し火を手に入れて、動物から大きく飛躍し文明のみちを歩き始めた。ギリシャ神話でも、人間に火を与えたプロメテウスはゼウスの怒りを買って、巨岩に縛り付けられてしまったぐらい、火は神から与えられた人間の至上の利器なのである。火とは、熱で煮炊きし光を得るための火から、エネルギーをえ得るための火へと発展し、薪、石炭、石油ときて、今人類は太陽を生み出そうとしている。すなわち核融合である。
そして、人類は、その一歩手前の核分裂を火(エネルギー)として利用するために神へ挑戦を試みている。そして神はそれを見つめている。
人間は核を制御できるのか、核分裂すら制御できないのに、永遠の太陽を求め核融合などとんでもないことである。それは神への挑戦である、神がそんなことを許すはずが無い。
僕は、今の核技術開発(原子力発電からプルトニューム利用そして核融合)は、宇宙人(神?が創った宇宙に生きる人類)である人類にとって、そのような段階にあると考えている。

日本は、正にその初期段階でつまずいた。地震は地球すなわち宇宙の鼓動であり避けられない。そこに人類が太陽、すなわち「核」を構築しようとしても、それは悪あがきでしかない。神の手の内では、それは許されない。
この神話的原発論は、核開発、核融合は神への挑戦に等しい。人間が行う神への挑戦だから、神以上の原発に対する配慮が無ければ、神は人間に核を許すはずが無い、ということを言いたいのである。

少々現実離れして神話的になってしまったから、先の新潟中越地震での柏崎刈羽原発の話に戻ろう。

日本の原子力開発は、そのように「核」に対する敬意、畏れを、すなわち神に対する畏敬の念をもって開発をしてきただろうか。
残念ながら、前回のブログで書いたように、たとえ原発が、「僕が考える」そのような原始力発電所、核開発であっても、この国の建設事業の悪しき馴れ合いの慣習、経済優先政治主導の政策は変わらないのです。そこに、今回起きた原発の、そしてこれからも起きるであろう原発の根源的危険性があるのです。

リアルな話をすると、原発建設の全責任は刈羽原発の場合は東京電力にあります。そして、原発の建設技術的な問題は東電設計という東京電力の子会社が担っています。そして、東電がある原発を建設しようとする時、当然原発の社員では原発施設の設計は出来ません。彼等には能力も人員も足りません。それを補うのが、ゼネコンの出向社員です。要するに、原発の設計を管理すべき機関の主要な技術者は、原発を受注する会社の人間なのです。そこから、どのような結果がでてくるかは明らかでしょう。
もちろん、前回の書きましたが、そういう技術者が設計をサボって、有利にごまかしていると言うのではありません。彼等は、徹夜をしながらでも、必死に命を削っていいもの、安全な物を作ろうとしています。

しかし、問題は、その計画が一端始まれば、いわゆる一般の公共事業と一緒で止めることが無いのです。大きな疑問、問題が発生しそうでも、なんとか、データ?を読み替え、場合によっては甘く読み(それも、けっして、ゴマカシではなく許容範囲内)プロジェクトを進めるのです。問題を一番知っているのは、現場の技術者ですが、そこで疑問点を指摘しても、それを判断するのは、いわゆるお偉いさんたちなのです。そこにはご用学者や会社の利益優先、政治的判断が介入してきます。

今度の地震の震源となったであろう活断層も、地元の大学に先生(新潟大)は予測をしていたようだが、そういう先生には話を聴こうとしないのです。

今回言いたかったことは、神に対する挑戦なら、神以上に繊細な安全性に対する配慮が必要なのに、この国の原発建設は、神にみすかされる技術開発しか出来ていないということです。
この世には、トリックスターと言ういたずらっ子がいる。それは自然の申し子でいつ現れ消えるかもしれない。そのようは者を相手にしなければならないのが「核」開発なのではないだろうか。
これは、原発だけでなく、核兵器にもいえることで、人間が核をコントロールできると錯覚したところから、人類滅亡のカウントダウンが始まったのではないか。
核による滅亡が先か温暖化による崩壊が先か、それでも太陽は数十億年輝き続け、また新人類を生み出すのだろう。
丸山暁〈56歳・人間〉
僕の考えるブログ
「原発の建設業的不安とIAEA査察」?僕の考える
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この写真は、チュルノブイリで被爆した少女の写真である。少女は美しい女性に育っているだろうか、それとも甲状腺がんや白血病で苦しんでいるのか。何も無く元気に育ち母となり元気な子どもを産んで・・、たぶん、その確立は少ないだろうが、この少女の姿が、世界の、日本の子供たちの未来の姿にならないために。
このブログは、だいたい、あるテーマを決めて書き始めるのだが、書いているうちにblog(日記的)になり、あれこれ話が飛んで、論点がずれたり拡散してしまうので、今日はさっそく本題に入りましょう。

前回のブログでは、『大日本モラトリアムモ列島”Great Japan Moratorium Islands”』で、地震列島における原発の危険性を語り、建設業(国の建設事業)が有する慣習的、慢性的怠慢、危険性を述べようとして、おしまいになった。よって、今日は、この国を動かしてきた(現体制が続く限り、多分これからも動かすであろう)建設業を取り巻く負の体質を経験的に述べることとする。
また、今回は柏崎刈羽原発の地震による事故から始まった話で、建設業は原発本体からすれば付随施設ともいえるが、主体設備(原子炉や発電施設)を維持するための建築・土木施設は、原発設備と同等それ以上の重要度を持つ。
ここでは、原発建設に関して、付随的建設物を事例に話を進めるが、原発本体を作る重工業(三菱や東芝など)も同じような体質にあると推測してかまわないだろう。

ここでお話するのは、僕がスーパーゼネコンにいた20代?30代時の経験からの話である。当事、日本は正に”Japann as NO1”の時代、僕も若手技術者として、日本の将来を左右するナショナルプロジェクト(関西新国際空港、東京湾横断道路や未来都市、エネルギー構想など)に係わることを誇りにしていた時期でもある。しかし、同時に、その裏にある、技術的革新とずれたところにある、政治的業界的負の部分に疑問も感じていた。

一般論として国家プロジェクト(多くは数千億円、1兆2兆円の土木建築事業が伴う)の成り立ちの骨格をお話しよう。
まず、何かのプロジェクトを発意するのは多くは国(政治家)を動かす巨大企業だろう。勿論ものによれば官僚ということもあろうが、いわゆる、そうゆう一団と考えていただきたい。そして、国(国というのは管轄省庁)がそのプロジェクトを進めるための「○○建設検討委員会」を立ち上げる。そこにでは官僚(係長クラス)が顧問と言う形で参加し、民間主導の体裁を取る。そしてこの国を動かす巨大企業(金融、ゼネコン、重工、ものによっては重化学など)が委員として並び、御用学者(多くは東大系)がオブザーバーとして顔をそろえる。

委員会では、政策的データ?や世界の趨勢など一般的な情勢論は官僚が用意するが、技術的資料や実験的データ?は民間企業が用意する。そして、その会議資料を元にプロジェクトの可否を議論するのだが、多くの場合、既に方向性は見えている。なぜなら、調査したり実験したり解析するものは、そのプロジェクトを進めて利益をあげたい民間企業だからである。
日本の巨大企業の研究施設は、下手な国の施設や大学の研究機関より数段レベルが上のものが多い。それに、実践的、経験的データ?や具体的実験に関しては、ゼネコンや重工業の研究施設を超えるものは少ないだろう。勿論、ニュートリノ発見の小柴さんのカミオカンデやスパーコンピュータの地球シミュレーターなど最先端の巨額な施設は国にかなわないものもあろうが、実践的建設施設に関しては鹿島や大成、竹中などの研究所のレベルは高い。

すると、そこにだされる検討結果、実験データ?は、間違いなく、プロジェクト推進の方向を向いたデ?ターになってくる。日本にも、本来中間的な立場でプロジェクトを評価すべき、いわゆるコンサルタントと言う業界もあるが、多くのメジャーなコンサルタントは、ほとんど大企業の関連企業で下請け的体質を持っている。

では、技術者は、自分の会社が儲かるようにと、嘘のデータ?を作っているかというと、そうでもない。最近そういう会社も多いが、それは犯罪であり問題外である。
データーと言うものは、特に工学や自然科学的データ?は、データ?として出てきた数字そのものには意味が無いのである。その数字をどう解釈して読み解くかでデータ?に意味が生まれる。
やはり、民間企業の技術者は、会社の方針、仕事が生まれるようにデータ?を読み解く傾向がある。
そして、ここが問題なのだが、そのプロジェクトを進めるかどうかを判断する初期段階でのデータ?と言うものはまだ、初期的データ?であり抽象的なものも多く、どっちとも取れそうなデータ?が多いのである。
大学の先生は、データ?に対する解釈や注文はつけるが、概ね「善処してください」程度しか言わない。なぜなら、プロジェクト反対派、懐疑派の多くは地方大学の地道な研究者で、そういう委員会には参加させてもらえない。

推進が決まってからの技術者は、それこそ技術者生命、夢をかけていいもの、安全な物を作ろうとするが、どんなに後から技術的に真摯に対応しようと、プロジェクトの始まりのところで、ゴマカシがあれば、そのプロジェクトは根本的問題がモラトリアムのまま進められることになる。原発だけが、日本のナショナルプロジェクト、建設事業のそういう体質をから、逃れられるはずは無い。
しかし事が起こった時、原発と他の施設とでは根本的に違う。それは原発が放射能を排出する「核施設」であると言うことである。

簡単な例だが、バブル期日本全国リゾート開発に燃えた。それを推し進めた開発業者、コンサルタント、ゼネコンなどのデータ?は、景気増加に輪をかけて需要予測を上乗せしていた。要は、その施設を建設して利益が出るまで、データ?を上方修正(修正と改ざんのちがいとは?)したのである。まあ、みんな、浮かれていた。僕もある港町の農水省が補助金を出すリゾート開発で、データーをヒョイと上方修正したことがある。
今、そういう施設がバタバタと倒れた。ただ、こういう施設は、使えなくなったり、負債が増えるだけだが、原発建設にあたってのデーターの甘い読み、修正は、こうはいかない。
こんど政府は、IAEAの査察を受け入れると言う。このことは、日本の原子力政策にとっては大きな恥であるが、全てを明らかにして欲しい。
丸山暁〈56歳・人間〉
僕の考えるブログもよろしく。


大日本モラトリアム列島"Great Moratorium Islannde"
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この映像は、我が家の風景の中で最も好きな一角です。この写真では全体像が解からないが、左端に見えている石組みは、我が楽園の中央にあるゴミ焼きカマドです。そして、その周りは数種類(大体4種類だが、最近自然交配して新種も現れてきた、クリーピングタイム(ハーブに一種)が群生している。今が花時、このあたりが一番奇麗な頃です。
この石組みのカマドも14年前に作った時は、石もしっかり組まれていて、乱れも無かったのだが、築14年の間風雨に曝され、小さくても震度3程度の地震に数回会い、今では何箇所かにほころびが見えてきた。それでも、ほころびが見えたところは、石をはずし組みなおせば、これから何十年も使えるものである。そうすることで、きっと、僕が死んでもこのカマドは僕が生きた証をこの地に伝えてくれるだろう。

数日前の〈僕の考えるブログ〉にも書いたが、今のこの国は、この国のあり方自体を早急に転換しなければ、このままモラトリアム(意思決定の先延ばし)を続けていたら、放射能汚染列島になり死の島となる。北朝鮮のテポドン数発どころの騒ぎではない。映画『日本沈没』に在った様に、全国民エクソダスになりかねない。
何故そうなるかは、今度の中越沖地震の東京電力柏崎刈羽原発の事故でほぼ明快になっただろう。それでも、原発は、人間の手で将来に渡っても安全に稼動できると考える方々は、思考停止か、将来を捨てたニヒリストか自暴自棄になった快楽主義者である。この国は、どちらかと言うと、思考停止した快楽主義者ではないだろか。

僕は以前から、かなり強固な反核主義者であることは、このブログを読み続けていただいた方は理解して頂いていると考えるが、初めてお目見えする人のために簡単に説明しておこう。僕は戦後原爆投下10年後のHiroshimaで少年期を過ごし、原爆の傷跡に衝撃を受けたこと、大学で地震や地球部地理を学び卒業後原発も建設するスーパーゼネコンに就職し、建設業体質(原発もある意味建設業の商売の範疇である)、技術的思い上がり(良く言えばチャレンジ精神、悪く言えば傲慢さ、もっと汚く言えば体制を操作して建設する)を肌で体験した。

ここでは話を拡散させないで、原発の危険性に戻るが、なぜ、原発が危険なのか、特に日本において。そこには、原発自体の技術者のレベルの低さ(これは以前シュラウド(放射能を遮断する容器)の亀裂隠ぺいで明らかになった時、シュラウドの亀裂を点検できる技術者がアメリカは500人、日本は数人で、これから養成するという体たらくであった)と、隠ぺい体質がある。これは北朝鮮の幼稚な核開発より危険ともいえる。ただ、これらのことは原発関係者が心を入れ替えて、技術を磨き、謙虚な体質を見につければ何とかなる。
しかし、なんともならないことが一つある。それは、この国が地震列島であるということである。地上に作る限り、原発とて、その運命からは逃れられない。

そんな大地に暮らす、日本の耐震技術は、多分世界一であろう。建設技術者や研究者は常に安全な建物、構造物を建てることに、心血を注いできた。現場技術者は、それこそ安全な構造物を作るため命も賭ける。技術者自体は、住宅を作る者も原発を作るものも同様に真剣である、と思っていたのだが、住宅の場合は姉歯なんていう男が出てきてしまったが、少なくとも、原発建設に係わる技術者にはそのようなもの一人もいはいないだろう(建設業が様々な問題を起こすが、経験上一人一人の技術者は優秀でまじめである)。そういう個々の意識、技術が高くても、根本問題で間違ってしまえば、そこにどんなに高度な技術、努力を持ってきても、解決できない問題があるのである。

それが、地震と原発の命である核分裂から出る放射能の問題である。

まず、どの程度の地震が何処で起きるかを予想することはまづ出来ない。これは、地震予知の研究が進めば進むほど、地震予知が困難なことが明らかになってきた。勿論、部分的には、巨大地震の到達前数秒の予兆を察知して警報を出すことや、今言われているようなある数10?数100kの範囲で数十年単位の予想での地震の予測は観測の高度化で統計的に可能となったが、何処でいつ地震が発生するかは、永遠にわからないだろう。
また、地震が起こる場所も、有史以降の記録や地震探査で過去に動いた活断層だけが話題になって「この地帯には活断層がないから安全だ」と原発推進派は言ってきたが、活断層は過去に動いたから痕跡が残っていて、また動きやすいというだけであって、地殻の歪(日本の場合海洋プレートの沈み込みによる)はまだ、破壊されていないとこにこそ大きく溜まり、それが破壊した時こそ、巨大地震が起こることに言及していない。これが正に日本の技術者・科学者そして政策決定者のモラトリアムなのである。

では、原発推進派は何を根拠に安全と言ってきたのだろうか。そこにこそ、この国の致命的欠陥がある。この国の政治政策は、明治の富国強兵政策以来今だに開発開発発展発展なのである。そして、そういう政治を支えてきたのが(そこに巣くって来た)スーパーゼネコン(僕の時代は超大手と言っていた)である。
考えてみてください。バブル経済を支えバブル崩壊後、バタバタ倒れるかに見えたいわゆる大手ゼネコン23社(数社合併したかな?)は全て生き残ったではありませんか。そして今、スーパーゼネコン鹿島や大成は2兆円企業に成長しています。僕のいた竹中工務店は相変わらず品良く1兆円を越したぐらいのようでが。

本当は、原発を作り続けるこの国の体質“Great Moratorium Island”の社会構造(官僚、特に技術官僚、ゼネコン、政治家、経済界、電力会社)を開設したかったのだが、序論を書いているうちに、ここまで来てしまった。これがブログの限界か。本論は次にしましょう。

なお、先に書いておきますが、こういう議論を始めると必ず「お前は原発反対と言うが、原発ナシで、この日本の文明を維持できるのか、どんなに危険でも原発ナシではこの国はやっていけない。お前は軽薄なロマンチストに過ぎない」というご批判がある。そのあたりの対応策の断片は数日前の〈僕の考えるブログ〉で紹介しているので、そちらもあわせて読んでみてください。
このブログに書き手がまた参入してきたと安心していたら、また、独りぼっちになってしまったようで、これなら、これからは〈僕の考えるブログ〉に力を入れていこうかなとも考えている。
丸山暁〈56歳・人間〉

美しい日本は何処へ行く
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こういう風景は、日本中地方には何処にでもある風景なのだろうが、僕の暮らす谷間では、このような風景は、僕がこの世を去る頃には消えていくだろう。美しい日本の古里は何処に行く。
参院選挙が公示になり、静かな谷間が、騒がしくなってくるが、こんな時だけ、ギャ?ギャ?わめきたて、白手袋を振るだけの候補者には入れてやら無いからそう思え。ちったー、実現性のある、なくてもいいから、この国の、地方のビジョンをしっかり語れる奴がいないものか。自民党は、大規模農政を掲げ、民主は個別保証制度の復活のようなことを言っているが、どちらも、この国の農業を維持することは出来ないだろう。特に、このような村の。選挙目当てのふるさと納税は、少々姑息だが、農業者だけではなく、僕らのように、山里を暮らしで守るものたちは、「現代の屯田兵」として、免税か特別手当でも出ないものか。

こっそり教えますが、地方の農家の多くは既に、兼業で、兼業と言っても自家消費が主で、農業を生業としているものたちはほんの一部になりつつある。そういう農家も、農業者としての補助金を受け、個別支払い制度であろうと今度の大規模農家支援であろうと、集落営農という規模拡大策で、政府が手を変え品を変えて繰り出す補助金を上手くもらえるように立ち回っているのである。たとえ、夫婦2人が役場に勤め、1,000万以上の年収があっても、土日で田畑耕せば、農業者としての補助金をもらいつづけているのである。その影で、自力で頑張っている農業者が国の制度から見捨てられることも多い。

多分、ちゃんと実態調査をして農業者の把握をして、農業政策や補助金対策を立てるなら、もっと効率的な農業(効率というのは単に大規模という意味ではなく)が出来るようになると思うのだが、こういう補助金頼みの農業に誰がした。きっと、自民党とそれに群がった地方議員、無能な農協ひいては農業者たちであろう。
だからと言って、それに変わる農業政策を打ち出した政党も無いが。

この国の政治は、不確かなデータ?で、曖昧な政策をたて、法律や制度でがんじがらめに縛り、お金を垂れ流す。とにかく行き当りばったりである。その結果を検証したことがない。

数日前の朝日新聞だが、MD構想(弾道ミサイル防衛)の件で「米へのミサイル迎撃極めて困難、答弁書で政府見解」という記事と「集団的自衛権懇談会座長「行使容認(米国向けのミサイル迎撃ができる)」」という記事が同じ日に載っていた。
要するに、この二つの記事を、ちゃんと並べて読めば、「あたりもしないとわかっている自衛隊のイージス艦のミサイルを、アメリカに向けて発射された弾道ミサイルに、形式的に発射することが出来る」ということを、大の大人が、しかも、この国のお偉いさんたちが喧喧諤諤やっているということである。そして2兆円という国税がアメリカの軍需産業に垂れ流されるのである。

MD構想というのは、まだ、ほとんど完成されていない技術なのである。それは、以前あのあほの九間元防衛庁長官も「あたるかどうかわからない」といつものようにペロリと、本音をだしていたが、「天空のかなたで、突然発射された弾道ミサイルを追っかけて発射したスタッド(スカッドだったか)ミサイルでうち落とすなど」、「素人の僕がストライクで、かの大リーグオールスター戦でMVPを取ったイチローを空振りにする」ようなものだ。
それは、以前にも書いたが、カウボーイのレーガン元大統領が打ち出した、SW(Star Wars or Space War)構想 に匹敵するほど愚かなことなのである。確かに宇宙レーザー兵器よりミサイルの方がリアリティーがありそうだが、MDはしょせんアメリカの兵器販売、戦争の恐怖拡大戦略でしかないのである。アメリカのMDチェコ配備、対中国配備など、アメリカ軍事産業の戦略以外の何ものでもない。

つい話がMD構想に流れたが、僕が言いたかったことは、政治やいわゆるこの国の権威者が、真面目腐って議論している風に見える事事が、ほとんど根拠があいまいなまま、井戸端会議的議論だけが繰り返されて、法律、制度が作られ、空虚でものによったら危険な法律制度を垂れ流していると言いたかったのである。
あたらないミサイルを発射できるか出来ないかなど、単なる絵空事の絵空事でしかないのである。こういう傾向は、なにも日本だけではなく、ブッシュのイラク戦争のインチキ情報、情報操作も同じ事。

今度の選挙でも、各党いろいろ言っているようには見えるが、相手の政策への批判でしかなく、曖昧な政策をどんなに批判しても曖昧でしかなく、みづからの社会モデルをどこの政党も打ち出せていない。結局MD構想のあたらないミサイルと同じで、空虚な空中戦を演じているだけである。このことが、この国の最大の欠陥である。政治家は、みんな、一度は僕の暮らすような村で生きてみるといい。少しは、心も頭も奇麗になって、落ち着いて先のことを考えられるようになるかもしれない。


ただ、そういう僕もまだまだ理想的な社会モデルを提案できてはいないが。ただ言えることは、みんなが漫才のようにアッパラパーに愉快に、贅沢をして、幸せに暮らせる社会などあるわけが無く、理想社会とは、ある程度不便や、不自由を共有しながら、その中で人間として成長できる社会だろうと考えている。ただここで言う、不便不自由は物質的なことで、そこにこそ、精神的な幸せが育まれるのである。ちょっとかっこよすぎるかな。
「1艘2千億円もかけて作ったイージス艦から発射した、2兆円もかけるMD計画のミサイルは、弾道ミサイルを落とせないんだってね」、「へー、だったらMD計画なんて絵に書いた餅だね」「そうさ、MD計画なんて、空に鉛筆”pencil”で書いたロケットのようなものだね」「全くだ、それこそMD計画なんて、”pencil rocket(日本最初のロケット)の巨大お化けのようなものだね、百害あって一利なしさ」
丸山 暁〈56歳・人間〉
僕の考えるブログ



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